第15話 神様は基本意地悪なツンデレ
もし――私はそういうものは信じない性質だけど――水泳を司る神がいたとして、その神様がこの世界中で最も愛し、恩寵を与えている人間は誰かと問われたなら、迷いなく芽岸正幸を選ぶ。そう強く断言出来るほど、先輩は水泳選手として完成されており、才能が人間の形をして水の中を進んでいるかのようだった。
後から振り返ってみれば、夢中で泳ぎを見て、水面から出てくる先輩の顔を見た時、私が恋に落ちるのは決まっていたのだと思う。
もっとも、先輩があまり部で練習しないこともあって、最初はそれを素直に認められなかった。
なんであの程度しか泳いでいない人があんなに速いのかと。
そんな微妙な嫉妬心を持て余し、最初は先輩に突っかかったりもしたが、一か月もすればつま先から頭まで芽岸正幸にぞっこんで、散々色恋に現を抜かす連中を見下していた過去の自分が可笑しくなったものだ。
そして一層笑えたのが、当時は意中の彼と水泳というこの上ない縁で結ばれている自分に敵はいないと信じ切っていたことだろう。水が低きに流れるのかのごとく佐々岡凛は芽岸正幸と結ばれる――まったく笑える見通しで、甘ったるいご都合思考だった。
実際には、先輩の周囲には何人もの女性が既に侍っていた。
考えてみれば当たり前の話で、あなたがいいと思うものは他人もそう思うというわけである。
水泳で全国区の選手であり学業も優秀、ついでに高身長で顔もイケメン寄りの男子が、もてないわけはなく、私は初デート際に、先輩の明らかに女性慣れした態度から他の女の存在を初めて意識した。
そして、すぐ不動優理香と城咲ブレンナーの二人の強力すぎるライバルに行き当たった。
前者は目の錯覚かと疑うような起伏のある身体と男が好きそうな愛らしい顔を持ち、先輩の幼馴染でもあるという正統派の強敵で、後者は隣にいれば気後れしそうになる端麗な顔立ちと人体の黄金律を体現したかのごとき均整のとれたスタイルを誇り、カリスマあふれる生徒会長でもあるという一癖も二癖もある難敵だ。
彼女らは先輩の彼女候補たちの中でも頭一つ抜けた地位を築いており、私は贔屓目に見ても二人の後、つまりは三番手で、それは耐え難い屈辱だった。
どんな時も一番を目指し、少なくとも県下の同年代ではトップだった私が、一位どころか二位でもない。この事実を受け入れるのは容易ならざることで、今でも嫉妬するあまり、かなり過激な言動をとってしまうことがある。
けれど、私は徹頭徹尾真剣で、また同時に、自分が先輩にとってそんな大それた存在ではなく、先輩が私以外の子を選ぶ可能性もあることをよくよく理解しているつもりだ。
誰にだって自身の恋人を選び、その人と幸福になる権利がある。
どうして私――芽岸正幸から色々なものをもらった佐々岡凛が、彼の幸福を邪魔する資格があるだろうか。先輩が選ぶのなら、不動優理香でも城咲ブレンナーでも受け入れるべきで、仮にそう完全に関係が決着したなら、歯ぎしりしつつもなんとか身を引いてみせよう。
ただし、全ては結果が出てからのことで、一アスリートとしてゴールの瞬間までは決して諦めないし、ちょっとやそっと離された程度で気後れはしない。
私は才能がある方であっても、神には愛されていないのだから、懸命に努力し、最善を尽くし、神に愛された男を掴み取って見せよう。
欲するものは何としても掴み取るというのが、私という人間の性分なのだから。
「このままは良くないと思う」
不動先輩は駐輪場の端で二人きりになるなりそう切り出した。
先輩を下駄箱置き場で取り合った後、すぐ話し合おうと提案してきた彼女に迷いはないようで、私の方も気構えが必要だろう。
アスリートたるもの心で負けてはいけない。
「あんまり学校内でまーくんを取り合ってると色々言われるだろうし、こんなどっちつかずの関係はお互いに嫌でしょ……、違う?」
