チーズは世界を救う
「……あの森の奥深くにはいつ、誰が作ったかもわからない宮殿がそびえている」
森のほど近い場所に作られた小さな村。その森を、いや、森の奥深くに眠る『それ』を監視するために勇者が住み着いたのがはじまりとされるその村で、村の古老はゆっくりと語りはじめた。
「宮殿に眠るは魔狼フェンリル。太陽を呑み、世界に闇と絶望をもたらす魔獣。決して、近づいてはならぬ。起こしてはならぬ。ひとたび、フェンリルが起きれば太陽は再び呑み込まれ、世界は再び、滅びを迎える。だが――」
古老は深い絶望を込めて言った。
「そのフェンリルが目覚めてしまった。世界が再び光を失い、滅び去るときがきたのだ」
「……フェンリル。魔狼フェンリル。そのフェンリルがこの森の奥深くにいるのですね?」
突然、古老の本を尋ねてきた若い女性は森の奥深くに視線を向けながらそう確認した。
「その通りじゃ。世界を闇と絶望が呑み込むのじゃ」
グッ、と、その若い女性は拳を握りしめた。
「……やっと、見つけました。魔狼フェンリル。あなたが、あたしの最初のおっぱいです」
チーズ令嬢カティだった。
森の奥深く。
広大な宮殿の地下深く。
誰によって作られたかもわからない封印の間。
そこに、眠りから目覚めたばかりの一体の『魔』が存在していた。
フェンリル。
魔狼フェンリル。
太陽を呑み込むもの。
かつて、引き起こされたラグナロクにおいて太陽を呑み込み、この世に完全なる闇をもたらした魔獣。その魔獣がいま蘇り、再び太陽を呑み込み、この世を完全な暗黒に落とし込もうとしていた。
「ふうぅ~。さすがに腹が減ったわ。前のラグナロクからずいぶんと長いこと眠っておったからな。さて。太陽を呑み、この世に再び闇と絶望をもたらす前に、手頃な人間でも食らって小腹を満たすとするか」
そう呟いたそのときだ。
折良く、人間の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「ほう。よもや、この封印の間に自らやってくる人間がいようとはな。なんとも、
そして、フェンリルはまつことにした。その足音の主がやってくるのを。
足音は徐々に高くなり、近づいてくる。一切、とまることなく、封印の間の扉を開け放ち、なかに飛び込んだ。そして、叫んだ。
「いたあっー、おっぱいおっぱい!」
「な、なんだと……?」
思いもかけない叫びに、さしもの太陽を呑む魔獣も面食らった。らしくもなく、間抜けな声をあげてしまった。マジマジと飛び込んできた人間を見た。それは若く、上品な、貴族の令嬢を思わせる娘だった。
その若い娘は両拳をグッと握りしめ、再び叫んだ。
「はじめまして! あたしはチーズ職人のカッテージ・カマンベールと言います。『カティ』と呼んでください。あなたのおっぱいを使ってチーズを作らせください!」
「な、なんだと……? おぬし、いま、なんと言った?」
「ですから、あなたのおっぱいを使ってチーズを作らせてくださいと言ったんです!」
「ま、まてまて、人間。おぬし、我がなにものか知っておるのか?」
「もちろんです! フェンリルさんですよね。太陽さえ呑み込む魔獣のなかの魔獣、魔狼フェンリル」
「そ、そうだ。それはわかっておるのだな。……よかった」
「わかっているから頼んでいるんです! フェンリルさんほどの魔獣のおっぱいなら、さぞかし素晴らしいチーズが作れるにちがいありません! チーズ職人として見過ごすわけにはいきません」
「ま、まてまて、ちょっとまて。落ち着いて、冷静になれ、な? 頼むから」
「あたしは落ち着いているし、冷静です」
「どこかだ⁉ ああ、いや、つまりだ。おぬし、言っていることがおかしいであろう。なぜ、我が乳を出すものと決めてかかっておる?」
「だって、フェンリルさんは魔獣でしょう。魔獣と言うからには獣。獣と言うからには哺乳類。哺乳類ならおっぱいを出すものと決まっています。ですから、あなたのおっぱいでチーズを作らせてください」
「乳を出すのは
「ごまかしても無駄です! そのお腹の立派な乳房。あなたはまぎれもなく女性です。哺乳類の女性ならおっぱいを出せます。さあ、あなたのおっぱいであたしにチーズを作らせてください」
作らせてください、作らせてください、作らせてください……!
