▽残り一日

▽残り一日


 ふと目が覚めた。体を起こすと、かけてある布団が滑り落ちた。

 右足をベッドから下ろして窓を見ると、黒に近かった。夜か? と思ったが、なんとなく夜という感じはしないので朝らしい。多分、だが。

 後ろを振り向くと、白狐が寝ている。珍しく、俺が先に起きたらしい。これなら、久しぶりにいたずらが出来る――とは云っても、何をするか全く思いつかない。

 とりあえず、昨日やられたことをやってみる。

 耳に息を吹きかけると……特に何もない。何度か吹きかけてみると、「う……うぅん?」と寝言のように云ったが、それ以上はなかった。

 さて、何をすればいいのか。

 とりあえず、白狐の弱点を考えてみる。

――ええと……くすぐりか?

 白狐はくすぐりが弱かった筈である。ならば、それしかないだろう。

 白狐に掛かっている布団を取って(今思ってみれば、掛け布団は落ちることなく二人に掛かっていた)、脇腹に手を当てる。白狐の脇腹の柔らかさと体温が手に伝わってきて、自然と鼓動が早まった。二人で何をしようとも、何かをするときは緊張する物だ、慣れなんてない。

 脇腹に当てた手を、すーっと滑らす。だが、特に反応はない。

 よし、やるか。

 脇腹をくすぐった。が――。

「……………………」なんと、白狐は無反応だった。

――あれ、人間って寝てる間ってくすぐり効かないんだっけ?

 何だか、死んでるのか? と不安になったので、手を白狐の鼻の下に持っていったが息はちゃんとしていた。やはり、寝ているだけだ。

 念のためもう一度くすぐってみるが、やはり反応はない。

 何が効くのか、散々迷った末に挨拶をすることにした――外国の。本当になんとなく、確信なんてなかったが、それをすれば起きるような気がしたのだ。

 横を向いて寝ている白狐を九〇度回して、上を向かせる。そして唇を近づけて……触れた。

 その瞬間、白狐の唇が動いて「え?」と云った。

 急いで顔を引くと、それと同じくらいのスピードで白狐が上半身を起こした。

 白狐が俺を見てきて、俺も白狐を見る。目を合わせたまま、しばらく無言が続いた。

 無言を破ったのは白狐だった。「今、何してた?」

「え、あ、おはよー」

「おはよう、で? 何してた?」

「え、あの……おはよう、してた……」

「外国の?」

「……うん」

 白狐は大声で笑い始めた。

「ははは! 反応、可愛いかよ?」

 俺は何が面白いのか分からなかったので、大声で笑っている白狐がもの凄く変人に見えた。

「え、何か、面白いこと……あった?」

 白狐は頷いた。「うん、反応が純粋で可愛かった」

 どこが純粋で、そもそも何故純粋が可愛いのか分からなかったが、とにかく頷いて置いた。

 白狐がエナドリを一本、手渡してくれた。「あ、ありがとう」

「どういたしまして」と云って、白狐も缶を取った。

 昨日と同じように乾杯する。今日で死ぬことを緊張しているのか、味がよく分からなかった。

 味が分からないエナドリを飲んでいると、不意に白狐が云った。「私たち……今日で死ぬんだなぁ……」

 俯いていたので殆ど見えなかったが、一瞬、髪の間から見えた白狐の目は悲しみに満ちあふれているように見えた。

「何か……不安? とかある?」

「不安ねぇ……」白狐は缶を持ったままベッドに頭を埋めた。

「まぁ、不安しかないよね。本音、死ぬの怖いし」

 ああ、俺もそうだ。

「何で死ななきゃいけないんだろうって思うし……」

 俺も思う。

「でも、私たちが悪い訳じゃないから……」

 ああ、俺らは悪くない。

「でも、だからと云って誰かを恨める訳じゃない……」

 隕石なら恨めるけど。

「だから、死ぬって云うのはさ……」

 やっぱり……。

「それしかなかったんだよね」

 ああ、それしかなかった。

「答えが」「答えが」


▽△


 やっと町に着いた。体の拒絶は最大限まで高まっている。

 雨の強さは増し、俺がこの町に入るのを邪魔しているかのようだ。

 道路が狭くなってきてスピードを出すのが危なくなってくるが、なるべくスピードを落とさないように走る。もしかしたら、スピードを落としたせいであいつに会えなくなってしまうかも知れないと云う不安が脳内でうごめいているからだ。

 緊張で、吐きそうだ。

 だが、それでも……!

 もう少しであの家に着く。


▽△


 雨が強くなってきたのか、雨の音が響くようになってきた。気が付いたのか、白狐が「あれ、雨降ってる?」と云った。

 外の様子を見るために、窓辺に行った。

 外は大雨かつ強風なのか、窓がモザイクのようになって外が見えなかった。

 話し合いの結果、数秒だけ窓を開けてみることにした。

 三、二、一のかけ声で窓を開ける。

 その瞬間、ヒュオォ……! と、風の音とともに大量の雨が吹き込んできた。これではとてもじゃないが外を確認することは出来ない、と思って窓を閉めようと思ったが、雨が目に入って窓がどこにあるのか分からない。白狐は雨を避けるためにうずくまってしまった。

 一八〇度回転し、窓を背にする。瞬きをして目を元に戻し、後ろ向きのまま少し歩いて窓に触れる。

 後ろ向きのまま閉めることが出来そうだったが、そこまで肩が柔らかくなかったから出来なかった。

 覚悟を決めて、振り向く。一瞬見えた窓の位置を覚え、そこに手を伸ばす。そして、閉める。

 やっと風の音がなくまり、辺りが静かになった。

「閉まった?」と白狐がうずくまったまま聞いてきた。

「びっしょびしょになったけどな」

「で? 外の様子は?」

「ええと、前が見えない程の大雨と強風、以上」

「……車運転出来る?」

「出来る……と思う」

「はは、ま、いいか。行きましょうか、ええっと……春風川だっけ?」

「そう。行こうか」

 一応、引き出しからライトを、白狐はエナドリを何本か持って一階に向かった。


 デパートを出ると、当然大雨と強風に襲われた。

 手を目の上に添え、雨が入らないようにしながら車を目指す。白狐は俺を雨除けにして歩いているらしい。

 やっとの思いで車に辿り着き、ドアを開ける。開けると同時に中に滑り込み、助手席側に移動する。二秒後に白狐も滑り込んできて、運転席に座った。

「白狐! ドア閉めて!」

「分かってる!」白狐は思いっきりドアを閉めた。

 デパートよりも壁が薄いからか、風のビュウビュウと云う音がよく聞こえる。

 疲れてしまったので、しばらく二人とも無言のまま俯いていた。

 前髪から水が滴り、ズボンの色を濃くしていった。白狐も前髪を手で挟んで引っ張り、水を落としていた。

 後ろから風呂に入ったときに白狐が体を拭いた毛布を取り、手渡した。「ん? あ、ありがと」

 白狐は何度か毛布を折りたたむと、それで器用に髪を拭いていった。

 俺も自分の使った毛布を取って、白狐とは違い、毛布を織ったりせずに乱雑に髪を拭いた。「ちょっと! 夜ト! 雑すぎてこっちに水飛ぶんだけど!」と、あまりに雑すぎて文句を云われてしまったが。

 二人とも髪を拭き終え、毛布を後ろに投げる。

「じゃ、白狐、運転頼んだ?」

「え? 無理なんだけど?」

「はは、冗談だよ」

 片方が立ったり座ったりして、なんとか座る場所を交換した。

 ワイパーを起動させ、フロントカラスに付いた水を吹き飛ばす。白狐が「前見えてる?」と聞いてきたが、はっきり云って殆ど見えない。デパートの窓ガラスみたいにモザイクのようになって、ワイパーで水を飛ばしても数秒しか見えない。

 一体こんな状況で、誰もいなくなった世界で練習して運転できるようになった俺が事故を起こさずに春風川までたどり着けるのだろうか?

