▽残り二日

 誰かに耳を撫でられているような気がする。いや、撫でられているのだろうか。何だ? フーッ、フーッと音がする。

 何だか怖くなって、ガバッと起き上がった。

「痛っ!」

 えぇっと、そうだ、白狐の声が聞こえた。どうも、寝起きだと人の名前を思い出すのが遅いらしい。

 だが、何が痛いんだ?

 振り返ると、白狐が顎を押さえていた。

「おふぁおう」顎を押さえているためか、ちゃんと発音できていない。

「おはよう」そして、何故顎を押さえているのか聞いた。「顎、どうしたん?」

「うぉるふぉもあふぁまぐぁあつぁっつぁ」

「夜ト――俺の頭が当たった?」白狐が頷く。どうやら、起きたときに俺の頭が当たったらしい。

 いや、しかし、何故俺の頭の上に白狐の顎があったんだ?

――耳を撫でられているような……。フーッ、フーッ。

 そこでやっと答えが出る。

「白狐、俺の耳に息吹きかけてたな?」白狐は顎を押さえたまま頷いた。「子供じゃないんだからさぁ……」

 白狐は何度か顎を擦ると、手を離した。「心は子供のままだよ」

「知ってた」

「あっそう」

 ところで――と始めて、定番の「今日どこ行く?」と聞く。

「えぇっとさ?」

「うん?」

「私たちが死ぬのって、明日だよね?」

「え? 明後日じゃ……」と、そこで明日心中することを思い出した。「あぁ、そうだった」

「でさ、入水ってのは海? 川? それとも湖?」

 そこで俺がぱっと思いついたのは亞部輪湖だった。四日前に行ったからだろう。

 だが、何かが違うような気がする。湖ではない気がする。何か、何かが違う。

 海も違う。湖も海も、何か、何かが違う――どこかしっくりこない。

 やはり、太宰治に影響されているのか、思いつくのは川だった。

 すると、その情景が思い浮かぶ。

 俺らは川の近くに立っている。前にあるのは、荒れ狂う川。水が竜のようにうねり、爆音とともに流れていく。いつしか水は泥を含むようになり、色が茶色く濁る。足に大量の水が飛んで靴とズボンがびしょびしょになり、バランスを変えると靴がグシュッと鳴る。

 白狐の手を握りしめ、目を瞑る。水の鳴く音だけが耳を通して俺の中に入ってくる。

――グォォ……。

 いつもならさらさらと流れ、石を投げるとボチャッと鳴る川はもうそこにはない。全てを飲み込む、大きな口と化している。

 目を開く。水が――いや、俺が水を求めている。

 足が自然と動く。自然と――川の方へ向かう。白狐も横に並んで歩いている。

 足が川の縁を捉える。あと一歩踏み出せば、俺は水に包まれる。

 半歩、前に踏み出した。足の半分が捉える地面をなくし、空中でさまよっている。踵は、さらに半歩踏み出したいのを堪えている。

 白狐も半歩踏み出した。もう、どちらかがバランスを崩せば川に落ちる。

 白狐に聞く。「準備OK?」

 白狐は微かに笑いながら頷く。

 俺らはせーの、と云わないのに、ぴったりのタイミングで川に向かって飛ぶ。

 一瞬体が浮いたかと思うと、足から順に水に飲み込まれていく。

 そして、世界は暗くなる。

 濡れた靴が重しになり、体は浮かばずにゆっくりと沈んでいく。

 息が続かなくなり、口を大きく開く。多少の気泡が口から出、そして大量の水を体内に取り込む。苦しみで意識が遠のく。

 握っている白狐の手を引き、抱きしめる。

 白狐も弱々しく俺を抱きしめ返してくれる。

 口と鼻から、大量の水が体内に流れ込む。もう、腕に込める力を維持できない。それでも、俺は精一杯白狐を抱きしめる。

 どこにあったのか、口から再び気泡が出てきた。

 体の感覚がなくなる。今まで冷たいと思っていた筈なのに、その感覚は消え去っている。死んだのか? と思ったが、まだ指を多少動かすことが出来るため、生きているに違いない。

 そう思っているうちに、意識が遠のく。今、自分がどこにいるのかすら分からない。そして……。

「夜ト⁉ 聞こえてる⁉」

 と、そこで想像の世界から抜け出した。

「あ、ああ、ごめん。聞こえてる」

「まぁた何か、考え事してたの?」

 考え事と云えるのかどうかは分からないが、「まぁ、そんなもん」と答えておく。

「で? どこがいいの?」

「川」

「あはは、それじゃ完璧に太宰治のコピーじゃん」

「いいじゃん、俺はそれがいいんだから。

 じゃあ、白狐は? 白狐はどこがいいの?」

 白狐は腕を組んで考えていたが、結局出た答えは「川」だった。

「ほらぁ、白狐も川じゃん」

「夜トにつられただけだし!」

「あれまぁ」

 それで――、「それがどうしたの?」

「え?」

「死にたい場所が、何か関係あるの?」

 忘れていたのか、白狐は「ああ!」と云って話し始めた。

「いや、だからさ。川と云ってもいろんな川があるじゃん。今日と明日の夜まで時間があるんだからさ、死にたいところを探しに行くのもいいんじゃないかな? って」

「ああ、そう云うこと……」と云いつつも、俺は既に死にたい川を考えていた。

 俺が昔行った川……春風川。

 春風川は、母と一緒に――いや家族全員で県を超えて出掛けた最後の場所だ。慥か、俺が川に行きたいと云ったのがきっかけだったと思う。

 父さんが車を運転して、母は助手席に、俺は後ろに乗っていた。

 父さんは、カーナビも見ずに車をどんどん走らせていき、あっという間に春風川に着いた。

 当然、俺らが行ったのは下流の方の、浅くて流れの遅いところだった。だが、小さな俺にとっては十分なところだった。

 行ったのが夏だったので、シャツと半ズボン姿になって川に入った。川の水は、慥か俺の膝くらいまであった。

 今でも鮮明に覚えているのは、川の広さと水の透明さだ。

 広さというのは、横幅のことだ。俺が小さかったと云うのもあるかも知れないが、予想以上に横幅が大きかった。

 そして、水の透明度だ。川を覗くと、沈んでいる石に付いている小さなゴミさえ見える――まるでガラスのような透明度だった。

 夕方頃になって帰ることになり、ふてくされながら車に乗って家に帰った。

 そして、それから母が自殺するまで家族三人で出掛けたことはなかった。

 そんな〝いい思い出〟の場所で心中をするなんて変かも知れない。可笑しいかも知れない。

 だが、だからこそ――なのかも知れない。

 いい思い出がある――だからこそ、そこに骨を埋めるのかも知れない。当然、悪い思い出があるところで死にたくはない。

 しかし、そんな悩みも一言で片付いた。

――どうせ終わる世界なんだから。

 そうだ、どうせ終わる世界なんだから好きなようにやっていいだろう。

「じゃあ、行きますか」

「行きましょう」

 デパートを出る。


 白狐に春風川のことは云わず、あくまでも「知らない川を探す」を演じる。

 春風川へ行く道は知らないが、どっち方面かは覚えているから走っていれば何かしらの標識があるだろう。

 車から見える町並みは都会のようだった。色々な店が建ち並び、高い建物が並んでいる。俺の町の近くにも、こんなところがあったんだなぁと驚く。

 途中の分かれ道で左側に進むと、都会らしさは一気に消え去って住宅街になった。二階建て――たまに三階建て――の家が建ち並び、狭い土地をさらに狭くしている。それに、住宅街あるあるなのか、隣り合っている家がまるで鏡に映したかのように似ている――と云うより一緒だ。

