▽残り三日

 目が覚めて、違和感を覚えた。俺はどこで寝ているんだ? と。

 だが、しばらくして記憶がはっきりしてくると、今自分がホテルのベッドで寝ていることを思い出して納得した。

 上半身を起こして、辺りを見回す。

 日光が差し込んでいて、昨日はライトで照らしていたので少ししか分からなかった部屋の全体が見えた。

 白の壁紙に肌色の机、茶色の縁の鏡が一枚見える。

「む……むわぁ?」突然、横から声が聞こえた。左を見ると、白狐が寝ていた。服を着ないで。

 そこでやっと、自分も服を着ていないことに気が付いた。どうやら、昨日のことは夢ではなく本当だったらしい。

 ベッドの左側に脱ぎ捨ててあった服を拾って、ベッドの中で着る。

 俺が服を着たときに掛け布団が動いたのか、白狐も目を覚ました。

「む……? う……おは、よう」

「おはよ」

 白狐の服もベッドの左側に脱ぎ捨ててあったので、拾って白狐に渡す。「着ろ」

「え……あ、ああ。はいはい」

 白狐も俺をまねてか、ベッドの中で服を着始めた。

 当然、俺の方が先に着終わったので、白狐が着終わるのを待つ。

 しつこいようだが、見るたんびに思う。メイド服にしか見えない。

 白狐が着終えたので、自分のベッドに戻らせた。

 と、ここで、あの事について聞こうと思った。亞部輪湖のときからずっと聞こうと思っていた二つ。

 何で白狐は俺と一緒にいてくれているのか。

 俺と白狐は何を目指しているのか。

 車の運転中ではないし、建物の中なので落ち着いて会話が出来る。聞くなら今しかないだろう。

 自分のベッドの上であぐらをかいている白狐に問う。「なぁ?」

「うん?」

「何でさ……白狐は俺と一緒にいてくれるの?」

「え、それはさ。夜トに一緒にいてくれって云われたから」

 慥かにそうだ。だが……本当に……「それだけなの?」

「え?」

「はっきり云ってさ、俺だって白狐と離れたいって思ったことはあった。でも、なんとかここまで一緒に来れた。

 でもさ、多分って云うか実際、俺の方が心は強いと思うんだよね。

 俺でも一緒にいたくないって思ったけど、頑張って踏みとどまって、何が大切なのかを一旦落ち着いて考えて、ここまで一緒に来れたんだよね。

 じゃあさ、俺より心が弱い白狐は、一緒にいたくないって思ったときに踏みとどまれたのかな? って思うんだよ。一体、何が白狐を踏みとどまらせたのかなって」

 うぅん、と唸って腕を組む白狐。布団のカヴァーを指に巻き付けてくるくるさせている。「うーんとね。それは多分……私が馬鹿だからじゃないかな」

「は?」

 白狐は布団のカヴァーから手を離した。「何か、私ってその人のことを好きになったら他のことはどうでもよくなっちゃうんだよ。

 例えばね? 中学校の頃に彼氏がいたとして、その人が煙草を吸っていたとしよう。当然、それは犯罪なんだよ。でもさ、私はその人が好きだからそう云うところも認めちゃうんだよ。

 だから、夜トと一緒にいたくないと思ったことはないよ。まぁ、私の家で夜トが写真見つけて私に唐突に暴言吐いたときは少しキレたけど……」

「ああ、それはすまん」

「ははは、いいよいいよ。

 だがら、ね? 好きになったら好き以外の感情がなくなるって云うか……うん、ごめん、上手く云えないんだけど」

「分かったよ。俺のことが好きだから、一緒にいたくないって思ったことはないんだ?」

「そう云う、ことだね」

「依存系の人ね」

「あー、そうかも知れない」

 好きだから、それが理由と云うのは俺には理解が出来なかった。が、白狐がそう云うなら、多分そうなんだろう。人によって物の価値観が変わるように、人によって好きの価値観も違うんだろう。

 では、次の質問。「じゃあ、もう一個聞くね」

「どうぞ?」

「俺らは……何を目指してるんだ?」

「ふぇ?」分からない、と首を傾げる白狐。慥かに、これだけでは何を聞かれているのかを理解するのは難しいか。

「えぇと、俺らは一緒にいて何をしようとしているんだ? 何のために一緒にいるんだ?」

「あー、目指してるって、私たちのゴールみたいな?」

「そうそう」

「何て云うんだろう、あれか。どうやって終わりたいか、みたいな。そういう感じか」

「そうそう」

「うぅん……」ベッドを手でパフパフと叩く白狐。「ま、結局死ぬからねぇ。終わり方ってのは、どうやって死にたいか、とも取れるよね」

「死に方ってこと?」

「そう、今考えられるとしたら地球とともに死ぬのか、自分たちで命を絶つのか、の二択かな」

「あー」

 そこで俺は一つの単語が出てきた。

 心中。

 はっきり云って、隕石で命を絶つのは嫌だった。今となっては忌々しい存在に命を絶たれるのは嫌だ。

 では、どうやって死ぬ? 自殺か? それは嫌だ。自殺だと、最後まで白狐と一緒にいることが出来ない。

 そこで出てくるのが心中だ。一緒に死ぬ、一緒に自殺。自殺であることに変わりはないが、一人で死ぬか、複数人で死ぬかの違いがある。心中なら、白狐と一緒に死ぬことが出来る。

 だが、心中にも色々な死に方がある。一緒に火に飛び込む、一緒に飛び降りる、一緒に毒を飲む……。

 と、そこであの作家の名前が出てきた。

 太宰治。

 彼は、入水自殺、入水心中をした。

 そうだ、川に飛び込むのはどうだろうか。体にロープか何かを巻いておけば、白狐と離れずに死ぬことが出来る。

 そして、死んだ後は沈むかどこかに流れ着く。どちらもロープさえあれば死体も一緒にいることが出来る。他の方法も一緒に死ねるかも知れないが、俺は入水心中に惹かれた。

 水には、何故か魅力があったのだ。

 水は、何だか他の世界のような気がする。形をとどめず、ただ流れ、蒸発し、雨となる。はっきり云って不思議な物だ。そんな不思議な物と一緒に死ぬなら、俺らも不思議な場所に行けるのではないか、そんな妄想が生まれた。深淵とは違う世界に行けるのではないか、そんな妄想が生まれた。

