第2話 世界の秘密
「やれやれ、こんなにいたぶりやがって。待ってろ、今助けるから」
フリルで縁取られた怪人——フリル怪人は、気を失ったとしおの方を向いてそう言った。何故か怪人の目と口らしき部位は喋る時も一切動かない。ちょうど、妙な覆面をしているようだった。
「お前、臭うぞ。人間のフリしてる。気持ち悪い」
パプリカ頭は食事を邪魔され、心底不愉快そうに目を細めている。
フリル怪人はパプリカ頭の言葉に、頭を縁取るフリルをぴくりと動かした。
「——失礼なやつだな。俺は、人間だよ」とフリル怪人は言った。
フリル怪人の周りの空気が、瞬く間に凍てついて、青白い氷の粒子が舞い始める。パプリカ頭は目をねっとりと歪めた。
「ま、どうでもいいや。お前は不味そうだし肥料にしてやるよ。ジャガイモ畑のね」
「言ってろ。お前は酢豚の具材にしてやる」
そう言うフリル怪人の背後には彼が来た道を示すように、切り刻まれた異形の野菜たちの残骸が転がっている。怪人の翼が蠢くとその手元では空気が瞬く間に凝結し、氷の剣が現れた。
「死ね」
パプリカ頭がジャケットのボタンを外し、彼の体の左右から二対の枝が生えた。枝の先には耳をつんざくような音を立てる丸鋸が回転しており、それらはフリル怪人の体を八つ裂きにする機会を伺っている。
「残念だ。頭がキモい奴同士、仲良くできると思ったんだけどな」
フリル怪人は捨て台詞を吐いた後、高く跳び上がって大きく剣を振りかぶった。怪人の黒く重たいゲル状の翼が紫色の空に広がる。パプリカ頭は見切っていたようにフリル怪人の剣を躱した。フリル怪人が着地するよりも早く、彼の体の四方を鋸が囲う。
「あっけないもんだね」
パプリカ頭はにやけた。咄嗟にフリル怪人は翼でその身を覆って、鋸を受け止める。
「くっ」
フリル怪人は翼を勢いよく広げて、鋸を退けた。
「いいねぇ、手間がかかって最悪だ」
パプリカ頭は不快そうに真っ赤な頬を掻いた。
「うるせえよ」
フリル怪人の持っている氷の剣が溶けた。水となった剣は地面に吸い込まれていくかと思いきや、また魔法でもかかったように光を纏って凍り始める。やがて瞬く間にフリル怪人の背丈ほどもある大きな弓が出来上がった。
「そんな重たそうな武器にして、馬鹿だね!」
パプリカ頭はフリル怪人が弓を構えるよりも早く、間合いを詰めて首を刈り取ろうとした。
「お前にはこれで十分だろ」
「はぁ?」
フリル怪人は張り付いた薄笑いに余裕そうな色を浮かべているのに、パプリカ頭は苛立っていた。
フリル怪人は翼を羽ばたかせて攻撃を避け、勢い余って体勢を崩したパプリカ頭の一瞬を見逃さなかった。怪人が氷の矢が番えられた弓を空中で強く引き、周りの空気が冷たくなっていく。しかし、血が沸騰するような熱い苦しみにうなされるとしおはその冷気を感じ取ることはできなかった。
フリル怪人の放った氷の矢は、パプリカ頭の胴体を正面から貫いていた。パプリカ頭の背中から濃い緑色の血がどろどろと流れ出て、彼の着るスーツを汚している。パプリカ頭は体を痙攣させて、言葉を発することもできずにフリル怪人の方をただ、無力にも憎悪に満ちた目で睨んだ。
「お前は——なんなん、だ……」
矢に串刺しにされて、跪いたまま固まって動かなかったパプリカ頭の体は、みるみるうちに燃え尽きた木炭のようにぼろぼろと崩れて形を失い、跡形もなくなった。
「ただの高校生だっつーの。どこにでもいる、普通の」
パプリカ頭が消えていくのを横目に、フリル怪人は呟いた。
フリル怪人はすでに意識を失って久しいとしおの方に、張り付いた不気味な薄笑いを向けた。
「こっち忘れてた。おいお前! まだ死ぬなよ」
