(2)①「お人好しよ」の荻野さん――野崎藍

 11月上旬。

 S大学演劇部は、2週間後の大学祭公演に向けて、日々稽古に励んでいた。

 部室兼稽古場のプレハブ小屋は、元々が物置だったので、それなりに広い。が、いつも仄かに黴臭い。

【ここじゃないどこかに行きたくないの?】

【そりゃ行けるもんなら行きたいさ。でも、先生の言う「ここじゃないどこか」ってどこのこと?】

【それは……】

 演技に熱が入ってくると、室内の空気もこもっているので、黴臭さが一層際立ってくる。2人が動くたびに埃も僅かに立つから、ときどき咳き込みそうになる。

 通し稽古の最中に咳き込んだら、僅かなものであろうと、中藤先輩にあとでたっぷり怒られるので、私は彼らの演技が始まった瞬間から口を固く結んでいる。

【あなたが諦めている場所よ。本当は自分でも分かっているんでしょ?】

 中藤先輩は、今日も黒のシャツに、黒のチノパンとシンプルな服装だ。

 スラッとしていて背も高い彼女は、こういうシンプルな服がよく合う。

【たとえば……、先生のアパートとか?】

 梶本先輩も上下ともに黒だ。舞台人はとにかく「黒」らしい。

【私は、真面目な、話を、してるの!】

【あれ、顔赤くない?】

【なってない!】

 中藤先輩と梶本先輩がいま熱演しているのは、オムニバス公演の2本目にあたるビターラブストーリーだ。――タイトルは『7限目の小テスト』

【……俺さ、これからどうなんだろうね?】

【どこに行っても、あなたはきっと元気でやってるよ。……私のことだってすぐに忘れるわよ】

 家庭の事情で間もなく高校を去る20代半ばの女教師と、彼女に恋心を抱きながらも、自分の気持ちに真正面から向き合いきれない男子高校生の、切ない会話劇である。

 軽やかさとシリアスのバランスが程よくて、私は今回のオムニバス公演でこの話が一番好きだ。

 他の2本ももちろん面白い。

 結婚3年目の夫婦の、勘違いものコメディ『浮気じゃないってば!』

 夜の廃校で幼馴染みの幽霊と、2人だけの結婚式を挙げる純愛物語『夜明けの三三九度』

 小説でも漫画でも映画でも、「作者と作品は別物」だとよく言われるけど、私はそうは思わない。

 フットワークが軽くて、ちょっとチャラいところもある梶本先輩は、笑いどころ泣きどころをきっちり押さえたエンタメ寄りの台本を書くし、生真面目な中藤先輩は、登場人物の心理描写が繊細だ。カチッとした作品づくりは、演劇の名門校で学んできたものだろう。

 荻野さんは『夜明けの三三九度』を一番に挙げていた。

「昔からベタに弱くて」そう言って、いつもの照れ笑いとも苦笑いともつかない「たはは……」笑いを浮かべていた。

 私は、この気さくな先輩のことを、この頃好きになりつつあった。

(荻野さん)と、心の中でそっと呟く。

 通し稽古を楽しげに見ている横顔を、またチラッと盗み見る。人と目を合わせて話すのが苦手なのを理由に伸ばしている前髪が、こういうとき、意外な形で役立つ。

(でも、S大学で荻野さんと会えるのは、大学祭公演が終わるまで……)

 荻野さんはM大学の学生だ。S大生でない彼が、なぜS大学の演劇部の稽古に参加しているかというと、梶本先輩の知り合いの知り合いの知り合い……から「S大の演劇部が人手不足で助っ人を探しているんだって」と、話を聞いたからだそうだ。

 強引に迫られて断り切れなかったのか、それとも「しょうがないな」と従来の人の良さからか、しかし、いざこのプレハブ小屋に来てみると、「いいですね」と彼はあっさりノリ気になった。

 ――単純つーか【お人好しよ、の荻野良雄】というか。

 初顔合わせでこれは失礼だなと思ったけど、荻野さんはちっとも気を悪くすることなく、梶本先輩に「上手いこと言いますね」と笑顔で返していた。

(いい人だなぁ)

