弐話 雷門麻兎は見えていない。

 今は卯の刻、午前五時過ぎ。

 外はまだちょっと仄暗い。

 夜は明け、日が出始めて、真っ暗闇に染まっていた世界は徐々に徐々にと明るさを増していく、そんな真っ最中の頃。




 春夏秋冬、花咲き誇る“花都街はなとまち”のとある一角にて──。




「どーちーらーに、しーよーうーかーなー……──」


 辺りがほんの僅かに見渡せる程度の暗がりの中、自販機と向き合っているのは一人の少年。

 どうやら、人差し指が指し示す二種類のお茶のどちらを購入するかで迷っているようだ。

 おっとりとした若いテノールの声音こわねが、自身の振る指先のリズムに合わせてささやかに歌を奏でていた。


 早朝に目が覚めてからと言うものの、どうにも喉が渇いて仕方がない。

 部屋に幾つかあった飲み物は、遂に全て飲み干してしまったのだ。

 もう少し時間が経てば病院内が活気付く頃合いになるのだから、そうしたら知人が飲み物を手に訪れる事だろう。

 それを待つのも一つの手であったのだけれども……どうもそれは悪手らしい。

 渇いた喉が無性に気になり、つい咳き込んでしまえば勢い良く吐いた息が渇いた喉を痛め付け、不快。

 ならば気休めに二度寝に耽ようと身体を横にした所で、落ち着く事は叶わず寝付くに寝付けない。


 やはり今の自分には、どうしても水分が必要であったのだ。


 であれば、ナースコールで夜遅くにもいる看護士達を呼び、新しい飲み物を持ってきて貰おう。

 それが一番手っ取り早く、尚且つ一番良い解決法である。

 ………のだけれども、彼は敢えてそちらの選択肢を選ばなかった。


 それは何故か?

 こんな時間にその程度の事をお願いするなんて、余りにも申し訳が立たなくてどうにも気が引けてしまうのだ。

 と言うより、人見知りの彼にとってはそもそも他人と顔を合わせる事自体、出来得る限り避けておきたい事柄でもあった。


 それ故に、だ。


 まだ起きている人が少ないか、もしくは居ないであろう静けさの満ちた病院内。

 一人で出歩くにはまだ覚束無い足を引き摺りつつ、それでも何とか待合室の自販機エリアへと、彼は自力のみで訪れていたのだった。


「てーんーの、かーみーさーまーのー…──」


 春から夏へと変わる真っ最中、肌で感じる空気はほんのりとまだ冷たい。

 これから段々と暖かくなる程度の季節だというのに、実際の暑さとは関係無しに自分の喉は今も渇くばかり、水分を求めてカラッカラ。

 耳に心地好く聴こえるハスキーでささやかな歌声は元より地声ではあるものの、今は特に寝起きと喉が渇いているのも相まって、普通に声を出すだけですら普段よりずっと掠れていた。


 向かいだけを煌々と照らす自販機のスポットライトを浴びつつ、並ぶ商品を見比べても“これ!”とスッパリ決められない彼は、紛れもなく優柔不断な性格である。

 故にこそ、日本人ならば誰もが耳にした事が有るであろうその歌を口ずさみつつ、一人人差し指の指揮棒を振り続ける。


「いーうーとーおーり。」

『これ。』


 歌と共に、ピタリと止まる指先の指揮棒。

 その瞬間、もう一つの右手の人差し指が横から現れた。

 それは自分が指し示した物とは別の飲み物を指していた。


 少年はそれをぼんやりと眺めて暫く、左手に持っていたガマ口の財布から数枚の小銭を取り出す。

 それを自販機の小銭投入口へと入金。

 すると自販機は、各々のボタンに購入可能を現す青緑のランプを灯していくだろう。

 自販機から向かいの客人への、どの商品を求めるのかと幾つかの選択肢を示し答えを委ねてくる様を確認した彼は、点灯する購入ボタンの中から一つを選び、ポチッと押した。


 ガコン、と音を立てて自販機が客人が選んだ商品を吐き出す。

 その取り出し口に現れたのは、自分が最後に指差していたお茶……ではなく、もう一つの指先が向いていたオレンジの炭酸ジュースであった。


 もしも彼の近辺に他の誰かが居たのであれば、きっと押し間違いをしたのかと思う事であろう。

 しかし優柔不断だった筈の彼は、意外にも、購入ボタンを押す際には欠片も迷いがなかったのだった。


「はい、これで良かったよね?」


 少年は自販機から購入したジュースを取り上げると、そのままくるりと振り返り、背後へと手にしたものを見せ付けた。

 しかし、そこには誰もいない。


『うん、それー。』


 誰もいない筈なのに、何処からか声が返ってきた。

 それは近くから聴こえてくるものの、“何処から”と言い現すには少々難しいような響く声だった。

 少年はその声を聞き、何処か擽ったそうに口をもごつかせつつも、こくりと頷いた。


 そしてジュースの蓋を握ると、力を込めていった。


 ぐぐっ、ぐぐぐっ……。


 蓋は開かない。

 少年はボトルに腕を回し、力強く抱きながら蓋を握る手に力を込める。


 ぐぐっ、ぐぐぐぐっ………。


 蓋はまだ開かない。

 少年は額に汗を滲ませながら、尚も力を込め続けた。


 ぐぐっ、ぐぐぐぐぐっ………。


「ふぬ、ぬっ………!」


 目を強く瞑って、目一杯歯を食い縛って。

 指に腕にと力を込めて、いつしか手も顔もまっかっか。

 それでも頑なに諦めずに、踏ん張り続けてそれから暫く。




 ──ぷしゅっ!




