(4)喫茶六等の星①――中藤伊織
例のカメラ事件があった日の夜。
くさくさした気持ちを抱えたまま家に帰りたくなくて、私は久しぶりに【六等の星】に寄った。
「いつもの?」
「今夜はココアじゃなくてコーヒーを」
夜の8時半。コーヒーを飲むには少し遅い時間だけど、今夜はホッとするココアよりも頭がシャキッと冴えるコーヒーの気分だった。
「砂糖とミルクはどっちも抜きで」
「承知しました」
いつもと違う飲み物を頼んでも、真方さんはなにも気にすることなく、普段通りさらさらっと伝票を書いて、テーブルを離れていった。
(まるで興味なし、か)
コーヒーを淹れている彼の、年齢を感じさせない綺麗な後ろ姿をぼんやり見ながら、私は変に構えていた自分を馬鹿みたいと思った。
もし「今夜は元気がないようだね?」と訊かれていたら、それはそれで面倒だったろう。接客のとき以外ほとんど口を開くことのない――素朴というか淡々としているというか――そんな彼が急に好々爺になったら、これまでの人物像も崩れていたに違いない。
それなのに、いつもと違う注文をしても(おや?)と怪訝そうな顔一つされなかったことに少しガッカリしている。
(我ながら本当に面倒臭い性格よね)
いつも静かな笑みを浮かべている、60代半ばのマスター。
いつ来ても店内の照明は薄ぼんやりとしていて、音楽は延々と『テイク・ファイブ』……。
喫茶【六等の星】は、特別美味しいココアやコーヒーが飲める店ではない。マスターの真方さんもひどく無口な人だ。話しかけられることがまずないから、たしかに1人でゆっくり寛げる。
ただ、今夜みたいにずっと2人きりだと、たまに息が詰まりそうになる。
店内のBGMもずっと『テイク・ファイブ』だから、時間の流れがなおさらゆっくり感じられる。
でも、ここだけ世界の時間が止まっているような感覚が私は好きだ。
閑静な住宅地にぽつんと建っている、このレトロな喫茶店に初めて来たのは、去年の春。――通い始めてそろそろ1年半になるわけか。
S大学に入って間もない頃、2週間だけ映像研究部――映研に籍を置いていたことがある。
映画は演技の勉強を兼ねてプチ趣味と言えるぐらいには観ていたし、中藤伊織は、陽気なアウトドアサークルで楽しいキャンパスライフを……というタイプでもない。
それならまだ、奇人変人厄介マニア達と映画話に明け暮れたり、
陰日向の青春を送る中で、
(私ってやっぱり演技や表現の世界から逃げられないんだな……)
ときどき、こんな物思いに耽るに違いない。
痛い奴め。けど、少しうっとりする想像だった。
そういうわけで、とにかくワクワクした気持ちで部室に行ったのを覚えている。
ところが。
たしかに、映研の人達は厄介マニアの集まりではあった――しかし、彼らは悪い意味での厄介マニアだった。
邦画はとりあえず貶す。Aという作品を褒めるとき、いちいちBを(ネガティブなニュアンスで)引き合いに出す。
観た本数でマウントを取り合う(その本数にしたって、私のほうがよっぽど多かった)。彼らは映画そのものではなく、映画の話をしている自分達に酔うタイプだった。
しかも、話す内容にしたって「これは〇〇のメタファー」「××のあのシーン、△△のオマージュだって知ってた?」ネットで聞き囓ったようなものばかり。
内心相手を馬鹿にしながら話を聞いていた私も性格が悪かったと思うけど、
(無理だこの人達……)
どれだけ我慢しても彼らから得るものはなく、ゴールデンウィーク前には辞めようと密かに思っていた。
――中藤さん、好きな監督は誰?
――ブライアン・デ・パルマです。
あのときの(ああ、はいはい)といった顔はいまでも忘れない。
――『ファントム・オブ・パラダイス』でしょ?
実際そうだけど、あの言いかた! 中指を立ててやろうかと思った。
これだけでもうんざりしていたし、1番嫌いだった先輩から
――うちで鑑賞会しない?
と、誘われたとき、即辞める決心をした。
魂胆は見え見えだった。
男の人と密室で2人きり。
過去のトラウマまで甦りそうになって、
――映画は1人で観る派なんです。
相手がなにかもごもご言い訳している間に、私は部室を飛び出していた。
私を誘うなら、鏡と映画をもっと観てからにしてください!
これぐらいは言ってやりたかったのに――私はいつの間に「ちょろそうな新入生」と思われていたの? 相手が先輩だからと聞き役に回っていたから? 自分の意見をあまり言わないから、大人しい子と思われていた?
歯軋りものの屈辱と、あれしきのことで動揺した自分が堪らなく恥ずかしくて、情けない話、あのとき私は、少し泣きそうになっていた。
かつて影山先生に言われたあの言葉を、あの夜ほど噛み締めたことはない。
「意志で選べる環境には限りがある。才能がない人間は、環境を選べない」
いつしか私は、街外れの寂れた通りにいた。
あてもなく彷徨っていたつもりでも、どうやら人が集まる場所やケバケバしい電飾看板は避け続けていたらしい。
(ここ、どこ……?)
いくら自棄になっていたとはいえ、こんなひと気のない通りで痴漢や変質者に出くわすのはごめんだ。
急いで道を引き返そうとした、そのときだった。
視界の端に薄ぼんやりとした光が映り、ドキッとして振り向いた先にあったのが、この喫茶【六等の星】だった。
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