壱話 雷門麻兎は救えない。

 朝が来た。

 また来やがった。


 毎日毎日、開かれる事のないカーテンから薄暗い部屋の中へ入り込んでくる日射し。

 どうやらほんの僅かに隙間が開いていたらしい。

 ずっと寝ていた筈だと言うのに録に眠れていない、理不尽な寝不足に頭がガンガンと鳴る鈍い痛みが地味に辛い。

 そこに狙ったかの様に侵入してきた日射しが狙ったかの様に目元だけを明るく射して、無理矢理に意識を引っ張り上げてきたのだ。

 苛立ちが募り、重い身体を無理矢理起こす。

 煩わしい日射しを無くすべく、殴り付ける様にカーテンをぶんどる。

 そして掴んだそれに八つ当たる様に、両開きの布幕を乱暴に交差させる。


 そうやって今日も外部からの“侵入者”を断固拒絶、外界断絶。


 再び戻る自室の自分のベッドの上、くしゃくしゃにしていた分厚い毛布の下へと身体を潜り込ませていく。

 頭の天辺から足の爪先まで全部覆い隠して。

 背中は丸め極力身体を小さくさせていって。

 灯りも付けずに暗がりの中、眠れもしないのに目蓋をも閉ざして光を拒む。




 部屋には飾りみたいな小さな机と、一日をそこで費やす為にしか使われない薄汚れたベッド。

 それから中身は両の手で数えられる程度の数着しかない衣服があるだけの、壁に埋め込まれたクローゼット。

 必要最低限の家具しかない、つんとした鼻につく臭いが仄かに香る牢屋の様なそんな自室。

 たった六畳の狭い世界の中で自分はまた、新しく迎えてしまった今日という一日を無駄に浪費して過ごすのだろう。

 誰にも食べられないまま腐らせた、もう廃棄するしか道がない生ゴミの果実の様に。

 



 時計の針は午前8時。

 本来ならば学校へと行く時間だ。

 今からでも家を出る準備をしなくては、朝のホームルームに間に合わないそんな頃合い。

 しかし彼の一度も身に付けられていない学ランは、随分と前からゴミ箱の中へと納められていた。


 それは何度も廃棄に出しているつもりだったのだが、毎日彼の様子を見にやってくる“親戚”が毎度洗って戻してくるからまだこの部屋に残されていただけ。

 どんなに生ゴミや埃にまみれさせて目茶苦茶なボロ雑巾にしたって、次の日の朝には皺もなくのりでパリパリになっている綺麗な状態で部屋の前に置かれているのが常なのだ。

 だからもう反抗するのも面倒になってしまった。

 それで自室で置物同然に使われていない空のゴミ箱へ突っ込んだまま、ずっと放ったらかしにされているのだった。


 つまりは学校へは一切行っていない。

 ずっと家に籠っていた。

 格好付けて言えば“自宅警備員”だが、正直にハッキリ言ってしまえば“引き籠り”だ。

 情けない話である。

 誰にも会いたくないからと、彼は自室からすら出られなくなっていた。




 自身が暮らすアパートの外、歩く度にカンカンと喧しい音が鳴る階段から人が登ってくる足音が聴こえてくる。

 いつもと同じ頃合いだ。

 また来たのか、毎日毎日飽きないもんだ、と心の中で悪態吐く。

 そして被っていた布団の端を手で足で押さえ付けまで塞ぎ込んで、ベッドの上に自身の身体で作った山をこんもりと盛り上がらせる。

 すると玄関の方から鍵を開ける“ガチャガチャ”とした音が響いてきた。




「オイ、起きろ馬鹿麻兎アサト!」




 乱暴に開けられる玄関の扉、罵倒の言葉と共に自身を呼び起こす聞き慣れた怒声。

 いつも通りに起きる、毎朝の恒例行事だ。

 自分も頑固だとは思うけれども、相手も相当諦めが悪いもんだ。

 なんて考えながらもぞりと身動ぎしていたら、その来客はダンダンと大きな足音を立てて彼のいる自室へと向かって来るのが音で解った。


 バンッ!


