(3)ニワトリが朝に鳴く理由は――赤城七菜
「すぅ――……」
演劇をやる上でネックになることがある。
それは、どこで練習するか?
「あ、え、い、う、え、お、あ、お」
あたしは、近所の河川敷グラウンドで毎朝6時ぴったりに発声練習を始める。1分早くても1分遅くてもいけない。毎朝決まった時間に始めることが大事だと、教子さんは言っていた。
――目覚まし時計やニワトリが鳴いているのに文句を言う人はいないでしょう?
「か、け、き、く、け、こ、か、こ」
高校生のときは、演劇部こそなかったものの、発声練習をする場所には困らなかった。校舎の屋上とか、雨の日は廃校舎の開かずの間に忍び込んだりとか。――後々知った話だけど、「開かずの間から女の子の声が聞こえてくる……」と、あたしは一時期、学校の七不思議になりかけていたそうだ。
「さ、せ、し、す、せ、そ、さ、そ」
筋トレや柔軟といったボディトレーニングなら自宅でもできるけど、声を出す練習は難しい。防音設備を売りにしている部屋だって音を100パーセントカットできるわけではない。ましてや、高卒フリーターがやっとかっと暮らしているようなボロアパートなんてとてもとても……。
「た、て、ち、つ、て、と、た、と」
アパートだと発声練習どころか、台本読みでさえ黙読か、声を出しても、ほとんどブツブツ読みだ。
ブツブツ読みは台詞の強弱やアクセントをつけづらい上、唇の動きに変な癖がつくからあまり好きじゃない。教子さんからも「台本読みは、なるべくしっかり声を出せる場所でやるように」と言われている。
「な、ね、に、ぬ、ね、の、な、の」
なので、発声練習をするのはこの広い広いグラウンドだ。アパートから徒歩10分と、アクセス(?)も非常にいい。
「は、へ、ひ、ふ、へ、ほ、は、ほ」
街から離れているとはいえ、河川敷周りは当然無人じゃない。一軒家もアパートもマンションもある。
そんな環境で、毎日朝早くから無名の役者が発声練習をしようってんだ。
――あなたの声が単なる騒音だと思われたら、すぐに通報されるでしょうね。
「ま、め、み、む、め、も、ま、も」
(だったらもっといい場所を教えてよ!)と思わなくもなかったけど、教子さんにはこういうところがある。昭和のスポ根というか、獅子は我が子を千尋の谷に落とすというか……。
「や、え、い、ゆ、え、よ、や、よ」
まだ11月だからいいけど、これが12月、1月、2月と本格的に寒くなってくると、毎朝河川敷まで来るのも辛い。寒空の下の発声は喉によくないし、夏は夏で蚊が耳元を飛んでるわ、血を吸うわ、口の中に入ってきそうになるわで、たまに別の場所を探そうかと思うときもある。
「ら、れ、り、る、れ、ろ、ら、ろ」
しかし、そうしたら負けな気がする。
あなたはここから這い上がっていけるかしら?
……たぶんそういうことなのだろう。あたしもまた、そういう泥臭いのが嫌いじゃないから、こうして毎朝ここへ来るのだ。
「わ、え、い、う、え、を、わ、を」
――お金が取れるレベルの発声練習なら、誰も通報しないわよ。……今度は助けられないからね。
(教子さん。あのときのこと、未だにネタにするんだよな)
あたしと教子さんが初めて出会った場所は、街外れの交番……。
「拙者親方と申すは――」
この河川敷グラウンドで発声練習をするようになってから、1年そこそこ。あたしの発声練習がグッドなのか、それともこの辺りに住んでいる人達がみんないい人達ばかりなのか、いまのところ通報はされていない。
発声練習をし始めて間もない頃、「朝っぱらからやかましい!」と怒ってきたお爺さんとも、いまではすっかり仲良くなった。
――毎朝毎朝よう頑張る。俺の娘もあんたぐらいのときはそりゃもう……。
――外郎売でしょ? 娘さんの話は一昨日も聞いたよ。
――そうだっけか?
――芝居に熱中し過ぎて、行き遅れるところだったって話もね。
「即ち文字には、頂き、透く、香と書いて【とうちんこう】と申す」
いつか、野球少年とトレーニングをしたこともある。
――へいへい。体幹をもっと鍛えないとレギュラーになれないよ。
――うっせー、ゴリラ女!
――その意気その意気。さぁ、もうちょい踏ん張れ。男の子!
――もう! なんで役者が毎朝こんなきついトレーニングすんだよ?
――役者だからだよ。いい役者ってのは、舞台に立ってるだけでもカッコいいんだから。綺麗な立ち姿は、こういう地道なトレーニングからつくられるものなの。
――ふぅん。でも、姿勢なんかよくしたって、ちびはちびでしょ?
――ノーノーノー。猫背の170より胸張った150のほうが舞台では大きく見えるもんなの。存在感って言うのかな。
――小さな巨人?
――お、いいね。そのフレーズ。そっかぁ。あたし、ビッグになったら『小さな大女優』って呼ばれるのか。
――絵に描いた餅。
――ガキんちょのくせに、難しい言葉知ってんねぇ。身体が硬いのも理屈っぽいから? よいしょ。
――いてて、もうちょい優しくしろよ!
【お父さんはお母さんのことが好きで結婚したんでしょ? お母さんだってお父さんのことが好きだったからプロポーズに応えた。なのに、なんで――】
絵に描いた餅。実際その通りだ。
猫背の170より胸張った150のほうが舞台で大きく見えるかどうかなんて分かるものか。一度しか舞台に立ったことがない人間が、なにを言っているのだろう。――そのたった一度の舞台にしても、高校1年生のときの文化祭だというのに。
(台詞に集中しろ……)
そういうことを伏せて、小学生相手にカッコつけていた。
貧乏だけどなにか? あたし、毎日充実してるよ?
(台詞に、集中、しろ!)
強がりを言っていた。
【知らないよ、肉屋と魚屋のいがみ合いなんて。親同士の仲が悪いからって、子どもにまで押しつけないでよ】
年中お金がないこと。教子さんの指導が日に日に厳しくなってきていること。初めて立つ有料公演の舞台で主演ヒロインを演じるプレッシャー。この公演が地元の人達に20年間愛されてきた劇団の最後の公演であること……。
どれもこれも胃がキリキリする。比喩でもなんでもなく、本当に。
【こんな家、絶対出ていってやる!】
ときどき考えることがある。
高校1年生のときの文化祭。あの1回がなければ、あの学年劇にさえ出なかったら、あたしはいま、こんなわけの分からない苦労をせずに済んだのだろうか。
(ああもう、ミスった。絶対はつけるなって言われたのに)
台詞を勝手に変えたことで、先日怒られたばかりだ。
劇のテンポが変わる……たった1つの台詞で人物像が変わってしまう……勝手なアドリブは周りに迷惑をかける……公演を台無しにするつもり?
「もっかい、最初から――……」
けど、そうならなかった。
あたしはあたしなりに考えて、自分から道を踏み外したのだ。
だから、人前で弱音は吐けない。吐かない。弱音を吐くぐらいなら強がってみせる。
【こんな家、出ていってやる】
劇団が解散したあとのことを考えると、途方に暮れそうになるけど、それもまた――武士は食わねど高楊枝ってね。
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