 だが、たどり着かなければいけないのだ。たどり着かなければ、やりたいことを全てやって死ぬことが出来ない。未練が残った状態で死ぬのは嫌だ。

 一度息を吐いてから「出発しまーす」と云って、ゆっくりとアクセルを踏み込む。雨のモザイクが、さらに濃くなった。


 途中で死に物狂いで外に出て道路標識を見、進んで行ってやっと「春風川」と書かれた道路標識を見つけた。

 いつしか道路はまっすぐな一本道になっていて、比較的運転しやすかった。

 が。

 途中で車が使えなくなってしまったのだ。ガソリン切れや、どこかにぶつけて故障、どこかに落ちた訳ではない。

 土砂崩れで、道路が塞がってしまっていたのだ。道路が土がむき出しの斜面に接していたため、生えていた木なんかも巻き込んでの土砂崩れになっていた。

 春風側の上流まで、後どれくらいの距離があるかは分からない。

 白狐にどうするか聞いたが、答えは「引き返せると思う?」だった。つまり、何があっても上流まで行くと云うことだ。

 しかし、シャベルなんてないし、第一シャベルがあったとしてもどうにかなる土砂崩れではない。ショベルカーが必要なレベルの土砂崩れだ。

 そうなってしまうと、答えは一つしかない。

 歩く。

 だが、そうは云ってもこの雨の中歩くのは自殺行為だ。そのことを白狐に云うと、「自殺行為って……私たち今から自殺しに行くんでしょうが」と云われてしまった。

 諦めて車を降りる。幸運なことに、風は少し収まっていた。

 だが、雨は変わらずの強さだった。

 雨は一瞬で服を浸食し、靴までも浸食した。髪は額に張り付き、服は体に張り付いた、気持ち悪いどころの騒ぎではない。

 しかし、それくらいならまだ耐えられた。

 耐えられなかったのは、目だ。

 雨が直接目に突き刺さり、さらには髪から滴った雨も目に攻撃してくる。

 一度車の中に戻り、寝るのに使っていた濡れていない毛布を出してきた。

 それをイスラム教のように頭に巻いて、フードのようにして目に入ってくる雨の量を減らした。

 毛布を白狐に手渡し、上手く巻けないと云うので巻いてやる。

「はは、夜ト、変」

「五月蠅いな、雨が目に入ってくるんだから仕方ないだろ」

「まぁね、巻いてくれてありがと」

 どういたしまして、と返して歩き始める。

 道路のガードレール側には人が一人歩ける程度、土砂がないところがあった。そこを蟹のように歩いて土砂崩れを通り過ぎる。

 道は軽い上り坂になっていて、かつ雨で服と靴が重いからすぐに体力が奪われていく。バスケの強化指定選手の白狐でも、相当苦しそうだ。

 バスが通っているのか所々にバス停があり、屋根とベンチがあるのでそこで休んで体力を回復していった。

 歩いている途中、白狐が提案してきた。

「ねぇねぇ、今までのことを振り返ってみない?」

「ん? どう云うこと?」

「私たち出会ってから、ええっと……今日で七日目でしょ? 一日一日を振り返ってみようよ」

「はは、アニメの最終回かよ」

 だが、雨で気分が萎え始めた俺達にとってはとてもいい提案たっだ。萎え始めた気分の時に、会話のネタがあるのは非常にモチベーションが上がるからだ。

 最初に会った日を思い出しながら云う。

「俺が、まだ一人称が僕だった頃……」

 そこで、早くも白狐が笑った。僕、と云っていた昔の俺を思い出して笑っているのだろうか。

「食べ物を探しにとある店に入ったところ、女性が一人倒れていました。最初は死体かと思いましたが、女性の空腹の音が鳴ったため、生きていることが分かりました――」

 それから、山に登ったことや、山の頂上から見た景色のことを話した。

「うんうん、そんなことあったね。

 じゃあ、次は私が喋る。

 夜トと出会って二日目、亞部輪湖に行きました――」

 それから白狐は、俺が自販機を壊したことや鬼子母神の話をしたことを話した。

「あと、夜トが夜にどっか行ったような気がするんですが……?」

「え⁉」気付かれていないと思っていたが、どうやら気付かれていたらしい。「いつ気付いた?」

「何か、物音がして、見たら夜トがいなくなってたからどこ行ったんだろーなー、って」

「あぁ、そうだったんだ」

「どこ行ってたの?」

「ちょっとね。外で考え事してたの」

 白狐は納得したような、納得していないような「ふぅん」を返してきた。

「俺の番だね。

 俺らが出会って三日目、白狐の家に行きました――」

 この日のことは、なるべく思い出したくなかったが仕方ない。これも、今となっては昔――思い出だ。

 ミステリの本に囲まれて嬉しかったこと、白狐との関係が分かったことを話した。

 白狐もこのことは思い出したくなかったのか、俯いていた。

「次、私。

 夜トと出会って四日目。前日に色々とありましたが、どうにか仲直りをして夜トの家に行きました――」

 白狐は俺の父さんの日記のことを喋り始めた。

 この日も、俺の中ではあまり思い出したくない日だ。父さんのことを勘違いしていた自分への罪悪感が大きいからだ。

 だが、この日のおかげで父さんの本当の姿に気がつけたのも事実だ。

「はい、俺達が出会って五日目。デパートに行って、デパートを荒らしました」

「え? 荒らしてはないでしょ」白狐がツッコんだ。

「まぁ、商品色々物色したし家具屋の商品の配置変えたし」

「あー、そう考えると荒らしてるのかぁ」

 雨は強さを変えずに降り、道路の表面を雨が流れてくる。もしかしたら、上流の方は氾濫寸前なのかも知れない。

「はい、夜トと出会って六日目――昨日ですね。

 昨日は川を探しに行く筈が、学校で時間を使ってしまいました――」

 白狐は、あの授業のことなどを楽しそうに話した。

 今思い返してみると、中々に色々なことをやってきた物だ。

 それに偶然が重なって自分の知りたいことを全て知ることが出来た。本当に偶然――いや、奇跡と云うべきなのだろうか。

 ともあれ、本当に充実した六日間だったと思う。ここまで楽しい日々は、今までの人生の中で殆どなかっただろう。

 愛する人も出来た訳だし、思い残すことはもうない。

 バス停に着いた。

 プラスチックの椅子に座ると、毎回濡れているズボンがグジュッと音を立てる。

 白狐もベンチに座る。

 今更の心配になるが、白狐はスカートで寒くないのだろか。

「白狐?」

「うん?」

「スカートで寒くないの?」

「寒いに決まってるだろぉー!」と、白狐が叫んだ。

「いや、五月蠅」

「大声出さないと寒くってやってられないからねぇ」

「ああ、そう」

 はっと気が付いて、バス停一覧を見た。

 春風川上流が終点のバスのバス停は全部で一六個あり、今は十個目だった。今まで歩いて、休んだ――たまに通り過ぎた――バス停は今いるところを合わせて八個だから、車で進んだのは二個だ。つまり、俺らが歩かなければいけない距離は一四個分で八個分歩いたから、半分は超えた。

 バス停のある間隔が全て一緒ならば、頂上に着く頃はバテて瀕死かも知れないが、なんとか上流までたどり着けそうだ。

 白狐が袖を引っ張ってきた。

「うん?」

「これ、持てや」と云って、白狐が差し出したのはエナドリだった。なんと、白狐は重い缶を何本もポケットに入れて持ってきていたのである。

「阿呆か、何でこんなに重い物持ってくるんだよ」

「だって、喉渇くだろうし、死ぬ前の一本って云うのやってみたかったんだもん……」

 それって風呂上がりの一本じゃ……? と思ったが云わないでおいた。白狐がそうしたいと云うならそうしよう。やりたいことを全てやって死のう。

 ポケットにエナドリを突っ込み、立ち上がる。

 一体、車を捨ててから何時間経ったのだろうか。たった何分にも思えるし、何時間も経ったようにも思える。

 空を見ると本当に薄く太陽が見えるが、その明るさから何時頃かは分からない。だが、日がまだ陰っていることはないだろう。おそらく……いや、分からない。大雑把、本当に大雑把に考えて三時頃だろうか。

――せめて少しでも雨が弱まればなぁ……。

 そう思っても、雨は変わらずの強さで降り続ける。さらに、一度弱まってきた風も強くなってきた。風向きが追い風なのが、せめてもの救いだ。

 バス停の屋根に、雨が元気よくぶつかる。家の中から聞いていれば、心地よい音なんだろう。


▽△


 やっと家に着いた。俺が――捨てた……逃げた家に。

 まるで何かから逃げるかのように車から降り、濡れるのも構わず玄関に向かう。当然だが、何も変わっていない。

 家族が中にいるならばインターフォンを押すが、当然誰もいないのでそのまま玄関に向かってドアを開ける。聞き慣れたドアの軋む音は、雨の音にかき消されて聞こえない。

――あっ!

