第17話 定番は大事だよ♡
佐々岡の指示に従い滅多に使わない地下鉄と市バスを乗り継いで一時間半、郊外のやや閑散とした場所にそのスイミングスクールはあった。
いかにも地域密着型といった風情の一方、想像よりずっと大きなコンクリートむき出しの建物で、入り口に設置された自販機には普段ちょっと見ないようなマイナーなドリンクが売られている。
「ここは前に言っていた昔の?」
「はい、おばさんの家がやっているスクールで、八歳まで通っていました。飛び込みできる五十メートルもありますよ」
「すっげ。五十持ってるスクールなんて都内でも殆どないのに」
確か佐々岡が俺に心を開いてくれてから過去の水泳歴を語り合った時、幼少期に地元の有名スクールで水泳を始めたと言っていた。小学校に入ってしばらくして親の転勤の都合で今のスクールに移った後も、そこのコーチには度々助言を受けているとのことだったが、今回はその伝手を使ったということだろう。
「しかし、まだ九時とかだけど開いてるのか?」
見たところ入り口は締まっており、電気も付いていない。
だいたい十時開始のところが多いから、いささか早く着いたのかもしれない。
「大丈夫です。抜かりありませんよ」
言うなり佐々岡はスマホを取り出し、通話で着きましたとだけ短く告げ、それからさして間を置かず四十ぐらいの小柄な女性が中から両開きのドアを開けてくれる。
「久しぶりね、凛」
「はい二年ぶりぐらいでしょうか。相変わらずお元気そうで、陽子おばさん」
陽子おばさんなる女性は佐々岡の挨拶に快活な笑みを見せ、次にこちらに目線を向けてくる。
およそ百五十半ばの背丈とやや面長の優しそうな顔立ちのどこにでもいそうな女性だが、肩幅だけは一目見て分かるほど広く、幼い頃から水の中で肩を回してきた経歴を感じさせてくれる体型だった。
「はじめまして。佐々岡と同じ水泳……、いや学校に通う一つ上の芽岸正幸です」
「ええ、話は聞いているわ、芽岸君。凛の叔母で水泳一筋四十年の木原陽子です」
再度にこりとした木原さんは、何故か俺の頭のてっぺんから足先までまじまじと見つめた後、唸りをあげる。
「うーん、薄着というのもあるのだろうけど、服の上からでも分かる素晴らしい身体ね!」
「大先輩からそう言って貰えるとは恐縮です」
半袖のポロシャツに短パンという適当な格好がこの場合は良かったのか、そう明け透けに褒められて悪い気はしない。水泳部を辞めてからもコンディションを保つための努力を続けたかいがあった。
「実はあなたのことは凛に紹介される前から知っていたし、泳いでいるところも一度見たことがあるの」
「それはちょっと気恥ずかしいですね」
「そうなのかしら? 小さい頃から天才スイマーとして名を馳せていたあなたなら、他人から泳ぎを見られる経験なんてざらにあったでしょう」
「昔の話ですよ。今は単なるその辺にいるちょっと泳ぎの速いイケメン高校生です」
「あらあら」
俺のくだらない軽口に木原さんは上品に微笑む。
まだ出会ってすぐだが温かみを感じさせる人だ。
佐々岡のような我の強いタイプに慕われているのは、この人間的な魅力によってだろう。
「さあ、立ち話もこのあたりにして、泳ぎを見せてちょうだい。一時間早く開けた分はしっかり埋め合わせして貰わないとね」
「うっす」
木原さんの案内に従い更衣室に入り、着替えを始める。
別に水泳部を辞めて初めての泳ぎというわけではないけれども、妙な緊張感、というか誰かの視線を感じる。
「ところで何でいるの? ここ男子更衣室だけど」
「一応デートですからこういう定番のイベントも挟んでおかないといけないかと思いまして」
緊張感の正体見たり佐々岡凛。
他人の着替えを凝視している後輩がそこにはいた。
「逆じゃない? 普通女の子の着替えをどうのこうのっていうのが定番だと思うけど?」
「それは先輩視点の話でしょう? 私からすれば鍛え抜かれた一流アスリートの脱衣シーンを見る機会になるわけですから」
「それもそうか」
「はい」
そうまでいうなら見せつけてやろうじゃないか。
この芽岸正幸、水泳道を歩み始めて十年余り、他人に恥じるような鍛え方はしていない!
