君の指が星をなぞる
夜。満月が空に輝いている。昨日は疲れてすぐ寝てしまったので見られなかった満天の星空が広がっている。夜の澄んだ空気はとても冷たいが、心地よい。明日はいよいよ本番の狩りだ。
夜空を眺めると、銀河が見えた。宇宙の壮大さに圧倒された。あの星の一粒だけでも手にしてカナタにプレゼントしたら喜んでくれるだろうか。そう思って、どこまでも高く遠く広がる夜空に手を伸ばした。
「あの銀河もペンダントにできたらいいのに。ちょっと遠すぎるね」
「アンドロメダ銀河は肉眼で見える天体の中で一番遠くにありますから」
技術の発展によって部屋の中でも、綺麗な世界は楽しめる。ただ、カナタに連れ出された島の渓谷のスケールに地球の広さを知った。そして、今宇宙のスケールを実感している。
「アンドロメダ銀河?」
「ええ。アンドロメダ座の方角にあるのでそう呼ばれています。そういえば、約束しましたね。星の神話を教えてあげるって」
カナタが星をなぞってアンドロメダ座の形を描く。
「光の速さで進んでも250万年の距離にあるんです」
「そんなに遠くにあるんだ」
「ええ。アンドロメダは怪物に囚われてしまったから」
ここから先は、はるか昔の星空の物語だ。
「アンドロメダは、クジラの怪物にさらわれてしまいます」
カナタがくじら座を指さした。クジラの胸部と尾部に明るい星が光っている。
「それを倒して、アンドロメダを助けた英雄がペルセウスです」
カナタの長い指が今度はペルセウス座をなぞる。ペルセウスも胸部と武器の部分に明るい星が光っていた。
「こうしてペルセウスとアンドロメダは結ばれ、愛し合うのでした。めでたしめでたし」
「なんか、すごいね。ペルセウスって」
「自分たちも明日、怪物イノシシと戦うんですよ」
「イノシシってそんなに大きいの?」
「さあ?わかりません。生物の進化は未知数ですから」
カナタがミステリアスに笑った。
「クジラの胸部の星、明るいでしょう?あの星、ミラっていうんですけど、ずっと明るかったわけじゃないんです」
「そうなの?」
「はい。変光星といって明るさが変わるんですよ。今は明るいですけど、暗い時は肉眼で見えるぎりぎりの星の40倍くらい暗くなってしまうんです」
「へえ、そうなんだ」
「だから、弱かったはずの獲物がいきなり強くなるってこともあるんですよ。進化したイノシシが目からビームを撃ってくる可能性だってゼロとは言い切れないです。明日は油断しちゃだめですよ」
「怖……」
「ごめんなさい、怖がらせちゃいましたね。さすがに、目からビームは大袈裟でした」
カナタに髪を撫でられた。なんだかとても安心した。
「でも、大丈夫。相手が強くなったみたいに楓だって強くなっていますし、明日使う武器の威力は桁違いですから。ほら、ペルセウスの武器の星はミラよりも明るい。あの星も変光星なんです」
「そんなにしょっちゅう星の明るさって変わるんだ。同じ星空って二度とないんだね」
カナタの手に安らぎを感じてリラックスしていたからか、柄にもないポエティックなことを言ってしまいとても恥ずかしくなった。
「ごめん、今の忘れて」
「なんでですか?今の楓、素敵でしたよ」
大人びた笑みを向けてカナタが答える。
「いや、ほんとに、忘れて。恥ずかしい。いや、同じ星空が二度と戻らないのってなんか寂しいなって思って、って何言ってんのかな。忘れて」
しゃべればしゃべるほど墓穴を掘りそうだ。どうかしている。
「そうですね。確かに、1000年前と今の星空は確実に違うものです。でも、1000年前にも星空を愛した人たちがいたから、自分は星空の物語を知ることができました」
カナタの瞳が星のようにきらめく。
「だから、1000年前と今では人の生活様式も体も何もかも違うけれども、変わらないものもあるって信じています」
「結局、人って変わるの?変わらないの?」
カナタの言っていることは時々難しくて、てんぱった頭では言葉を処理しきれず、見当違いなことを聞いてしまったかもしれない。
「さあ、どうでしょう?でも、人間の成長に限界があっても、自分たちにはアルテミス様がついていますから」
カナタが満月を指さした。ハンターズムーン。狩人の祈りの象徴。二人で手を合わせて祈る。狩りの成功を、二人の無事を。
目を開けた後、カナタが続ける。
「それに、ペルセウスは一人で戦ったけど、自分たちは一人じゃないですから」
カナタが首にかけた月のペンダントを大事そうに見せてきた。それに呼応するようにカナタがくれた首飾りを、祈るように指でなぞった。
カナタの顔が近い。人里離れた夜は暗いけれども、月明りでカナタの整った顔立ちはくっきりと分かる。
「寒くないですか?」