「白狐?」先に白狐がどう考えているのかを聞こうと思った。

「うん?」

「白狐は、どうやって死にたいの?」

「うぅん。まぁ、どうせ死ぬんなら自分の死にたい死に方で死にたいな、とは思うけど、自分の死にたい死に方って云うのがどんな死に方なのか分かんない」

 ならば……。「じゃあ、一緒に死のう」

「え?」

「最後の日はいつ終わるか分からないから、残り一日の日に、俺と……」

 そこで言葉を止める。何故か〝心中〟と云う単語がなかなか口から出てこない。何故か、云うのを躊躇っている。何故躊躇っているのか、答えは簡単だ。

 もし白狐が嫌だ、と云ったら。

 それが怖いのだろう。

 だが、云わなければ何も始まらない。否定されれば、そこから何かを考えればいい。

 ベッドのカヴァーを強く握りしめながら云う。「俺と、心中しない?」

 すると、白狐はニコッと笑った。「夜ト」

「うん?」

「私も同じこと考えてた」

「じゃ、じゃあ、どうやって心中するか……」

 白狐は笑って云う。「いつものせーので云う?」

「そうしようか」

「せーの」「せーの」

「入水心中」「入水心中」

 白狐はどや顔をする。「ぴったり」

「な。素晴らしい程にぴったり」

「では、入水心中に決定です!」そう云って拍手する白狐。「ほら、夜トも拍手して」

「お、おう」俺も拍手する。

「……これって拍手していいのかな?」

「うーん、いいんじゃない? この世界だし。普通の世界だったらヤバい人たちだけど」

「え? 白狐ってヤバい人じゃないの?」

「うん? 何が云いたいのかな?」白狐はベッドから降りて俺の方に来、腕を思いっきりつねってきた。

「いででででっ!」

「えぇ? だいじょーぶ? 夜トぉ?」わざと馬鹿にしたような――いや馬鹿にして云ってくる。

「誰のせいだと……」

「人のことを〝ヤバい人〟って云った人はどこのどちらさんかな?」白狐は再びつねってくる。さっきよりも強く。

「いだだだだぁ!」

「えぇ? だいじょーぶ? 怪我してなぁい? 絆創膏あるよ?」

「え? 絆創膏あんの?」冷静にツッコんだ。

「いや、ないわ」

「でしょうね」

 会話のネタが尽き、しばらく無言になった。

「……今日はどこ行く?」三分程無言の中で考えついたことは、その一文だけだった。

 はっきり云って、俺が行きたい場所は全部行った。俺の中では、行きたい場所はもうない。だから、白狐に委ねるしかないのだ。

 しかし、白狐も候補がないのか、うーんと唸りながら腕を組んだ。

 今思い出してみると、俺らが行ったところの殆ど――と云うより白狐の家以外、白狐が行きたいと云ったから行った場所だ。

 ならば、一カ所しか提案していない俺が提案するべきなのだろうか。

 しかし、本当に行きたい場所が思い浮かばない。

 逆に、この町には何があっただろうか。

 結論、何もない。どこにでもあるような物があるだけの、つまらない町だからしょうがないのだが。

 不意に白狐が叫んだ。「あ!」

「何? 行きたい場所あった?」どこに行きたいのだろう、と少し興味を持ったのだが、全く意味がなかった。白狐はあれを思い出しただけだったのだ。

「エナドリ!」

 慥かに池で冷やしたままにしてあるが、行きたい場所を考えているときにそれを云うのか。と、少しがっかりしたがまあいい。外に出れば何か思いつくかも知れない。

「ああ。じゃ、行きますか」

 部屋を出る。


 今日の天気はギリギリ晴れだった。雲の割合から見て、少し怪しいところではあるが多分晴れだ。

 ギリギリ晴れなので、当然雲が多い。なので、太陽が出たり雲に隠れたりを繰り返し、明るくなったり暗くなったりする。

 それに、高いところは強風なのか雲がもの凄いスピードで流れて行っている。

 車に乗り、俺の家の隣に向かう。

 さて、あの池で本当に冷えたのだろうか。冷えてなくとも、多分白狐は飲むんだろうが。

 駐車場から出、一本道に入る。いつも通りアクセルを踏み込んでスピードを上げる。どんどんと。

 水を得た魚イコールアスファルトを捉えた車だ。

 スピードはどんどん上がり、風の音が凄いことになっている。景色は飛ぶように視界から一瞬で消え去っていく。この飛んでいく景色も今日を入れてあと三日で見れなくなるんだな、と思うと何だか変な気分になる。

 当たり前を当たり前と思うな、と云う教師がよくいるが、今の世界でこの言葉は素晴らしい程に正解だ。と云うより、この世界にはもう〝当然〟はない。明けない夜はない、それは時間が来れば〝当然〟ではなくなる。

 スイッチを押せば明かりが付く。暑い、寒ければエアコンを使う。蛇口を捻れば水が出る。風呂に入る。テレビを見る。洗濯をする。冷蔵庫の中は冷たい。冷凍食品を電子レンジで解凍する。火を使って料理をする。換気扇が回る。夜になると街灯が付く。自動ドアが開く。掲示板が一定時間ごとに表示する物を変える。店の看板が光る。エスカレーター、エレベーターが動いている。電車が動いている。自販機が動いている。信号機が動いている。人を殴れば、蹴れば逮捕される。人を殺せば逮捕される。学校がある。宿題がある。そして……。

 白狐と一緒にいることが出来る――それすらも〝当然〟ではなくなってしまう。

 今すぐにでも「くそっ!」と叫びたい。

 何故、白狐と一緒にいることが〝当然〟ではなくなるんだ? 何故俺の幸福は目の前に現れたと思えばすぐに消える? 巫山戯ているのか。

 そんなことを考えていると、自然とハンドルを握る手に力が入った。足にも力が入り、アクセルがさらに沈み込む。

 景色はさっきと同じように流れていく。そして時間も――残酷な程に流れていく。

 不意にある言葉を思い出した。

『人間にとって何よりもいいのは生まれてこないこと。だが生まれた上はできるだけ早くこの世を去ることだ』

 慥かにそうだ。何で俺は生まれて――ああ、駄目だ、最近同じ事ばかり考えている。白狐が風呂に入っていたときも同じ事を考えていたと思う。

 分かっていた。存在意義なんて物は一部の人間――天才にしか存在しない。「自分の存在意義はこれだ!」と云っている者もいるが、実際それは自分でそう思っているだけであって、事実ではない。もしくは、自分が出来ること、得意なことを存在意義と勘違いしているだけだ。