 玄関から延びる廊下に足跡が付いていた。

――やっぱり、あいつはこの家にいるのか?

 だが、誰かがいる気配はない。

 それに、よく見ると足跡が二種類あった。もしかしたら、火事場泥棒のように隕石騒ぎ泥棒が入ったのだろうか。だが、物色された跡はない。

 足跡に気を取られていたせいでドアを閉め忘れていたのに気付き、急いでドアを閉めた。一分もなかったと思うが、玄関はびしょびしょになっていた。

 雨じゃなかったらこの足跡の主のように土足で入るところだったが、濡れた靴で上がるのは気が引けた。明日消える家だとしても、だ。

 だが、靴下もびしょびしょになっていたので、靴を脱いでもそこまで意味がなかったかも知れない。

 濡れた靴下の嫌な感覚を無視して、二回に向かった。

 足跡を見ると、リビングに入って出た足跡と、二階に上がって降りてきた足跡が混在していた。その足跡を見て、俺は即座に判断した。俺の中の〝勘〟が、二階――それも俺の部屋に何かがあると云っているからだ。

 何にも目をくれず、俺の部屋に向かう。

 部屋の前に着き、一度深呼吸をしてからドアを開ける。

 見た感じ、何もないように見える。

 真っ先にあの引き出しを開け、中を確認した。相変わらず、ノートの日記がズラーッと並んでいる。

 しかし、よく見ると順番が変わっていた。一冊目を一番奥に、一番新しいのを一番手前に入れておいた筈だったが、今は一番新しいのが一番奥に、一冊目が一番手前にあった。つまり、誰かがこの日記を読んだ――読んでないにしろ、誰かがこの日記に触れたと云うことだ。

 それなら――と思い、日記を取り出し、隠していた封筒を取り出した。

――ああ、やっぱり!

 のり付けしてあった筈の封筒が破られていた。

 ここで、一つの事実に突き当たる。

 あの二つの足跡のうち、片方は絶対にあいつの足跡だ。

 泥棒が日記を出して、手紙を読むか? そんな馬鹿なことはないだろう。どう考えても、あいつがこの家に来たこと以外考えられない。

 だが、あいつが家にいる気配はない。

 持っていた手紙を投げて家の中を探し回るが、やはりどこにもいない。もしや、どこかに行ってしまったのだろうか。

 ここで、やっと絶望が俺を襲った。全く考えていなかった、あいつがいない、と云う絶望が。

 最後に探しにきたリビングで膝をつき、窓の外を眺めた。

――あいつ、一体どこにいるんだ……?

 こんな雨の中、屋外にいることは考えにくい。ならば、どこか建物の中にいるに違いない。だが、そう考えてもどこの建物の中にいるのか分からない。鍵の掛かっていない他の家で雨宿りしているかも知れないし、どこかの店で雨宿りしているのかも知れない。

 記憶の中から、あいつがよく行っていたところを思い出してみるが……ない。あいつは小学校低学年以来、殆ど外に出ていなかった。それに、外に出たとしてもあいつが行き先を云うことも、俺ら親が行き先を聞くこともなかったから、全く想像が付かない。

 膝をついたまま、手をついて四つん這いになる。

 すると、自然と涙があふれ出してきた。

 何故泣いているのか、と聞かれても困る。色々――いや、沢山理由と思われる物がありすぎて、自分もどの理由で泣いているか分からないからだ。

 涙が止まると、頭がスッキリしてこれからのことを考えられるようになった。

――さて、これからどうするか。

 やれることは少ないがいくつかあった。

 一、あいつが帰ってくることを信じて家で待つ。

 二、車で探しに行く。

 三、勘で探しに行く。

 今挙げた三つぐらいだろうか。

 俺の中で一番あいつを見つけられそうなのは、二の車で探しに行く、だろうか。あいつが町を出たとは考えにくいから、おそらく町にいる筈だ。それなら、車で町を回って探すのが一番いいだろう。

 次に見つけられそうなのは一だ。確信はないが、最後の日――明日――は絶対に帰ってくる気がする。

 そして、一番見つけられないような気がするのは三だ。あいつが家にいなかった時点で、俺のメンタルはボロボロになって自分を信じられなくなってしまったからだ。

 しかし、だからと云って車で探しに行ってもしこの町にいなかったらどうするのか。そう考えると、身動きが取れなくなってしまう。どこかですれ違ったら、そう思うと本当になにもできなくなってしまう。

 だが、それで待っていて帰ってこなかったら終わりだ。

 つまり、絶対はない。必ず行動に失敗がついて回ることを覚悟して行動しなければならない。

――全く、どうすりゃいいんだ。

 絶対がないのは重々承知だ。しかし、世界は明日終わるんだ。何を云いたいかというと、失敗は許されないと云うことだ。失敗すると、もう二度とチャンスはない。

――考えろ、考えろ俺。何か、何かいい手はないだろうか……?

 分かっていた。そう考えても何も出てこないのは分かっていた。だが、祈るようにそれを考えてしまう。神に祈るようにそれを考えてしまう。

――無理なのか……。

 一度襲ってきた絶望が、もう一度襲ってきた。さらに勢力を増して。

 内臓が引き裂かれるような気分だった。俺は何も出来ずに終わるのか? そんな考えが俺を圧迫し始めたからだ。

――奇跡よ……。

 本気でそう願った。


▽△


 やっとの思いで、一四個目のバス停に着いた。俺も白狐も、体力の限界が見え始めていた。

 雨に濡れた服は重みで体力を奪うだけでなく、冷たさでも体力を奪っていった。

 それに、十三個目から十四個目のバス停までの坂が前の坂よりも急になっていた。このままだと、十六個目までの坂は相当キツくなって行くに違いない。

 さらに、時間がない。

 雲から見える太陽の力が弱くなってきていた。暗くなってしまっては登るのが危険になるし、気温も下がるだろう。そのため、なるべく早く十六個目のバス停に着かなければならない。

 しかし――。

 最初に戻るが、体力の限界は見え始めている。特に白狐の。

 白狐はこのバス停に着いたとき、殆ど倒れ込むようにしてベンチに座ったのである。おそらく、足がふらついていたのだろう。

 どうするか。

 云ってしまえば、ここからでも少し歩けば春風川に入水心中することは出来る。雨で水かさも増していることだろうし、上流に行かずともここで止まってもいいのだ。それを白狐に提案してみる。

「白狐?」

「うん?」

「ここで終わるにする?」

「え? どう云うこと?」

 ここからでも春風川に入水心中出来ることを教えてやる。

 しかし、白狐は嫌と云った。

「中途半端なんて嫌だ」

「でも、白狐体力限界でしょ?」

「もう少し休ませて。休めば大丈夫」

 数秒後、白狐が口を開いた。「ごめんね、わがまま云って」

「いや、別に大丈夫だよ」

 白狐は両手で顔を覆ってはぁ、と息を吐いた。「まだね、怖い。死ぬのが。だからさっきみたいに強がって、どうにか気持ちを落ち着かせようとしたの」

「そんなに怖いなら、心中止めてもいいんだよ?」

 白狐の目が俺をまっすぐ見た。「そうしたら、夜トはどうするの?」

「え……」

 どうするのだろうか。一人で死ぬかも知れないし、最後の日まで白狐と一緒にいるかも知れない。

「私はね、心中が、死ぬのが嫌で怖いって云ってるんじゃない。凄く変なことって云うか、SFみたいなこと云うけどさ……死後が怖いんだよ」

「え?」

「死んだ後、どうなるのか。それが怖い。

 死後の世界なんてある訳ないだろ、って皆云うけどさ、じゃああなたは一回死んで死後の世界がないことを目で見てきたの? ってならない? 本当に、絶対にないって云いきれるの? ってならない?