 これでは、引っ越してきたばかりの人はどれが自分の家か分からなくなってしまうではないか、と思うのは俺だけなのだろうか。

 住宅街を抜け、大通りのような場所に出る。市役所らしき物が見えるから、おそらく「市役所通り」とか云う名前が付いているのだろう。

 そこをまっすぐ進み、再び現れた分かれ道を今度は右に進んだ。

 途中で車を止め、コンビニで食べられるものを取って車に戻る。

 賞味期限ギリギリのおにぎりを口に放り込むと、アクセルを踏み込んだ。

 前のところとは違って開いた状態の踏切を越え、再び住宅街に入る。

「あ!」と、白狐が叫んだ。また何かを見つけたのだろうか。

 ブレーキを踏む。「どうした?」

「あれ……」そう云って白狐が指さしたのは学校だった。

 見た目からして私立だが、小学校だろうか、中学校だろうか、そこまで詳しくは分からない。

 目をこらして見ると、「開成中学」と書かれた垂れ幕のような物が見えた。これは俺の偏見だが、私立には「開成」が付きがちだ。

「学校……だけど、それがどうした?」

 何か特別な意味があるんだろうと思っていたが、白狐の云った言葉は「行ってみたい……」だった。

「何で?」

「いや、何か学校って長い間行ってないと行きたくなる……じゃん?」

「ま、まぁ、分からなくもないけど」

 すると、白狐は学校を指さして云った。「行こう!」

 慥か、こんなポーズをしながら「行こう!」と云っているゲームキャラがいたな、と思いながら、車を学校に向けて走らせた。

 今いた道から垂直に延びている道に入り、直進して突き当たりを左に曲がって、さらに突き当たりを右に曲がる。そこを再び直進して行き、学校の前にある駐車場を突っ切って学校前に着く。

 車から降り、正門を開ける。ガラガラ、もしくはガランガランと鳴りながら入口の――何の云うのかは知らない――物が開く。

 車に戻り、校内に入る。

 少しの坂道を過ぎると、右手側に砂利の駐車場が見えた。ハンドルを右に切って駐車場に侵入すると、ジャリジャリと砂利とタイヤがこすれる音が聞こえてくる。

 当然他の車が入ってくる訳がないので、引いてある線なんか気にせず駐車する。

 車から降りて見てみると、車体は綺麗に二車両分の駐車スペースを浸食していた。

 白狐が駐車について色々云ってきたが、どうせ誰も来ないんだから、で一蹴した。

 正門を閉める暇はあったのに、昇降口の鍵を閉める暇はなかったのか、昇降口の鍵は掛かっていなかった。

 扉を押すと、流石私立と云ったところか、何の音もせずに静かに開いた。市立、県立とは違って、やはり建て付けがいい。おそらく、建物内の設備も恐ろしい程いいのだろう。

 下駄箱には、もう使われなくなった上履きがあるべき場所に入っていた。一体、この学校に通っていた子供達はどこに行ったのだろうか――そんなどうでもいいことを考えてしまう程に――俺にとっては――上履きがズラーッと並んだ下駄箱は不気味に見えた。

 下駄箱を抜けると、突き当たりの壁の左側に「管理棟」、右側に「教室棟」と書かれていた。

「どっち行く?」と白狐に問うと、白狐は「当然教室棟」と云った。何が当然なのかは分からないが。

 右に曲がると、また突き当たりだった。左を見ると、用具置き――物置のような部屋が並んでいた。一方の右には階段があり、おそらく二階から教室があるのだろう。

 再び右に曲がり、階段を上がる。動かなくなったデパートのエスカレーターとは違い、一段一段の高さが低いので比較的登りやすかった。

 二階に着いた。

 二階を覗くと、果たせるかな、そこには教室が並んでいた。教室の名札を見ると、「3-2」と書いてある。どうやら、二階は三年生のフロアらしい。

 教室の前の扉から中に入ると、二度と使われることのない机達が、きちんと揃えられて並んでいた。よく見ると、まだ机の中には教科書やファイルが入りっぱなしの机もある。

 こう云う光景を見ていると、自然と自分の学生時代を思い出す。いつも真ん中辺りの席で、本を読んだり、仲良しとだべっていた日々が脳裏に浮かぶ。

――あの日々はどこに行ったのだろうか……。

 隕石によって消え去った――答えがしっかりと分かっているのにそう考えることを止められない。どうしても〝何故〟と考えてしまう。

 すると、後ろからカッカッと云う音が聞こえてきた。何かと思って後ろを見ると、白狐が黒板に何かを書いていた。

「何書いてんの?」

 白狐は振り向いた。「いや、何か先生の立場になってみたかっただけ」

「じゃあ、俺が生徒になろうか?」具体的に何をするか考えていた訳ではなかったが、自然とそう云っていた。

「え、じゃあお願い。じゃ、そこの席に座って」白狐は一番前の席を指さした。

 二度と使われない筈だった机と椅子を、最後に俺が使うことになった。白狐に指された席に座る。

 白狐は教卓に両手をついて、云った。「はい、じゃー起立!」

 立ち上がって、椅子をしまう。「気をつけー、礼っ!」

 礼をして、云う。「お願いします」

「はい、お願いしまーす」

 椅子に座ると、白狐は俺に背を向けてチョークを持ち、黒板に何かを書き始めた。俺の席からだと、ちょうど白狐が邪魔で見えない。体を横にずらして、どうにか読もうとする。しかし、全く見えない。どうやら、わざと隠しているらしい。

 諦めてしばらく待っていると、不意に白狐が振り向いた。

「はい、今日はですね、こちらの単元を学習していきたいと思います!」

 そう云って白狐は、さっき書いた物を指さした。

 そこで俺は吹き出した。何故か、黒板にはこう書かれていたのである。

[男子生徒必見! 女子生徒がされて喜ぶこと!]と。

 挙手をした。「ん? はい、夜ト君。どうしたの?」

「あの、先生……。今日はどう云った授業なんですか?」

 白狐はふふふ、と笑って「書かれたとおりのことをやるだけです」

「それって、やる必要あるんですか?」

「あるよ! だって、夜ト君? モテたいだろう?」

 別にそうは思わないが、とにかくそう云うことにしておく。「まぁ、そうですね」

「それならこの授業は必須でしょ? よし、じゃあ授業を始めようか」

 どう考えてもやる必要のない授業だが、とにかく頷いておく。

「はい、そう云う訳で……?

 と、ここで夜ト君に質問です。夜ト君は、女子がされて喜ぶことが分かりますか?」

「ええと、頭を撫でる……とか?」

「おお! 分かってますねぇ」白狐が頭を撫でる、と黒板に書く。「そうですね、頭を撫でられると女子は嬉しいと思う人が多いです。

 あとは?」

「うぅん……ハグ……とか?」

「はいはいはいはい!」ハグ、と書き足す。「いいよ、夜ト君! まだあるかな?」

 思いつく限り――俺が思う――女子が喜ぶことを云っていき、殆どが正解と見なされて黒板に書かれていった。

「では、ひとまずこの辺にしておきましょうか。ふんふん、夜ト君は意外に女子のことをよく分かっていますね」

 意外に、と云うところで「は?」となったが、特に触れずに白狐の話を聞く。

「そうですね……ではやってもらいましょうか!」

 やってもらう……?