 天才は世界を変える能力を持っているため存在意義があるが、一般市民――凡人はそれを眺めているただの野次馬に過ぎない。火事の現場で、野次馬がいると火が消えるか? そんな訳がない。

 つまり野次馬は不要な存在、つまり一般市民――凡人は世界にとって不要な存在なのだ。

 そんなネガティヴ思考を頭の中に充満させていると、目的地に着いた。

 車を止めて、降りる。

 空の雲の流れが遅くなった代わりに、地上で風が強くなった。髪が暴れ、生えている木が大きく揺れている。まるで台風が来たようだ。

「――――――?」白狐が何か云ったようだが、強風で聞き取れない。

「何て⁉」大声で聞き返す。

「風! 強くない⁉」

「強いな! 台風みたいだ!」

 目的が沈んでいる池に行く。

 白狐は前髪が飛ばないように押さえている。髪型を気にしているのだろう。俺も、前髪を押さえている。理由は髪型ではなく、あの傷だ。白狐に見られて理由を説明したが、見ていい気持ちになる物ではないので極力隠すようにしている。

 池の縁にしゃがみ込んで中に手を入れる。気温に比べ、水温は随分と低い。

 底にある缶、二本を引き上げる。

「車! 戻るぞ!」

 何もなければ外で飲んでいただろうが、この強風の中ではとてもじゃないが飲めない。

 缶をポケットに突っ込んで、小走りで車に戻った。

 風の音が遮断され、急に静かになった。

「うわー、急に静か」

「な。はい、これ」缶を渡す。缶に付いていた水滴は、ポケットの内側の布によってふき取られていた。

「ありがと。開けて、いい?」

「開けないで飲めるなら開けなくていいよ」

「んなこと出来るか!」白狐はプルタブを起こした。

 カシュッ! と音がして、エナドリ独特の匂いが車に解き放たれた。

「うわ、凄い匂い」

「苦手?」

「いや、何か……凄そうな匂いがする」

「どんな匂いだよ。ま、いいや。飲んでみな」

 白狐は恐る恐る缶を口に近づけ……飲んだ。そして二、三口飲んで、缶を口から離すと云った。「甘! 凄い甘いねこれ! カフェインってコーヒーのせいか、なんとなく苦いって云うイメージあったんだけど」

「エナドリは基本甘いよ」

「わあお、太っちゃうじゃないか」

「あれまぁ」

 俺もプルタブを起こす。カシュッと音がして、少し中身が吹き出したが気にせず飲んだ。水の冷蔵庫は強力だったらしく、冷蔵庫――いやそれ以上に冷えていた。俺の友達だったら「キンキンに冷えていやがる!」と云ったところだろうが、俺はそんなことは云わない。静かに飲む。

 エナドリだけの、この独特な味とパンチが口に広がる。一体何ヶ月ぶりに飲んだのだろうか。

 久しぶりにエナドリを飲んだせいか、昔の記憶が蘇ってきた。思い出したくない記憶が。

 俺が最初にエナドリを飲んだのは小五だった。その頃、学校や周りはエナドリを〝危ない物〟や〝ヤバい物〟と――つまりゲテモノ扱いされていた。そのせいか、飲んでいる人をヤンキーや不良と決めつけたりして、距離を置く人が多かった。