 誰も見たことがないのに、皆そんな物ある訳ないって決めつけてる。 でもさ、私は死後の世界があっても可笑しくないと思ってるんだよ。だって、死んだらもうこの世じゃないんだからこの世の常識は通用しない訳でしょ? だから、死後の世界があっても可笑しくないと思ってる。

 そうなると、死後の世界――まあ生まれ変わるでもいいんだけど、死んだ後にまた不幸になったら? って考えちゃうんだよ。だから……」そこで白狐は俯いてしまった。

 白狐がそんなことを云うとは思っていなかったので、多少驚いた。

 しかし、白狐の云うことはもっともだと思う。分からない物は、慥かに怖い。それが何であっても。だから、俺は白狐を安心させられる言葉をかけることが出来ない。俺だって怖いし、この目で何かを見てきた訳でもないからだ。

 では、どうしようもないと云うのだろうか? と思ったとき、亞部輪湖のときのことを思い出した。

「白狐?」

「うん?」

「亞部輪湖に行ったときに人魚とか鬼子母神の話したの覚えてる?」

「う、うん」

「その話になったのってさ、木に白いハンカチとかが結びつけられてたからでしょ?」

「うん」

「でさ、その白いハンカチとかが結びつけられてるのは何でだった?」

「私云ったじゃん、だから、鬼子母神の話から死後の世界のお祈りをするからだよ」

「そう。それで、俺らも池に願ったじゃん。その時、白狐はなんて願ったの?」

「死んだら、幸せになれますように……って」

「なら大丈夫。絶対に死んだら幸せになれるよ」

 喋ってみて、自分の幼稚さが恥ずかしくなった。池に願ったから大丈夫なんて、あまりに幼稚で馬鹿げている。

 白狐も俺の幼稚さが分かったのか、笑った。「ふふふ、夜ト?」

「何?」

「随分と夢のあること云うね」

「そんなこと云わないで、馬鹿みたいなこと云うねって云っていいよ」

 白狐は首を横に振った。「ううん、そんなこと云わない。だって、今の話しで少し安心できたもん。ありがとう、夜ト」白狐は微笑んだ。

「どういたしまして」

 それから十分程だろうか、休憩を取って再び歩き始めた。

 やはり坂は急になったままで、体力が早く奪われていく。それでも、懸命に足を動かして、着実に一歩一歩進んでいく。

「痛っ!」と、後ろから白狐の悲鳴が聞こえた。振り向くと、白狐が転んでいる。

「大丈夫か?」

 駆け寄ると、白狐は「うん、大丈夫」と云って立ち上がったが、その足は震えていた。白狐の足はもう限界だ。

 だが、まだ次のバス停は遠いし、さっきのバス停に戻るのも時間の無駄になるし気が引ける。

 それなら、やることは一つだけ。

 白狐の前にしゃがむ。「ほら、おぶってやるよ」

「え、いいよ。夜トもキツいでしょ?」

「大丈夫。亞部輪湖の時もおぶってやったろ?」

「でも……」

「いいから! おぶされって!」

 白狐は渋々と云った感じで、俺の首に腕を回した。

 スカートをどけて白狐の足を持ち、立ち上がる。雨の重みのせいか、雨輪湖の時よりも重く感じる。

 はっきり云って、白狐をおぶって次のバス停まで行ける体力は残っていなかった。だが、それでも何か責任感のような物を感じての行動だった。

 一歩一歩進む度に、さっきよりも早く体力が奪われていくのが分かる。足腰に掛かる負担が、体力ではなく体の限界を早める。

 それでも苦しいのを白狐に悟られないように、呼吸は荒くせずに普段通りの呼吸を心がける。

 しかし、体力の限界によって呼吸が徐々に乱れ始めた。

「はっ……はぁはぁ……はぁ……っ」

 呼吸が乱れ始めたのに気が付いたのか、白狐が「降りようか?」と聞いてきた。

「大丈夫、まだ大丈夫」

 半分やけくそだった。疲れに混じって怒りのような物も感じるようになったが、逆にそれがエネルギーとなって体を動かした。

 だが、体の限界には抗えなかった。

 不意に、膝裏に電気が走ったような痛みが走って立ち止まった。

 どうしたのかと聞いてくる白狐に「すまん、一旦降りて」と云って降りてもらった。

 痛くなった膝裏に触れる。膝裏に触れると、異常に硬くなっているのが分かった。

 膝裏は初めてだったのでしばらく分からなかったが、攣っているんだと理解した。それと同時に、筋や靱帯が何かなっていなくてよかったと安心した。

 足を曲げ伸ばしすると、思ったよりも簡単に攣りが治った。

 再び白狐をおぶってやろうと思ったが、もう大丈夫と首を振られたので止めておいた。

 白狐の足取りが軽やかになっていたので安心したが、今度は俺の足取りの方が重々しくなってしまった。攣りが治っても足に思うように力が入らず、足を引きずるような形でしか歩けなくなってしまったからだ。

 白狐が「ごめん、大丈夫?」と何度も聞いてきたが、その度に「大丈夫だから安心しろ」と云った。こんなことで白狐に気を遣わせたくないからだ。

 十五個目のバス停が見えたとき、安堵で倒れそうになった。


▽△


 ふと、頭にある単語が浮かんだ。

 春風川。

 一回、家族で行った川の名前だ。しかし、何故今この川の名前が出てきたのだろうか。昔のことを思い返していたからか? いや、違う。今は、春風川の頃とは全く違う時のことを思い返していた。

 では何故?

 当然誰もいないし、声にすら出していないので答えは返ってこない。

 と、そこで俺の頭の中に〝三〟が出てくる。

――もしや、俺の勘がそう云っているのか?

 だが、もしそうだったとしてそこに――春風川にあいつがいなかったらどうする? ここから川まで行って、もしいなくて帰ってきた頃にはおそらく夜だ。今日と云う大切な時間をかけて、勘を信じて春風川の向かうのか?

 止めよう。

 大切な時間を、たまたま頭の中に出てきた場所に費やすのは馬鹿馬鹿しい。やはり、車で探しに行くのがいい。

 リビングを出、玄関に向かう。

――行ってらっしゃい

 あいつの声が聞こえたような気がして、振り返ったが誰もいなかった。

 車に乗り、町を回る。

 あいつは、雨の日はいつもカーテンを開けて外を見ていた。だから、今日もカーテンを開けて外を見ている筈だ。ならば、カーテンが開いているところを探せばいい――そう考えて車を走らせる。

 だが、探せば探す程カーテンの開いている家や建物が見つかる。それに、あいつがいる気配はない。

 試しに窓を開けて名前を叫んでみるが、返事はない。

 もしや、町を出てしまったのだろうか――。

 そんな不安が脳裏をかすめる。

 一体、どこにいると云うのだろうか。どこを探せば

(春風川)

 いいのだろうか? 全く見当が付かない。やはり、

       (春風川)

 家で待っていた方がよかったのだろうか。しかし、もしそれで

              (春風川)

 帰ってこなかったらどうする? それこそ本当の終わりだ。やはり、

                    (春風川)

 動き回るのがいいのだろうか? 何の当てもなしに? ただただ

                           (春風川)

 馬鹿みたいに町を走り回るのか? ああ、分からない。一体どうすればいいのだろうか?