 最初は意味が分からなかったが、やっと分かった。白狐は普通に授業がやりたかったのではなく、今俺が上げていったこと――女子がされて喜ぶことをしてもらうためにこの授業をやったのだ。

 手を上げて云う。「先生と生徒の過度な接触は犯罪です」

「大丈夫です! この学校に法律はありません!」

「せんせー、お腹痛いんで早退します」そう云って席を立ち、教室を出ようとする。

「ちょっ! 夜ト、ごめんて、出て行かないで」白狐が袖を掴んできた。

 振り向くと白狐の顔が俺の首辺りにあり、少し見上げる形で俺のことを見ていた。気のせいか、前よりも身長が伸びているような気がする。もしや、洋服のせいだろうか。

――少しぐらい、喜ばせてやるか。

 体を白狐の方に向け、ビクッとした白狐にそのまま抱きついた。

 白狐の顔が首に限りなく近づき、息が首をくすぐった。

「ふぇっ⁉」時間差で白狐が叫び、耳が痛くなった。「え、夜ト……? どうした?」

「女子が喜ぶ事……でしょ?」自分が出来る限りで、優しい感じで云ってやった。これも、さっき云った女子が喜ぶことの中に入っている。

「う、うん……。え、夜ト、急に……優しいね」

「俺はいつも優しいよ」

「ははは、自分でそれ云う?」緊張、もしくはドキドキしているのか、白狐の心音が伝わってきた。もしかしたら、白狐は本当に乙女なのかも知れない。

 次は、ハグをしたまま頭を撫でてやる。殆ど髪を洗っていないにも拘わらず、初めで会ったときと同じようにさらさらしていて綺麗で、指でとかしても引っかかったりせずに抜けた。

「ふあぁ……」気が抜けたのか、白狐は変な声を出した。

「白狐ってもしかして、甘えん坊……?」

 白狐は棒読みで答えた。「えっ、そ、そんなことないよー」

「図星だな」

「うぅ……仕方ないでしょ、そう云う性格なんだもん」

 首を振る。「誰も駄目なんて云ってないだろ」

「えー、ほんとに?」

「だって、俺だって白狐に頭ポンポンされるの好きじゃん」

「まぁ、そうだけどさ……」首を捻る白狐。どこか納得がいかないらしい。

「何がそんなに引っかかるの?」

「あのさぁ……」髪を指にかけてくるくるとねじる。「何か、知らないけど私ってお姉さんキャラらしいからさ……夜トにそう云われるとどっちか分からなくなっちゃうんだよ……」

 どうやら、白狐は「これ」と云うレッテルを貼られると自分がそうであると思い込んでしまうらしい――もしかしたら「これ」であろうと行動しているかも知れない。

 だが、それはただ貼られた〝レッテル〟に過ぎない訳で、それが白狐自身という訳ではない筈だ。現に、白狐は甘えん坊なのに「お姉さんキャラ」と云うレッテル――現実と真反対のレッテルが貼られている。

「白狐」

「うん?」

「それはさ――」今思ったことを全て云う。

 全て聞き終えた白狐は、でもさ……と始めた。「そのレッテルが貼られた時点で〝こういう人〟って云う〝イメージ〟がもう定着しちゃってる訳じゃん。だから、それを覆すのは難しいんじゃない?

 それに、どう感じるかは人によるじゃん」

「それならなおさらだよ」

「え?」

「人がどう思うかは人それぞれなんだから、白狐が思う自分であればいいんじゃん。「お姉さんキャラ」なんて云うレッテルなんて放っておいていいんだよ」

「……つまりどう云うこと?」

「ああ、話がぐるぐるしたね。ま、簡単に云えばレッテルなんて気にせずに、自分が思う自分でいればいいんだよ」

「そう……だね、分かった。てか……」

「うん?」

「そろそろ、離してくれる?」

「あ……」ここで、白狐を抱きしめたままにしていたことを思い出した。

 ごめん、と云いつつ腕を放すと、今度は白狐が抱きついてきた。

「ちょっ、何なんだよ? 離してっていったのは白狐だろ……」

 白狐は聞こえないふりをして、腕に力を込めてくる。「それなら……思いっきり甘えていいんでしょ?」

「うぅん、俺も甘える側なんだけどなぁ……」

「じゃあ夜トも私のこと抱きしめれば?」

 云われたとおりに白狐を抱きしめてみるが、やはり甘えている気分にはならない。どちらかと云えば、彼女を守っている優しい系彼氏のようだ。

 だが、これは身長のせいだ。おそらく、白狐の方が身長が高かったら俺が甘えているような感じになるのだろう。

 しかし、身長のことはどうにもならない。一体どうすれば甘えている感じになるのだろうか。

「なぁ?」

「うん?」

「やっぱ……頭ポンポンされるのが一番甘えてる感じになると思うんだが……」

「じゃあ、やる?」

「え、いいの?」

「いいよいいよ、えーっと、しゃがんで?」

 その場でしゃがむと、目線がちょうど白狐の太ももあたりになった。白狐が膝立ちになり、ちょうどよくなった高さ――俺の顔が白狐の胸あたりにある――になったところで抱きついてくる。そして、頭をポンポンしてくれる。

「……安心する……」

「ふはっ、可愛いかよ」

 白狐の匂い――服を変えても変わらないから、白狐の匂いだと思う――が鼻腔をくすぐり、何故か眠くなってくる。

「白狐ぉ、眠くなってきたぁ……」

 すると、白狐は強めに俺の頭を叩いた。「こらっ! 居眠りは許しません!」

 どうやらまだ先生と生徒の設定はまだ続いているらしい。

「まだ……白狐は……先生……なの?」眠くて、言葉が途切れ途切れになる。

「いや、もう違うよ。だって、ここで夜トが寝たら大変じゃん。置いていくよ?」

「白狐……車……運転……出来ない……だろ?」

「出来るよ! 多分……」語尾がどんどん小さくなっていく時点で、もう自信がないところが見え見えだ。

「ちょっと、本当に寝ないでよ?」

「や……ばい……ほんと……に……眠い……」

「仕方ないなぁ……夜ト、靴と靴下脱がすよ?」

 眠すぎて返事が出来ず、ほんの一ミリ程度首を縦に振ることしか出来なかった。

 白狐は云ったとおり俺の靴と靴下を脱がした。そして、足の裏をすっと撫で……思いっきり押した。

 その瞬間、足に電気が走った――と思う程の痛みが襲ってきた。

「いっっっっっっっっっっだあああぁぁぁぁ⁉」

 眠気は一瞬で吹き飛び、閉じかけていた目からは涙が出てきた。

「ふぅ、やっと起きたね」

 起きた――起きた、そう、起きれたのだが……何故? と考えてしまう。何故あんなに痛かった? 何故涙が出る程痛かった?