 その時、ただ一人だけエナドリ友達がいた。

 とは云っても、その子は最初からエナドリを飲んでいて俺と友達になったのではなく、ある日、その子が話しかけてきたのだ。

「エナドリって、おいしいの?」と。

 エナドリの会話は誰ともしたことがなかったので、俺はどこがどうおいしいのかを長々と語った。

 それを聞き終え、その子は「へぇ、じゃあ飲んでみようかな」と云った。

 次の日、その子は目をキラキラさせながら駆け寄ってきた。「ねぇ! 凄ぇ美味かった! エナドリ最高!」

 そう云った訳で俺はそのことエナドリ友達になった。

 しかし、それは長く続かなかった。

 その子は、事故で死んだ。

 理由は交通事故。その子が自転車で交差点に進入したとき、運悪く信号無視の軽自動車と衝突。激しく全身を打ち、心肺停止の状態で病院に搬送されたものの、一時間後に死亡。

 そして、その子の葬式であの人――俺が思いを寄せていた子に出会ったのだ。

 つまり、エナドリを飲んで友人が死んだ悲しみと、思いを寄せていた子への罪悪感などが蘇ってきた訳である。

――はは、よく出来た小説かよ。

 心の中でそう呟いて笑った。俺の人生を文章化しただけで一つの小説ができあがりそうだ。

 頭を振って、ネガティヴ思考を吹き飛ばす。そして、駄目だ、白狐との人生に集中しろ、と自分に云い聞かせる。

 エナドリを一気に喉に押し込む。炭酸で喉が痛いが、ネガティヴ思考を完全に吹き飛ばすのにはいい刺激だ。

「ぷはー! ごちそうさまでした!」白狐が空き缶をくるくる回し始めた。

 俺はゴクッゴクッと音を立てながら一気に飲み干して、空き缶を握りつぶした。

 白狐は空き缶を回すのをやめて云った。「わお! 怪力夜ト!」

「どうも、怪力夜トです」

「じゃあ私は……」再び空き缶を回し始める白狐。「缶回しチャンピオンの白狐です」

 笑いながら白狐に「缶、貸して」と云って、缶を借りる。缶の上の部分を親指と人差し指でつまむように持つと、手首を回しながら缶をくるくると回した。

「はい、俺も缶回しチャンピオン」

「むー、缶、返して」

 缶を返すと、白狐は「ふん!」と云って缶を握りつぶした。

「どうも! 怪力白狐です!」

「わお」

「これで、どっちも怪力で缶回しチャンピオンだね」

「凄いどうでもいいな、それ」

 握りつぶされた白狐の缶を受け取り、ドアを開けて自分の缶と一緒に外に捨てた。

「うわっ、ポイ捨てだ」

「大丈夫、これが初めてだから」

「ならよし」

 ドアを閉める。風はまだ強かった。

 捨てた缶が風で飛ばされ、小さくカランカランッと缶が転がる音が聞こえた。

 白狐にホテルでした質問をもう一度した。「今日、行きたい場所あるか?」

「うーん、さっきも考えて『エナドリ』しか出てこなかったんだよなぁ」

 すると何故か裏声で白狐が喋り始めた。「逆にぃ、夜トが行きたい場所ないの?」

 ないのだが、わざと少し考えるふりをする。うーん、とそれらしいうなり声を上げて腕を組む。当然〝ふり〟なので何も考えていない。

 ホテルで考えついた物は、全て無理なところばかりだった。何が無理かというと、例えば遊園地、電気が通っていないし作業員もいないため機能していない――そう云う〝無理〟だ。

 遊園地の他にもボウリング、ゲームセンター、カラオケ……思いついた物、全てが無理だ。

 と、そこで一つだけ思いついたことがあった。考えていないのに、頭の中にポンと浮かんだのだ。

「白狐」

「うん? 何か思いついた?」

「ひとまず、何か食べ物探しに行くか」

 白狐は指を鳴らした。「そうしよう」


 近くにコンビニなどは沢山あったのだが、どこか違うところに行って新しいところを探そうと白狐が云うので、車を走らせている。

 一度、少しだけ窓を開けてみたが外はまだ強風だった。開けた瞬間、ヒュオー、と云うのかシュオー、と云うのかグオーと云うのか、とにかくそんな感じの音がして、風が車内をかき乱した。急いで窓を閉じたのだが、隣に置いてあった毛布が風で飛ばされてフロントガラスに――静電気のせいか――張り付いた。白狐も「前髪終わったんだけど!」と怒っていた。

 白狐が前髪を整え終わったのを確認すると、毛布を足に挟んでもう一度窓を開けた。

 再び風が車内を襲う。

 二秒程して窓を閉めた。

「ねぇ? 夜トぉ? 何をしているのかなぁ?」

 白狐は前髪を整えることなく、肩を掴んできた。もの凄い力で。

「あだだだだっ!」

「ねぇ? 私が前髪整え終わったのを狙って窓開けたよねぇ?」

 とぼけて棒読みで返す。「なんのことだろうなー」

 白狐の肩を掴む力がさらに強くなった。

「痛っ」

「ねーぇ? いたずらする悪ぅい子ちゃぁんにはお仕置きが必要だもんねぇ?」

 どうやら白狐が怒ると、小さいあいうえおが入るらしい。

「お仕置きって何だよ?」

「そうだねぇ、今すぐ耳を噛みちぎってあげようかなぁ?」白狐が耳を軽く噛んできた。

「そんな簡単に噛みちぎれるとは思わないけど」

「ふぉうふぁふぁ?」耳を噛んだまま発音するので、聞き取りにくい。

「何て? そうかな? って云ったの?」

 白狐は耳を噛んだまま頷いた。そして、耳を噛む力を強めた。

「痛ぇ!」

「あふぇ? いふぁいふぉ?」

 おそらく、あれ? 痛いの? と云ったのだろう。「痛いに決まってるだろ! 待って、謝るから! 謝るから噛むのやめて!」

「ふぁきにあふぁまふぇ」

「先に謝れ? ごめんなさい! 心から反省しています! 許してください!」

 白狐が耳から離れた。おそらく、耳にくっきりと歯形が残っているに違いない。

 ハンドルから左手を離して耳をさする。ああ、絶対にくっきりと歯形が残っている。何故なら、触ってみて歯形状にへこんでいる部分があるからだ。

 歯形が残る程噛んだなら、もしや血が出ているのでは。そう思って、左手を見てみたが血は付いていなかった。白狐も、力の加減を分かっていたらしい。多分。

 だが、噛むのをやめてもらってもなお耳の痛みは続いている。

「痛ぇ……」

「大丈夫? 噛んであげよっか?」と、白狐が真顔でそんなことを云うので吹き出してしまった。何でそんな巫山戯たことを真顔で云えるのだろうか。

 吹き出したのが意外だったのか、白狐は首を傾げた。「え? 何か変なこと云った?」

「白狐はいつも変なこと云ってる」

 あ、と思ったときにはもう遅かった。白狐は再び噛みついてきた。

「痛ぇって!」

「わふぁひがいふふぇんなふぉふぉいふっぁっていふの?」

 私がいつ変なこと云ったって云うの? だろう。

「変って云うか……真顔で吹っ飛んだこと云うから……っ痛」

 白狐は耳を噛みながら、腕をつねってきた。

「ちょ、やめ、運転できないから……」

 腕をつねられると普通に運転がしにくいのでそう云ったが、白狐は腕をつねるのをやめようとしなかった。

「いいのか? こんな道路で事故って死んじゃいました、って」

 白狐は耳を噛むのをやめ、腕をつねるのもやめた。「悪くないだろう」

「いや、悪いだろ」

「夜トと一緒に入れればそれでいいのさ!」そう云って白狐は顔の前でVサインをする。

「いや、どうせならもっといい死に方しようぜ」

「例えば?」

「……分かんないけど」

 実際は例なんて腐る程上げられたが、あえて何も云わないでおいた。

「まぁ、やっぱり私は水があった方がいいかな」

「何で?」

「何か……水があると水に守られてるような気がするんだよね。体を覆って、守ってくれているような気が。だから、水があった方がいい」

 理由はどうであれ、俺も白狐も〝死〟を考えるとそこには〝水〟が必ずあるらしい。

「でもさぁ……」

「うん?」

「やっぱり入水って云ったら……?」白狐がせーのと云う。

「太宰治」「太宰治」

 白狐がケラケラと笑う。「だよねぇ」

「ま、有名だからね」

 じゃあ……、と白狐は続けた。「何で太宰治は入水を選んだと思う?」

 そんなの太宰治の勝手だろうに! と云いたかったが、真面目に考えてみた。

 苦しみたくなかった? いや、溺れるんだから必ず苦しむだろう。では、血を見たくなかった? なら、首吊りなんかでもよかった筈だ。じゃあ、家の外がよかった? それなら飛び降りでもいい筈だ。わざわざ水のあるところまで行く必要はない。

 ならば、何故入水を選んだ?