――春風川。

 俺の勘が叫ぶ。あいつは春風川にいると、俺の中の何かが叫ぶ。

 本当か? と自分に問うが、答えは分からない、だ。

 だが、俺の〝勘〟は瀕死の状態で殺人犯の名前を叫ぶように春風川! と叫んでいる。行かないと後悔する、と叫んでいる。

 では、行って後悔することはあるか? と問うても、答えはない。〝勘〟は、叫ぶだけで答えることは出来ないらしい。

 そうなると、俺の中で二つの〝もし〟がぶつかり合う。

 もし、本当に春風川にあいつがいたら。

 もし、春風川にあいつがいなかったら。

――考えるな、行動を起こせ。

――恐れるな、チャレンジしろ。

 受験の時に大切にしていた言葉が心の中で再生された。

――チャレンジか……。

 チャレンジ――それは春風川に行くことを意味する。そこで、不安が心を浸食し始めるが、行動を起こさないで後悔するより行動を起こして後悔をしろと自分に云い聞かせる。

 ハンドルを握る手に力が入る。

「目的地――」あえて声に出して云う。「春風川だ」

 アクセルを踏み込む。何故か俺の心は温かくなり、希望が満ちあふれ始めた。何故か、春風川にあいつがいるという確信が芽生え始めていた。

 車は雨を寄せ付けない程のスピードでアスファルトを蹴りつけた。雨でタイヤが空回り気味に思えるが、そんなことはどうでもいい。

 一度行ったから道はしっかりと覚えていて――と云うより、体が勝手に動いて運転してくれているような感じだった。まるで、飼い主の匂いがしてその匂いの方向に走っていく犬のように。

 住宅街を抜け、春風川に近づいていく。

 何分、いや何十分、いや何時間経ったか分からないが、やっと春風川下流に着いた。


▽△


 十五個目のバス停での休憩を終え、ラスト十六個目のバス停に向け歩き始めた。

 休んだおかげで足にちゃんと力が入るようになり、スピードが少し上がったように思える。白狐もラストと云う希望があるからか、歩くスピードが速くなっているような気がする。

「夜ト?」白狐が話しかけてきた。

「うん?」

「夜トは、死ぬの怖くないの?」

「え、ええっとねえ……」

「あ、夜トは死後の世界を信じないタイプ?」

 白狐に見えているかどうかは分からないが、首を横に振る。「いや、あっても可笑しくないと思うよ」

「ならよかった。で? 怖い? 怖くない?」

「まぁ、分からないことだから怖いって云うのはあるけど……。そこまで深くは考えてないかな。俺のことだから、どうせこれが人生かって諦めそうだし」

「ああー、そっか」

 ネガティヴ思考やめなよ、みたいな事を云われるかと思ったが、特に何も云われなかった。

 もし死後の世界があって神もいるとするならば、今こんなに不幸な俺は死後の世界――もしくは生まれ変わり――では幸せになれるだろう。不幸な人生の次の人生がまた不幸、なんてことがあったら、この世界には神がいないと云うことだろう。

 そんなことを話し、考えていると、急に坂が緩やかになった。おそらく、春風川上流――十六個目のバス停に近づいてきているのだ。

 しかし、坂がどうなろうと雨と風は変わらない――逆に強さが増してきているような気もする。

「あ……」と云って、不意に白狐が立ち止まった。何? と聞く前に、白狐は左側を指さした。雨の中で目をこらすと、鳥居が見えた。どうやら神社があるらしい。

 空を見上げ、太陽の明るさを確認する。これぐらいの明るさなら、まだ時間があるだろう。

「行ってみる?」と提案すると、白狐は「行く!」と即答した。

 段数の少ない階段を上がって、鳥居をくぐる。近くで見ると、鳥居が白いことに気が付いた。

 雨でよく見えないが、奥の方に何か建物のようなものがあって、そこまで石で出来た道がまっすぐと延びている。この道は坂と違って全く角度がなく平坦なので、もの凄く歩きやすい。まるで、宇宙を歩いているような気分だ。

 一分程度で奥にある建物に着いた。その建物の前には大きな鈴と賽銭箱があり、建物の扉は閉じられていた。どう見ても大きくて著名な神社には見えないから、地元の人々に愛される〝隠れ神社〟のような物なのだろう。

 鈴を見て思い出したが、神社に来たのは小学校入学以来だ。

 本当なら賽銭をして鈴を鳴らして手を叩き、お祈りをしたかったが、お金がない。

 もしや、入れ損なって……? と思って賽銭箱の裏を見るが、当然落ちていない。

「賽銭どうする?」と白狐に聞くと、「え、お金なくてもいいって聞いたことあるけど」と、聞いたことがない話しを出してきた。

「え? そうなの?」

「そうらしいよ。賽銭はあくまで権利だって」

「本当?」

「本当……だと思うけど……?」

 賽銭を入れずに鈴を鳴らし、手を叩いて――正しい叩く回数は忘れた――目を瞑り、お祈りをする。

 横からも手を叩く音が聞こえてくる。一体、白狐は何をお祈りするのだろうか。やはり、死後の世界のことだろうか。

 目を開けると、白狐はまだお祈りをしていて、俺はそれをただ眺めていた。

 白狐が目を開け、こっちを見た。「お待たせぇ」

「何を、お祈りしたの?」

 白狐はふふっと笑って、「それって云っちゃ駄目なんじゃないの?」

「大丈夫だよ」

「……まぁ、幸せになれますようにって、ね?」

 予想したとおりだった。

「夜トは? なんてお祈りしたの?」

 一瞬迷ってから、「生まれ変われるなら、その世界でも白狐と一緒にいれますように……って」

「はは、強欲だなぁ」

 そう云うと、白狐は建物の閉じられた扉に手をかけた。どうせ鍵が掛かっていて開かないだろうと思っていたのだが、予想に反して扉は開いた。

 扉の奥には少し広めの部屋があり、その奥に仏像のような物があった。

「どうせなんだし、ちょっと休んでいこうよ」

「まぁ、長居しないなら」

 一応靴を脱いで上がった。

 床は畳で、部屋と部屋を仕切っているのは襖と云う〝ザ・日本〟な部屋だった。

 部屋の真ん中辺りまで行くと、後ろから扉が閉まる音が聞こえた。白狐が、雨が入るのを防ぐために閉めたのだろう。

 そんなことを思っていると、白狐が走って俺の前まで来て抱きついてきた。甘えん坊か、と思っていると、白狐の手が服の中に侵入してきた。白狐はそのまま俺の服を捲り、腹に舌を這わせてきた。

「白狐、何、ここで?」

「うん、もうすぐ死ぬんだし、最後に……」

「いや、でも、雨でびしょびしょだし風邪引く……」

「死ぬんだから関係ないよ、風邪なんて……」

 その後、俺は白狐と一つになった。


 事後、服を着るのがもの凄く辛かった。冷たいし、第一滑りが悪くて、中々着ることが出来ない。一方、メイド服のような格好の白狐はスルッと被るように着ていた。こう云うときは、こう云ったメイド服のような物の方が着やすいのかも知れない。

 服が背中に張り付いて中々着れずに苦戦していると、白狐が手伝ってくれた。

 やっとの思いで服を着終えると、白狐が頭を下げてきた。「こんな時でも私のわがまま聞いてくれてありがとう」

 白狐に頭を上げさせ、抱きつく。「頭下げるなんてことするな。白狐のやりたいことなら、白狐のお願いなら何でも聞いてやるから」

 白狐も俺のことを抱きしめ、くすっと笑った。

「どうした?」

「何でもお願い聞いてくれるって云ったよね?」

 その声には小悪魔的な感じが含まれていて、今云ったことを後悔した。白狐なら、無理難題を押しつけてくるに違いないからだ。

「う、うん……」不安げに返事をする。

「じゃあ、目的地着くまで私のことおんぶして」

「無理です」即答する。「流石にそれはキツい。多分俺、途中で死ぬ」

「ええ? 何でもお願い聞いてくれるんでしょ? おんぶ! おんぶ!」

 子供のようにおんぶ! と繰り返す白狐。

「いや、流石に……無理だって。もうちょっと楽な物にして……」

「ええ? じゃあ、挨拶して」

「外国の?」

 グッドサインをする白狐。「当然」

 唇を合わせてやる。

「はいどうも、ありがとうございました」

「さて、じゃあ行きますか」

「りょーかい!」

 扉を開けると、再び雨と風の世界が広がった。


▽△


 坂を車で駆け上がる。

 さっき、下流を探したがあいつはいなかった。ならば、上――上流に向かったに違いない。

 坂は殆どまっすぐで、蛇行していなかった。そのため、スピードを思いっきり出すことが出来た。

 そのため、すぐに土砂崩れに突き当たった。

 しかし、俺の目が気になったのは土砂崩れではない。土砂崩れの前に止めてある車だ。

 土砂崩れは、この大雨によっておこったのだろう。それなら、この車は最近止められたことになる。

 それに、この道なら十分な横幅があるから引き返すことだってできた筈だ。しかし、車は無人でここに乗り捨てられている。つまり、乗っていた人は歩きで上流に向かったと云うことだ。

 〝勘〟が叫ぶ。あいつは絶対に上流にいる、と。

――だが、一体何故?