「ふん! せい! はっ!」
「ただ上着を脱いで短パンを下ろしただけなのに大仰です」
「そうは言っても、下は水着着て来たから後はキャップ被ったら着替え完了なんですよ」
「先輩にストリッパーの才はありませんね。もっとエッチな脱ぎ方してください」
無茶を言う後輩ちゃんだ。
上着と短パンの二枚の脱衣で俺にどうしろと。
「じゃあ手本見せて下さいよ、佐々岡大先生」
「えっ?」
何事も率先垂範。
俺は佐々岡に言うばかりの口先人間にはなって欲しくないし、このままでは一方的な脱ぎ損になってしまう。
俺だって定番ってやつを堪能してもいいだろう。
「おや、敦賀崗マーメイドともあろうお方がまさか他人にだけ脱がせて終わりじゃないでしょう?」
「まさか。見くびらないで下さい! 全男子総起ちの生着替え見せてあげますよ」
流石は勢いとノリで生きている佐々岡だ。
とりあえず頷いてみせるその度量には感服するしかないね。
「あ、あのさっきの総起ちっていうのはですね、スタンディングオベーション的な立つと、男性のアソコが起つの二つをかけた……」
「うん大丈夫。分かってるから続けて」
途端、佐々岡はラガーシャツの裾をつかんでもじもじし出す。
こいつは結構下ネタを言うし、俺にセクハラをしてくるが、いざ一線を超える段になると年齢相応の戸惑いを見せる可愛い後輩ちゃんなのである。
「さ・さ・お・かさんのちょっといいとこ見てみたい♪ はいはい、脱いで、脱いで、脱いで、脱いで、脱いで、脱いで、佐々岡♪」
「うっうっ……」
「ちょっとー、ノリ悪いよ、佐々岡ちゃん」
佐々岡は悔しそうな視線でこっちを睨んでくる反面、なかなかシャツの裾を臍から上にあげようとはしない。
毎回毎回やられっぱなしと思ったら大間違いだ。
俺は女の子の裸一つであたふたするほど初心じゃない。
「おやおや、女に二言はないと大言して憚らない佐々岡凛さんとは思えない戸惑いぶりですなぁ。俺の方はこの通り脱いで見せたのに」
「くっ、どうせ着替える時に誰もいないだろうと本番用を準備してきたことがあだになりましたか。練習用なら着たまま来たのですが」
大会に使用する国際機関の認定を受けた水着は、水中の抵抗を減らすために締め付けが強く、余裕がないため長時間着ていたいものではない。特に女子は面積的に男子以上に着たままにはしたくないはずで、しかも一時間を超える移動の時間があるとなれば俺のように下に水着を着て来ることはまずしない。
全ては必然、俺の手のひらの上のことだったというわけである。
「諦めるんだな、佐々岡。策士策に溺れるとはこのこと。貴様は俺の着替えを見ようとした時、既に負けていたのだ」
「流石です、先輩……、ことここに至っては潔く腹を切る所存です」
「ふっ、それでこそスイマーよ。さあ辞世の句を詠むがよい」
「夢に見たロンドン五輪いずこかへ水に残るは泳ぎ泡のみ」
無駄にちゃんとした一句を残した佐々岡はいよいよシャツを臍より上にまくる。
躊躇しても最後にはやるとなったらやる後輩なので、このままだと本当にすっぽっぽんの姿を見ることになりそうだがどうしたものか。
別に裸自体はどうでもいいけれど、今日は真面目に泳ぐという趣旨であり、こういうおふざけラブコメ展開はそぐわない気がする。
そんな迷いを抱いた矢先、プール入り口から声がかかる。
「いちゃつくのは終わってからにしてくれる? もう一時間もしないうちに人も来出すし、早く準備してね」
「「すいません」」
木原さんの注意に同時に謝り、俺と佐々岡は顔を見合わせる。
「……ぷっ」
「おい笑うなよ」
「だって何かおかしくて」
含み笑いの後輩に俺の表情も緩む。
何にせよ、観客をあまり待たせてもいけないだろう。
俺だって速さを生業とするスイマーなのだから――今はまだかろうじて。
◇◇◇
生きてます(爆)
楽しみにして頂いていた方には誠に申し訳ない気持ちです。
理由は色々ありますが、ここで書くことではないので、今後の更新も含めて近況の方で書きたいと思います。
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