 別に足に何か傷があった訳ではないし、白狐が何かを持っていた訳でもない。現に、足から血が出ている様子もない。

 何が起こったのか分からない顔をしていたのか、白狐が説明をしてくれた。

「ふふふ、ツボだよ、足裏のツボ」

「え、あ、ああ……ツボ、ツボか……」

 納得した。慥かに、ツボ押しは相当痛いと聞く。それに腰のツボなどは分かりにくいが、足の裏のツボは分かりやすいのだろう。

「多分、二、三分立てないと思うから、座って。履かせてあげる」

 云われたとおりに座ると、白狐が靴下と靴を履かせてくれた。

「いや、俺だから……多分立てる」

 本当に? と云われたことを気にせず、ツボ押しをされた右足を立てて力を入れる。

 と、その瞬間、足の親指が内側に曲がった。まるで、足が攣ったかのようだったが、痛くはなかった。そこ代わり、全く力が入らない。無理矢理立とうとするが、やはり力が入らず、倒れかけた。

「ほらぁ、まだ無理だって」

「ああ、無理っぽい」

 大人しく座った。

 白狐は黒板消しを持ち、黒板を綺麗にしていった。

 途中で黒板消しが汚くなったのか、廊下に出て行った。

「白狐ー! 黒板消しクリーナー使えないぞー!」

「分かってるー!」

 しばらくして窓が開く音がし、パンパンと黒板消しを叩く音が聞こえてきた。

 三分程して、白狐が戻ってきた。

 そろそろ立てるかな、と思って右足を立てて力を込めると、すっと立ち上がることが出来た。

 黒板を消している白狐は、立ち上がった俺に気が付いていないようだった。

 そろそろと歩き、白狐との距離を詰めていく。黒板と黒板消しがこすれる「キュイキュイ」と音が聞こえてくる。白狐はまだ俺に気が付いていない。

 腕を伸ばせば白狐に届く位置まで来た刹那、白狐が振り返って黒板消しを俺の顔の前で叩いた。

「ぐっ、ゲホゲホゲホッ、ウヴンッ……ゲホゲホ……」

「ははは! ひっかかったぁ。もう、分かってるに決まってるでしょ? 夜トの考えてることはもう大体分かるんだからね!」

「ゴホッ……凄いな、よく分かったな」

 白狐から黒板消しを一つ受け取り、噎せながら黒板を消す。当然、一度擦っただけでは消えないので、二回、三回と擦る。

 黒板を消しながら「この後、どこ行く?」と、俺が聞くと、白狐は少し考えてから「職員室しかないでしょ」と、ドヤ顔で云った。

「何で?」

「え、夜ト、忍び込んでみたいと思ったことないの?」

「あー、なるほどね」

 まだ完全に綺麗にはなっていないが、黒板消しを置き、教室を出る。


 渡り廊下を通って、教室棟から管理棟に行く。

 流石私立、何もかもが綺麗だ。窓ガラスは透き通っているし、試しに開けてみると全く突っかかりもなく開く。

――全部の学校がこんな感じだったらなぁ……。

 とは云っても、そんなこと無理だ。

 私立は学費が高いが、その分設備がいい。公立は無料――中学校まで――だが、設備が悪い。違いはもちろん、金があるかないかだ。

 公立に「設備をよくしろ!」と云ったら、保護者が金を払うか、国が金を出すしか選択肢がない。だが、当然保護者は金を出さない。もちろん、借金だらけの国が金を出す筈もない。

 つまり、全ての学校の設備が私立と同じようになることは不可能なのだ。

 もしあるとするならば、創立一年目とか、真新しい学校だけだろう。

 渡り廊下の突き当たりを右に曲がり、左手側に見える階段を降りる。

 階段を降りて右を見ると、ちょうどよく職員室だった。

 職員室の壁には学校通信や学級通信、他校の学校通信などが張り出されていた。

 通っていた杉浦中の学校通信もあり、こんな感じの学校通信だったなぁと懐かしく思った。

 廊下の奥の方を見てみると、廊下を挟んで向かい側に保健室とPC室があった。反対側は職員玄関だ。

 職員室の前の扉を三回ノックする。「失礼します。えぇっと、三年一組の、し……夜ト、です」

 俺のうっかり、に白狐が反応した。「お? 今、もしかして本名云いそうになった?」

「うん、危なかった」

「し、か。し、から始まる名字って何だろ。清水? 下里? 白倉? 柴田? 下田? 椎名? 志村? 鹿野? 紫々戸?」

「違う違う、って云うか、当てようとすんな」

「えぇ? こんなに云ったのに当たんないの?」

「うん、〝し〟しか合ってない」

 白狐は思い出しながら「ええと……二文字目が〝み〟でも〝も〟でも〝ら〟でも〝ば〟でも……〝も〟はさっき云ったか。えっと〝い〟でも〝む〟でも〝か〟でも〝し〟でもないんだ?」

 頭の中で白狐が何を云ったのか一旦整理して、一文字一文字確認していく。「……うん。違う」

「あ? い? う? え? お? えぇ、もう分かんないや」

 こんなに当たらない物か、と自分でも驚いた。

 そう思って、今まで会った人の中で自分と同じ名字の人を思い出してみたが、慥かに少なかった。おそらく、三人くらいだ。

「まぁ、明日教えてやるよ」どうせ死ぬんだから――とは云わないでおいた。

「分かった……。じゃあ、私も明日教えてあげる」

「え、あ、そう」

 別に知りたい訳ではなかったが、云われてみれば慥かに――少しだけ――気になる。

 会話が途切れたので、手をかけていた職員室のドアを開ける。

 ドアを開けると左側に普通の職員の机が、右側には校長や教頭、教務主任の机があるらしい――おそらくだが。

 一歩入るが、あれがない。そう――職員室の匂いがない。

 何の匂いなのかは知らないが、職員室には独特の匂いがあるのが普通なのだが、教員――生徒も含め――がいなくなった今、その匂いは消え去っていた。

 白狐は俺を追い越すと、まっすぐとある机に向かった。もし、俺の学校と机の並びが一緒ならば、あそこは校長の机だ。

 白狐は――おそらく――校長の机の前に立つと、机の引き出しを開いた。「白狐? それ誰の机?」

 白狐は机の端を指さして「ここ見な」

 机に寄っていって白狐の指さしたところを見ると、「校長」と書かれた三角形に折られた紙が置かれていた。やはり、ここは校長の机だったのだ。つまり、白狐は校長先生の机を漁っているのである。

「えぇ……面白い物ないなぁ……」と、漁りながら文句を云う白狐。

 多分、ここに面白い物はないと思う。あるとするならば、校長室にある方の机の中だろう。

「白狐?」

「うん?」

「校長室の方行ってみる? そっちの方が面白い物あるかもよ?」

 白狐は手に持っていたファイルを投げるようにして引き出しに戻した。「行きましょう」


 職員室の隣にある校長室に入った。

 やはり公立と同じように、校長室だけはVIP感があった。第一、床がタイルではなくカーペットだ。その他、壁の素材や椅子の素材……何から何まで違う。

 昔、何故校長室がここまで豪華なのかの答えを聞いたことがあった。

 来客者が一番多く訪れる部屋。そして、来客者と一番多く話す機会があるのが校長。さて、もう分かっただろう、何故校長室が豪華なのかが。

 そう、偉いからではなく、来客者へのもてなしのために豪華なのだ。

 一歩はいると、右側にある棚が目に入った。その棚にはトロフィーが沢山飾られていたのである。

 近寄ってみてみると、「剣道」「陸上」「水泳」「吹奏楽」「バレー」「バスケ」「硬式テニス」「卓球」のトロフィーがあった。

――何でだ?