 無遠慮に大きな音を立てて自室の扉が開かれる。

 布団越しに扉の向こうから差し込む明かりが漏れ入り込んできて、不快感からより身体を縮込ませた。

 しかし来客者はそんな彼の心情などお構い無しに、ベッドの上盛り上がっていた毛布をひん掴むと、強引に取り上げる様に捲り上げた。


「起きろっつってンだろうが! 朝飯持ってきてやったんだ、さっさと食え!」


 手加減などまるでない罵声が薄暗がりの部屋の主を叩き起こす。

 折角暗くしていた部屋に入り込んだ外からの明かりを浴びてしまう事になった彼は、眩しそうに憎々しげに目の下に隈が浮かぶ顔をしかめた。

 その苛立ちを隠す様子もない学ランを身に纏った来客者に、重い口を開かせた。


「止めてよ或駆アルク……解った、解ったから。頼むから怒鳴らないでくれ。……煩くて頭が痛くなってくる。」


 渋々ながらもヨレヨレな寝間着姿の身体を億劫そうに起こして呻く。

 無動作に跳ねたボサボサな頭の、もうすぐ肩まで付きそうな程伸びていても手入れを全くされていないパサパサな黒髪を掻き回して大きな溜め息。

 ずっと寝通しだった頭は酷く重く感じて、ベッドの上胡座をかく身体は酷く怠くてつい前のめりになって背中が丸まっていく。


 そうして頭痛に苛まれている重い頭に苦悩していたけれども、同様に身体とて同じくらい重くしんどかった。

 喧しく口煩い“雷男怒りん坊”にまた怒鳴られてしまう前に、今すぐにでも起き上がらなくてはとは頭ではちゃんと思っている。

 しかし鈍い思考回路と鉛の様な身体は上手く働いてくれなくって、仁王立ちするその来客者の前で寝起きで寝惚け眼の彼は俯き屈んだままに動きを停止フリーズさせた。


 麻兎が固まり沈黙してから暫く。

 俯いていて表情が解らない彼の脳天をじっと見下ろしていた来客者だったが、その項垂れていた頭が一瞬小さくカクンッとぎこちなく傾くのを見た。

 その瞬間、それが寝こけている事に彼は気付く。

 そして彼の中の堪忍袋の緒が切れると時計のアラーム音よりもずっと荒々しい雷が、うたた寝に船を漕ぎ始めていた寝坊助へと落ちるのだった。




「………………ぬァに寝てやがるこンの糞馬鹿がァッ!! 良い加減さっさと起きやがれッッ!!」




 その無防備な頭上へと振り落とされる容赦のない鉄拳。

 ゴッチン! と盛大な打撃音が部屋に響く。

 同時に、それから与えられた身悶えする程の激痛に「いっだあッ!?」と痛みに呻く悲鳴が上がり、彼──雷門らいもん麻兎アサトその日は文字通り叩き起こされる羽目になってしまった朝を迎えるのだった。






 *****






「──ったく、毎日毎日世話の焼ける奴だ。俺が起こしに来ねェと一切起きる気を起こさないのも、良い加減どうにかならんのか。」


 いつも通りの朝、いつも通りな彼の小言を聞きながらの朝食。

 自室から引っ張り出されてダイニングキッチンへ連れ込まれた麻兎は、向かいの席に座り頬杖付いている来客者にして“親戚”である彼──或駆アルクが持ってきてくれたタッパーに入った料理達を不服ながらももそもそ食べる。




 外界の全てを拒絶する麻兎が唯一渋々にでも部屋を出る理由を作って少しでも外に慣れさせようと世話を焼く彼は、麻兎が一番に心を許した親友兼兄弟だ。

 うっすら赤みを含む黒のくしゃっとした短髪はぼさついている様で手入れがされており、ムースでフワッと立たせたらしい波打つ髪が毛先を彼方此方に跳ねさせている。

 その短めに切り整えられた中で右側の揉み上げだけ不均等に長く伸ばしている姿からは、彼が何やら拘りを持って身形に気を使う人物なのだと見る者に感じさせてくる風貌だ。


 横暴な言動と柄の悪さからは一見チャラついた不良の様に人に印象付けさせる彼ではあるが、良くみてみれば身に付けられている学ランは上から下まできっちりとボタンを締められており、襟も裾にも乱れはない。

 整えられた爪先、そしてピンと立たせた背筋や彼が口にする乱暴な言葉の意味から察する事が出来れば、彼が不良と言うよりもどちらかと言えば生真面目という方がしっくりくると思わざるを得なくなるだろう。


 事実、彼はとても真面目な人物なのだ。

 見た目は怖く言動も確かに乱暴ではあれども、面倒見の良い彼は何をするにしたっていつも真剣だ。

 悪ふざけはなく、誠実に物事に取り組む針の様な真っ直ぐさ故に、時折“損”をしてしまいがちな所もある事だって、長い付き合いである麻兎はよく知っている。

 何故なら麻兎が“糞真面目”と半ば面白がりつつも、胸の内に秘めていた単語をぽろりと口に出してはまた頭を叩かれてしまう……何て男子高校生らしい、気を許し合っているからこそ受け入れられるじゃれ合いが有るくらいだ。

 だからこそ普通ならば柄悪く乱暴な不良や輩なんて怖くて近寄りがたいとすら思う麻兎でも、見た目言動からくるイメージなんてそんな事はお構い無しに敬愛と親愛の念を持って或駆にだけは特に気を許しているのだ。


 そうやって知れば知る程に印象がガラリとひっくり返されてしまう、そう言う人物こそ風間かざま或駆だ。


 ……否、今は名字は変わっており彼は自身を“灰原はいばら或駆”と名乗っている。

 親が再婚した相手から受けた名字だ。

 嘗ては長男の或駆とその妹──ミヤコ、それから彼等と遠い親戚であり或駆と同い年でも末っ子みたく可愛がられていた麻兎の三人兄弟と彼等の母親の四人でこのアパートにて質素に暮らしていた。