 空気が抜ける音がした。


「や、やった…!」


 漸く封が開いた事に喜び、少年の少々感情表現の薄い顔が僅かに明るむ。

 高がペットボトルの蓋を自力で開けられただけでも、ささやかな達成感に満たされつつあった少年は、その勢いのままにぐるんと蓋を回し切ったのだった。


 ──回し切ってしまったのである。


「あっ──。」


 目的を達成した事で力を抜いていた自らの腕。

 腕と胸元の間をするんと抜けて、真っ直ぐに床へと向かうボトル。

 取り残されたのは、掌の中の小さなキャップが一つ。




 ──カコンッ。




 ペットボトルが床を跳ねる。

 封のされていない口から飛び出すオレンジ色の液体。

 ぱしゃりと悲惨な音を立てて、目の前末広がりながら床を濡らしていく、足元に出来たばかりの水溜まり。

 それを眺めて、ぽかんと立ち尽くす少年。


「………やっちゃった………。」


 呆然。

 跳ねた水飛沫に足を濡らしながら、少年は何も出来ずに床を見下ろしていた。


 顔はすっかりと青ざめて、この突然の非常事態にどうしたものかと考えようとも思考は停止。

 只々狼狽えるばかりで、身体を動かそうにも動かせない。


 眼下にはシュワシュワと細かな泡が弾ける音を奏でて、今も尚とくとくと勝手に床へと注ぐペットボトル。

 途方に暮れた少年は、一つ息を溢した。

 そして仕方無しに転がるボトルをそっと摘まみ上げ、そのまま自販機横のゴミ箱へと押し込んでいく。


『ああっ勿体ない! まだ中身入ってるのに!』


 何処からか声が聴こえてくる。

 さっきと同じ声だった。


 少年は振り返った。

 辺りにはぼんやりとした闇が広がるばかりで、やはりそこには人の気配などない。

 暫しそれを眺めた少年は数度瞬いたのち、もう一度自販機へと向かい直した。

 そしてガマ口の財布を手にして、再度同じものを購入し直すのだった。


 ガコン、と音を立てて、ジュースの入ったペットボトルが落ちてくる。

 それを取り出し口より拾い上げて、それから開栓。

 今度は苦戦する事なく開け終えた、が……油断は禁物。

 またうっかり落としてしまわぬように、開封済みのボトルをしっかりと握り締めるのだった。


 そして少年は顔を上げる。

 背後の誰もいない空間へとペットボトルを翳し、それから口を開いた。


「お待たせ、金花キンカちゃん様。お供え物だよ。」

『やったぁ! ありがとぉ、麻兎アサトくん!』


 誰もいない筈の空間から、妙に響く声が聞こえてくる。

 それは鼓膜からではなく頭の中に直接響く声であり、耳に聴こえてくるのは精々無音の耳鳴り程度のもののみ。


 そんな些か現実味のない不可解な現象。

 しかしそれに疑問を持つ者がいないその場にて、少年──麻兎は至極普通の如く、尚も無人の空間に向かって一人話し掛けるのだった。


「あなたにお供えするものだもの。落としたやつなんて汚いし、そんな粗末なものあげたくない。」

『えー? でもちょびっと落とした程度ならおれ、全然気にしないよ? 空いたお腹を満たせるなら、ささやかな鼠の肉でも、熟れ過ぎた果物でも、何だって嬉しいもんさね!』


 肝心なのは、そこに込められた“気持ち”なんだから!

 響く声が明るい声音でそう言う。

 しかし、それに眉を寄せた麻兎が小さく首を横に振って返した。


「それでもダメなものはダメ。幾ら何でも、そんなのはお供え物にするべきじゃないんだから。と言うか、熟れ過ぎた果物って………それってつまり、腐ってるって事でしょう? それこそ罰当たりだよ、“神様”にそんなものをお供えするなんて。」

『そーお? 無いよりはずっとマシだと思うけどなー。』


 そんな声と共に、渋い顔をする麻兎の視界上部からだらりと大きな影が目の前に現れた。

 それは天井から宙ぶらりんとなって身体をひっくり返し、何でもないようにへらりと平然とした笑みを浮かべる人のようなもの。

 しかし“天井から”とは言っても、それは天井に足を引っ付かせている訳ではないのであった。


 何せ、それは地上にも天上にも足が付いていない──宙に胡座をかいて浮いていたのだから。


『まぁでも、良いもん貰えるんならそれに越したことはないよねぇ。何せ、空腹と言うのは実に恐ろしいものなんだもの。ねぇ、そうは思わないかい? 麻兎くん。』


 ゆらりゆらりと柳の枝の如く、麻兎の目の前で長い髪が揺れる。

 そこにいたのは、少女とも少年とも付かない風貌に青白い和装を身に纏った、それはそれは見目の美しい子供だ。


 “金花”と呼ばれ、“神様”とも呼ばれたそれは、ご機嫌そうに頭を右へ左へと振り子の如く揺らし、軈て閉じていた瞼を持ち上げ、頭上にいる麻兎を見上げた。


『空腹ってのはね、時に人を狂わせて、いつしか平常を失わせて、どうしようもなく自我をおかしくさせてしまうものなんだよ。だからね。正気を保つんならやっぱり、お腹いーっぱいに満たして、幸せ気分でいることが何よりも一番なのさ。』