としおを縛り付けていた蔓は、パプリカ頭の体が完全に崩れるのと同時に、最初から存在していなかったかのように消え去った。としおはそのせいで危うく地面に叩きつけられそうになったが、フリル怪人が彼を受け止めた。
「あーあー、もう。死にかけじゃないか」
フリル怪人は憔悴したとしおの顔を覗き込んで言った。
あの悪夢の中のような農園の景色が、一瞬陽炎に巻き込まれたように揺らいで、紫色の空が徐々に脱色されていくように透けて見えなくなっていく。三秒ほど経つと気味悪い景色は溶けたように消失し、としおを抱えたフリル怪人は、元の穏やかな海浜公園の砂浜に立っていた。
「うーん、こりゃまあ、間に合……わないかもな」
フリル怪人が弱々しく荒い呼吸をしているとしおの顔を見て、肩をすくめながらそう言った時だった。彼の禍々しい翼と野菜の返り血で汚れた衣服が、かけられていた魔法が解けるように光の粒となり、彼の体から剥がれて消えていった。しかし、その妙な頭だけはそのままである。
フリル怪人は、としおと同じ公立第七綜合学園の高等部の制服を着ていた。
「はぅ!?」
ベッドの上で目が覚めたとしおは、まだ落ち着かない呼吸に心臓が追いついておらず、起き上がってしばらく背中を丸めていた。
「はぁ……はぁ……」
枠にやたら凝った木彫りの模様が刻まれている窓の向こうで、穏やかな浅い海が夕日を半分ほど飲み込んでいた。
「ここ、どこだ……僕、さっき……うっ」
としおは自らの体が徐々に死んでいく感覚を思い出して、喉に込み上げてくる不快なものを感じてうずくまった。奇妙な喋る果実、不気味な野菜、パプリカ頭とフリルの頭の怪人——都会に来たばかりの彼は、ありえないものを見て味わった。神経が焼けるような痛みはもうはっきりとは思い起こすことはできなくても、あの悍ましいものに与えられた苦痛と恐怖だけはすっかり刻み込まれたようであった。
「おー、生きてた」
ベッドの横で座っていたフリル怪人がとしおに声をかけた。
「うわあああああああああ」
としおはベッドの上で叫びながら、跳ねる海老のようにそりかえって悶えた。
「人の顔見るなり、マジで失礼だなお前……」
フリル怪人は腕を組んで、薄笑いが張り付いた顔を若干の憤慨で赤くした。としおは今度はこのフリルの怪物に襲われるに違いないと感じていたのだ。
「俺があのパプリカ野郎ぶっ殺して助けてやんなかったら、お前死んでたんだぞ! 少しくらい感謝しろ!」
フリル怪人にそう言われたとしおは、石のように真っ青な顔色になった。
「さっきの怪物から、餌として僕を横取りしてやった的な意味ですか……?」
「ええい、違うわい! 誰が人間なんか食うか!」
フリル怪人は地団駄を踏んだ。
としおは疑念を凝縮したような、厭わしい目でフリル怪人のことをまじまじと観察した。上から下に眺めると、まず同じ高等部の制服を着た長身の男性の体があって、首が終わる地点から唐突に頭だけがやはり異様だ。ふざけて首をすげ替えられてしまった人形のようである。頭は綺麗な円形で、不可解なことにフリルがその円形の顔面部分を、ライオンのたてがみの要領で装飾しているのだから。
「なんだ、ジロジロ見て。感じ悪い」とフリル怪人は言った。
「怪物じゃないなら……じゃあそれ、被り物ですか?」ととしおは尋ね返した。
その声と首から下が紛うことなき好青年のそれなのが、頭部の異様さをさらに際立たせていた。フリル怪人の曲線が三つ配置されていて、ちょうど微妙な微笑みを浮かべているような顔は、としおの言いようもない不安を駆り立てた。
「これは被り物じゃない。俺の顔だ!」とフリル怪人は自分を指さした。
「嘘つけ! この後に及んで往生際の悪い!」
としおは布団を被ってうずくまった。
「嘘なわけあるか!」