 トロフィーは、学校で飾るのだろうか。その成績を収めた生徒がもらえるのではないだろうか。そう思ってトロフィーをよく観察すると、共通点があった。

 トロフィーがある競技は、全て複数人ででる競技の物だった。剣道は団体、陸上は駅伝とリレー、水泳もリレー、吹奏楽は元々複数人で、バレーもバスケも元々複数人競技、硬式テニスは団体、卓球も団体だった。つまり、メンバーが複数人いて、誰か一人が受け取るのは不平等だから校長室に飾ったのだろう。

 俺がトロフィーを見ている間に、白狐はまた校長の机を漁っていた。本当に、今だからこそ出来ることだ。普通の世界でこんなことをやったら、大変なことになる。いや、大変なことどころじゃないかも知れない。

「ん? お? これはぁ……」どうやら何か見つけたらしい。

 持っていたトロフィーを置き、白狐に聞く。「何かあった?」

 白狐は何も云わずに手招きで「こっちに来い」と云ってきた。駆け寄ると、一枚の写真を突きつけてきた。そこには、先生らしき人と生徒が一人ずつ映り込んでいた。そして、白狐がそれをひっくり返す。

 ひっくり返した写真――つまり写真の裏には文字が書かれていた。

[校長先生へ

 校長先生! 楽しい学校生活をありがとうございました! もう……本っ当に校長先生が大好きです! 愛してます!]

 俺が読み終えたのと同時に白狐が叫んだ。「これは! 教師と生徒のイケナイ関係じゃないかぁ⁉」

 どうやら白狐はこれをラブレターか何かと勘違いしたらしい。そんな訳があるか。

「白狐……」

「何? やっぱりそうだよね⁉」

「違うだろ……。卒業生が校長に向けて書いたありがとうの手紙だろ」

「え、でも愛してるとか……普通書く?」

「よくあるよ。男子生徒が女性の先生に『結婚してください!』とか云うこともあるんだから」

「えー、そうなの? つまんないなぁ……」

「何がつまんないんだよ。アニメみたいな展開はさ、現実ではそうそうないぞ?」

「ん? アニメって、何のアニメ?」

「い、いや……別に……」

 さらっと云ってしまったことを今更後悔しても遅かった。

「こらぁ、夜ト。絶対エ――」

 思いっきり手を振る。「ああ、ああ、云わなくていいから!」

「えぇ、でも……絶対夜ト、エ――」

「だーかーらー! 云わなくていいから! てか云うな!」

 不満なのか、白狐は頬を膨らませた。「このエロガキ……」

「五月蠅いな、変態怠け者JK」

「あれれー? 前に変態怠け者天才JKって云ってなかったかなぁ?」

「そんなこと云ってない」

「うわっ、このしらばっくれエロガキ……」

 流石にそう云われるとイラッときた。「何のアニメとは云ってないだろ。恋愛物のアニメかも知れないだろ?」

 これで黙らせられると思っていたのだが、白狐はあれを覚えていたのである。「え? 偽のカバーつけてあんな本を隠してたのに?」

 それを云われると、もう何も云えなかった。それには反論のしようがなかったからだ。完全に、俺の敗北だ。

「参りました……」

「ははは、夜ト、私に勝とうなんて一〇〇年早いぞ!」

「え、じゃあ一生勝てないじゃん」

「え? ああ、そうだね」

 明日終わるんだから――全部。


 体育館は比較的広く、設備も文句なかった。

 ステージを前として、後ろ側にある扉を開くと、用具が目一杯入れられていた。例えば、バスケットボール、サッカーボール、卓球台、バレーのネット……。

 白狐がバスケをしたいというので、バスケットボールを二つ持って用具倉庫から出る。

 体育館を広く使うためか、バスケットゴールは常備ではなく、収納できるタイプのゴールだった。収納とは云っても、限りなく天井に近づけてあるだけだが。

 壁に付いているチェーンを引っ張り、ゴールを下ろす。思ったよりも重くて腕で引っ張るだけでは無理だったので、ジャンプしてチェーンにしがみついて体重で引く方法をとった。

 しかし、当然もの凄く疲れる。途中で白狐に変わってもらったのだが、白狐の体重が軽すぎるのかチェーンにしがみついてもチェーンが動かず、宙ぶらりんになっていた。

 結局、七分程かけて俺がゴールを下ろした。

 バテて座り込んでいる俺を横目に、白狐がバスケットボールを投げる。かなり遠くから投げていたにも拘わらず、ボールは綺麗な放物線を描いて……リングにぶつかることなく綺麗に入った。白狐はゴールから落ちたボールを走って取ると、次にレイアップシュートを綺麗に決めた。どうやら、部活かクラブチームか何かでやっていたらしい。

 ようやく体が動くようになったので、もう一個のボールを持ってスリーポイントの線の上に立つ。

 左手をボールに添え、ジャンプしながらボールを投げる。ボールは放物線を描き、リングに一回当たってバウンドして入った。先程の白狐のように、リングに当たらずに入ることはなかった。

 ボールをくるくる回しながら遊んでいる白狐に聞く。「なぁ? どうやればあんなに綺麗にシュートできるんだ?」

 ボールを回すのを止めて「えーっとね、うーん……。何だろうな。私の場合は練習して、これくらいの距離だったらこれくらいの力でってのを覚えてるから……」

「つまり、練習あるのみってこと?」

「うーん、そうかなぁ……。あ、後はボールを高く上げすぎないことかな。高すぎると軌道が読みにくくなるから」

「分かった……やってみる」

 試しに何度か投げ、距離と力の関係を調べる。

 なんとなく関係が理解できたところで、リングを見据える。狙うはリングに当たらないシュート。高く上げすぎずに、綺麗な放物線を目指す。

 左手を添え、さっきよりも少し弱めに投げる。

 ボールは綺麗な放物線を描き……入った。聞こえてきた音は、ゴールのネットにボールがこすれる音のみ。リングにぶつかった音は聞こえてこない。

「おー、綺麗なシュート!」白狐が拍手をしている。

「今、リングに当たってなかった?」

「うん、当たってなかった」

 ゴルフでホールインワンをしたような感覚にとらわれた――ゴルフをやったことはないが。

「じゃあ夜ト、さっき私が投げたここ」白狐が地面を指さした。「ここから投げてみ? それでリングに当たらないで入ったら私と同じくらい上手ってこと」

 云われたとおりにその場所に行ったが、驚いた。白狐がさっき投げたところは、体育館に線を引いて作ったバスケコートのちょうど真ん中だったのだ。

 そこに立ってゴールを見据えると、ゴールがもの凄く遠く見える。これお試しだから、と云って、試しに投げてみたが、ボールはゴールまで届かなかった。

「うぅん……夜ト? ボールを投げたとき、いや、ボールが手から離れるか離れないかぐらいの時って、ボールが指先にあたってるじゃん? その時さ、指先でボールをはじいてみな? そうすれば手のひらだけの時よりも飛ぶから」

 云われたとおりにボールを最後、指先ではじいてみる。すると、ボールは綺麗な放物線を描いて……リングに当たることなくネットとこすれた。

「え?」まさか成功するとは思っていなかったので、本当に驚いた。

「お、おお。凄、アドバイスした瞬間に出来るなんて……凄いね」

「いや、白狐の教え方が上手いんだよ」

「そんなお世辞はいいからさぁ……」照れているのか、声がうわずっている。

「お世辞じゃないわ」

「またまたぁ」

「白狐なんかにお世辞云う必要ないだろ?」

「……どう云うこと?」

「それだけ白狐は凄い、ってこと」

「んもう! そんなに褒めたって何も出てこないぞ!」

「何かして欲しくて褒めてる訳じゃなくて……」

「私がただただ凄いって?」

「そうだよ」

 白狐は両手で顔を覆った。何してるんだろうな……と思っていると、不意にボールを投げてきた。

 本当に突然だったのでボールを避けることが出来ず、ボールは見事に俺の腹に命中した。

「は?」

「んん! 照れちまうじゃねぇか! そんなに褒めんな!」

「いや……だからってボール投げんなよ。危ないだろ」

「んんん……!」

「……なんだよ?」

「……一対一、やろ」

「分かった」


 結果から云おう。俺の惨敗だった。三十回対戦し、俺が二、白狐が二十八と云う悲惨な結果だった。

 本音を云うと、身長差があるので絶対に勝てると思っていた。それに、白狐の服装――特にスカート――から考えても、負ける筈がないと思っていた。しかし、俺は白狐が守っているゴールの下に入ること、いや、スリーポイントの線を踏むことすら、殆ど出来なかった。それ程、白狐のディフェンスは完璧だったのだ。