 麻兎が何を答えるよりも前に、金花は幼子を諭すようにそう口にした。

 その言葉に何か思案するかのように「ふぅん」と声を溢しては手に持ったペットボトルを見下ろす麻兎を余所に、くるんと身体を回して正しく麻兎と向かい合った金花は、彼に向かって振り袖の中に隠した両手を腕ごと広げた。

 それから自分を見詰めてキョトンとする、感情表現の薄い呆け顔に向けてニパッと笑みを咲かせるのだった。


『ささっ、ずーっと待ってたんだから、早くお供え物ちょーだいな!』


 待ってました! と言わんばかりに、麻兎へ供物の催促をする金花。

 それを見て、麻兎は一瞬固まってしまっていたのだが、即座に我に返って頷くのだった。


「はい、どうぞ。」


 麻兎は素直にそのジュースを金花へ渡そうと差し出す。

 しかし、金花はそれを受け取ろうとはしない。

 差し出されたジュースを見詰める澄んだ瞳の上、長い睫毛が揺れてぱちくりと瞬き。

 それからぷくーっと頬が膨らんでいった。


『ちーがーうーっ! そうじゃないでしょっもう!』

「えっ? あっ、そ、そうだった……!」


 振り袖をバッタバッタと振り回し、ぽこーっと怒る金花に麻兎が慌てて差し出したペットボトルを引き戻す。

 そして「こほん」と一つ咳払いして仕切り直すと、金花に向かって持っていたペットボトルごと手を合わせ、一礼する。


「じゃあ……“いただきます”。」


 そして“食前”の言葉を口にするや否や、麻兎は徐に持ち上げたそのペットボトルの開いた口に唇を当て、中身を口内にくいっと流し込んだのだった。


 キンキンに冷えた液体。

 果物の果汁の甘酸っぱさだけでない、糖分が混ざり甘ったるさが際立つ味。

 シュワシュワと舌の上や喉で弾ける細かな泡の群。

 お茶や水とは違う、思わずくぅっと喉を唸らせてしまう爽快感。


 こくりこくりと喉仏を上下させ、半分程まで中身を減らしたところで口を離し「ぷはっ」と一息。

 両手で抱えていたそれを右手で下ろしつつ、左腕で濡れた口元を袖で拭い取る。

 それから仕上げに……つい、喉の奥から込み上がってきた空気に、口から「けぷっ」と音を立てて吐き出した。


 かあぁっ……!

 途端、頬に額にと籠り始める熱。

 咄嗟に俯いて、空いた掌を頬に当てる。

 ポカポカと熱を放つ自らの頬から、見ずとも解る、赤面状態。

 麻兎の頭から湯気が噴いた。


「(は、恥ずかしいっ……げっぷが出ちゃった………!)」


 うう、と唸り、思わず踞りたくなる衝動に駆られる。


 みっともない姿を見せてしまった、と彼は思った。

 恥ずかしい所を見られてしまった、と彼は思った。

 只でさえその人物の前では“良いところ”を見せたくて、つい張り切ってしまう程に力んでしまうと言うのに、それが失敗する姿を晒した挙げ句によもや“げっぷ”する所まで見せてしまうとか……。


 まだ我慢してなければと思っていたのに、思わずと言った調子にてつい出てしまったのがよりにもよって今だなんて!

 穴があったら入りたい……!


 そう思いつつ俯いて、前髪のカーテンで視界を覆い醜態を見られないようにと相手の目から逃れる麻兎。

 しかし麻兎自身はと言えば、伸びっぱなしで長い前髪の隙間からチラリと覗き、相手の様子を伺い見る。


 そこには、プルプルと身体を震わせ、何かを堪えているらしい金花の姿があった。


『………!? ……っ………!! …………!!!』


 両手で口元を押さえて、時に浮いた足をばたつかせ、無言のままにのたうち回って。

 軈てぷはっと勢いよく息を吐き出し、天へと顔向け、すぅっと息を吸って──




『び………美味びみぃいいぃ~~~っっっ!!』




 潤んだ目を見開いたそれは、叫ぶようにそう口にするのだった。


『は、はわ~っ! 何? なぁにコレ!? 口、口ん中がシュワシュワ~って……ひわわっ!? 喉もパチパチする! でも甘い! とっても甘い! それからっ……えっ? か、辛っ? んや、違っ……ひえっ、ま、まだっしゅわしゅわが、すごくてっ……!!? あわわわわっ……!!』


 両の手を頬に当て、頬を赤らめ、暫く経ってもまだ身悶えは治まらない。

 どうやら半ばパニックとなっているらしく、金花は饒舌に自らの状態を捲し立てつつ何度と悲鳴を上げた。


 始めはその余りに気が動転しているかのような、そんな様子に驚いて、赤面していたのも忘れてあわあわとおろついていた麻兎。

 けれども、金花の口にする言葉をよくよく聞けば、今それが何に慌てふためいているのかその理由を次第に察し、それから黙した。


 渇いた喉に流し込んだ炭酸飲料の心地は、今も尚、喉や腹の中をひりつかせて何処か擽ったい。

 それに感じ入りつつも、目の前でまだきゃんきゃんと騒ぐ金花を眺めていると、何だか初めて炭酸飲料を経験した子供の動揺っぷりを彷彿させる光景にどうにも微笑ましさを感じてしまい、つい顔がほころぶ。