 国語のテストの「筆者はなんと思っていますか」と同じくらい答えが分からない問題だ。結論から云って、本人に聞くしか分からないのだ。

 国語のテストで「筆者はなんと思っていますか」と、よく最後の問題で出てくるが本当に意味がないと思う。いや、明確に「私の考えは――」と書かれている物ならいい。しかし、書かれていないのにその問題がよく出てくる。そして、考え方というのが「書かれている内容から読み取る」と云う物なのだ。

 それはただの予測に過ぎないと云うことを、皆様お気づきだろうか。

 つまり、それを知りたければ本人に聞け、と云うことなのだ。しかし、本人がこの世界にいない場合、その答えを知る方法はない。

「知るか」

「えぇ、考えてた割に雑な答えだね」

「そんなの本人に聞かないと分からないだろ」

「うわっ、つまらない男だなぁ」

 白狐は首をぐるっと一周させた。「じゃあ、聞き方を変えようか。太宰治は何で入水を選んだと思う? 夜トの予想は?」

 さっき考えた物の中から適当に選んで云う。「血を見たくなかったんじゃない?」

 ふと、外を見ると俺らは大通りのようなところを通っていた。デパートなんかがズラーッと並んでいて、家らしき物は一つも見えない。この辺で食べ物を探してもいいんじゃないだろうか。

「血かぁ、それもあるかもね。でもさ、やっぱり〝水〟には何か魅力があったんじゃないかな?」

「魅力って?」と云いながらスピードを落として、大きめのデパートの駐車場に向かう。

「ほら、さっき云ったじゃん。守られている気がするんだよ」

「あー、さっき云ってたな」

 車はゆっくりと駐車場に入っていく。

「そう云えば、夜トは何で入水心中がいいの? 太宰治のまね?」

「それはねぇ……」と云って、理由を話した。水が不思議な物、不思議なところに連れて行ってくれる……そう云うことを。

 途中で何が不思議なところだよ、と馬鹿馬鹿しくなってきたが、白狐が真剣に聞いてくれているので最後まで話した。

 そして、ちょうど俺が話し終わったときに駐車場に着いたので、車を止めた。

 白狐は車を降りようとはせず、腕を組んでふんふんと頷いている。

「やっぱり、夜トはこの深淵から抜け出したい訳だ。まだ、完全に諦めていた訳じゃなかったんだ?」

「あー、どうなんだろう。抜け出せないって諦めたから、水がそう云う物に見えたのかも知れないし」

 白狐は真剣な目つきで聞いてきた。「本音を云え、夜ト。抜け出せる手段があれば、深淵から抜け出したいか?」

 俺が深淵を普通だと思い始めたのは、前にも云ったが抜け出せないと分かったからだ。そう、当然俺もこの深淵を、この状況を打開しようと努力をした。しかし、打開する方法――つまり深淵を抜け出す手段がなかったのだ。

 当然、抜け出す手段があるならば――「抜け出したい」

「よし、よく云った、夜ト」白狐は俺の頭をポンポンと叩いてきた。

「つまり、水は夜トにとって深淵ら抜け出すための唯一の手段な訳だね」

「そう――だね」

 白狐は、背中を反らせながら腕を天井に付けて伸びをした。長い間座っていて、背骨が凝ったのだろう。俺も白狐をまねて伸びをした。背骨がバキバキバキッ! と鳴って、自分でも驚いた。

 白狐がクスクスと笑った。「凄い音するね」

「あ、聞こえた?」

「うん、バキバキバキ! って。大丈夫? 背骨折れてない?」

 背骨を反らす。「大丈夫でしょ、反らせるし」

「そっか、安心した」

 そう云うと白狐はドアに手をかけて、外に出た。俺はもう一度伸びをしてからドアを開け、外に出る。

 と、右足を地面に下ろして立ち上がろうとしたとき、右足に力が入ったような感覚があった。

 あ、と思ったときには既に痛みが右足を襲った。そう、攣ったのだ。

「あだだだだっ!」

 少し歩き始めていた白狐は、勢いよく振り返って「何⁉ 大丈夫⁉」と叫びながら戻ってきた。

「ちょ、ちょっと、ちょっと待って……」

 まだ椅子に座ったままだったので、転ぶことはなかったがそれでも痛いことに変わりはない。

 靴と靴下を脱いで、ゆっくりを足を曲げながら車内に入れて助手席に足を伸ばして置く。それから、右手で足の指を握って自分側に倒す。こうすると――他の人がどうかは知らないが――攣るのが治る。

