第5話 渡り損ねた三途の川

「お前、は、なんなん、だ……」

決着はすでについていた。フリル怪人の放った銛ほどもある大きな氷の矢は、パプリカ頭の怪物の胴体を正面から貫いて、彼の背中の方の傷口からは、濃い緑色の血が噴き出ている。パプリカ頭は体を痙攣させて、言葉を発することもできずにフリル怪人の方をただ、無力にも憎悪に満ちた目で睨んだ。

「ただの高校生だっつーのに。どこにでもいる、普通の」

パプリカ頭が息絶えたのか間もなく動かなくなったのを横目に、フリル怪人は憂鬱そうに呟いた。

 矢に串刺しにされて、跪いたまま固まって動かなかったパプリカ頭の怪物の体は、三十秒もすると燃え尽きた木炭のようにぼろぼろと崩れて形を失い、跡形もなくなった。

 フリル怪人はすでに意識を失って久しいとしおの方に、張り付いた不気味な薄笑いを向けた。

「こっち忘れてた。お前、まだ死ぬなよ」

としおを縛り付けていた蔓は、パプリカ頭の体が完全に崩れる頃合に、同じように最初から存在していなかったかのように消え去り、としおの方は縛り付けられていた体をいきなり解放されてしまったために、危うく地面に叩きつけられそうになったが、フリル怪人が彼を受け止めた。

「あーあー、もう」

 としおが迷い込んだあの悪夢の中のような農園の景色が、一瞬陽炎のように揺らいだ。紫色の空が徐々に脱色されていくように透けて、見えなくなっていく。三秒ほど経つ頃には気味悪い農園の景色は空気に溶けたように消失し、としおを抱えたフリル怪人は、穏やかな海浜公園の砂浜の真ん中に立っていた。

「うーん、まあ、間に合……わないかもな」

フリル怪人は、脂汗をかきながら弱々しく荒い呼吸をしている上に、意識が戻りそうにもないとしおの顔を見て、半ば彼を生かして家に帰すことを諦めたように肩をすくめながら、砂浜の上を歩き出した。


* * *


「はぅ!?」

ベッドの上で目が覚めたとしおは、まだ落ち着かない呼吸に心臓が追いついておらず、起き上がってしばらく背中を丸めていた。

「はぁ……はぁ……」

枠にやたら凝った木彫りの模様が刻まれている窓の向こうには、変わらずに穏やかな浅い海が夕日を半分ほど飲み込んでいた。

「ここ、どこだ……僕、さっき……うっ」

としおは今し方味わった、自らの体が徐々に死んでいく感覚を思い出して、喉に込み上げてくる不快なものを感じてうずくまった。

「ああ!」

奇妙な果実、不気味な野菜、パプリカ頭とフリルの頭の怪人——都会に来たばかりの彼は、憧れの場所では目にするはずのないものを見て、味わったのだ。神経が焼けるような痛みは、もうはっきりとは思い起こすことはできなくても、苦痛と恐怖だけはすっかり刻み込まれたようであった。

「おー、生きてた」

「うわあああああああああ」

としおはベッドの上で叫びながら、跳ねる海老のようにそりかえって悶えた。

「人の顔見るなり、マジで失礼だなお前……」

としおはフリル怪人が当たり前のように、としおのベッドの横に腰掛けて話しかけてくるので、今度はこの怪物に襲われるに違いないと感じたのだ。フリル怪人は腕を組んで、薄笑いが張り付いた顔を赤くして地団駄を踏んでいる。

「俺があのパプリカ野郎ぶっ殺して助けてやんなかったら、お前死んでたんだぞ! 少しくらい感謝しろ!」

としおは、体中から血が抜け切ったような、石のように真っ青な顔色になった。

「さっきの怪物から、餌として僕を横取りしてやった的な意味ですか……?」

「ええい、違うわい! 誰が人間なんか食うか!」

フリル怪人は地団駄を踏んだ。

 としおは疑念を凝縮したような、厭わしい目でフリル怪人のことをまじまじと観察した。上から下に眺めると、まず同じ学園の高等部の制服を着た長身の男性の体があって、首が終わる地点から唐突に、頭だけが異様で、ふざけて首をすげ替えられた人形のようである。頭は綺麗な円形で、不可解なことにフリルがその円形の顔面部分を、ライオンのたてがみの要領で装飾しているのだ。

「なんだ、ジロジロ見て。感じ悪い」

「怪物じゃないなら……じゃあそれ、被り物ですか?」

声と首から下は好青年のそれなのが、頭部の異様さをさらに際立たせていた。フリル怪人の顔は、目と口と思しき部分に、曲線が三つ配置されていて、ちょうど微妙な微笑みを浮かべているような顔になっている。