 軈て、自身の身体に残った炭酸飲料の心地が薄まってきた頃。

 金花の様子もあれから随分と落ち着いてきていた。


 しかし、それでもまだ赤らんだ頬を袖の手で包み、きゅぅっと瞼を閉じては未だ余韻に感じ入っている様子。

 そして、また暫く経って漸くそれも終え、金花が『はふぅっ』と息を吐いた。

 それからすっかりと落ち着ききって、まったりとしていた所を、笑みを浮かべたままにずっと眺めていた麻兎が口を開く。

 そして柔らかな声音にて言葉を紡ぎ、金花へと問いかけてみるのだった。


「美味しかった?」


 それは、聞かずとも答えの解る問い掛けだった。

 先程の様子を見て、解らない筈がないのだから。

 しかし、それでも麻兎はそれの口から直に聞きたくて、自らが求めるつもりでその質問を投げ掛けたのだ。


 余韻も過ぎ去り、ゆっくりと瞼を持ち上げた金花は、晴天の空と同じ色をした澄み色の瞳を数度瞬いた。

 それから野原に咲くささやかで小さな花のような笑みを浮かべると、確りと頷いて満足そうに言った。




『うん。とっても、美味しかった!』




 思った通りの答えだ。

 その返答に、麻兎は嬉しくなった。

 それから何だかこそばゆいような気がした。

 麻兎は思わず、はにかんだ。






「──何ですか、これは!?」


 あれから暫く経った頃。

 夜が明けきった病院内には漸く灯りが点き始め、次第に辺りが照らされて明るんできた。

 すっかりと夜闇に目が慣れ切っていた麻兎は、消灯中の暗闇の中でも待合室の椅子に腰掛けて、金花と一緒にジュースを飲みつつ談笑に耽っていた。

 それ故に灯りが点くまで時間が過ぎるのを忘れて楽しんでいたものだから、電光が点灯すると共に現れた朝勤務の看護婦に夜出歩いていたのが見付かってしまったのだ。


 床は依然として池を張ったまま。

 麻兎の下半身の衣服や靴もべたべたのびしょびしょで、尚且つ床には池から麻兎が腰掛けている待合室のベンチにまでくっきりと足跡が付いているくらいだ。

 その池を作って放ったらかしにしている犯人は、誰が見ようとも目に見えて明らかである。


 よって、朝から面倒な仕事を増やし、ましてや安静にしてなくてはいけない人間が勝手に出歩いている事も含め、その看護婦の胸の内には諸々の感情が煮え滾り出す。

 そうして彼女は目を釣り上げて鬼の形相を浮かべると、あたふたとし出す麻兎に向かってぴしゃりと雷を落とすのだった。


「怪我人は怪我人らしく、病人は病人らしく、患者さんは大人しくベッドで安静になさーいっっ!!!」

「はっ………はいぃぃっ!」






 それから、それから?


 ジュースに濡れて汚れた身体を、看護婦によってしこたま綺麗に洗われた麻兎。

 寝かされたベッドの上で、こんこんと長説教を受ける羽目となるのでした。


 めでたし、めでたし!






「………で? 何でまた、夜中に病室抜け出して出歩いてたんだ?」


 ガサガサ、ゴソゴソと忙しなく音を立て。

 バタバタ、せかせかと忙しげに動き回り。

 荷造りに勤しんでいる学ラン姿の友人が、手を止めないまま此方を見向きもせずに問い掛けてくる。




 今は辰の刻、午前八時前。

 随分と多くの人が、学校やら仕事やらにと動き始める頃。

 カーテンを開けた窓からは、太陽が燦々と辺りを照らしていた。

 その周りにはからりと雲一つとしてなく、ぴかぴかの快晴だ。

 故にこそ、その日は特に電光無しでも部屋が明るく感じられた。


 明るいが故に明確なその部屋の様子はと言えば、そこは珍しくもいつになく、物で溢れかえっているのだった。


 いつもならば無駄なものは全て収納へすっぽり収めており、質素であった筈のその病室。

 そこには当然その部屋の主……と言うより、その部屋に配置されていた患者である麻兎もいたのだけれども、その時は珍しく、部屋の中心にいたのは友人──或駆アルクであった。