フリル怪人は頭から湯気を立たせて、としおの布団を剥がしながら訴えた。
「助けてくれたっぽいのは、感謝してますけど。でもそうやって怪物の被り物して、驚かそうとするのは趣味が悪いですよ!」
「黙っていれば人の顔を好き放題言いやがって! いい加減にしろ。俺は本当にこの顔なんだよ!」
フリル怪人の必死な剣幕に押されて、としおは思わず口をつぐんだ。
「す、すみません……」
としおは視線を下にやった。
「わかってくれたのならよろしい。俺は国立第七学園高等部の二年生、颫邐嚠沢縁飾だ。よろしくな!」
薄笑いに陽気な色を浮かべてフリル怪人は急に自己紹介を始めたが、ベッドの上で半身を起こしたとしおは、耳を疑った。
「今、なんて?」
「え? 第七学園高等部二年って言ったんだが」と颫邐嚠沢縁飾——フリル——は言った。
「違う! その後、名前!」
「ん? 颫邐嚠沢縁飾だ。よろしくな」
「やっぱり……やっぱり被り物だろそれ、いい加減にしろ!」
としおは痺れを切らしてベッドの上から乗り出し、フリルの頭を両手で掴むとその頭を剥いでやろうと引っ張り始めた。
「あっ! こら、触るな! 引っ張るな! ああ、痛い痛い痛い!」
フリルの頭は少し固いゴムのようによく伸びた。
「フリルザワ フリルってなんだよ! もうウケ狙ってんだろうが! なんだよこのマスク、全然外れないし!」
としおはフリルの名乗った名前があまりにも安直なものであったことに、もはや腹を立てていた。
「俺は本当にこういう名前なんだよ!」
フリルは頭を引っ張るとしおの手をやっと払い除けて言った。
「誰が信じるんですか!」
「——この際言うけどさ、お前の名前も変だろ! なんだよ山田としおって。今時おかしいってなるだろ、親御さんも! シワシワネームじゃんか!」
「うるさい、余計なお世話だよ! ってかなんで名前知ってるんですか。きも……」
としおは身を引いてフリルを睨んだ。
「同じ学校の制服着てたから、学生証で身元確認したんだよ! 万が一死んじまったりとかしたら、報告しなきゃだったしな」
「あ、ああ……そうだったのか。すみません、言いがかりつけて……」
としおは尤もらしいことを言われて大人しくなった。このフリル頭は、あの不気味な植物の怪物たちや、パプリカ頭の怪物とは全く違うようだ。いくら奇妙な被り物を被っていたとしても、命の恩人をぞんざいに扱うのは、失礼かもしれない。
「急にしおらしくなるなよ、やりづらい!」とフリルは理不尽な怒り方をした。
「や、よくよく考えたら、命を助けてもらったみたいなんで……」
「調子狂うなあ。まあだからと言ってまた頭を引っ張られるのも、ごめんだが」
フリルは頭の周りの布を、髪の毛をいじるみたいにつまみながら言った。
「いや、すみませんでした。まあ、顔と名前に関しては一ミリも信用してませんけど……」
としおはどさくさに紛れて早口で言った。
「この野郎……まあいい。そういやお前、契約して何年だ? さっきのパプリカの聖隷は結構強かったし、しくじったからってそんな気に病むことないぞ」
全く心当たりがないことを尋ねられたとしおは、視線を泳がせた。
「……は? 契約って、なんのですか」
「え?」
「だから、契約とかなんとか、いきなりなんのことですか? もしかして、厨二病ですか?」
としおは一切の悪意なくフリルに尋ねた。
「何って。お前、ネフィリムだろ?」
フリルは得体の知れないものと対峙している時のような張り詰めた声色で確認した。
「ネ……?」
「とぼけてんのか? さっきまで聖隷と戦ってたんだろ?」
聞いたことのない言葉を羅列されても、としおは一切それらを知らなかった。
「せいれ……い?」