 思えば、私は最初から心惹かれていたのかもしれない。

「休憩後は通し稽古のチェックをするから。――梶本くん、休憩は15分だからね」

 考えごとをしているうちに、いつの間にか通し稽古が終わっていた。

 私はカメラを慌てて確認した。

(よかった。カメラはちゃんと止めてたみたい)

 電源も切っている。私は「ほっ」と息をついた。 

「遅れたら閉め出すからね」

 中藤先輩は、丁度プレハブ小屋を出るところだった梶本先輩に、念を押して言った。

「分かってますって。我が愛しの女王様」

 2年生部長の小言に、梶本先輩は投げキッスを返して、プレハブ小屋をあとにした。

「本当に分かってんのかな」

 中藤先輩は呆れ気味に言う。腰に手を当てながら溜め息をつくところといい、先ほどまで演じていた役そのままの仕草だった。

(ううん。先輩達は元々こんな感じか)

 梶本先輩は、学年こそ中藤先輩と同じ2年生だけど、年齢は23歳とかなり年上で、その上なぜか東京から青乃島のような田舎に流れてきた、正直いまでもよく分からない人だ。

 バンドマン、劇作家、ホストと、経歴もずいぶん豊かなようで……。

 でも、梶本先輩のようなチャラ男と好青年のいいとこ取りをしたイケメンさんは、小学校でも中学校でも高校でも、学年に1人はいた気がする。

 梶本先輩とは対象的に、中藤先輩は小さい頃から演劇一筋の、クールでカッコいいお姉さんだ。

「さてと、私も――」

 他人に見られるということを常に意識している人は、束ねていた髪をほどく姿さえも絵になる。

 姿勢のよさ、指先の繊細さ、ほどいた髪をふぁさっと軽く振って……。

(この人はどうしてこんなところにいるんだろう?)

 高校時代、全国でも有名な演劇名門校――青乃島女子高校【通称アオジョ】の部長として部を引っ張っていたような人が、いまこうして地元の大学の、それも同好会同然の演劇部の部長だなんて、私じゃなくても(ずいぶん落ちぶれたんですね)と思うだろう。

 この人もこの人で梶本先輩ほどではないけど、結構謎が多い。

 年も21だというし。21歳の大学2年生ってことは高校卒業後、1年空白期間があるということだ。

 その間、なにをしていたかは知らない。あまり興味もない。

「――ちゃん」

 演劇部にはもう1人、IT関係に詳しい無口な先輩がいるけど、今日の稽古には来ていない。

 この人は3年生だ。3年生ともなると、就職活動だのなんだの忙しくなってくるのだろう。

 そういうわけで、私は今日、通し稽古の撮影を任されたのだ。

「藍ちゃん」

「ひゃい!」

 びくっと顔を上げると、中藤先輩が「そんなに驚かなくても」と苦笑いを浮かべていた。

「もしかして疲れてる?」

「いえ、そんなことないです」

「そう?」

「ちょっと考えごとをしていて。あの、なんでしょうか?」

 ただ話しているだけなのに、私はズボンの裾をギュッと握り締めていた。

「休憩が終わったら通し稽古のチェックをするから。ちゃんと録画できてるかどうかだけ確認しといてねって話」

「あ、はい。確認ですね」

「軽くでいいから」

 中藤先輩はそう言って、小さく笑った。

 たぶん、私の緊張を和らげようとしているのだろう。――自分でも顔が引き攣っているのが分かる。

「分かりました」

「……うん。よろしくね」

 中藤先輩の苦笑いは(私、そんなに怖い?)と訊ねていた。

 私は(すみませんけど……)と心の中で頷き返した。

 中藤先輩のことは、掴み所のない梶本先輩以上に苦手だ。稽古中は険しい顔をしていることが多いし、物言いもズバズバしていて、怖いのだ。

「荻野くんも休憩に入ってね」

 そう言い残して、中藤先輩もプレハブ小屋をあとにした。

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