 衣服に私物にと兎に角引っ張り出し、持ち込んできた鞄にどうにか収めようと奮闘する或駆。

 その背中をぼんやりと眺めていた麻兎はと言えば、後ろで手を組む格好で佇みつつ、友人の邪魔にならない場所にてぼうっと突っ立っていた。


 そこへ彼から今朝の出来事を訊ねられたので、麻兎は“こてん”と頭を横へと揺らしたのだった。


 右へカクン、左へとカクン、と揺れるように首を傾げながら、口からは絶えず「んーと……」「えーと……」と声を溢す。

 序でに迷うように彼方へ此方へと視線を泳がせていた。


 はてさて、一体何処から話したものか。

 頻りにでもゆったりと、振り子のように身体を揺らしつつ、そうして考え事に耽る麻兎。

 そんな時、端から聞こえた「ええっと、アレは何処やったかな……?」と言う声を小耳に挟んで、或駆が何やら失せ物探しを始めたらしい様子にふと気が付いた。


 そこで、徐にカチコチと計算をし始める自らの脳。

 彼が求めているものは何だろう? と、目で見て解る事柄をヒントに思考した。


 先ずは彼の視線、何処を見ているのか。

 次に状況、鞄に詰め込んであるものや先程までに集めていたもの、それからその系統。

 そして今手繰り寄せているもの、恐らく探し物に近しく似通っているであろうもの。


 それらを元に、軈て行き着いた脳裏に浮かんだ一つの答え。

 思い当たりのあるそれに、いつ何処で見掛けたかを考えては即座に発見、そっと手に取る。

 恐らくそれが彼の目的なのであろうと思いつつも、勝手に動いては彼はきっと怒る事だろう。

 だから麻兎は直接渡すのではなく、さりげなく彼の方へすそそそ……っと寄せていったのだった。


「……お? あったあった、こんな所にあったのか。」


 そこへ麻兎が引き寄せた物に気付いた或駆がそう声を上げ、手に取る。

 なんだ、灯台もと暗しだったか……なんてぼやく声。

 そうして目的の物を見付けられた事でやっとこさと息を吐き、再び元していた作業へと取り掛かっていく。

 その様子を横目に見て、澄まし顔で佇んでいた麻兎は密やかにガッツポーズ。


 よし、今回も予想通りだった。


「オイ麻兎! そこから動くなって、さっきも言っただろ!」


 そんな麻兎に容赦なくお叱りの言葉が投げ掛けられる。

 「あ、やば」と思った頃には、此処で大人しくしろと指定されていた場所から少しずれていた事に気付くのが遅れ、失態扱い。

 結局、麻兎は怒りを買う事となるのだった。


「幾ら退院の許可が下りたっっても、身体はそれ程万全じゃあないんだ。当分はまだ安静にしとかねェと。」


 つらつらと諭すような言葉を垂れ流し出す或駆。

 流石の麻兎も堪らず亀が首を引っ込めるように肩を竦めていく。

 どうやら、口煩い友人の説教しい・・の気質に火が点いてしまったらしい。


 今朝にも、看護婦から同じ事を延々と聞かされ続けていた後の麻兎からすれば、説教話はもう十分でお腹一杯。

 わんこそばじゃあないんだから、おかわりはもう勘弁してくれよ! ……と、耳にタコが出来てしまいそうな小言の連続に、思わずそんな事を思ってしまう。


 一層の事、お碗に蓋するように、耳を塞いで聞くのを拒否出来たならば………とも思ってしまうのだけれども、勿論そんな事をすれば殊更火に油を注いでしまうのだろう。

 なので、麻兎は取り敢えず彼の有り難いお言葉を聞いているフリをしつつ、ひたすら聞き流す事に決めるのだった。


「大体な、そもそもお前は一人じゃ何も出来ねェんだ。ドジで、鈍臭くて、不器用で、何をやらせても失敗ばっか。オマケに人見知りもスゲーし録に他人と喋れもしねェ。俺がいなけりゃ、てんでダメダメなんだから……。」


 こんこんと続く説教文言。

 出来ないんだから、ダメなんだからと、彼は口癖のように麻兎へと言う。

 「はいはい」

 「そうだね」

 「そうだよね」

 適当に打つのは薄っぺらな相槌。

 そうすれば直に彼は満足するだろう。

 そうすれば次に彼は締め括りにもう一言。


「でもまぁ、そんなお前でも俺がいるから大丈夫だ。お前が出来なくとも俺が全部やってやっから、お前はそこで大人しく休んどけって。」


 誇らしげに、胸を張って、それから気分良さげに。

 ポンッと胸元叩いて自身たっぷりに、此方へ満足そうな笑みを向けるのだ。


 ああ、彼はなんて心強い友なのだろう。

 こんなにもダメダメで不甲斐ない自分に、こうも優しくしてくれるなんて……良く出来た人間とはこの事か。

 全く、狭量な自分とは大違いである。


 薄く笑みを浮かべた麻兎は「うん、わかった」と短く言葉を返し、それから部屋の隅へと移動していくのだった。




 友の作業風景をぼんやり眺めてまた暫く、与えられた役割は蚊帳の外での待ち惚け。

 することのない退屈感から微睡み始める自らの眼に、体育座りにて壁に凭れつつ、瞼を擦る。

 それから一つ欠伸を噛み殺し、滲んだ涙を人差し指で掬い取り………。




 ──………。




 ふと、俯きかけた顔を上げる。

 声が聞こえた気がしたのだ。

 麻兎はくるりと首を捻り、出入り口の方を見詰めた。


「…何……?」


 ぽそり。

 小さな問い掛ける声。

 ガサゴソと忙しなく音が立つ部屋ではきっと誰も聞き取れる筈が無いであろう、そんなささやかな声量だ。


 出入り口の扉をじっと見詰めていた麻兎は一度だけ頭を小さく上下させると、そのまますくりと立ち上がり、静かに足を進めていった。




「──よし、準備完了!」


 パンパンッ。

 軽やかな音を立て、掌に付いた汚れを払い落としてそう声を上げる或駆。

 入院中に使っていた寝間着や小道具がやっとこさ片付いた。

 すっかり物がなくなり、より簡素となった病室を見渡して、彼は満足そうに息を吐いた。


「思えば……麻兎が此処に入院して通うようになってから、もう一年ちょっとも経っているのか。考えようによっちゃあ、たったの一年かもしれないけどよ、俺としては何だか、それよりもずっと長く世話になったような気がするよ。」