 そんな疑問が生まれてきた。

 何故、あいつはこんな日に川に向かっているのか。こんな雨なら、明日に見送ったっていい筈だ。明日世界が終わると云っても、早朝に終わるなんてことはないだろうから。もし明日出なくても、少し様子を見てからでもよかった筈だ。

 だが、見た感じこの車は随分――とは云っても土砂崩れの前だが――と前から放置されている。

 嫌な予感が脳裏をかすめる。

――あいつは今日、上で何かをしようとしている。

 それも、何かよくないことを。

 急いでUターンをし、一度下まで戻る。そして隣の道に入って一気に駆け上がる。少し遠回りになるが、こっちの道からでも上流に着くことは可能だ。あいつが上流にいるならそこで会えるし、まだ着いていないなら先について待つことが出来る。

 しかし、この道は遠回りかつ蛇行していて中々スピードを出すことが出来ない。もし、もたもたしているうちにあいつが何かしたら……。

 急ぎたいのに急げない、そのせいで怒りが溜まってクラクションを殴りつけた。「プー!」

「くそっ!」何度も殴りつける。クラクションがプープー鳴って五月蠅いが、怒りで五月蠅いなんて感情はどこかに吹き飛んでいた。

 S字の道を器用にハンドルを回しながら進み、次に逆S字の道が現れる。曲がる角度がさっきよりも急なため、少しスピードを落として進む。

――早く早く早く早く! 頼むから早くしてくれ……!

 そう願っても、蛇行した道は続く。

 しばらくして、上流に近づいてきたのか道が開けた。蛇行はなくなり、広い道がまっすぐに伸びている。

 思いっきりアクセルを踏み込み、車を猛スピードで走らせる。急にスピードを上げたせいで首が痛くなったが、そんなことはどうでもいい。

――あいつに会えるなら、どうでもいい……。


▽△


 外は少し暗くなってきていた。だが、周りが見えなくなる程ではない。

 少し急いで春風川上流に向かう。相当近づいてきているのか、ゴウゴウと川の流れる音が微かに聞こえてくる。おそらく、この雨で相当水かさが増して暴れていることだろう。

 上流なら流れが速くて飛び込むにはちょうどいいだろうと思っていたが、もしそこまで速くなかったらどうしようと不安になっていた。だが、今日の天候のおかげでそんな心配をする必要はなくなった。

 白狐は元気そうに俺の前を歩いている。ゴールが近いのが嬉しいのだろうか。

 と、その時、遠くから微かに車のクラクションのような音が聞こえた――ような気がした。何だ? と思って振り返ってみるが、もう雨の音しか聞こえない。雨がどこかにぶつかった音が、たまたま車のクラクションのように聞こえたのだろうか。

 白狐に聞いてみるが、「え? そんな音鳴った?」と云われてしまった。

 俺の空耳だったのか、雨の仕業だったのか、答えは分からないがまぁどうでもいいことだ。構わず進む。

 それから五分程したところで、ガードレールではないコンクリートで作られた段差が見えた。川の流れる音は、最大限まで大きくなっている。

 白狐がその段差に手をかけて、覗き込んだ。「――――――――――――!」

 川の流れる音が大きすぎて、何を云っているか分からない。白狐に駆け寄って聞く。「何て云った⁉」

「川! 着いた!」

「ああ! やっと! 着いた!」

 一音一音大声で云うのは疲れるが、仕方ない。

 俺も川を覗き込む。川の水面まではまだ距離があるが、川は雨で水かさが増して暴れ狂っている。これに落ちたら、絶対に助からないだろう。

 白狐が段差を上り、座った。俺もそれに続く。

 段差に座ったおかげで口と耳の距離が近くなり、大声で云わなくても話せるようになった。

「川……凄いね」

「ああ、暴れてる」

「冷たい……かなぁ?」

「まぁ、雨が冷たいし冷たいんじゃん?」

 白狐は川を睨んだ。「水が、私を包んで――守ってくれる」

 暗くなってきた世界では白狐の目がどんな目をしているのかは想像が付かなかった。が、おそらく、覚悟を決めているような目を――もしくは不安な目をしているのだろう。

「最後に、何かお話ししようか」そう提案した。

「お話って?」

「ええ、俺そう云うの考えるの苦手なんだよなぁ……。白狐、何か話のネタ考えてよ」

「うぅん……」白狐は腕を組んで考え始めた。

「じゃあ……死ぬ理由を語ろうか」

 そんな回答が来るとは思ってもいなかった。

「え、そんなつまらないことでいいの?」

「つまらなくなんかないよ。自分が死ぬ理由をしっかり理解して、話して終わりにしようよ」

 自分が死ぬ理由、考えればどんどん出てくる。深淵から逃げ出したい、全てから逃げ出したい、何も見たくない、何も聞きたくない、信じたくもないことを信じたくない、覚えたくもないことを覚えたくない、あの景色を見たくない、苦しみたくない、絶望したくない、堕ちたくない、自分が壊れるのを分かりたくない、何も失いたくない……。いくらでも思いつく。

 だが、それを全て云ってもまとまりがなくしっかりとした理由にならない。では、なんと云えばいいのだろう。

 この世界にいたくない? 死にたいから? そうなると、どれもこれもつまらない、軽い答えになってしまう。

――俺は、何で死にたい?

 自分に問いかけてみる。だが、まとまってしっかりとした答えは出てこない。

 空を見上げてみる。雨が目に突き刺さるのもお構いなしに、空を睨む。

 空は、何故雨を降らせているのか。

 答えは、そうなるように世界が作られているからだ。

 では、俺もそうなのか? 死にたいと思うように作られたから死にたいと思い、死ぬのか?

 いや、そうではない。これは元から作られた感情ではなく、自分がそうしたいと思った、自分で作り上げた感情だ。

「夜ト? 思いつかない……かな?」

「ああ、ちょっと考えてる。白狐が云えるなら、先に云っていいよ」

「了解。

 ええっとねぇ……私が死にたい理由は、運命が嫌だから――誰かに自分のことを決められるのが嫌だからです。

 どう云うこと勝って云うとね? ほら、私の人生って云うのは親の汚れた金で作り上げられていて、親は私をその金でコントロールしていた訳じゃん。

 そして、私の死も今私以外が作り上げようとしてるじゃん。そう、隕石だよ。隕石が私の死を作り上げようとしてるんだよ。

 そんなの嫌だ、死ぬなら自分の好きなように、好きな死に方で死にたい。だから、死にます。

 はい、これが私の死ぬ理由。次、夜トの番」

 白狐が喋っている間に、素晴らしい言葉が出てきた。これを云えば、俺の死にたい理由を全て説明できる素晴らしい言葉が。

「はい、ええっと、俺の死ぬ理由ね。

 俺の死ぬ理由は……生きる理由がないからです。

 皆、何かしら生きる理由を持ってるんだよ。夢とか、そう云うのを持ってるからね。でも、俺はそう云うのが全くなくて、逆に嫌な物――例えは皆が夢を持ってるなら俺は悪夢を持ってるんだ。

 悪夢を持ってたって、生きたいとは思わないでしょ?