 足をもう一度外に出して靴下を穿き、靴を履く。戻ってきた白狐は、心配そうな目で見つけてきた。

「え、本当に大丈夫? 何があったの?」

「大丈夫、ただ足が攣っただけ」

「あー、私攣ったことないから分かんないんだよね」

「え? 本当に?」

「うん」

 靴を履き終えると、白狐が手を差し出してくれたのでそれを掴んで立ち上がった。まだ、攣った後の違和感が残っているが、気をつけていればまた攣ることはない。多分。

 デパートの入口は二つあり、俺らが向かったのは駐車場に近い〝裏入口〟のようなところだ。

 もう動いていない自動ドアが立ちはだかる。

 白狐に右側のドアを頼んで、俺は左側のドアを引く。この世界になってから、何度こうやって力ずくで自動ドアを開けたのだろうか。

 しかし、この自動ドアは他のところの自動ドアと違うのか、なかなか開かない。思いっきり力を入れているのに、開いたのは手が入るか入らないか程だった。

 と、その時、また右足に嫌な感覚が走った。

 急いで自動ドアから手を離し、足に力を入れないようにする。

「あー、また攣った?」白狐がドアを引きながら云ってくる。

「いや、攣りそうになっただけ」

「うわぁ、気をつけてね?」

「了解」

 足をマッサージして、どうにか安全なところまで戻す。

 なんとか大丈夫そうなので、もう一度ドアに手をかける――⁉

 その時、白狐が倒れた。

「え⁉ え? 大丈夫か?」

「何? 何か、痛い! 足痛い! 何これ!」白狐は足をさすっている。

 もしかして、と思った。「ちょっと触っていい?」

 白狐が頷いたのを確認して、白狐の足に触れる。白狐がさすっていたのは左ふくらはぎだ。

 案の定、触ってみるとまるで筋肉がなくなってしまったかのようにふくらはぎが柔らかくなっている。つまり――攣って筋肉が偏ってしまっているのだ。

「白狐……」

「何? 私の足、どうなってんの? あ、痛っ!」

「白狐、おめでとう」

 白狐は怒った顔をして云った。「何がおめでとうだよ! 凄く痛いんだから! 助けろぉ!」

「白狐、初めて足攣ったね」

 さらに痛くなってきたのか、足をさする手がさっきよりも早く動いている。

「あ、これ攣った……? これが攣ったってことなの?」

「そう云うことです」

「これ、直せる? 夜ト、さっきなんかやってたよね?」

 足の指を自分側に倒す奴だろうか。

「あぁ、効くか分からないけどやってみる?」

「お願い! 痛すぎて泣きそう……」

 靴と靴下を脱がせて、足をゆっくりと伸ばす。正座をして、白狐の足を俺の膝の上にのせると、足の指を握って白狐の体の方にぐっと押す。

「あーだだだだだっ! いだぁ!」

 背中を反らせて叫んだ白狐だが、足はしっかり伸ばしたままにしている。

 そのおかげ――もしくは時間が解決してくれた――か、白狐の足の攣りは治った。

 白狐が「治った……」と云ったので、靴下と靴を履かせてやった。

「よぉし、よくやった夜ト。お前は最高の僕だ!」

「誰が僕だよ」

「いやぁ、靴を履かせてくれるところとか僕そのものじゃん」

「へぇ、人の善意をそうやって踏みにじるんだ?」

「えぇ、ごめんて」

 白狐は再びドアに手をかけた――が、すぐに手を離した。

「怖いな……」

 どうやら攣るのがトラウマになってしまったらしい。それはそうか。俺が最初に攣ったのは足に力を入れたときだったから、しばらく足に力を入れないようにしていた。それと同じように、白狐も自動ドアをこじ開けるのが怖くなってしまったのだろう。

「正面から入る? 自動ドアないけど」

「そうしよう」

 結局、俺らが開けようとした自動ドアは腕が入るか入らないか程しか開かなかった。

 駐車場の横道を進んで、デパートの正面に来る。

 さっきは白狐との会話に――もちろん車の運転にも――集中していたので正面に自動ドアがないことくらいしか見れていなかったが、本当に大きなデパートだった。

 不意にここがどこなのか気になって白狐に聞いてみたが、白狐も分からないらしい。辺りを見回しても看板などはなく、ここが何県の何市なのかが本当に分からない。だが、俺の町ではないことは慥かだ。

 正面玄関からデパートに入る。

 入るとすぐ目の前に「お客様センター」があり、左の奥の方にはエレベーターが、フロアの真ん中辺りにはエスカレーターがある。

 巫山戯て、お客様センターのベルを鳴らした。

「チーン……」高い音が無音のデパートの中を駆け巡る。

「鳴らしても誰も来ないでしょ」白狐が笑いながら云ってきた。

「このベルって、見ると鳴らしたくなるじゃん?」

「ガキかよ」

「うわぁ、口悪いね」

「口が悪いのは生まれつきですが、何か?」

「いえ、何でもありません」

 お客様センターの机に貼ってある案内板を見る。見たところ九階プラス地下二階まであり、一回は化粧品、二回は婦人服、などと分類されている。

 俺らの目的の食品は、四階と五階らしい。

 ひとまず、四階まで行ってみることにした。

 フロアの中央まで行き、動かなくなったエスカレーターを上がる。動いていないエスカレーターを上がるのは、人生で初めてだ。

 それに、エスカレーターは階段に比べて一段一段が大きいので白狐が途中で転びそうになり、それからゆっくり上がることにした。

 四階に着いた。エスカレーターを降りたところから見えたのは、透明なケースで囲われた和菓子達だった。

 少し前に出てぐるっと辺りを見てみると、どうやらこのフロアはお菓子系の物が置かれているらしかった。さっき見えた和菓子の他に、鯛焼きや今川焼き、カステラやケーキなどがあった。

 俺としては何の魅力もないのだが、白狐にとっては聖地のような場所らしく、サッと俺を追い越してフロアを小走りで移動していった。その時、置いてあるお菓子を見ながら「うわぁ」とか「ふふん」と云っていた。

 ゆっくり歩いているとどんどん白狐に引き離されてしまうため、一気に走って白狐に追いついた。だが、白狐はお菓子に気を取られていて俺のことに気が付いていないようだった。

 これはいたずらチャンス……!

 そぉっと手を出していき――白狐の目を塞いだ。

「みゃっ⁉」驚いて、白狐は猫のような声を出した。

「くっ……くくっ……」出てくる笑いをかみ殺しながら手を離した。

 白狐はくるっと振り返ると、俺を下から覗き込み――いや睨み込み、「よぉるぅとぉ? 一体何をしてくれてるのかなぁ?」と、相変わらず怒ると小さいあいうえおが入る言葉遣いで云ってきた。

「え、なんのことかなー」俺も相変わらずの棒読みで返す。

 すると、白狐は当然のように俺の腕をつねろうとしてきた。だが、一回車の中でやられたことだから想像は出来たので、すっと避けた。その時、何故か「白狐ってくすぐり効くのかな」と思ったので、腕を伸ばして白狐の脇腹をくすぐった。

「ちょっ……! くっ……あ、あははははは!」

 案の定、白狐にくすぐりは効いた。白狐は身をよじってなんとか逃げようとするが、くすぐりで体のバランスが崩れてなかなか逃げられないようだ。俺はそのままくすぐりを続けた。