「嘘だろ……だってお前、桁違いの魔力だぞ。どっかのエリートの家系とかじゃないのか?」
フリルの方も、としおの発言を全く本気にしていないようだ。
「もう。さっきから、わけわかんないことばっかり言わないでくださいよ」
としおは悪い冗談を言われていると思い込んで、呆れたように言った。
「いや、お前こそ、冗談で言ってるのか?」
フリルは真剣味を帯びた声色でそう聞いた。
「だから、知りませんって! ただでさえわけわかんないことに巻き込まれて死にかけたのに、これ以上変なこと言わないでくださいよ!」
としおは鬱陶しそうにそう答えた。フリルの薄笑いは相変わらずであったが、焦りさえ感じさせるほど、身を乗り出してベッドの上のとしおを見ていた。
「お前、本当に親とかから何か聞いたりしたことないのか? 聖隷——さっきの化け物みたいなのも初めて見たのか?」
「何もかも知らないですよ……嘘ついて、なんになるんですか。っていうか、当たり前でしょう。普通に生きてたら見るわけないでしょ」
としおは無愛想に答えた。
「それもそうだよな……。しかし、参ったなあ。お前みたいなの、初めて見たぞ」
フリルがなぜか頭を抱えているのを、としおは口をへの字にして見ていた。
それから、フリルのものではない声がどこからともなく聞こえてきて、としおは辺りを見回した。
「騒がしいけど、何かあったの?」
としおは薄い素材の掛け布団越し、膝の上に何かが載ったのを感じた。
「こいつ、さっき祓った聖隷の結界にいたんだけど、まだ契約もしてないどころか、何にも知らないらしいんだよ」
フリルはその声の主に話しかけていたが、としおは挨拶も会釈もすることはできなかった。
「へー。珍しい。キミはどこからきたの?」
声の主の問いに、としおは答えることができない。
「あっ……な、今度は……」
としおの膝の上にいたのは、当たり前のように人の言葉を喋り、銀色の体を持つ一匹の巨大なカブトムシだった。
「うわあああああ!」
また別のあり得ない存在が現れ、自分の膝に乗っている。としおは今まで味わったことのない重さで虫の質感を感じ取って、飛び上がった。
「失礼だなあ、見るなり叫んで」
銀色のカブトムシは確かに人の言葉を話している。としおは目を皿のように丸くして威嚇した。
「お前、なんだ! さっきの化け物の仲間——!」
カブトムシは呆れたように銀色の角をフリルの方へと向けて、異形の者同士で話し始めた。彼らは顔見知りのようだ。
「聖隷とボクらの見分けもつかないのか。しかしこの騒ぎよう、本当に何も知らないみたいだね」
「こいつ、さっきから初対面のやつにいちいちビビって、でかい声出すんだよ」
フリルはとしおを指さしてそう言った。
「お前らの見た目がキモいからだろ!」
としおはまた布団を被って隅に後ずさった。
「やれやれ、今度は普通に悪口かよ……」
フリルは首を振った。
「ひどいなあ。まあ、そんなのはいいんだ。キミに危害を加えるつもりはないから、とりあえず話をさせてくれるかな。フリルに任せても、全く実りある会話は期待できないからね」
カブトムシの声はやけに子供っぽいが、その佇まいはこの場にいる他の誰よりも大人びている。
「あ、はい……」
「お、おう……」
としおとフリルは水をかぶったように大人しくなった。
「本当に、例えばボクとか、さっきキミを襲ったバケモノみたいな、不思議な存在を目にしたこと自体、今日が初めてなんだよね?」
「だから何度も言うように、本当なんだって。あんなのが居るなんて知ってたら、家から一歩も出たくないよ」
としおはいい加減面倒そうに答えた。
「ちょっと、失礼」
銀のカブトムシはとしおの頭の上に飛んで止まった。
「あー、どうぞ……」