 だから、俺には生きる理由がない。だから死ぬ。

 以上です」

 話し終えてみて、自分の気持ちと云う物は、こんなに短く説明できるんだなと驚き、そして落ち込んだ。短く説明できると云うことは、それだけ単純だと云うことだろう。俺の悩んで、苦しんだ日々から出した〝死〟と云う答えの説明は物の数十秒ですんでしまう程の軽い物だったのだ。

 結局、俺は最後の最後まで悲しみや、絶望を味わう人生だったのだ。なんと、なんとくだらない人生だろうか。

 白狐が雨で濡れたエナドリを差し出してきた。

「本当に、最後の一本」

 首を振る。「さっき渡してもらったのがある」ポケットから白狐に渡されたエナドリを取り出す。

 雨が中に入るのも構わずプルタブを起こす。

「乾杯」「乾杯」

 缶と缶がぶつかり合う音は、雨と川の流れる音でかき消された。

 少しぬるめのエナドリが喉を流れる。炭酸が喉を刺し、痛いが構わず飲み続ける。

 最後の一本は、微かに希望の味がした。

 缶を川に放ると、白狐もそれをまねた。

 ポケットにはまだ一本、エナドリが残っていた。白狐もまだ一本残っているらしい。

「これ、どうする?」と聞くと、白狐は暗くて見えないが、おそらくにやっと笑って云った。「シャンパンファイトならぬエナドリファイト」

「どう云うこと?」

「掛け合おう。ほら、毛布取って」そう云って白狐が毛布を取り、プルタブを起こした。

 俺も毛布を取ってプルタブを起こし、白狐と向き合う。

「じゃあ、せーので頭にかけるよ?」

 白狐の頭の上に缶を持ってくる。

「せーの!」

 缶をひっくり返す。白狐も俺の頭の上で缶をひっくり返し、エナドリが頭から垂れてくる。

「ひゃーっ!」白狐が叫んだ。

 炭酸が肌を刺激する。毛布を取ったせいで、雨とエナドリがもろに目に入る。思わず目を瞑った。

 二〇秒程でエナドリファイトは終わった。雨の中でもエナドリの匂いが漂っているのが分かる。

 白狐は頭を振り、エナドリを雨を払った。俺もそうする。

「ひゃー! 凄かったね」

「もろに目に入ってめっちゃ痛い……」

「ははは! ごめん! 目、瞑っといてって云うの忘れた」

「マジかよ……」

 白狐が抱きついてきた。「そろそろ、行く?」

 大雨、強風、濁流、夜。入水心中にはうってつけの条件が今、揃っている。

「ああ、行こうか」

 頭に巻いていた俺の毛布と白狐の毛布を結んで繋ぐ。思いっきりぐっと引っ張り、絶対にほどけないようにする。

 長くなった毛布の片方を自分の腰辺りに縛り付ける。結び目の上に結び目を作り、ほどけないように思いっきり縛る。

 もう片方を白狐の腰に回して俺と同じようにしてほどけないように結ぶ。

「ちょっ、夜ト、キツい……」

「あ……ごめん、でも、こうしないとほどけちゃうから」

「でも、これで死んでも一緒だね」

「ああ、そう云うこと」

 二人で手を繋ぎ、立ち上がる。


▽△


 さらに道が開け、いよいよ川に近づく。車のライトで照らし出された世界は、雨一色だった。どこを見ても、雨、雨、雨。

 と、そこでガソリンが切れたのか車が止まった。

――くそっ! こんなところで、運が悪い!

 こうなってしまっては、やることは一つ。

 車を降りて、走る。車に乗っていたから気が付かなかったが、ゴウゴウと川の流れる音が聞こえてくる。川は、もうすぐそこにあるに違いない。

 雨が容赦なく目に刺さり、髪を濡らし、服を濡らし、靴を濡らし、体温を奪って俺の動きを鈍くさせる。それでも、走るスピードは変わらない。瞬きをして顔を振り、雨を飛ばす。すぐに雨が目に刺さって鼬ごっこだが、一瞬でも見える景色を脳にインプットし、即座に地図を作り上げる。