「これは被り物じゃない。俺の顔だ!」

「嘘つけ! この後に及んで往生際の悪い!」

「嘘なわけあるか!」

フリル怪人は頭から湯気を立たせて訴えた。

「助けてくれたっぽいのは、感謝してますけど。でもそうやって怪物の被り物して、驚かそうとするのは趣味が悪いですよ!」

「黙っていれば人の顔を好き放題言いやがって! いい加減にしろ。俺は本当にこの顔なんだよ!」

フリル怪人の必死な剣幕に押されて、としおは思わず口をつぐんだ。

「す、すみません……」

「わかってくれたのならよろしい。俺は国立第七学園高等部の二年生、颫邐嚠沢 縁飾だ。よろしくな!」

薄笑いに陽気な色を浮かべて、フリル怪人は急に自己紹介を始めたが、ベッドの上で半身を起こしたとしおは、耳を疑った。

「今、なんて?」

「え? 第七学園高等部二年って言ったんだが」

「違う! その後、名前!」

「ん? 颫邐嚠沢 縁飾だ。よろしくな」

「やっぱり……やっぱり被り物だろそれ、いい加減にしろ!」

としおは痺れを切らして、ベッドの上から乗り出し、フリル怪人の頭を両手で掴むと、化けの皮を剥いでやろうと引っ張り始めた。フリル怪人の頭は、よく延びる。

「あっ! こら、触るな! 引っ張るな! ああ、痛い痛い痛い!」

「フリルザワ フリルってなんだよ! もう狙ってんだろうが! なんだよこのマスク、全然外れないし!」

としおはフリル怪人が名乗った名が見た目通りの安直なものであったことに、もはや腹を立てていた。フリル怪人は頭を引っ張るとしおの手をやっと押し除ける。

「俺は本当にこういう名前なんだよ!」

「誰が信じるんですか!」

「——この際言うけどさ、お前の名前も変だろ! なんだよ山田としおって。今時おかしいってなるだろ、親御さんも!」

フリル怪人は意図せずして、としおの話題を大きく逸らすことに成功した。

「うるさい、余計なお世話だよ! ってかなんで名前知ってるんですか。気味悪……」

「同じ学校の制服着てんだから、学生証で身元確認したんだよ! 万が一死んじまったりとかしたら、報告しなきゃだったしな」

「あ、ああ……そうだったのか。すみません、言いがかりつけて……」

としおはこの頃には、あの不気味な植物の怪物たちや、パプリカ頭の怪物とは全く違うものをフリル怪人から感じていた。いくら奇妙な被り物を被っていたとしても、あまりぞんざいに扱うのは、失礼かもしれない。

「急にしおらしくなるなよ、やりづらい!」

「や、よくよく考えたら、命を助けてもらったみたいなんで……」

「調子狂うなあ。まあだからと言ってまた頭を引っ張られるのも、ごめんだが」

「いや、すみませんでした……。顔と名前に関しては一ミリも信用してませんけど……」

「この野郎……まあいい。そういやお前、契約して何年だ? さっきのパプリカの聖隷は結構強かったし、しくじったからってそんな気に病むことないぞ」

全く心当たりがないことを尋ねられたとしおは、視線を泳がせた。

「……は? 契約って、なんのですか」

「え?」

フリルの方も、としおに質問を質問で返されて不本意なようである。

「だから、契約とかなんとか、いきなりなんのことですか?」

「何って。お前、ネフィリムだろ?」

「ネ……?」

「とぼけてんのか? さっきまで聖隷と戦ってて、負けて殺されかけてたんだろ?」

聞いたことのない言葉を羅列されても、としおには意味がわからない。

「せいれ……い?」

「嘘だろ……だってお前、桁違いの魔力だぞ。どっかのエリートの家系とかじゃないのか?」

フリルもまた、としおの言葉を理解しかねている。

「さっきから、わけわかんないことばっかり言わないでくださいよ」

「いや、お前こそ、冗談で言ってるのか?」

「だから、知りませんって! ただでさえわけわかんないことに巻き込まれて死にかけたのに、これ以上変なこと言わないでくださいよ!」

フリルの薄笑いは相変わらずであったが、焦りさえ感じさせるほど、身を乗り出してベッドの上のとしおを見ていた。

「お前、本当に親とかから何か聞いたりしたことないのか? 聖隷——さっきのパプリカの化け物みたいなのも初めて見たのか?」

「何もかも知らないですよ……嘘ついて、なんになるんですか」

としおはいい加減鬱陶しくて、語気を強めて言った。

「それもそうだな……。しかし、参ったなあ。お前みたいなの、初めて見たぞ」

フリルがなぜか頭を抱えているのを、としおは口をへの字にして見ていたが、やがてフリルのものではない声がどこからともなく聞こえてきたので、辺りを見回した。

「騒がしいけど、何かあったの?」

としおは薄い素材の掛け布団越しに、膝の上に何かが置かれたのを感じた。

「こいつ、さっきぶっ殺した聖隷の結界にいたんだけど、まだ契約もしてないどころか、何にも知らないらしいんだよ」

フリルはその声の主に話しかけていたが、としおは挨拶も会釈もすることはできなかった。

「へー。珍しい。キミはどこからきたの?」

声の主の問いに、としおは答えることができない。

「あっ……な、今度は……」

としおの膝の上には、当たり前のように人の言葉を喋る、20センチはある巨大で、さらに磨いたように光る銀色の体を持っている、一匹のカブトムシが佇んでいた。

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