第9話 優しいお水(高)
ああ、私って恋しているんだな。
そう気付いた時には手遅れで、もう自分でもどうしようもないくらい、私は彼ばかりを追いかけ、彼ばかりを気にかけ、そして、彼だけが心の中にいた。
学校でこそ周りの目を気にして、たまに二人でお昼を食べる程度だったけれど、放課後は何だかんだと理由をつけて彼の家に上がり込み、歓心を買うために料理を振舞ったり、ちょっと過剰なボディータッチで誘惑してみたり、我ながら見事な恋に恋している女子高生ぶりで、冷静に一連の行動を顧みるのは恥ずかしいものがある。
しかし、一応の自己弁護というか、そうしなければならない理由はあって、彼の周りには他の女の影がちらついていたのだ。
我が校の水泳部エースにして鶴賀崗マーメイドと称される美少女、佐々岡凛。
生徒会長にして金髪碧眼の美形ハーフ、城咲ブレンナー。
この二人はもちろん、他にも何人かの女性が彼の交友関係の中にはまぎれており、私の立場は安泰でないどころか、うかうか相手からの告白を待っていられるような状況ではとてもなかった。
だから、私はなけなしの勇気を振り絞った。
友だちからやめておけと散々言われ、自分でも告白は絶対男子からと思っていたにも関わらず、私は彼に思いを告げた。あの時は本当にひどい緊張と不安と恐怖に押しつぶされそうで、たぶん半ばしどろもどろになりながら、好きですと告げたのだと思う。
結果、返答は保留。
そう聞いた瞬間、地面が急に無くなったかのような浮遊感と共に、胸が締め付けられる感覚が身体を走り抜け、私は倒れそうになっていた。それでも、自分でも驚くべきことに、平静なふりをしたままその場を切り上げ、夜には再度アタック出来るぐらいに気持ちを持ち直すことが出来ていた。
ひとえに恋の力は偉大で、私は一度や二度で諦めきれない思いを彼に抱いていたわけである。
まったく、本当に、どうかしている。
幼馴染、ただし中学は別だったからそんなに親しくしていたわけでもない人に、こうまで入れ込み、必死になっているのは何故なのか――笑えるのは、私の答えがあまり理屈に寄ったものではないことだ。
確かに彼は客観的に見て、魅力のある男子だろう。
運動も勉強も出来て、顔も平均以上。ついでに家は裕福で、卑しい家庭で過ごしてきた身としては、将来を打算的に考えて、青田買いも悪くないと考えられる優良物件ではあるし、最初の方はそんなことを薄っすら考えながら、近付いてきた彼と接していたように覚えている。
もっとも、そういう頭で考えた関係はあっという間に終わり、そこからは彼のいわゆるスペック的な要素はどうでもよくなっていき、単純に一緒にいる時間が楽しくなり、後はもう一直線である。
この人と同じ時間を過ごしたい。
ありきたりな願望がどんどん大きくなって、私は恋をした。
不動優理香は芽岸正幸に心を奪われた。
私の学校生活は全てまーくん中心のものになり、これからきっと恋敵たちとの激しい競争が始まっていくに違ない。
それでも、気にくわない女の姿がちらついていても、今私は幸せだ。
だって、私は恋しているのだから。
「――――ァ」
「ちっ」
隣の部屋から聞こえてきた声に思わず舌打ちを一つ。
どうせなら寝たままでいればいいのに、こんな時間に起きてくるとは幸先が悪い。
こっちはこれからまーくんとの大切なデートだというのに。
「ゆ、りかァ! 水ぅ! 頭が痛いんだよ!」
「うっせぇな」
そんなに水が欲しいなら自分で冷蔵庫から出せば……、いやそんな無意味ないらつきはやめよう。あのババア、もとい私の母親に自分で何かするなんて高度なことを求めるのは間違っている。
赤ん坊と一緒で他人が何かしてくれるのが当たり前で、それが叶わないと喚き続ける。
あれはそういう人間だ。
「水! 水だ! 聞こえてるんだろ! さっさと持ってこい!」
「いや、さっさと死ねよ」
普段なら無視して外出してもいいが、どうも酒の飲みすぎで二日酔いらしいから、放置すると後々面倒になる。デート中に余計な心配はしたくないから、ここは仏の心で世話を焼いてやるか。
「うるさいって! 聞こえているからちょっと待って」