見た目に反してカブトムシの質量は軽く、紙を一枚頭の上に載せているのと変わらない。
「うーん、調べてみても、記憶を弄られた形跡はないね」
カブトムシはフリルにそう言った。
「だよなあ」
カブトムシはとしおの頭から、薄笑いのまま腕を組んでいるフリルの肩の方へ飛び移った。
「こんなのボクも初めてだから、どこから話していいのかもわからないけど——」
「二人がかりで解説して、納得してもらうしかないな」
フリルは左肩の上に首を傾けて、カブトムシと頷き合ってから、としおの方を向いた。
「まずは自己紹介をしないと。ボクはキーファ。見ての通りカブトムシの悪魔だよ」
「悪……悪魔?」
神話や空想の世界にしかあり得ないはずのものだ。としおはまだ悪夢の中に閉じ込められているような気がした。
「うん。悪魔と言うけれども、ボクらは人間の味方だよ」
キーファと名乗るカブトムシは、甲高い声を響かせながらその銀の一本角を触り始めた。
「だって……悪魔なのに?」ととしおはうわ言のように尋ねた。
「簡単に言えば立場の問題さ。便宜上、そう名乗っているだけだよ」とキーファが答えた。
「なんでわざわざ悪魔だなんて——」
「“天使の慟哭”って大災害が大昔にあったのは、知っているよね?」
「知っているもなにも……そんなの、常識だろう」
キーファは少しだけもったいつけてから話し始めた。
「そう。地球の全てを飲み込んだ大災害——本当はあの時、キミ達人類は文字通り絶滅する予定だったんだ」
「予定って……誰かが決めたみたいな言い方だけど」
としおは怪訝そうにキーファを見下ろした。
「そうだよ。この星の創造主であり支配者であり、この星そのもの——神と呼べばいいかな。神が人類を滅ぼすために起こした大災害なんだ」
窓の向こうでは、太陽がいよいよ水平線に溶け切る瞬間を迎えていた。金色の輪郭を作る海の表面に、大災害によって流された文明の遺構がまばらに顔を出しているのが見える。
「えっ?」
としおはまたキーファを見た。
「ボク達が悪魔と名乗る理由は、キミ達人類がこの星の創造主である神の意思に反して存在するのを手助けしているから」
キーファの話を聞いているうちに、としおは何故か後戻りできないような不安に駆られ始めていた。
「だから、意味わかんないってば。神とか悪魔とか。はいそうですかって信じられるわけないだろう。冗談きついよ」
「ウソなんかついていないよ。キミはさっき化け物に襲われたんだろう? それに、現にボクとも会話している。この世界には確かに、キミの言う冗談みたいな存在がいるんだ。神だって例外じゃないよ」
としおはキーファと黙って薄笑いをこちらに向けているフリルとを交互に見た後で自分を殺そうとした怪物のことを思い出して、また表情を少し暗くした。
「それは……そうだったけどさ」
「納得してくれたかな。まあ、そういうものとして捉えておいてくれればそれでいいんだよ。疑問を持たれても、ただの事実だからとしか答えてあげられないからね」
午後六時のチャイムが街中のスピーカーから鳴っているのが聞こえた。
「大災害が起こった時、なぜ人類は生き残ったのか。それはさっきも言った通り、ボク達悪魔の祖先、最初の悪魔が手助けをしたからさ」
フリルはいつの間にか関係ないように漫画を読み始めている。としおはそれに気づかないほど、キーファの語る妙な話を真面目に聞いていた。
「どうやって?」
「簡単さ。一部の人類に力を与えたんだ。大災害を鎮め、荒廃した文明を復元し、神の意思すらも跳ね除ける奇跡の力——魔法という力をね」
「魔法……」
知っていても縁のない言葉は、むしろ一番近くに在ったということなのだろうか。としおの生きている大災害を乗り越えた世界は、科学ではない不条理で成り立っていた。