 それに、さっきは落ち着いてシュートを打ったから入ったが、ディフェンスをしてくる人がいるせいで、どうしても狙いが一点に定まらずにシュートがなかなか入らなかったのだ。

 一方の白狐はと云うと、俺のディフェンスを華麗にかいくぐり、安定した綺麗な放物線を描いてボールをゴールに確実に決めていった。

 俺が下手すぎるのか、白狐が上手すぎるのか。おそらく、後者だろう。別に俺はバスケ部に入っていた訳ではないが、学校の球技大会などではバスケのスター選手に近い存在だった。だから、俺が下手すぎる筈はないのだ。

――何で……白狐はこんなに強いんだ?

 俺は問うた。「白狐?」

 三十回対戦して流石に疲れたのか、白狐は息を切らせながら答えた。

「うっ……ん?」

「何で……そんなに強いの?」

 しかし、白狐から答えは返ってこなかった。帰ってきたのは、助けだった。

「待って……夜ト……。水分……何か……ない?」

 どうやら、相当喉が渇いているようだった。今考えれば、水道から水が出ない世界で運動をするのは相当馬鹿な行為だった。

 だが、さっき見た用具倉庫で部活用のスポーツドリンクと水があったのを思いだした。

 待ってろ、と云って用具倉庫に走る。

 用具倉庫に入ると、奥の棚の下に入っている段ボールを引っ張り出す。

 スポーツドリンクの方の賞味期限を確認すると、まだ切れていなかった。大丈夫だろうと思いつつも水の方も確認し、案の定大丈夫だった。

 両方の段ボールから一本ずつ取り出し、用具倉庫を出て白狐の下へ向かう。

 どっちがいい? と云って二本を差し出すと、白狐は迷うことなくスポーツドリンクの方を手に取り、キャップを開けるとラッパ飲みをした。

 どんどんと減っていくスポーツドリンクを横目に、俺もキャップを開けて水を少し飲んだ。

「ぷっっっっっっっっは!」ぷ、の後をもの凄くためて白狐が叫んだ。

「ぬるいけど美味!」

「そいつはよかったぁね」

「……何でたぁねなの? よかったね、でいいじゃん」

「まぁまぁ、細かいことは気にせずに」

 こめん、と一緒で、よかったぁね、と云う発音も俺の学校ではやっていたので、たまにそう云ってしまうのだ。

 話題を戻した。「で? 白狐は何でそんなにバスケ上手いの?」

「私ねぇ……クラブチームで全国制覇して強化指定選手だったんだよ」

「え⁉」そこで、俺の昔の記憶がちらついた。

「もしかして……テレビに出てたりした?」

「え? ああ……全国大会の時に出たかも……」

「俺、それ見たよ。待って……慥か名前……」

 白狐が俺の口を塞いできた。

「ん⁉」

「ちょっと? 覚えてないよね?」目が笑っていなかった。だから余計に怖く、実際思い出せていなかったし、首を縦に振った。

 白狐の手が口から離れた。「ならよし」白狐は手を叩き「まぁ、どうせ明日には分かるからね」

「え? ああ、そうだった」

 そこで、また白狐がスポーツドリンクを飲み始めたので、会話が途切れた。

 白狐が飲み終わったのを見計らって聞く。「あと、どっか行きたいところある?」

「うーん、学校の面白いところは全部行ったからなぁ……」

 実は、一個思いついているところがあった。そこを、白狐が思いつくかどうか試してみたのだ。

「えー? うぅん……?」どうやらまだ思いつかないらしい――もしくは白狐には興味がないのか。

 二分程したところで、不意に白狐が叫んだ。

「あ、あああ!」

「ん? どっかあった?」

「お、おおおおおお、屋上!」

「何でそんなにおを連発するんだよ」

「さて? ま、そんなことはいいんだよ! 屋上に行こう!」


 階段を上って屋上に出る扉の前まで来たが、鍵が掛かっていて開けることが出来なかった。白狐が待ってるからねー、と云って、俺を鍵探しの旅に出させた。

 普通に考えて、鍵がある場所と云えば職員室だろう。

 職員室に入り、沢山の鍵がぶら下げてあるところを見つけた。そこの鍵に付いている名札を一枚一枚見ていく。

――学年室……教材室……体育倉庫……部室、部室、部室……。

 全て見たが、屋上と書かれた名札が付いている鍵はなかった。他の場所に保管されているのか、それとも誰か先生が返し忘れているのか。

 一応、どちらも可能性はある。前者は、屋上の鍵を盗まれて屋上で何かされては大変だから他の場所に……と云うのは安易に考えられる。

 後者も、現に鍵をぶら下げる釘が何本か開いているので、考えられる。

 では、どうすればいいと云うのだろうか。職員室を隅から隅まで探すのか? 職員の机の上、中を全て確認するのか? そんなことをしていたら時間がどんどん過ぎ去っていってしまう。大切な……時間が。

 それなら、屋上を諦めればいいと云うのか? それも違う。俺達が行きたい場所は、必ずコンプリートしたい。もう、二度と行けないのだから。

 しかし、大切な時間を取るか、屋上を取るか、その選択はなかなか難しい物だった。

 苦し紛れに、教頭の机を開けてみた。すると、ある物が目に飛び込んできた。「え、これって……」手に取ってみる。「屋……上……」

 素晴らしい運だ。一瞬で見つけてしまったのである。これ――鍵には屋上と書かれた名札が付いていた。

 驚きすぎでしばらく動けなかったが、体が動いたと思ったときには、既に階段を駆け上がっていた。

 屋上の扉の前で座っていた白狐に叫ぶ。

「あったぞ!」

 しかし、白狐は不満そうな顔をした。「遅い……」

「仕方ないだろ――」そう始めて、鍵がどこにあったのかを説明した。

「えぇ? 夜トなら超能力で見つけられるでしょ?」

「俺をなんだと思ってるんだ?」

「えーっと、なんだっけ……? ああ、えっと、しらばっくれエロガキ……だっけ?」

「そう云うことじゃない……」

 首を傾げる白狐。「ん? どう云うこと?」

「いや、だから、何で俺が超能力を使えると思ってるんだ?」

「いや、思ってないよ。ジョーク、ジョーク」

「うわっ、ダルい奴だな……」

 鍵を扉に差し込み、ぐるりと回す。思っていたような「ガチャッ」と云う感じの重々しい音はせず、「カチャッ」と軽々しい音だった。扉を開く音も爾り。

 屋上に一歩踏み出すと、地面がコンクリートではないことに気が付いた。何か、ゴムのような物、そう……陸上競技場のタータンのよう――もちろんボコボコはしていないが――な物だった。試しに地面を蹴ってみるが、やはり反発が凄い。一〇〇メートルがもの凄く速く走れそうだ。