「ちょ……! ほ、ほんとに、息、息できないからぁ!」

 顔を見ると本当に苦しそうなので、一旦くすぐりを止めた。

 白狐は膝に手を置くと、はぁはぁと息を整えていた。まるでマラソンを走り終えた人のようだ。

「ね、ねぇ、夜トぉ……」

 膝に手を置いているせいで、背中が無防備になっている。うなじ辺りに人差し指を置いて、すーっと指を這わせた。

「にゅぁっ!」

 白狐はビクッとエビが跳ねるように背中を反らせた。

「ちょっと、本当に止めて?」

「ごめんごめん。で? おいしそうな物あった?」なんとなく怒られそうな気がしたので、無理矢理会話の内容を変えた。

 白狐はむーっと頬を膨らませたが、特に怒ったりはせずに気になった物をどんどん云ってきた。

「あそこの透明で綺麗な和菓子、エスカレーター付近にあったカステラ、あっちのモンブラン、ティラミス、イチゴケーキ、フルーツミックスケーキ、あのゴーフル、きんつば、どら焼き、金平糖、詰め合わせのチョコ、カスタードプリン、ミルクプリン――」

「ちょ、ちょっと待て」無限に続きそうなので、一旦そこで止めた。

「結局……このフロアにある物全部食べたいって事?」

 白狐はグッドポーズをした。「よく分かりました」

 出来るなら俺もそうしたい――のだが、おそらくそれは出来ない。常温保存で、賞味期限――あるいは消費期限――が来ていない物ならいいが、和菓子やケーキなんかはアウトな物が多いだろう。

 その事を云うと、白狐は頬を膨らませた。「えー、大丈夫でしょ」

 なんとも困ったちゃんである。それで腹を壊したらどうする? 吐いてしまったらどうする? おそらく、白狐は何も考えていない。いや、考えようとしていないのかも知れない。

「腹壊したらどうすんの?」

「えぇ、大丈夫でしょ、多分」

「いや、大丈夫じゃないから」

 窓から差し込む光が少し弱くなってきたような気がする。もし、このデパートにいるときに日が暮れたら終わりだ。何故なら――ライトを持ってきていない。つまり、照明の付いていないデパートで外からの明かりもなく、ライトもない――デパートから出られなくなるのだ。

「白狐、急ごうか。時間がそんなにない。多分」

「え? 何で?」

 明かりのことを話してうやる。

「あー! そっか! 急がないと!」

 そう云って駆けだした白狐だが、振り返って云った。

「ねぇ?」

「うん?」

「このデパートに家具売り場、なかった?」

 何を云いたいのかは分からないが、さっき見た案内板には家具売り場の記載があったので、「あるよ」と答えた。

「そんならさ、そこの店のベッドで寝ればいいんじゃないの?」

「あ、ああ……」

 その発想はなかった。慥かに、家具売り場にはベッドがあるだろう。それなら、わざわざあのホテルに戻って寝る必要もない。それに、ここには商品が揃っているからホテルよりも過ごしやすいだろう。

 それに、売り物なら使われたホテルのベッドよりもフカフカに違いない。

「よし、それで行こう。じゃ、食べ物集めて」

「了解!」

 白狐は再び駆けだして行った。俺はここで待っているつもりだったが、なんとなく置いてけぼりを食らったような気がしたので、白狐に付いていった。今回はちゃんと気が付いたらしく、俺が追いつくと警戒態勢を取ってきた。「何もしないよ」と云うと「本当かよ」と不満そうな顔で返してきた。

 白狐は売られている物の中から、常温保存の物をかき集めた。それをとあるテーブルの上に集めると、今度は賞味期限――もしくは消費期限――を確認し始めた。どうやら、俺の警告をしっかり聞いてくれたようだ。

 賞味期限は〝賞味〟だから大丈夫、と云う人もいる。と云うか、実際はそうらしいのだが、今までの状況と今の状況は全然違うので万が一を考えて、賞味期限が切れている物も省かせたのだ。

「あー! これ食べたかったのにぃ」と云いながら白狐が投げ捨てたのは抹茶のお菓子だった。見てみると、切れていたのは「消費期限」だったので救いようがなかった。

 と、その時、どこからか「グォー」と云う機械が動くような音が聞こえてきた。いや、だが電力供給はストップされているから機械が動いている筈はいないのだが――そう思いながらも、音の主を探した。

 音の方へ歩いて行くと、小さな冷蔵庫が見つかった。

――いや、冷蔵庫が動いている訳がない。

 そう思いつつも冷蔵庫を開けた。と同時に、冷気が俺を襲った。つまり、この冷蔵庫は機能している。

 俺の頭の中に、いくつかの仮説が浮かんだ。が、考えるよりも動け。冷蔵庫に繋がっているコードを辿ってみることにした。

 コードは養生テープで地面に貼り付けられていた。人がつまずかないようにと云うことと、コードの保護のためだろう。コードは建物の壁まで行くと、壁に沿って伸びていた。さらに辿っていくと、いくつかのコード達と合流して、結果的に「関係者以外立ち入り禁止」のドアの奥に伸びていた。

 そこのドアを開け、奥に入る。そのコードはとある部屋に入っていた。その部屋を開けると、何やらバッテリーらしき物にコードが繋がっていた。

 だが、それは可笑しい。何ヶ月も冷蔵庫を動かし続けることのできるバッテリーがあるか? 無論、ない。

 さっきの仮説が浮かび上がる。

 では、誰かいるのか?

 しかし、それも考えにくい。そもそも、人がいたとしてどうやってバッテリーを充電するのだ? 出来る訳がない。

 バッテリーをしばらく見ていると、バッテリーから一本線が出ていることに気が付いた。その線は、どうやら上に繋がっているらしい。

 部屋を出て、近くにある階段を駆け上がる。

――もしや、屋上か? 屋上なら……そうか!

