第18話 彼は昭和の天才キャラ(笑)
プールサイドで十分ほどかけて身体をほぐし、次に数度の飛び込みと水中での軽い泳ぎ。
入念とは言えないアップを終え、先輩はスタート台へと近づいていく。
「俺から泳いでいいのね?」
「はい私は後で構いません。それよりいきなり四個メは少し重くないでしょうか? 百フリとかでいいと思いますが……」
「大丈夫、大丈夫。せっかく五十で泳ぐんだし、俺って個メが一番タイム出るから」
おそらく退部後初のタイム測定だというのに、敦賀崗トビウオは実に気軽だった。
この人はいつもこう――どんな時も力を抜きすいすい泳ぐ。
そこに緊張とか力みとかは一切存在しないようだった。
あるいは、自分が泳げないとか失敗するとかいうイメージを、この人はまるで持っていないのかもしれなかった。
水泳の神に愛された天才とはきっとそういうものなのだ。
「私がタイム測るから、凛はスタートの合図関係をお願いね」
「はい」
先輩の泳ぎをより集中して見られるように、タイム測定はおばさんがやってくれることになり、私は最初の一連の合図だけをやればよい。
やったことはないが選手として何度も経験した簡単な作業だ。
けれど、私は何故か緊張していた。
「……ふぅ」
始める前にまず一呼吸して心を落ち着ける。
他人の泳ぎで緊張するという初めての経験に内心驚きつつも、同時にある種の納得もあった。
私は先輩の泳ぎが大好きで、心がそわそわするほどそれを待ちわびていたのだ。
「Take Your Marks」
ホイッスルを吹き、スタート前の定型句を告げる。
なかなか上手く発音出来た。
先輩は構え、そして――
「っ!」
トビウオは跳ねた。
スタートの電子音を鳴らしたまさにその瞬間と錯覚する完璧なタイミング。
「ああ、やっぱり……」
個人メドレーの最初の種目にして、私が一番好きな先輩の泳ぎであるバタフライ。
大きく広げられた両手と水面に上がる胸。
躍動感あふれるように見えてその実、先輩のフライはコンパクトだ。
手を広げる際に縦ではなく横に広げるようにし、戻すときはお尻のあたりまでかききることなく臍付近で戻す。こうすることでより少ない力でより早く進むことが出来る。
合理を突き詰めたその泳ぎ。
私は最初そこに惹かれたのだった。
「なっ⁉」
タイムを計る陽子おばさんが驚愕するのも分かる。
個人メドレーは結局最後のフリ、つまりクロールで速い人が速いという一面があるので、最初の種目のバタフライでロケットスタートを行う選手は少ない。
体力を使い過ぎないようにある程度抜いて泳いだ方が良いという人もいるぐらいだ。
しかし、先輩は最初のフライで先んじるように泳ぐ。
本人がフライ得意というのもあり、私は先輩がメレの最初のフライで一着を取れなかった所を見たことがない。
続く背泳ぎも綺麗だ。
下手な人は手で進もうという意識が強く、一かき一かきが小さくなり、ばたばたした泳ぎになり息も上がってしまいがちである。対して先輩は伸びやかに手と背を伸ばし、フライで上がった息を整えつつも、決して遅くない速度も出す。
「凄い!」
おばさんの驚嘆の声すら置いてメドレーは折り返し、平泳ぎが始まる。
後半になってはっきり身体の疲れを感じる区間である。
四種目四百メートルの重みが伸し掛かってくると言い換えてもいい。
加えて平泳ぎは得意不得意の分かれる種目であり、他が速いのにここだけ明確に遅いという選手がそれなりにいたりもする。
もっともそんな下々の事情とは完全に別次元にいるのが神に愛された人間というもの。
芽岸正幸は当然平泳ぎも完全に熟す――身体を水面に沈みこませるように泳ぐことで、平泳ぎ特有の手や足を戻す時の抵抗を相殺し、上手く体重を前に進む力に変換するのである。
最後はメドレーの花、クロールだ。
最も速度の出る泳ぎであり、最後の追い上げか逃げ切りかメドレーの悲喜こもごもが起こる最終種目。
先輩は速かった。
最所のフライでスタートダッシュをかければ最後に尻すぼみしそうなものなのに、芽岸正幸のクロールは速い。
ただただ速い。
水を遠くで掴む感覚で手を伸ばし、胸を水面から出し、最後まで伸び伸びと泳ぐ。
特徴のない教科書通りのクロールで先輩はペースを上げ、ラスト百メートルを進んでいく。
最後の最後、壁にタッチする瞬間、水しぶきが散る様がゆっくり見え、あっという間に至極の時間は終わりを迎えた。
「どうでした? 結構良かったと思うんですけど」
水面から顔を出した先輩の声は少し弾んでいた。
一流スイマーの正確な時間感覚でタイムが良いことが分かるのだろう。
残念ながら、大会が行われるようなプールなら壁にタイムを計るタッチ板がありすぐに正確なタイムが分かるが、ここは設備が古く、多少の誤差が出るストップウォッチでの計測だ。