 全く、一年って言うのは本当に、長いんだか短いんだか……。

 なんて呟きつつ、或駆は感慨深そうに目を細める。


 感傷に浸って暫しの間。

 沈み掛けた気持ちから、気分を切り替えようと頬を叩く。

 それからふるりと頭を振り、そして振り返り笑みを浮かべた。


「まァ、だとしてもよ。こうして無事退院出来んだ。“終わり良ければ全て良し”とまでは言わねェけどよ、それでも俺は本当に、良かったって、思っ……──」


 話の最中、徐々に力を無くしていく声音。

 浮かべた笑顔が徐々に凍り付いていく。


 振り返って見たその視界内、そこにいるべき筈の人物の姿はない。

 一体いつの間に姿を消してしまっていたのやら……。

 その部屋には或駆一人しかいなかった。




「ど……何処行きやがったッ麻兎ォォーーーーッッッ!!!!?」




 院内轟く怒号の響き。

 慌てて直ぐ様探しに行こうとする彼の前に、血相変えて現れたのは看護婦、鬼の形相。

 「病院内ではお静かに!」……なんてこっぴどく、こんこん長々叱られてしまうのだった。


 結局、やっとの事で彼が説教から解放されたのは、それからもう何十分と経った後。

 探し人を探そうにも、その手掛かりは疾うに失せてしまった頃。

 既に病院を発っている事を悟り、捜索すべく町へと繰り出す或駆なのだけれども………それはまた別の物語。

 今語る必要のない、意味のない話である。






 ***






 扉がスライドする掠れる音を静やかに立て、コトンと閉じて部屋に背を向ける。

 寝惚け眼みたいな伏せがちな垂れ目が見上げるその眼差しの向こう。

 そこには退屈そうに宙を漂う、見知った仲がぶすくれていた。


「金花ちゃん様、どうしたの?」


 麻兎は訊ねた。

 するとその人の貌をしていても人ではない者は空中で寝返り打った。

 それから不機嫌そうに足を交差振こうさぶると、不満げな声を上げるのだった。


『暇、退屈、お腹空いた! 朝餉あさげはまだー? おれもうお腹ぺっこぺこだよー!』


 そうして金花は『うわんわん!』と泣いてもないの泣くような声で喚き、じたばた、どたばたと腕やら足やらを振り回し始める。

 麻兎はそんな金花に、酷く申し訳なさそうに顎を引くと「ごめんね」と小さく溢すのだった。


「それは今、ちょっと難しいかな。病室の片付けが終わって、家に着いてから……そしたら僕も落ち着けるだろうから、その時に朝ご飯の予定で……。」

『ええーっ!? それじゃあもうお昼過ぎになっちゃうじゃん! やだやだやだーっお腹空いたお腹空いた、おーなーかーすーいーたーっ! 朝餉抜きだなんて、ぜぇーったいに、嫌ーーーっっっ!!』