 駆け上がる中、一つの答えが出てきた。これ以外考えられないという、完璧な答えが。

 一番上まで上がると、屋上と書かれた扉が見えた。そしてその扉を開けると、果たせるかな、ソーラーパネルがあった。なるほど、これなら冷蔵庫で使う分だけの電力を溜めることが出来たと云うことか。

 疑問が解けたその時、白狐を置いてきたことを思い出した。

 しまった、と思って急いで階段を駆け下りる。「4」の記載を見落とさないように駆け下り、「4」が見えた瞬間に一度足を止めて方向転換をする。ドアを開け、フロアを見渡すと白狐がキョロキョロしているのが見えた。

「あ! 夜ト! いたぁ! どこに行ってたんだ! 探してたんだぞ!」

 どうやらお菓子の選別は終わったらしい。

「こめん」

「え? 米?」

 うっかり、学校ではやっていた言葉を使ってしまっていた。

「ああ、ごめん。白狐知らないよな。俺の学校で「ごめん」を「こめん」って云うのがはやったんだよ」

「へぇ、どうでもいいな」

 と云うより――と云って、無理矢理会話の内容を変える。

「白狐、凄いことが分かったぞ」

 白狐は「はいはい、そうですか」と云う顔をした。「何? どうせくだらないことでしょ?」

「いや、案外重大なこと。付いてきて」そう云って、例の冷蔵庫に向かう。どうやら無意識のうちに閉めてたらしく、冷蔵庫は開いていなかった。なので、まだ冷蔵庫が機能していることはバレていない。

 何? 冷蔵庫がどうしたの? などと何か云われると思っていったのだが、白狐は何も云ってこなかったため、そのまま冷蔵庫を開けた。さっきと同じように冷気が俺らを襲ってくる。

 白狐が困惑の声を上げた。「え、何これ? 心霊現象?」

 ソーラーパネルのことを話してやる。すると白狐の目はキラキラと輝き、感嘆の声を上げた。

「夜ト! よく気が付いた! 褒めてあげます!」

「え、ああ、ありがとうございます……?」

「え、じゃあさ。ここに冷やしたい物入れていいって事だよね?」

「そうだよ」その後に一応、曇りが続いたら無理だけどね、と付け足しておいた。

 白狐は選別したお菓子の中から冷やしたい物を持ってくると、冷蔵庫の中に次々と入れていった。一応何個か確認したが、しっかりと常温保存が出来て「期限」の記載日を過ぎていない物だった。はっきり云って、常温保存だから冷やす必要はないのだが。

 その後、五階に行ってみた。五階はよくあるスーパー風で、野菜や果物、米や麺やパン、ボトル飲料などがあった。

 俺が何も云わないのに白狐は駆けだして行って、しばらくするとカゴに色々な物を入れて帰ってきた。カゴの中を確認すると常温保存と「期限」が切れていない食べ物と、気に入ったのか何種類かのエナドリが入っていた。が、俺の好きな味がなかったので、一緒に飲み物売り場に行った。

 白狐が「あの辺」と行って指さした先には沢山のエナドリが並んでいた。その中から自分の好きな味を一本ずつ取り出して、カゴに入れる。白狐が「重い……」と文句を云ってきたが、聞こえていないふりをした。

 四階に戻ると、また冷やしたい物を冷蔵庫の中に入れていった。

「ふぅ……これで全部かな」

「多分ね、お疲れ様でした」

「……絶対お疲れ様でしたって思ってないでしょ、棒読み過ぎだぞ」

「いや? そんなことないけど」

「うわぁ」

 作業が早く終わったのか、日の明るさはそこまで変わっていなかった。


 その後、話し合って家具屋に行った。

 行ってみると家具屋は異常に大きくて、フロアの十分の三ぐらい使っているのではないだろうか、と思う程だった。店の感じから、さぞ大きな会社なんだろうなと云うことが想像できる。

 入口付近には机などの家具が並べられ、奥の方にベッドが見えた――と、思ったときには既に白狐は駆けだしていて、五秒後にはベッドにダイブした。

 近寄ってみると、ベッドは全部で五個あった。一つ一つ色が違うが、高さは一緒だ。横に貼ってある値札をチラッと見て、見なかったことにした。思っていた値段よりも、桁が一つ多かった。

 俺もベッドにダイブして掛け布団を頭から被る。ホテルの物よりもフカフカしていい。

「――――――――――?」

 白狐が何か云っているが、掛け布団を頭から被っているので何を云っているのか分からない。掛け布団から出て、聞く。

「何て?」

「ベッド、くっつけよ」

「え、ああ、はいはい」

 ベッドを押してくっつける。ちょっと大きめのダブルベッドのできあがりだ。しかし、白狐は首を振った。

「違う違う」

「え? 何が?」

「一個じゃなくて、全部くっつけるの! めっちゃベッド広くしよ!」

「白狐もやってよ」

「女子は肉体労働をしません」

「男女平等って云ったのどこのどいつだよ……」

 ベッドを押してくっつけていく。五つ分なので、全部くっつけると、とてつもなく横に長いベッドになった。

「お疲れ様」

 ベッドが案外重かったせいか、汗をかいている。息も上がり、そのままベッドに倒れ込んだ。


 ふと気が付いた。

 目を開けても、何も見えない。それはそうか、うつ伏せでベッドにいるのだから。腕立てのような動作で、体を持ち上げる。そして、俺の前に現れたのは――。

 黒。

 黒、だった。一度目を瞑って開けるが、やはりそこには黒しかない。しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。

 しばらくして、やっと自分の置かれている立場が分かった。どうやら、あのまま寝てしまっていたらしい。

 立ち上がろうと思ったが、止めた。こんな暗さでは、何がどこにあるのかが全く分からないし、ソーラーパネルで作られた電力がデパートの照明に使われていない限り、辺りを照らせる物はない。ライトを持ってくるべきだった、とつくづく後悔する。

 ぐるっと辺りを見渡すと、一点だけ、光がある場所があった。目をこらすと――それは窓だった。どうやら、月が出ているらしい。だが、その光は弱々しくて、俺の足下を照らすことはできていない。つまり、今俺が出来ることは何もない。再び寝ること以外は。

 だが、決まっていることに対する反抗心というか――いや、ただ眠くないだけだ。そのため、何かをしたい。だが、何も出来ない。一番苛々するパターンだ。

 ベッドを叩いた。

 バフッと音がして、それ以外は何もない。

 そこで、ふと疑問に思った。

――俺は何をしているんだ?

 そう思うと、どこかしらで全てに決心が付いた。大人しく掛け布団を被り、枕に頭を乗せる。見えないが、白狐も寝ているのだろう。

 あと、何回寝れるんだっけな。

 その疑問の答えを出す前に、俺の意識は途絶えた。

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