「魔法を手にした人間たちは大災害を終わらせた。そして、創造主にして地球を滅ぼそうとした張本人である神は力を使い果たし、この星の寿命よりも先に醒めるかも分からない眠りについてしまった」
「ふうん……」
としおは真面目に聞いているつもりであったが、壮大すぎる世界の秘密は理解の範疇をあまりにも逸脱しており、もはや驚くことすら出来なかった。
「神は眠りについてしまったけど、しかし、神の意思はこの星におけるルール、絶対的な正義として意志を持った。それが聖隷。聖隷は人間の存在という罪の具現化であり、罰の執行者でもある。聖隷は絶えず人間に不幸や災厄を撒き散らし、絶望や死に追いやろうとしてくる。そういう本能で動いているんだよね」
「さっきのパプリカ野郎とかも聖隷の一種だな。しっかしこの俺の活躍、気を失ってたお前と、呑気にここで待ってたキーファにも見せてやりたかったな。鮮やかにカウンターを決めて……」
漫画を読み終えて暇になったフリルは、さも最初から話に参加していたかのように、キーファに付け加えて喋り始めた。
「あんたは喋んなくていいから……」
としおが深いため息でフリルの自慢話を遮った。フリルは悔しそうに薄笑いの顔を紅潮させた。
「いいか、一年。先輩の話は黙って聞くもんだ!」
「うわぁ、真っ赤になった! どうなってんですかそのマスク!」
キーファは騒いでいる二人を横目に前脚で頭をかいている。
「はあ……もう気が済んだ? もう疲れたよ……」
「僕も疲れたよ! 真面目な話、もう遅いし帰ってもいい? 遅くなると食堂が閉まっちゃうんだけど」
呆れているキーファを横目に、としおは伸びをしながら聞いた。
「待ってよ、細かいところは追って説明するけど、まだ肝心なところが——」
「いや、もういいよ。今日は死にかけたし、色々信じられないような話を聞いたけどさ、明日からはまた普通に戻るもん。魔法とかなんとか、僕はもういいや。それじゃ」
としおがベッドから足を放り出して立ちあがろうとした時だった。
「いいや。キミはもう今まで通りの暮らしをすることは出来ない」
キーファの声色は申し訳なさそうな冷たさを帯びている。
「今、なんて?」
としおは引き攣った笑みで振り返った。
「——山田としお。キミには、聖隷と戦う責務がある。拒否することも逃げることも許されない。明日から、聖隷がこの世に現れる限り、死ぬまで」
キーファの銀色の体に、としおの困惑がこびりついた哀れな顔が歪んで反射されていた。
「えっ……?」
としおは足を止めて、ベッドの上に佇むキーファの銀色の体を、凍りついた顔でじっと見た。フリルは気まずそうに俯いている。
「ど、どういうことだよ。普通に戻れないって。勝手に決めないでよ」
としおは文字通り、キーファの言っている意味が全く分からなかった。
「ボクが意地悪で言っているんじゃないんだ。これは……」
キーファの声色は先ほどより自信なさげで、としおの機嫌を窺っているように見えた。
「さっきからわけわかんない話一方的にしただけじゃなくて、変な脅しまでして趣味悪いよ」
としおの顔は、焦りで歪んでいた。
「この星には、俺たちみたいに悪魔や聖隷が見える人間が存在する。もちろん、数は決して多くなくて、むしろ少ない。俺やとしおみたいな人間を、“ネフィリム”って呼ぶんだ」
フリルはため息をついてから、立ち上がってとしおの顔を見た。フリルの薄笑いには、奇妙な真剣さが感じられた。
「見えるまでは受け入れますよ。ネフィ……リムだっけ? そういうのも、もう分かりました。でも、普通に戻れないとか、責務とか——そんなもの負った覚えないんだけど」