 そして、耳を澄ます。川の音がどこからするのかを聞き分けるのだ。雨の音が邪魔する中、川の流れる音だけを耳で拾おうと努力する。

――ゴウゴウ……。

 川の流れる音が鼓膜を震わせる。脳はそれを高速で処理し、方角を推測する。

 まっすぐだ。まっすぐ行けば、川に辿り着く。

 もう、正気ではなかった。俺の人生における全ての後悔が俺の背中を押していた。

 俺はもう狂っている。こんな雨の中、五感を研ぎ澄ませて走るなんてどう考えても狂っている。だが、そのために俺は帰ってきたくない町――家に帰ってきたんだ。

 あいつに、最後に俺の気持ちを伝えるために。

 何か、そびえ立っている物を目が捉えた。その瞬間、足は陸上選手とかして驚くべき程の速さで動いた。

 それは堤防の先っぽだった。春風川が氾濫しないように、左右に作った堤防の。つまり――春風川に着いたのだ。

 だが、あいつは見当たらない。それは当たり前だ、違う道から来たのだから。

 選択肢は右か左だ。

 そこで思い出す。俺が入った道は、あの車があった道の左側にあった道だ。つまり、ここから右に進めばあいつがいるに違いない。

 早送りと思われる程速く方向転換をし、走る。左手側の川がゴウゴウと鳴いている。


▽△


 握った手のぬくもりを感じながら、川を見下ろす。川は暴れているようにも見えるし、俺らを招いているようにも見える。

 頭に巻いた毛布を取ったから、もろに目に雨が突き刺さる。目を瞑り、音を聞く。

――ゴウゴウゴウゴウゴウゴウ……。

 なんと心地よい音だ。全てを飲み込んでくれる、素晴らしい音だ。

 川の水と水がぶつかり合って、高々と飛んだ。その水が、俺らに降りかかる。それを待っていたかのように、俺らは一歩前に出る。そして、もう一歩。

 あと一歩前に出れば落ちると云うところまで来た。風が下から吹き上げてくる。その風がまた、心地よい。俺らをどこかへ連れて行ってくれそうだ。

 誰も、俺らを引き留める奴らはいない。後ろから俺らを引っ張る邪魔者はいない。

 白狐の手が震え始めた。

「怖い?」

「怖くはないんだけど……緊張するね。何か……ゾクゾクするって云うか……」

「ゾクゾクって、そろそろいいことが起こりそうなときに使うんじゃないの?」

「え? 緊張で背筋がゾクゾクするって云わない?」

「云う……のかなぁ?」

 白狐はふふっと笑ったが、手の震えは治まっていない。

「何すれば、震え収まる?」

 白狐は悩むことなく答えた。「ハグして」

「……何、もしかして寒いの?」

「うぅん、それもあるな」

 手を離して白狐に抱きつく。やはり寒いのか、体自体が震えていた。

「ふふ、安心するにゃぁ……」

「にゃぁって、猫かよ」

「ああ、じゃあ安心するコン、かな」

「コン?」

「だって白狐、しろぎつねだもん」

「なるほどね」

 しばらくすると、白狐の震えは収まった。

「ありがとう、もう大丈夫」

 よかった、と云って離れた。見えない筈なのに、白狐は笑っているように見えた。

「うぅん、私たちって何か未完成な感じがするよね」

「全てにおいて未完成だよ。完成した物なんて一つもないよ」

「でも、その未完成なところがいいのかもね、子供みたいで」

「そうだね。まぁ、現に子供なんだけどね。

 うぅん、いいな、未完成って。気に入ったかも知れない」

「あら、よかったね」

 再び白狐の手を握りしめる。

「……じゃあ、そろそろ行くよ。心の準備はいい?」

「いいよ。あ、名前教えるの忘れないでね」

 そうだった、と思い出した。

 だが、普通に「俺の本名は――」と云っても面白くない。少し巫山戯て云う。

「一レーン、篠原俊也!」

「あ! しから始まる名字、篠原もあった! あーあ、すっかり見逃してたよ……。俊也って云うんだね、かっこいい!」

 何だか照れくさくなって、せかす。「ほら、白狐も云って」

「えぇっと……何レーンがいい?」

「隣じゃなくていいの?」

 白狐は笑って云った。「隣がいい」

 すぅっと白狐が息を吸う音が聞こえてくる。

「二レーン、桃瀬結衣!」

――ももせ、ゆい……か。

 昔俺が思いを寄せていたこの名前がゆいだった、なんてことはどうでもいい。

「……えぇ、無反応?」白狐――いや結衣がツッコんできた。

「ああ、ごめん。えっと、何て云えばいいんだ?」

「ふふ、夜ト――あ、俊也、不器用だね」

「不器用じゃねぇし」結衣になんと云われたか思い出す。「結衣って云うんだね、かわいい!」

「私の台詞パクっただけじゃん、やっぱ、俊也不器用」

「五月蠅いなぁ、仕方ないだろ」

「ま。そう云うところが可愛いんだけどねぇ?」

 再び川に向き合う。

「どうする? 飛び込むか、倒れる感じで行くか」

「せーのでわーお! で行こう!」

「……それって結局どっち?」

「せーのでジャンプしてわーおって落ちてく」

「ジャンプね、了解」

 雨が目に突き刺さるが、もう瞬きはしない。


▽△


 雨が鼻から入り、思いっきり噎せる。それでも走るスピードは変えない。足の回る速さも落ちない。

 肺は随分前から限界を迎えているが、体は動いている。もしかしたら、俺の体は超人と化しているのかも知れない。今なら、フルマラソンで一位を取れそうだ。

 雨で額に張り付いた前髪を手で払い、目を見開く。どこにあいつがいるのか、それを処理できるのは目だけだ。今、目に大量のエネルギーが流れ込む。今鏡を見たら、おそらく自分の充血した目を見て驚くのだろう。

 川の水が堤防にぶつかったのか、高々と飛んできた。水には泥や砂が混じっていて、それが口に入ってジャリッと音を立てた。

 その時、目ではなく耳が何かを捉えた。

「………………わーぉ……………………」

 それは人間の声だった。絶対に雨や川、木々の音ではなく人間の声だった。

 しかし、それは女の声だった。あいつの声ではない。

――もしや、あの車はあいつの物ではなかったのか?

 今思えば可笑しな話しだった。第一、中学生のあいつが車を運転できたのか? 考えれば考える程に嫌な予感が湧き出てくる。

 一方で、事実を上手くつなぎ合わせてポジティヴな方向の考えも出てきていた。

――足跡が二つあったと云うことは、あいつは誰かと一緒に行動しているのかも知れない。ならば、その相方が車を運転したのかも知れない。ああ、それなら辻褄が合う。

 では、今の声は相方の声か?

――ならば……!

 そう思った瞬間、前方に堤防に立つ二人の陰が見た。

 大声で叫ぶ。

「俊也ぁーーーーーーーー!」


▽△


 どちらかがせーのと云った訳ではない。川を睨んでいて、なんとなく今かなと思っただけだった。しかし、結衣もまったく同じタイミングで飛んだ。

 そして、なんと飛んだ方向も一緒だった。どちらも前に飛ばず、上に飛んだ。

 足を支える物がなくなり、体が軽くなる。一瞬時間が止まったかのように思えた。

 そして、重力が働き始めた。体が風を感じながら川へと落ちていく。落ちていく際の風と吹き上げてくる風が重なり、耳元でビュウビュウと唸る。

 そんな中、俺の耳は声を捉えた。

「俊也ぁーーーーーーーー!」

――誰だ?

 そう思ったときには、既に水の中にいた。

 水の中で上を向くと、さっき俺らが立っていた場所に誰かが立っていた。

▽△


 陰が消えた。と同時に派手な音が鳴り響いた。

「バッシャァ……」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。慥かにそこにいた筈の二人の人間が、消えてしまったのである。謎の音とともに。

 しかし、俺の脳は即座に情報を処理して今起こったこと――事実を俺に伝えた。

――落ちた。

 二人は、川に落ちたのである。

 何も考えずに堤防によじ登る。黒々とした水と水の間に、人が見える。暗くて見えない筈なのに、その人がこっちを見ているのが分かる。

――俊也だ……。

 顔が見えなくとも分かった。あれは俊也だ。

 もう一度叫ぶ。「俊也ぁーーーーーーーー!」

 もう一度。「俊也ぁーーーーーーーー! 俊也ぁーーーーーーーー!」

 堤防を降り、流れていく二人を追いかけるようにして駆ける。

「俊也ぁーーーーーーーー!」

 声がかれたっていい、限界まで声を張り上げる。

 俊也が手をこちらに伸ばした。当然、俺はその手を掴めない。


▽△


 声に、聞き覚えがあった。どこかで聞いた――だが最近聞いていない。いつか、昔に聞いた声。

――お前は俺の子供じゃない!

 一緒だ。あの声と――父さんの声と一緒だ。

 川の水が声を出そうとするのを妨害する。口に水が流れ込み、盛大に噎せる。泥水が目に入って目を開けることすら出来ない。

 だが、父さんに云いたいことがあった。どうしても、最後に云いたいことがあった。今会えたなら、最後に伝えなければならないこと。

 右手を父さんに向けて伸ばす。

「つ……っ父さん……!」

 口に入ってくる水を、声を発する息で外に押し出す。

「ぐっ……ごめん!」

 そう云った瞬間、体が思いっきりぐいっと引かれた。毛布の先を見ると、結衣が俺よりも先に流されていた。

 父さんに云いたかったことはもう云えた、後は結衣と最後まで一緒にいるだけだ。

 毛布を掴んで思いっきり引く。思うように息ができず、上手く力が入らないが結衣は徐々に引き寄せられていった。

 やっと結衣が近くまで来た。目はまだ開いていて、口をパクパクさせている。どうやら、何かを云おうとしているらしいが水に邪魔されて言葉になっていない。

 だが、考えれば結衣が何を云おうとしているかは分かる。

「俺の!」水を吐き出して叫ぶ。「父さんがいた!」

 驚きで結衣の目が見開かれた。

「父さんに云いたいことは云った! 後は! このまま結衣と一緒にいるだけだ!」           

 結衣を抱きしめる。。

 口に水がどんどん流れ込み、いよいよ息ができなくなる。それでも、結衣を抱きしめる腕に込めている力は緩めない。

 不意に、結衣が「そ、そ……ら……」と云って目を閉じた。腕はだらんと垂れ、目は閉じられている。が、密着している体から鼓動を感じられるから気絶したのだろう。

 結衣を抱きしめたまま後ろを振り向く。

――な……⁉

 空が真っ赤に染まっていた。夕日ではない。あの隕石が光っているのである。おそらく、大気圏に侵入して燃えているのだろう。

 だが、あの大きな隕石はない。ちりぢりに砕けた、小さな隕石達が一個一個光っている。そう、流れ星が大量発生したような感じだ。

 どう云うことだ?

 そう思ったところで、世界が真っ暗になった。


▽△


 ごめん……だと?

 あいつは俺にごめんと叫んだ。流されながら、ごめんと叫んだ。

 自然と足が止まった。

 動けなかった。

 何故あいつが俺に謝るんだ? 謝るのは俺の方なのに。

 あいつは、死にそうになりながらごめんと云った。

 何故だ? 何故なんだ?

 頭の中が混乱する。もう、何が何だか分からない。

 と、その時、爆音とともに背後から赤い光を感じた。振り向くと、空が赤に染まっていた。当然夕日の色ではなく、どこかで火事が起こっている訳でもない。

 隕石――いや隕石達が赤く燃えていた。大きな隕石が粉々に砕け散り、その一つ一つが大気圏に突入して赤く燃えていた。

 大量の赤い光が、一つ、また一つと消えていく。大気圏で燃え尽きているのだ。

 燃え尽きずに落ちていく物もあるように見えるが、その大きさは小さいように見え、地球に害を及ぼす大きさとは考えられない。

 まるで赤く染まった銀河だった。

――もしかしたら、地球は終わらないのでは……?

 そんな希望のような、絶望のような考えが浮かんだ。

 ここで、あいつのことを忘れていることに気が付いたが、振り向いても既にあいつは流れて見えなくなっていた。

 雨はザアザアと降り、風はビュウビュウと唸りながら吹き、空は赤く染まっている。

 あ、ありがとうって伝え忘れた――そう思ったところで記憶が途絶えた。

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