残るは持ち物の整理だけだった身支度を切り上げ、自室からリビングへと移動し、買い溜めているミネラルウォーターを取り出しキャップを開けてから、ソファーでドレス姿のまま寝ていた母親に差し出してやる。
まるで大きな子どもを世話してやるかのごとく――三十五を超えていることには目をつぶって。
「……ぅ、……っん、はあ……」
一本八十円かそこらの飲料水を一気に半分以上を飲み干したくそババアは、ようやく人心地付いたのか、胡乱な目を次第に変化させ、こちらを睨め付け始める。
「お前、何だその格好? 男と出かけるのか?」
「別に」
私がどこで誰と何をしようと私の勝手だろう。
それとも酒臭い息を吐きながら一丁前に母親面して説教でもしようというのか。
どうせ昨夜も勤めているスナックの客と飲み明かしていたくせに、滑稽過ぎて笑えるね。
「誰とだ? まさか大人と――」
「そんなわけないでしょ。お母さんじゃあるまいし」
高校を出る前から年齢を誤魔化して夜の世界で働いていた人の物差しで考えないで欲しい。
だいたいあんたの自称華やかな半生を蔑んでいる私がそんなことをするわけがない。
「なら……、そうか、あいつか。あの水泳野郎か」
「さあ」
「悪いことは言わないから、あれとは付き合うな。ああいう――」
「うるさい」
いちいち鬱陶しいんだよ。
何も知らないくせにお前がまーくんのことを語るなよ。
何様のつもりだ。
「別にお母さんがどんな男の趣味をしていようが、私はどうでもいいし、夜の仕事で鍛えたとか豪語する男を見る目とやらに自信を持つのも勝手にすればいい。でもね、私に口をはさむのはやめて。というか、あんたにそんなことする資格ないから」
最近でこそ鳴りを潜めたとはいえ、十年以上ホストに通い詰め、八桁のお金を浪費したお馬鹿さんが娘の彼氏にご意見とは恐れ入る。
頼むからまーくんを、私の好きな人を、あんたの爛れた人間観の中に組み込まないでくれ。
虫唾が走る。
「心配してやってるのになんだその口の利き方は! いいか、お前はまだ若いから分からないかもしれないけどな……、本当にヤバイ男はお前の想像しているようなチャラチャラした奴じゃなくて――」
「うるさいって言ってるでしょ!」
頭にきた私はつい手にあったキャップを投げつけてしまう。
これはいけない。
これではまるですぐヒステリックになるお母さんみたいだ。
「……言いたいことはよく分かったから、もう黙ってて」
会話は努めて冷静に。
感情に振り回される女は私の中では最低だ。
「心配しなくてもまーくんはホストじゃないし、私は絶対そういうのにはまらないから。誰かさんと違ってね」
要は身近にいる反面教師と逆のことをすればいいわけである。
その点はくそババアに感謝してもいいかもしれない。
こんなに分かりやすくしては駄目なことを実践してくれる人はそうそういない。
「じゃあ、私これから予定あるから後は自分で面倒見てね」
最低限の介抱はしてやったし、これで娘としての義務は果たした。
それにまだ時間に余裕はあると言っても、最後に髪型やら服装やらを再チェックだってしたい。
「優理香」
「何? しつこいよ」
だが自室に戻ろうと背を向けた途端に待ったがかかる。
まだグチグチ言うつもりなら無視すると決めつつも、最後の情けで私は振り向く。
「優しさに
視界に入った母親――
酒浸りの駄目女の癖に、長年の夜職の経験からくるものか凄味があって、何かもっともらしいことを言っているようにも聞こえる。
ただし、私からしてみれば所詮こけおどしであり、反論は簡単である。
「ふふっ、そうだね。優しいホストには一本二十万の水注文することになるもんね」
“一生その八十円のミネラルウォーター飲んでろ”だ。
「お前なァ……」
まだ何か言いたげな母親を今度こそ無視し、私は自分の部屋へと戻った。
まずは途中だった持ち物の再確認からだ。
急がず焦らず丁寧に身なりを整えなくては。
外側を設えなければ、内側も相応しいものへとは変わらない。
大切な人との大切な時間を過ごすためには、それはきっと必要なことだった。
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