 白狐は迷うことなくフェンスギリギリまで行き、景色を眺めていた。まだ日は沈んでいないが、日光の力は弱々しかった。

 俺もフェンスに近寄り、景色を眺める。見知らぬ町が広がり、まるで他の国に来たかのような気分になった。

 そうだ、と思い、川――春風川を探す。方向は合っている筈だから、見えても可笑しくないだろう。

 しかし、家々に邪魔されて遠くが見えない。だが、遠くに堤防のような物が見えるから方向は間違ってないと思う。

 白狐は身を乗り出して遠くを見ようとしている。

 そぉっと後ろから近づき、抱きついた。

「ふわっ⁉」白狐がそう叫んで後ろに飛んだので、俺も一緒に倒れ、そのまま背中を地面にしたたかに打った。「つぁっ!」

 俺が背中を打って痛がっているのにも拘わらず、白狐は腹を叩いてきた。「うふぇっ……」

「何で急に抱きつくんだよ! びっくりするだろ!」

「ちょ、腹叩くの止めて……」

 しかし、白狐は止めなかった。「お仕置きじゃぁ!」

 最初はパーだった手が、気付けばグーになっていた。そして、徐々に力も強くなってくる。

「うぐっ……」

 本気で吐きそうになったのが分かったのか、白狐は手を上げたまま止まった。「あ、ごめん、強く叩きすぎた?」

「だから、叩くの止めろっつったろ……」

「まぁ、非は夜トにあるから」

「非が相手にあったとしても、仕返しはしてはいけません。暴力ならなおさら」

「何? 夜トは先生なの?」

「そうだよ」と云いながら、立ち上がる。背中の痛みがやっと引いてきた。

 すると、白狐は「え、ちょっと待ってよ、もう少し寝てろや」と云ってきた。

「何でだよ?」と聞き返すと、「まぁまぁ」と明確な回答を避けた。

――何を企んでるんだ?

 だが、まさか俺を持ち上げて屋上から落とす訳あるまいし、と思って、云われたとおりに横になった。今更だが、ここの地面、絶対に汚い。

「目、瞑って」

 その言葉で何をされるのか悟った。

 果たせるかな、二秒後に俺の唇に何かが触れた。

「目、開けていいよ」

 目を開けて、体育座りをする。「昼から何やってんだよ」

「え? 東京で、昼から町中でキスしてる人とかよくいるじゃん」

「そう云うのはバカップルって云うんだよ……」

「え? 私も夜トも馬鹿でしょ?」

「一緒にすんな」

 俺の声が聞こえないかのように、白狐はピースをしてきた。「いぇーい、バカップルー」

「変な奴」

 白狐が手を差し出してくれる。その手を握って立ち上がる。

 立ち上がると、白狐が俺のことをずっと見つめていた。

「何?」

 白狐はくねくねしながら――照れているのか?――云った。「ハグ……して……」

「さっきハグして怒ったのはどこのどいつだよ?」そう云いながらも、白狐に抱きつく。白狐も俺を抱きしめ返してきた。

「ねぇ?」

「何?」

 白狐は消え入りそうな声で云った。「好き……」

 俺は笑って返す。「知ってた」

「夜トは……?」

「俺? 俺も、白狐のこと好きだよ」

 すると、急に静かになった。白狐が何か云うと思っていたので何も云おうとしなかったが、白狐は予想に反して何も云わなかった。

 何を云えばいいのか……と考えていると、白狐が震えていることに気が付いた。

 泣いて……いた。

 肩をふるわせ、殆ど声を出さずに静かに泣いていた。

 何で泣いてるの? と聞こうと思ったが、止めた。こう云うときに、そう云うことを聞くのはよくない――多分。今俺が出来ることは、白狐を落ち着かせながら泣き止むのを待つことだ。

 慥か、俺も白狐の腕の中で泣いたことがあった。その時、白狐は何をしてくれた? それを思い出し、白狐の頭を軽くポンポンした。

「思いっきり泣きな」そう云うと、白狐は声を出しながら泣いた。

 おそらく、白狐は今の今までため込んでいたことが一気に爆発したのだろう。いつも俺を支えてくれていた白狐の心は、もう限界だったに違いない。なら、俺が支えてあげなければならない。

 そう決心した三分後、白狐が泣き止んだ。

「ねぇ、夜ト……」

「うん?」

「何で、何で私たちは一緒にいられないの? 何で、一週間しか一緒にいられないの?」

 俺だって、何度そう思ったことか。残り七日が永遠に続けと、残り六日が永遠に続けと、残り五日が永遠に続けと、残り四日が永遠に続けと、残り三日が永遠に続けと、今日が永遠に続けと、明日よ来るなと、一体何度思ったことか。何度願ったことか。時が止まれば……昨日に戻れれば……時が止まるまで行かずとも、時がゆっくり進めば………………。そんな妄想を何度したことか。

 だが、どれだけ願ったって変わらないのが現実だ。時間と同じように、素晴らしい程に冷淡で残酷だ。

「仕方ないさ……そうなっちゃったんだから」

「何で……会えたと思ったらもうお別れ? どう云うこと? 私の人生に本物の幸福はないの?」

――幸福か……。

 自分が本物の幸福に出会ったらどうなっていたのだろう。深淵ではない町で生まれ、白狐のような最愛の人に出会い、人生を優雅に過ごす。そんな人生があったら、俺はどうしていたのだろうか。その人生を隅から隅まで、完璧に堪能するのだろうか。それとも、刺激が足りないとか云ってその幸福を無駄にするのだろうか。

「世界は……綺麗に作られてないんだよ」

「……私たちは、綺麗じゃない世界の犠牲者なの?」

――犠牲者……多分、そうなのだろう。

「何で、何で犠牲者にならなきゃいけないの? 私なんか悪いことした? ただ生まれてきただけじゃん。なのに……。そうだ、あれと一緒だよ。通り魔に遭って殺された人と一緒だよ。何もしてないのに急に殺される。それと一緒じゃん。何もしてないのに犠牲者になる。この世界は……一体何なの?」

 何なのだろうか。一体、この世界は何なのだろうか。人類が作り上げた妄想の塊? 不幸で満たされたビニール袋? 悪意で満ちた部屋? 空気のない教室? 水のない密室? 火のない南極? 音のない音楽室? どうであろうと、地獄だ。もう、地獄以外の表し方が見当たらない。

「ねぇ……」白狐は究極の質問をしてきた。「何で私たちは生まれた来たの?」

 何で生まれてきたのだろうか。惨めな母を見るためか? 惨めな片思いの女子を見るためか? 深淵を肌で感じるためか? 人の悪意を感じて笑うためか? 惨めな人間をあざ笑うためか? 夢を捨てて絶望を味わうためか? 生きる意味を見失ってもがき苦しむためか? 自分をこれでもかと憎むためか? この世界を見て死にたいと思うためか? 経済格差を身をもて体験するためか? 足下を見つめて涙を堪えるためか?

 何にしろ、意味がない、くだらないことばかりだ。幸せなら、経験することのないことばかりしか出てこない。本当に――何で生まれてきたんだ。

 白狐が叫んだ。「誰も生まれたいなんて望まなかった!」

 俺だって、こんな世界に生まれたいなんて望まなかった。

「誰が産んでくれって、生まれたいって望んだんだよ! こんな世界に産み落としやがって! いっそのこと生まれる前に死ねばよかった……」

 何も云えなかった。何を云っても、今の白狐には聞こえないだろうから。

 白狐の心の叫びが、俺の心に刺さって抜けなかった。「誰も生まれないなんて望まなかった!」その言葉が耳の中でずっと木霊している。そして、気が付けば心の中でも木霊し始めた。

――誰も生まれないなんて望まなかった! 誰も生まれないなんて望まなかった! 誰も生まれないなんて望まなかった! 誰も生まれないなんて望まなかった! 誰も生まれないなんて望まなかった! 誰も生まれないなんて望まなかった………!