カナタが少し身を寄せると、肌が綺麗なことまではっきりと見えた。乾燥とは無縁のカナタの柔らかそうな唇に視線が行ってしまう。美しい物語を、キラキラした世界を語るカナタの唇。カナタがしゃべるたびに、白く整った歯が見え隠れした。日中、太陽の光に照らされた桜色の唇とは印象の違う口元がどこか大人びて感じた。
気づけば、吸い寄せられていた。唇と唇との距離が徐々に近づいていき、唇同士がついに重なった。秋の夜風で少しだけ冷えたその唇は柔らかくて、何かの果実のようだった。
「なんで、キスしたんですか?」
真剣な瞳でカナタが問いかける。その瞳だけで、何かの魔法にかけられそうだった。ただ、理由を聞かれてもうまく言語化できなかった。
「……分からない……ごめん。嫌だった?」
答えようとしたとき、唇の感触の余韻が残っていて一瞬言葉に詰まった。カナタは小さく首を横に振った。
「嫌じゃないですよ。楓はどうでしたか?」
「どう、って言われても。分からない」
胸の奥から、何かがこみあげてくる。不快なものではないけれど、熱い何かを感じる。けれども、それが何なのかが分からない。
「もう一回しますか?」
カナタが耳元でささやく。脳に直接風があたっているような感覚だった。何も言えないまま頷く。
カナタの頬に手を添える。寝る前だからとおろしている長い髪をカナタの耳にかけるとカナタの吐息が漏れた。目をつぶったカナタともう一度唇を重ねた。
心地よくて、もし魂というものがあるのなら、カナタの魂と同化していくような錯覚に陥りそうだった。唇という体の表面の一部に触れただけで、目に見えない心に触れることが出来たような気がした。
「どうでした?」
こんなオカルティックな発言を、宗教や神の何たるかを分かっている知識人のカナタの前でするのは、ひどく見当違いな言葉になってしまいそうで憚られた。
「嫌いじゃない感覚」
尋ねておいて、カナタは何も言わない。ただ、こちらをじっと見つめている。
「愛しいです」
ふいに手を握られた。言葉としては聞いたことがあるけれども、ピンとこない語彙だった。
「抱きしめてくれませんか?」
言われるがままに、カナタを抱きしめる。カナタの鼓動や体温を感じる。心臓の音が大きくて、でもその音は嫌いではなかった。
「カナタ、いい匂いがする」
肩に顔をうずめると、ラベンダーの香りがした。
「その言葉は反則ですよ……」
カナタが顔をあげて、暗闇でも分かるくらいにゆでだこのように真っ赤になって、うるんだ瞳で見つめてくる。可愛いってこういうことを言うのかなとぼんやりと思った。
「楓のことが好きです」
「うん」
「狩りをしているときの一生懸命な姿も、楽しそうな横顔も、ロボットについて語るときに少し早口になる無邪気さも、綺麗で優しい声も、長い睫毛も、琥珀色の瞳も、全部愛しています」
「愛?」
好き、は分かるけれども、愛しているという概念がいまいちよく分からなかった。カナタに対してプラスの感情を抱いているのは確かだけれども、この感情にそもそも名前があるのかもよく分からない。
「楓の恋人になりたいです。楓は、同じことを思ってくれていますか?」
恋。番うことで、子孫を残してきた前時代の本能の一つ。前時代の方法での生殖機能は人間から消失し、性別という概念は本の中にだけ存在する過去の遺物となった。いくらカナタが懐古主義者とはいえ、体は現代人であり前時代の方法での生殖機能が備わっているわけがない。好き、恋、恋人、愛……言語化不可能なそれらを頭の中で反芻したが、答えが見つからなかった。
「ごめん。恋が分からない」
カナタのことは間違いなく、好きか嫌いかで言えば好きの部類であるが、カナタの「好き」は、食べ物やゲームや銃が「好き」であることと意味が違うことはなんとなく分かる。なので、軽々しくカナタに「好き」とは言ってはいけないような気がした。
そもそも、カナタ以外の人間と深くかかわったことがないので、カナタ以外の人間に対して特定の感情を抱いたことがない。友達という言葉の意味すらよく分からないままに、カナタと友達をやっている。
カナタはすべてを悟ったかのように、ため息をついた。とても悲しげな表情をしていた。
「困らせてしまってごめんなさい。ひとつだけわがままを言ってもいいですか?」
「うん」
「もう一度だけ、抱きしめてください」
カナタを強く抱きしめる。カナタがしゃくりあげるように小刻みに震えているのを腕の中で感じた。
「カナタ……泣いてるの……?」
「泣いてないです。だから、明日になったら全部元通りです。自分たちは友達。ずっと友達です。それでいいですか?」
蚊の鳴くような声でカナタは答える。カナタを傷つけてしまったことにひどく胸が痛んだ。どうして、自分はこの気持ちを表現する言葉を持っていないんだろう。
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