「…………」
先輩の問いかけにおばさんは無言だった。
茫然と手のストップウォッチを眺めるだけである。
「……四分十五秒一三」
「えっ⁉」
早い、早いとは感じていたが、早いなんてものじゃない。
確か四分九秒弱が日本の高校記録だから、いかに四分十五秒というタイムが早いか分かる。
国際規模の大会でもジュニアならトップ三に入りうる記録だ。
「おお、相当いいの出ましたね。自己ベから二秒も離れてない」
「……才能というものをこんなにはっきり感じるとはね。大会前のベストコンディションというわけでもないのに軽々このレベルのタイムを出せるのだから」
「たまたまですよ。それか、久しぶりに気負わず好きな個メを泳げたから、余計な力が抜けて良かったのかも」
「いえ、やはりあなたは天才よ。泳ぎ方というものを身体で理解している」
まさにおばさんの言う通りだった。
先輩の泳ぎは綺麗で洗礼されており、それでいて無理がないのだ。
速いのに癖のない丁寧な泳ぎが見ていてすっと入ってくる。
これは先輩よりも速い選手、それこそオリンピック級のスイマーの泳ぎを見ても感じない独特な感動だ。当然彼ら彼女らは途轍もなく速いけれども、どこか引っかかるような箇所、換言するなら私では絶対再現不可能な部分がある。それは身体的なものだったり、独自の感覚からくるものだったり要因は様々だが、皆その人固有の特徴を持っている。
翻って先輩は全く体格が違うにも関わらず、手本にしたくなるような泳ぎをする。
私でも再現可能な速い泳ぎ。
それこそ私の憧れであり、目標でもあった。
「先輩!」
「うん?」
「好きです!」
「えっ、いきなり何なん?」
「私は先輩の泳ぎに魅せられました! 好きです! 一緒にオリンピック目指しましょう‼」
結局突き詰めれば水泳だった。
もちろん先輩は私のことを色々気遣ってくれたし、高校に上がって伸び悩んで無理していたところを心配してくれ、部を辞めてまで守ってもくれた。けれど、もし先輩が天才スイマーではなく、例えば単なるマネジャーや凡庸な一部員だったら、今のような恋愛感情を抱いていただろうか。
否、と断言できる。
私はその辺の女子高生ではなく、どこまでいっても速さを追い求めるスイマーだ。
その性を捨てさることは不可能で、スイマーとして尊敬出来ない人に恋することはないと自分でも太鼓判を押せる。
だから、芽岸正幸のどこを好きになったのかと問われれば泳ぎと即答出来るし、他の誰よりもその点は純粋で強固だと胸を張れる。
物理的な胸はあの牛さんに負けているかもしれないけれど。
「お、おう」
「約束ですよ! 東京五輪は佐々岡凛と芽岸正幸の二人が表彰台に上るんです!」
「東京での開催はつい最近やったでしょ。次はたぶん半世紀ぐらい先になるよ」
「何を弱気な。生涯現役でシニア部門での入賞に決まっているじゃないですか!」
「オリンピックにシニア部門はないかな」
苦笑いする先輩は一見どこにでもいる普通の男子高生に見える。
女の子の前で自分の得意なことをして、ちょっと格好付けて見せる普通の高校生。
垢ぬけた態度と悪くない容姿は校内でも人気で、結構な数の女の子に気を持たせるモテ男。
社交的で成績も良い隣にいて恥ずかしくない優等生。
はっきり言って、全てどうでもいい。
芽岸正幸は水泳の人で、他の人はその点を過少評価している。
この目の前の男が、いかに奇跡的な才能を持ち、水泳の神に愛される存在であるということを私以外の誰が理解していようか。
容姿が好みだとか、勉強が出来るだとか、人あたりが良いだとか、それらは水泳の才に比べれば枝葉末節で、そんな所で先輩を好きになっている連中は所詮浅いのだ。
私は違う。
私は、私だけは、県内一の女性スイマーである佐々岡凛だけは芽岸正幸を正当に評価し、正しく愛している。
ならば負ける道理はない。
「佐々岡?」
「はい、先輩の佐々岡凛ですよ」
「ずっとこっちを向いたままで黙るから、何かあるのかなって思って」
「おやおや、照れ屋さんですね。女の子に見つめられたぐらいで真っ赤になって」
「いや唐突に真顔でガン見されたら普通に怖いわ」
私は勝つ。
勝って先輩の本当の価値を示してみせる。
「先輩」
「うん?」
「好きですよ。私だけが先輩のこと分かっていますから」
だからこれは自分への宣誓だ。
他の誰も理解していない愛しの人の傍に立つための私だけの言葉。
――金メダルと同じように唯一無二の。
◇◇◇◇◇
お詫びの連続更新です。
でも次は来週になると思いますw
ツンデレとヤンデレとクーデレから告白されて高校生活をエンジョイっい!!! @BWWT
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