 どったんばったん、空中で駄々捏ね。

 ぎゃんぎゃん喚き、我が儘の通らない幼子の如く暴れ回る金花に、麻兎は困ってしまってオロオロと狼狽える。


「き、金花ちゃん様……! ここ、病院だから、静かにしないと──。」


 咄嗟に、静粛を厳守とするこの場で大声を張り上げ暴れる金花に、そんな事を口走って辺りの視線を気にして見回す。

 こうも暴れ喚きまくれば、当然人様に迷惑がかかってしまう事だろう。

 それこそ、看護婦が直ぐ様すっ飛んで来て「病院内ではお静かに!」と恐ろしい剣幕で迫ってきたって、何もおかしくはないこの状況。




 何故なら看護士諸君の仕事と言うは、患者のケアリングを筆頭に、院内の秩序を守る事もまた業務内容の一つである。

 なので彼らは朝から晩まで何度と人を入れ替え、交代を重ねつつ献身的に尽くしてくれる。


 それは、病み傷付いた患者の生き延びる為の手伝いの為に。

 それは、心身共に癒されるべき者達の憩いの場の、静かなる秩序を護る為に。

 謂わば、それらは守護者とも言えるものであろう職務であった。

 そう言い表すに相応しい役割を持って、彼らはそこにいるのである。


 だからこそ、随分と長く世話になった麻兎にとって看護士達には頭が上がらないのだ。

 世の為人の為にと日々奮闘する彼らに、手を煩わせてしまうのはどうも申し訳無く思ってしまうのであった。




 勿論、朝の出来事だってそうだ。

 このくらいなら自分でも出来るだろうと判断し、自らの足で飲み物を買いに行ったのだって、そう言う理由から。

 結果的には、結局看護士達に余計な手間を掛けさせてしまう事になってしまっていたのだけれども……。


 まあ、何にせよ、麻兎は人様に迷惑を掛けてしまう事を忌避していたのだ。


 しかし──。




「……おや?」


 辺りを見回す麻兎。

 その景色に違和感を覚え、首を傾げる。


 彼の周り、院内の廊下を往来する人々の様。

 彼らは皆各々の思うがままに、自由気儘に過ごしているのだが……その様子が今はおかしいと感じてしまうのだった。


「(誰も……こっちを気にしていない………?)」


 それは、誰も此方に目を向けていない事に、である。


 一見「そんな事?」と思っても致し方無いような、麻兎が感じたその違和感。

 普通、此処までぎゃあぎゃあと騒ぐ誰かがいれば、誰かしら「何だ何だ?」と視線を向けるものである筈。

 そんな、現状を見て次に訪れるであろう今後の展開を想像してこそ得られる認識によって、それから予測を可能にする事柄であった。


 当然、騒ぎに騒げば看護士だって場を鎮めようと駆け付けてくるだろうし、騒いではダメな場所で騒げば叱られてしまうのは当然の事。

 ……だと言うのにも関わらず、誰も此方を気にしていないのだった。




 まるで、誰も此方に気付いていないかのようだった。

 まるで……誰からも自分達が見えていない認識されていないかのようだった。




 ──そう、思った時だった。




 ぱちん。

 一人の通行人とすれ違い間際に視線が合った。


 それは、ほんの一瞬での出来事。

 それは、何の変哲もない只の出来事。

 しかし、人知れずばくばくと少し早足に心音鳴らす麻兎からすれば、只それだけと思うには少々難しい出来事であった。


 偶々隣を通り過がっただけに過ぎない見ず知らずの通行人は、それ以上此方に気を止める事なく過ぎ去っていく。

 その後ろ姿が院内廊下の奥曲がり角にて姿を消す頃、麻兎は思わず胸を撫で下ろした。


「(びっくりした………何だか一瞬“透明人間”にでもなった気分になっちゃった。)」


 そう考えて麻兎が頭に思い浮かべるのは、そこにいる筈なのに姿が見えぬと言う、お伽噺や都市伝説に出てくるような架空の存在だ。


 ポルターガイストのようなお化け。

 鏡に映らない吸血鬼みたいな怪物。

 それから、特殊な力を持った超能力者……とか。


 もしも、そんな摩訶不思議な力を自分が持っていたとしたら?


 そしたら、此処でどんなに騒ごうがきっと誰も気に止めて貰える事もなく、誰の相手にして貰えないまま素通られるだけなのだろう。

 誰にも気付いて貰えないのならば、人目を気にする事なく自由気儘に好きに生きれる事だろう。

 好き放題出来るのであれば、当然悪い事だってし放題だ。


 だって誰にも存在に気付いて貰えないのであれば良い事をしても誰も気付いてくれないが、悪い事をした所で誰にも気付かれないのだから罰せられないのである。

 何も恐れるものはないのだ。

 何も恐れるものはない……のだけれど………。


 そう考えて、麻兎は思う。




「(それは何だか……凄く、寂しいような……。)」




 麻兎は想像した。


 誰にも目を向けて貰えないと言う事。

 誰にも気にして貰えないと言う事。

 誰にも相手をして貰えないと言う事。




 それは、つまり──。






 ***






『──ねぇ。』




 誰かを呼ぶ声。

 訊ねる声。


 そこにいる相手に対し「此方を向いて」と願う声。




『──ねぇ、聞こえてる?』




 問い掛ける声。

 不安を帯びた声。


 此方に目を向けない相手に対し「申し申し」と気を引く声。




『──ねぇ、返事をしてよ。』




 震える声。

 懇願の声。


 一向に振り向いてさえしてくれない相手に「僕に気付いて!」と訴え掛ける声。




 しかし、それでも返事はない。




 賑やかなる教室。

 人が多くいる教室。

 自己紹介は疾うに終え、見知った顔ばかりがいるその空間。


 そこで、彼は──。




『……なんで、皆、僕の事を無視するの……?』




 目が合いそうならば、さっと背けられる顔。

 話し掛ければ、途端に止む会話。

 偶々耳に入った、誰かの内緒話。




『──だって、雷門くんと仲良くしたら私達まで仲間外れにされちゃうんだもん。』






 ***






『──くん、麻兎くん!』




 不意に、名前を呼ばれてハッとする。

 見上げれば、いつの間にか目の前に金花の姿。

 俯く自分の顔を覗き込むようにして、じっと此方を見詰めていた。


『大丈夫? 顔色、悪いよ?』


 こてん、と小首を傾げつつ、頭の中そっと響く声でそう訊ねてくる。

 それを麻兎は「大丈夫、へーき」とだけ答えると、不穏に高鳴る胸を抑え、冷ややかな感触と共に顎を伝う汗を拭い取る。


「ちょっとだけ嫌なこと思い出しちゃっただけ。でも、もう、大丈夫だから。」

『……ふーん?』


 麻兎の言葉を聞き、金花の眼差しに少しだけ鋭さが籠められた。


『無理、してない?』

「してないよ。」

『ホントかなぁ。』

「ホントだよ。」

『………そっかぁ……。』


 そうなのかぁ。

 金花はもう一度だけそう溢すと、それからは黙り込んだ。


 その声音は何処か寂しそうなものだった。

 どうして金花がそんな声音を溢してしまうのか、それは麻兎には全ては解らずとも、それでもほんの少しくらいであれば金花の秘めたる心情を察する事が出来る。


 それもその筈。

 麻兎は強がって・・・・「大丈夫」と口にしたからこそ、嘘に過敏な金花は引っ掛かりを覚えてしまうのは当然であった。

 どんな理屈かは解らないけれども、本当に金花は嘘を見抜く“耳”は舌を巻く程に正確無比であった。

 そしてそれは麻兎も身に染みる程に、よぅく知っている事でもあった。


 しかし、それでもだ。

 どんなに正しく嘘を見抜く金花が、ほんの些細な引っ掛かりを覚えようとも、実際の所、本当に麻兎は平気だと言う事とてまた事実であった。

 何せ、今はもう過去に過ぎない出来事に気を漫ろにする程、あの出来事に心が囚われていない。


 過去の事でうじうじと塞ぎ込んでしまうよりもずっと、こうして自分の事を気に掛けてくれるこのヒトが傍にいてくれる……たったそれだけで過去の嫌な出来事を思い起こした程度、多少の動揺こそあれども屁でも無かった。