一時も休むことなくそうたたみかけられていったい、誰が逆らえるだろう。
さしもの『太陽を呑むもの』フェンリルも例外ではなかった。
――なんというやつ。こんなやつを食ったら腹のなかで永遠に同じことを叫びつづけるにちがいない。
太陽すら呑み込む魔狼にとってもそれは歓迎したくない事態だった。
――やむをえん。ここはおとなしく乳を渡して退散させるとしよう。小腹を満たすのは後で狩りにでも行けばよい。
フェンリルはそう思い、少しだけ乳を分け与えた。
そのときのカティの喜びに満ちた表情ときたら。
――かわいい。
思わずそんな感想を抱いてしまい、思わずハッとする。
――い、いかんいかん! 我はなにを思っている。太陽を呑み、この世に闇と絶望をもたらす存在である我が人間の娘を『かわいい』などとは……。
カティの方はフェンリルの戸惑いなど関係なく大喜び。
さっそく、携帯農場を取り出し、加工施設付きの農家でチーズ作りに取りかかる。
まずは乳をチーズバットに開けて低温殺菌。乳酸菌を入れてしばし放置。
それから凝固剤を入れてさらに静置。一時間ごとに固まり具合をチェックする。
マット状に固まったカードを数センチ角に切る。冷水をかけてカードを冷まし、乳酸菌の働きを抑える。さらに細かく砕いたあと、九〇度の塩水のなかで練り、お湯を捨てて、弾力と艶が出るまでさらに練る。
「さあ、これで魔獣フェンリルのモッツァレラチーズのできあがりです! う~ん、良い香り。やっぱり、フレッシュチーズは新鮮さが命です」
カティは出来上がった自慢のチーズをたっぷりの野菜とともにパンにはさみ、サンドイッチを作った。特製のチーズ野菜サンドをフェンリルに差し出す。
「さあ、どうぞ、フェンリルさん! 特製のチーズ野菜サンドを召しあがれ」
「ちょ、ちょっとまて。それを我に食べろと言うのか?」
「もちろんです! あたしの願いはチーズで世界を幸せにすること。そのためには食べてもらわなくてはなりません。さあ、食べてください。長い間、こんな宮殿のなかで眠っていてお腹が空いているでしょう? これを食べればきっと幸せになれます」
――肉食の狼に野菜やパンを勧めるとは、なにを考えておるのだ、こやつは。そもそも、我の乳で作ったチーズを、その乳を出した当人に勧めるとは、どう考えてもおかしいであろう。
フェンリルはそう思った。思ったのだが――。
――むうぅ。こうもキラキラした、期待に満ちた目で見られては断るわけにも行かぬのう。
仕方がない。
フェンリルは覚悟を決めてチーズ野菜サンドを一呑みにした。そして――。
「……うまい」
思わずそう呟いていた。
カティは『ドヤッ!』とばかりに胸を張った。
「当然です。魔獣フェンリルのチーズに、お日さまをたっぷり浴びて育った新鮮野菜、そして、やはりお日さまをたっぷり浴びて育った小麦から作られたパンで出来たサンドイッチ。おいしくないわけがありません!」
カティは『ふんぬ!』と、胸を張って宣言する。
「……むうぅ。なんと言うことだ。太陽のある世界ではこんなにもうまい食物があったとは。これは太陽を呑んでいる場合ではない。娘……いや、チーズ職人のカティだったな。この世界には我の他にもあまたの魔獣神獣がいる。そのものたちの乳から作ったチーズもこれと同じくらい美味だと申すか」
「もちろんです! 伝説の魔獣神獣のおっぱいから作るチーズ。どれもこれも素晴らしい出来となるにちがいありません!」
「ううむ。それと聞いては黙っておれぬ。これほどの美味、味わいつくさねば気がすまぬ。乗れ、カティよ。我と共に世界の隅々まで行進し、ありとあらゆる魔獣神獣のチーズを味わい尽くすのだ!」
「その意気です! 世界一のチーズを目指して世界の果てまで行進です!」
第一話完
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