「そうですね」
うちの学校は割と風紀に緩い校風だと思うけれども、流石に大っぴらに三角関係続けては教員から目を付けられるかもしれないし、他の生徒に変な噂を流されたら面倒だろう。特に悪目立ちして水泳に悪影響が及ぶのは避けたい。
まあ、先輩はその辺も如才ないらしく、あれだけ方々の女子と交流を持っているというのに、普通に学校生活を過ごしているから、仮に付き合ってもそうそうおかしなことにはならない気もするが。
「というか、あんな低レベルなやりとりこれ以上したくない」
「同感です」
不動先輩とは毎度毎度顔を合わせる度にいがみ合ってきた。
あんなもの傍から見れば道化そのもので、私だって馬鹿らしく思っている。
しかし――
「ああいう風にコントみたいに張り合うのは、まーくんが私以外を選ぶのが怖いから。真剣にならなければ、選ばれることもない代わりに、選ばせることを避けられる。だから、だらだら茶番を演じてきた。私もあなたも」
「…………」
そう、私たちはただ怖かった。
自分ではない誰かを選ばれる恐怖に比べれば、勝ち負けのないじゃれ合いを続けていたほうがずっとましだった。
昨日までは。
「もうやめにしなきゃ」
「ええ」
言わば今まではお互いに竹刀を使った試合で勝ったり負けたりしながら、決して致命傷を負わない環境で遊んでいた。
むき身の刃で本番を行えないことに不満を感じつつも、心のどこかで安心してきた。
誰も傷つかない生ぬるい暗黙の了解のもと、先輩を巡って良きライバルとしのぎを削る――それはそれで楽しかったし、青春というものを味わっている実感すらあった。
「じゃないと何のために告白したか分からなくなる」
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれてしまう。
まさかこれほど目の前の胸のでかい女子が私と同じように考えていたとは。
一周回って可笑しいじゃないか。
こうなると同じ日に告白したのも偶然とは思えなくなってくる。
「勇気を出したんだから、ケリを付けましょう」
言い終えると私を捉えていた不動先輩の真っすぐな視線はひときわ鋭さを増したように感じられた。
女子から見ても垂涎の身体を持ち、幼馴染という地位もある競争相手が気持ちの上でもベストな証拠だ。
ああ、実に素晴らしい。
「よく言いましたね。ちょっと見直しましたよ」
そうではなくては――競う相手は強力であればあるほどよい。
それでこそ芽岸正幸を奪い合う甲斐があるというもの。
「そう? あなたはいつも余裕そうね」
「もちろん。負けるなんて欠片も思っていませんから」
私の軽い挑発を不動先輩は鼻で笑う。
そのいつもなら多少はカチンとくる態度が今は不思議と薄っすら心地よかった。こうして初めて踏み込んだ話をしたことで、先輩を介した同族意識がわいたのかもしれない。
「ねえ……、何で突然私の胸を鷲掴みにしたわけ?」
「いや、試合前にする握手みたいなものですよ」
初めて会った時から一度はやってみたいと密かに思っていたことである。
せっかく良きライバルの内心に触れられたのだから、外見の気になる部分も知っておきたくなるのは自然な心理ではないか。
絶妙な弾力と五指全てから感じる食い込む感覚はずばり癖になりそう。
「人の身体を勝手に触らないで。女の子同士でも普通に不快だし、私の身体のどの部分も私のもので、他人が無遠慮に触っていいものじゃない」
「いちいち神経質な人ですね。代わりに私の胸も触っていいですから」
「そういうことじゃなくて、人の身体を冗談でも無許可で触るのは駄目ってこと」
「はいはい、分かりましたよ。もうやめますから、どうぞ報復に私の二つのふくらみをがしっとしてください」
小うるさい不動先輩を黙らせるため、その手を取って私の胸元に持っていくと、何故か彼女は怪訝な表情を浮かべる。