としおは頭の中で、キーファとフリルが自分をからかって楽しんでいるのだとさえ考えていた。悪魔も聖隷もフリルの顔も、何もかもが嘘で、誰かが人を困らせるために手の込んだ悪い冗談を仕掛けているのだと。しかし、依然としてフリル達はとしおを可哀想な視線で見つめている。
「神を失ったこの星を維持しているのはボク達悪魔。この星、人類を滅ぼす神の意思は聖隷。キミ達ネフィリムはこの星の生命の代表。最初の悪魔と人類が、大災害を終わらせる際に交わした契約によって、ネフィリムは戦いの運命を背負うことになったんだ」
「だから、契約だとかなんだとか、次から次へと意味わからないことを言わないでよ! 僕には関係ないだろ」
としおは人生そのものが裏返しになるような、とても嫌な予感がし始めていた。
「理解しなくていいよ。ただ、受け入れてくれないと困るんだ。ネフィリムは、最初の悪魔と大災害を乗り越えた人類のうち、聖隷と戦うために悪魔と契約した人々の血筋の人間なんだ。ネフィリム達は代々、人知れずボク達悪魔と共にこの世界を維持するために戦っている」
としおは怒るのにも、話を聞くのにも疲れ切って、その場に乱暴に座り込んだ。
「としお。キミがボクや聖隷を視認できてしまうということは、キミがネフィリムであるということ。そして、ネフィリムであるということは、ネフィリムとして魔法を使い、この世界のために命を懸けて戦う責務を負っているということ。これは生き残ることを選択した人類と悪魔の血の契約。関係ない、じゃ済まされないんだ」
「知らない! 僕は知らないよ! それじゃあほんとに、お前も悪魔じゃないか! 意味わかんないってば」
としおは二人から目を逸らした。キーファはあえて頼むように言うのではなく、淡々と言葉を述べるのみだった。
「ネフィリムは聖隷と戦わなければ——戦い続けなければ、契約不履行の制裁として魂を刈り取られ、死ぬことになるんだよ」
拒否することも、逃げることも許されない。としおは先ほどキーファに言われたことを思い出した。
「——ふざけるな!」
としおは声を荒げた。
「いい加減にしてよ……死ぬって、何だよ。今日いきなり見て聞いたことが、これからの人生左右するなんておかしいだろう」
フリルは何に怒っているのかも分かっていない様子のとしおを、哀れそうに見た。
「俺らも驚いてるんだよ。ネフィリムの家系の子供は、小さいうちから自分の責務について家で叩き込まれるもんだし。聖隷も悪魔も見たことも聞いたこともないっつーのは本当に、お前くらいの歳だと、あり得ないことだ」
「今までずっと父さんと二人で、今にも沈みそうな何にもない、小さな島で暮らしてましたよ。何もそんな話なんか聞かずにね。今日の今日まで——?」
としおは話しているうちに、一つの違和感が先ほどから胸の中にあったことに気がついた。とても重大で、恐ろしいものだ。
「家で叩き込まれるって、家系、家系って……」
としおは目を泳がせてそう言った。目の前の哀れな少年の心が壊れてしまう予感がして、少し躊躇ってからフリルは話し始めた。
「お前がネフィリムなら、お前の親もネフィリムだってことになる。そのお前が今日まで何も知らなかったってのは——」
としおは息が詰まりそうだった。呆れるほど見た父親の顔、声、狭い島のみで紡がれてきた生涯の記憶の映像がゆっくりと乱れていく。
「ほぼ間違いなく、お前の親が、意図的に隠してたことになる」
フリルは薄笑いの奇妙な頭に冷や汗を浮かべながら、としおの方を向いた。
「父さんが……」
としおの頭の中で、父が笑った。
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