 風の音も木霊によってかき消され、俺の耳には外からの音が全く入ってこない。気が付けば、手の感覚も、足の感覚もない。まるで、俺の中から魂が抜けてしまったかのようだった。

 思考も停止し、頭の中にあるのは「誰も生まれないなんて望まなかった!」だけだった。

 抱きついたときには感じていた白狐のぬくもりさえ感じられなくなった。それ程、白狐の言葉は俺を揺さぶった。

 もう立つことすらままならなくなり、白狐から感覚の消えた手を離してへたり込んだ。

 さっき、俺が支えてあげなければならない、なんて思ったくせに、もう限界だった。白狐の本音一つでダウンしているような俺じゃ、白狐のことはとても支えきれない。

 頭を振り、やっと外からの音が聞こえるようになってきた。手も足も、少しずつ感覚が戻っていく。それでも、頭の中ではまだ木霊が続いている。

 目を瞑り、一度世界を忘れる。自分だけの、暗闇に入り込む。

 と、その時、体がぐらっと揺れた。目を開けると、白狐と空が見えた。おそらく、白狐に押し倒されたのだろう。白狐の目は泣いたせいか充血していたが〝命〟の光は消えていないように見えた。

「でもね……夜トがいてくれるなら、明日まで頑張って生きてみる。過去を呪わずに、明日をちゃんと見てみようと思う」

 よかった、ありがとう、頑張ろう……。返事はいくらでもあった。だが、俺は何故か「ごめん」と云った。

 何か理由があって謝った訳ではなかったが、無意識に出た言葉が「ごめん」だったのだ。

「え、何で謝るの?」

「……分からないけど、無意識……かな」

「はは、変な人」


 それから、何かを話す訳でも何かをする訳でもなく、ただただ屋上にいて景色を眺めていた。綺麗だね、の一言すらなく、本当にただただ屋上にいるだけだった。

 しかし、俺の中には暇の〝ひ〟すらなかった。おそらく、白狐と一緒にいたいが、心を落ち着かせるために何もしたくなかったからだろう。

 空がオレンジ色になってきたので校舎内に戻り、そのまま車に戻った。

 車を出し、開けっぱなしにされていた門を通り過ぎる。二人とも、門を閉めると云う発想はなかった。

 しばらくすると、フロントガラスに何かが当たった。

「降ってきたぁ……」

 雨がポツポツと降り始めた。

 すると、白狐は何かを思い出したのか「あ」と云った。

「ん、どうした?」

「……冷蔵庫」

「冷蔵庫?」

 最初は何を云っているのか分からなかったが、やっとデパートの冷蔵庫のことを思い出した。

「せっかく冷やしたのに……」

 そうだ。せっかく冷やしたのに、何もせずにデパートを出てしまった。「じゃあ……デパート戻る?」

「え、でも、川探すんじゃないの?」

 春風川のことを話した。

「今日デパートに帰って、明日間に合う?」

「大丈夫でしょ」

「じゃあ……デパートに戻ろう!」

 本音を云って、思いっきり泣いて、吹っ切れたのか白狐はいつも通りの元気に戻っていた。

 どこの道をどう来たのかは覚えていなかったが、さっき来た方向に戻れば知っている道に戻れる筈だ。

 住宅街を通り抜け、一気に進む。すると、なんとすぐに知っている道に戻ってこれてしまった。どうやら、ぐねぐね曲がっていたせいでそこまで進んでいなかったらしい。全く、もっと道を選んで進めばよかった。

 知っている道に戻った俺は最強になった。スピードを上げ、高速でデパートに向かっていく。

 最強になれたおかげで、空のオレンジ色が失せる前にデパートに着くことが出来た。駐車場に入り、一応白線内に車を止める。

 ライトをポケットに突っ込み、雨に濡れないように走ってデパートに入る。

 暗くなってきたせいで所々見えないところはあるが、まだ普通に歩くことができる程度だった。

 白狐は迷わず四回まで駆け上がり、止まった。「冷蔵庫って、どこにあったっけ」

「あの辺……」記憶を頼りに指さす。「……だった筈」

 白狐は駆けていき、何秒後かに「あったー!」と叫んだ。そして、エナドリを持てる限り持ち、持てない分はポケットに突っ込んで帰ってきた。

「持って」今にも腕から落ちそうな缶を取り、ポケットに突っ込む。よく冷えていて、太ももが冷たい。

 そのまま家具屋に行き、ベッドに座る。

「夜ト、何か、ベッドの隣に置くようなテーブルない?」

「小さい棚みたいな奴とか?」

「あー、そう云うのでもいい」

 家具屋の中をぐるぐると回り、俺の膝程の小さな棚を見つけて持っていった。木製だったおかげで、比較的軽かった。

「ありがとー」ベッドの横に棚を置いてやると、白狐は棒読みでそう云って上にエナドリを並べていった。俺もポケットからエナドリを取り出して上に並べる。

 しかし、今思ってみると五つくっつけた横に長いベッドの端に棚を置いては、棚に近い方に寝ている片方の人しか取れなくなってしまう。もし、もう片方が取って、と云った場合は片方が取って渡すと云う、とても面倒なことになってしまう。

「白狐?」

「うん?」

「ベッドが長いと、俺がエナドリ取れなくなるからベッド戻そ」

「ええ、やだなぁ。それなら、縦じゃなくて横になって寝ればいいんじゃないの?」

「ん? どう云うこと?」

 だからー、と云いながら、白狐はベッドとベッドのつなぎ目に対して垂直になるように寝た。

「こう云うこと」そして、少しスペースの空いている左側を手で叩いて云った。「夜トがここで寝るの」

 慥かにそれなら、白狐は左手を、俺は右手を伸ばせばエナドリを取ることが出来る。

「え、でも、それって結局横幅がベッド一個分の縦と一緒でしょ? そこに二人で寝るのはきつくない?」

 気が付けば、オレンジ色がなくなって辺りが黒になってきていた。

「五月蠅いなぁ、云うことを聞きなさい!」

「分かったよ……」

 ポケットからライトを取り出し、棚の引き出しに入れてから寝ようとすると、白狐がエナドリを一本渡してきた。

「寝る前に一本。せっかく冷えてるんだから」

「ああ、そうだった」

 乾杯、と云って缶をぶつけ、プルタブを起こす。カシュッと音がして、匂いが部屋に充満する。

 二人ともゆっくりと飲み、飲み終えると缶を棚の奥側に置いた。

 眠気が来たので足下から自分の掛け布団をたぐり寄せようとすると、白狐が「私の一緒に使えばいいよ」と提案してきた。

 絶対に朝になったらどちらかが掛け布団から出ていそうだったが、まぁいいだろうと云うことで承諾した。

 白狐は一旦起き上がり、掛け布団を俺に掛けてからその中に潜り込んできた。俺が白狐の方を向いて寝ていたせいもあるのだが、何故か二人とも向き合った形で寝ていた。

 体の方向を変えようと思った刹那、白狐が云った。「夜ト?」

「うん?」

「あっち、向いて」

 白狐にそう云われるとは思っていなかったので驚いたが、そうしようと思っていたところだったのでそうした。

 方向転換が終わると、白狐が右脇腹とベッドの間に手を差し込んできた。え? と思ったときにはもう、白狐に抱きつかれていた。

「絶対に離さないんだから……」

「俺も、白狐を離さない……」

 死んでも――離さない。

 外の雨はまだしんしんと降り続いている。

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