というか、明確に戸惑っていた。
「え、遠慮せず揉んでくれていいんですよ?」
「はぁ……?」
ついにグイっと突き出された手がしっかり私の両胸に触れたかと思ったら、そこから何故か一時停止し、しばらくしてゆっくり上下に移動する。
こそばゆい動きをするなと思ったのは束の間、不動先輩の真意は、
「えっと……、もう触ったけど?」
「分かってます!」
私の胸の大きさを確かめることだった。
きっと最初の接触では確信が持てなかったので、高低差があるか手の上げ下げでダブルチェックしてくれやがったわけである。
「あっ、うん。触ってたよね?」
「触ってましたとも!」
もうがっつり、この上なく、私の可愛い膨らみは不動先輩の手のひらの中だった。
山と谷がなくとも、丘程度は確かにそこにあったはずだ。
「……ちょっと違う場所を触ったと思いました」
「違う場所ってなんですか⁉ この部分以外のどこに胸が付いてるんですかね! 牛みたいに二つ以上ついているとでも?」
鶴賀崗マーメイドと呼ばれはしても、本当に人間をやめた覚えは断じてない。
第一、キャラ的なイメージで牛なのはどう考えてもこの目の前のおっぱいが大きい先輩だろう。
「ごめん、ごめん。他の女の子の胸なんて触ったことなかったからほんとにびっくりしちゃって」
「びっくりってなんですか! うわー、こいつの胸小さすぎかよ⁉みたいにびっくりしたんですか!」
「だから、ごめんって。私だって胸の大小なんてくだらないことでマウント取ったりしないから。それにまーくんは胸の大きさなんて全然気にしないよ」
「知ってますよ。先輩が人の身体的特徴をあげつらう人でないことぐらい」
「うん、そこもまーくんのいいところだよね。小さいとか貧乳とか言わないのはもちろんだけど、大きいとか巨乳とかも仲良くなって、こっちからそういう方面の話を言い出さない限り絶対言わない。一部の馬鹿はそういうのが褒め言葉になると思ってるのとは大違い」
「そうでしょうとも。先輩は某風邪薬と同じで半分は気遣いと優しさで構成されて――って、そんな話じゃなくて!」
私たちはさっきまでかなりピリピリした空気だったはずだ。
それが先に胸を触ったばかりに、ゆるゆるに弛緩してしまった。
「いいですか、私たちは一人の男性を巡ってこれから戦うわけです! 金メダルは一個しかないんです! それを肝に銘じて、情け無用でお願いしますよ!」
「はいはい」
懸命に迫る私と適当さ丸出しの返事をする不動先輩。
いつもと同じく私たちは対照的だった。
共通するのはきっと先輩を想う気持ちだけで、性格や身体つき、それに生き方も私と不動先輩は全く異なり、もし先輩がいなければ関わることはなかっただろう。
「余裕そうなのはどっちですか! そもそも水泳という最高の共通点がある私の方がどう考えても有利なんですから、もっと必死になったらどうですか!」
「は? 幼馴染で一番長い時間一緒にいた私の方が絶対有利だから。むしろあなたは水泳しかまーくんとの接点ないでしょ」
「いやいや幼馴染といっても中学は別ですよね。どうせたまたま住んでいた場所が近いだけでたいした関係性もなかったくせに、先輩のことが気になり始めたから幼馴染を強調しだしたのでしょう」
「違うから! 小学校は一緒だったし、こうして高校も同じなんだから十分に幼馴染でしょ」
私が噛みつくと不動先輩は応じてくれ、私たちは先輩のことで盛り上がった。
もう何回繰り返したか分からない茶番劇は、今日で見納めになる。
佐々岡凛と不動優理香の奇妙な関係は芽岸正幸を通じてでしか存続せず、恋の行方が定めればこんな風に言い合うことはきっとなくなるのだ。
それはほんの少しだけ寂しいことだと私は思った。
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