(2)②「お人好しよ」の荻野さん――野崎藍

「……なんかこう、思い出すなぁ」

 中藤先輩がいなくなってから、ふと、荻野さんが言った。

 私は顔を上げた。

「小学生のとき、中藤さんみたいな先生いたなぁって。年は40とか45とか、そのぐらいで、若い頃美人だったんだろうなぁって先生が」

「はぁ」

「怒るとおっかない人でね。ガミガミ怒ったり、生徒の頭を叩いたり、そういうことはしないんだ。ただ淡々と『荻野くん、廊下に立ってなさい』って言うタイプ」

「荻野さん、廊下に立たされてたんですか?」

「まぁね」

 荻野さんは肩を竦めて言った。

 意外だった。

「何回かバケツ持たされたこともあるよ」

「え、バケツ?」

「漫画みたいでしょ? 授業中の居眠り3回でアウト」

「そんなにしょっちゅう居眠りしてたんですか」

「声が綺麗でね。国語の時間は特に、その先生が小説とか詩とか読むと、小川のせせらぎに身を委ねてるような感じがして、それで、うとうとうとうと……。怒るときの声は南極の氷みたいなのに」

「荻野さんの表現って独特ですね」

 私はつい笑ってしまった。

「そう?」と首を傾げながら、彼もまた笑った。例の「たはは」笑いで。

 私は、荻野さんの、このちょっと抜けた感じの笑いかたが好きだった。

 キラキラとした笑顔がカッコいい。少年のような無邪気な笑顔に母性本能がくすぐられる。そういった笑顔の持ち主は世の中ごまんといるけど、苦笑いや照れ笑い、はにかみ笑いがここまで絵になる人はそうそういないと思う。

「野崎さん、先生の話は内緒だよ? 中藤さんのこと、別に苦手とか嫌いとかそういうわけじゃないから」

「分かってます。ただ、思い出しちゃっただけですよね?」

「そういうこと」

 荻野さんと話していると、人見知りな自分をときどき忘れることがある。会話のテンポや弾みかたが気持ちいい。

(なにかこっちから話せることないかな)

 もしこのとき、荻野さんからそれとなくカメラのことを訊かれなかったら、私は中藤先輩に録画のチェックを頼まれていたことを、いつまでも忘れていただろう。

「そういえば、録画のほうはどう?」

「え? ……あ、そうでした!」

 完全に忘れていた。

 私は急いでカメラの電源を入れた。

「ありがとうございます。すっかり忘れてしまうところでした」

「いやぁ、僕のほうこそ仕事があるのに話しかけちゃってごめんね」

「とんでもないです。私のほうこそ」

 私も荻野さんと話していると楽しくて――。さすがにここまでは言えない。

「荻野さん、休憩に行ってください」

「お気遣いどうも。でも、休憩入る前にちょっとだけ録画の映像見せてもらっていいかな? 中藤さん達の演技がカメラだとどんな風に映ってるか見てみたくて。……邪魔かな?」

「そんなことないです。このカメラ、電源つくのにちょっと時間かかりますけど、それでもよければ」

 私は自分なりにニコッと笑ってみた。

 カメラの電源がつくのを待っている間、私はまた荻野さんの横顔をチラチラ見ていた。

(もし、全日本孫にしたい学生選手権って大会があったら、この人はファイナリスト5人まできっと残るだろうな)

 ふとそんなことを思って、心が和んだ。

 年下の女の子相手でも変に威張ったところや気取ったところがなく、かといって変に紳士ぶってもいない。誰と話していても気さくで、先輩達とも初日から打ち解けていた。私でさえその日のうちに「荻野さん」と自分から話しかけていたぐらいだ。

(……ビラ配りまた行きたいな)

 先日、2人で大学祭公演の宣伝ビラを商店街で配って回った。私はほとんど荻野さんの後ろに隠れていたけど、荻野さんの営業力には本当に驚かされた。

 ――荻野さん、この近所に住んでいるんですか?

 ――ううん。全然違うとこ。

 ――皆さん、昔からの知り合いとか?

 ――全員初対面。

(えぇ……)と、ちょっと引くほどの凄さだった。

 30枚あったビラをあっという間に配り終えて、時間もだいぶ余ったので、私達は稽古場に戻る前に喫茶店で30分ほどのんびりしていった。

 男の人と2人で喫茶店に来るなんて初めての経験だった。

 ――僕はココアで。

 喫茶店だし、コーヒーを頼まなきゃと気負っていた私は、荻野さんがなんの照れもなくココアを頼んだことで気が楽になった。

 ――私もココアにします。……実はコーヒー苦手で。

 ――僕も。「男は黙ってブラック」ってカッコつけたいところだけど、駄目なんだな、これが。砂糖やミルクをドバドバ入れるよりかは最初からココアにしといたほうがいいじゃん? 

「お前、男でココアは……」って友達は言うんだけどさ、そいつだって飲み会はいつもカルーア・ミルクで酔っ払ってるんだから、大して変わんないよ。――あ、野崎さんはまだ未成年だったね。

 あの日は本当に楽しかった。なんだかデートみたいでドキドキして、人前であんなに笑ったのはいつ以来だろう。

 ビラのイラストも、お世辞とか社交辞令とか抜きで細かいところまで褒めてくれた。

 ――野崎さんって、もしかして結構目立ちたがり屋なところもある?

 荻野さんはイラストを一目見ただけで、私の本質を見抜いていた。

 内気な人見知りだけど、実は目立ちたがり屋も一面もある野崎藍。大胆な構図や、色をほとんど混ぜず原色でくっきり描くのは、私の承認欲求、自己顕示欲の顕れだ。

(ああ、好きになりつつあるじゃない。私はやっぱり、もうはっきりと荻野さんのことが好きなんだ)

 大学祭が終わったあとのことを思うと、とても寂しい。大学祭が終わるまでに、なにか一歩でも近づきたい――。

「もしかして、電池が切れてるんじゃないかな?」

「……え」

 甘い想像に溺れる寸前だった私は、その一言で現実に引き戻された。

「なかなかつかないなぁって。長押ししないとつかないとか?」

 ――中古の古い型だし、電池の減りも早いから、ちゃんと使えるか確認しといてね。

 このタイミングで私は、通し稽古の前に中藤先輩から言われていたことを思い出した。

 急いで電池を入れ替えて、どこまで録画できているか確認したところ、45分の通し稽古は半分も撮れていなかった。

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