 麻兎だって“男”である。

 自信が惚れ込んだヒト好意を寄せる相手の前だと言うのに、それっぽっちの事でへこたれてしまう訳にいかない。


 何故なら麻兎の心は今、過去の不幸なトラウマよりも、生まれて初めて恋をした相手──“金花”にこそ、すっかり奪われてしまっているのだから。




 まだ自分の言葉に疑いの目を向けては、返された言葉にほんの少しだけ不服そうにしている目の前の想い人金花

 麻兎は自分を気に掛けてくれる相手のその反応につい嬉しく感じてしまって、無意識に口元に笑みが浮かんでしまう。


 しかし、いつまでも心配ばかり掛けてしまってばかりだと言うのも、それはそれで麻兎にとって頂けない事。

 “世話を焼かれる”側よりも、どうせなら“頼られる”側で在りたいと思うのが、本来の麻兎の本心であった。


 故に、麻兎は金花の機嫌を取るべくして、笑みを湛えたままに口を開くと、その者の気を引く為にこう口にするのだった。


「お腹、空いたんだよね? じゃあ、売店に行こっか。何か手頃な物があるかもしれないよ。」


 目の前にいるそのヒトは、どうやら腹が空いているらしい。

 ならば、他の誰よりも自分がそれに応えなくては。


 少しでも多く、ちょっとでも早く、相手にどうか喜んで欲しい。

 自身が出来る事は限られていて、それがほんのささやかなものであろうとも、それでも向けられた期待にはどうにか応えてあげたい。


 そう思って止まないからこそ、兎にも角にもと口にした麻兎からのその問い掛け。

 それを耳にした途端、ぱぁっと表情を明るめた金花が思わずと言った調子で声をあげた。


『ホント? やったぁ!』


 振り袖の腕を振り上げて、ぴょーんと跳ねて喜びを体現。

 まるで小さな子供みたいに、思いっ切りに感情露に嬉々とする金花の様子に、麻兎の笑みもより深まっていく。


「じゃあ行こっか、金花ちゃん様。」

『うん! ……ホラホラ、早く早く! お腹ペコペコでもう我慢はなんだよ、ちゃちゃっと行ってもりもり行っちゃおー!』

「そんな急かさなくてもご飯は逃げないよ………って、ああっ! もうあんな所まで行って……! もう、病院じゃあ走っちゃ駄目なのに、金花ちゃん様ったら──。」


 たたたーっぴゅーん!

 麻兎の言葉を聞くや否や、もう待ちきれないとばかりに我先にと駆けていく金花。

 その後ろ姿を眺めつつ、困ったようにでも笑みが零れてしまう麻兎。

 向かう先にて腕を振る金花に急かされながら、のんびり、ゆったり、歩みを進めていった。




 麻兎は今、その何でもない日常に胸が熱くなるような幸せを感じていた。

 思わず浮き足立ってしまいそうな幸福感に浸りながら、再び動き始めた日々を過ごしているのであった。







「………ねぇ、今の。」

「見た見た。あの“噂”って、本当だったんだね。」




 ささやかなる声。

 潜める小声。


 そこにいた者が去った後。

 その後ろ姿を密かに眺める誰かが、内緒話に花を咲かせていく。




「一年前、学校で苛められて屋上から飛び降り自殺を図ったってあの子。ずっと植物状態だったのがようやっと目を覚ましたかと思ったら、すっかり人が変わってしまっていて、頭も可笑しくなっちゃっていたんだって。」




 ひそひそ、こそこそ。

 罰が悪いから、当人には聞かれないように。

 関わりたくないからこそ、当人には気付かれないように。

 こうして目の当たりにした当人のその様子から、人伝にて巡りに巡って聞き及んだその“噂話”と照合。

 実際の事は何も知らない癖に、美味しい都合の良い所だけかい摘まみ勝手に話を進めていく、そんな影の光景。


 そんな第三者無関係な外野たる彼らが向ける、その眼差しに込める感情は、人各々でも。


 奇異。

 好奇。

 嘲笑。

 侮蔑。

 嫌悪。


 ……それは端から聞いていても、決して気分の良いものではない。




「やっぱり、関わらなくて正解だったね。本当に頭のおかしな子だった。」

「あの子、ずぅっと一人で喋ってるんだもの。周りには誰もいないのに、一体“何”とお喋りしてるんだか……。」


 クスクスクス……。

 小馬鹿にした、控えめに溢す笑い声。

 その背中を指差して笑う誰かの手に「ちょっと! 誰かに見られたらどうするのよ。」とまた別の誰かが叩き落とし、諫める。

 ……が、意地の悪い内緒話はそこで終わる筈もなく。


「何もない場所をじっと見詰めて、何を考えているのか解らない顔してニヤニヤ笑ってるの。ホント気味が悪い。」

「この前、足の悪いお婆さんを階段から突き落とそうとしてたんだって。結局失敗して、あの子の方が落ちてちゃったみたいだけど……あれだって悪い事しようとしたからこそ、バチが当たったんだよ。きっと。」

「神様も見てるんだよ。だから悪い事をしたその報いを受けてるんだ。でなければ、あんな大怪我を入院中にも何回も………それも、治りが異常に早いのだって。貴方も変だと思わない?」

「本当、まだ生きているのが不思議なくらいさ。とてもじゃないけどこんな事、信じられないもの。」




「何言ってるの? 貴方って馬鹿ね。」




 こっそり、ひっそり、盛り上がる噂話。

 最中にそう声をあげる誰かに、その他の話し声がぴたりと止む。




「“神様”なんている訳ないじゃん。現実と空想の区別が出来る大人なら尚更の事、解り切った事でしょう? サンタクロースが実は親なんだって、知らない子供じゃあるまいし。」





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雷門麻兎は救われない。~僕と神様と人類無救済コメディズム~ 茜野 @yuuhi1008

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