 それが数年前に再婚相手から居を共にしようとの誘いを受けてから、彼等風間一家のみがそちらへと移る事になり、今は離れ暮らすことになっていた。


 麻兎も誘いを受けていたけれども、彼自身がその申し出を断ったのだ。

 それ故に麻兎は一人安いアパートに残り、風間一家は姓を変え灰原家──否、灰原財閥のトップに君臨する社長を勤めている、彼等の新たな父親とその息子兄弟である双子が用意した一軒家へと移り住む事へとなったのだった。




 ………これは蛇足ではあるが、本当は只の一軒家ではなく豪邸へと招待される予定だったそうだ。

 しかし成り行きで再婚し新しく家族になりこそしても、彼は……というより彼等風間一家は元より庶民気質。

 執事や使用人のいる広大な土地と一人一つ部屋を貰ってもまだ空きばかりな、城の様に無駄に大きな家なんてとても落ち着いて暮らせる筈がない、と豪勢な建物とそこで働く召し使い達からの自分達への扱いに怯え固まる兄妹を背にシングルマザーにして威風堂々たる態度の母──最中モナカが断固拒否を貫いた。


 その説得による結果、何とか一般的な民家を即日購入する事となり(この時点で掛かった費用を知り妹は泣き、或駆は失神した)、それでも三階建て・足の悪い最中の為のエレベーター付き・一人一部屋・大きな庭付き等々……という一般的からしてもやはり仰々しい立派な民家にて、社長父・母最中・双子兄弟・或駆達兄妹の六人家族は暮らすようになったのだった。

 新しい家は最初こそやはりおっかなびっくりだったそうだが、今は大分慣れたらしい。

 新しく兄弟となった同い年の双子との仲も“随分と宜しい”様で、時折何か嬉しい事があったのか照れ隠しを交えながらもその暮らしの様子を話してくれる事はまぁまぁにあった。




 ……何にせよ、元夫のDVから逃れても尚、最中が患う身体の障害による弊害から働き先を転々と変えつつ侘しい暮らしをせざるを得なかった風間一家だ。

 漸くしがらみもなく健やかに暮らせる場を得られた事は、以前までは共に家族同然で暮らしてきた麻兎とて嬉しい限りである。

 今までは「ウチはお金に困ってないから」と最中が麻兎の母より押し付けられた亡き父が残した普通に暮らしていくには困らない程度の財産と、麻兎宛てで送金される息子一人分にしてはあからさまに額が多過ぎる仕送りから、あれこれと遣り繰りし倹約しつつ贅沢はたまに程度で細々と暮らしていたのだ。

 こんな自分に申し訳無く感じながら共に暮らすのもきっと息苦しかっただろうし、きっとこれで良かったんだと麻兎は胸の内にてひっそりと思うのだった。




 ネチネチうだうだ、いつだって似た様な事ばかりその口から出てくるのは嫌味嫌事。

 夏の嵐の様に恒例且つ厄介な彼の、耳にタコが出来そうな程にしつこい小言を麻兎は右から左へと聞き流す。

 ああだこうだ言う割には律儀にも足繁く持ち込んでくる彼自身が作った手料理を、空きっ腹に押し込むべく刺し箸でちまちま口に入れていっていると「行儀が悪い!」と今度は頭に手刀が降ってきた。


「痛いんだけど……。」

「文句が有るなら直せといつも言っているだろうが! ……それから好き嫌いすンな、残さず全部食っとけよ。」


 唇を尖らせて不満を口にする麻兎にすかさず或駆が叱咤する。

 或駆の目を細めた釘を刺す様な視線の先には、食卓に広げていた自身が作った料理へと向けられていた。


 人並み以下の量で用意された品々には、それでも栄養バランスを考えて作られている様で見た目はそれなりに彩り豊かだ。

 只でさえ食の細い麻兎に合わせて量と品数を減らしつつ、その分具材の種類を増やされている料理は好き嫌いの激しい彼が比較的よく食べてくれる根菜をメインに作られているのだった。




 筍、人参、ゴボウ等、根菜が入り交じる中、主役である御飯の一粒一粒がクリーム色へと優しく色付いた炊き込み御飯。

 茸、海藻、里芋が浮く味噌汁は赤味噌で作られており、まだ口を付けていないそこには雲が浮かび上がっていて器の中で穏やかにゆらゆら揺らめいている。

 ホウレン草をゴマで和えたおひたしは一番小さな器に入れられ添える程度に。


 その中で一切手を付けられていないのは、ミートボールみたく丸めて焼かれた小さなハンバーグ。

 メインメニューらしきその品に、見た瞬間から顔をしかめていた麻兎は箸で皿を遠避け拒否の意思を示すと、その手が平手でひっぱたかれた。


「豆腐だわ豆腐! テメェが食わなくなるんだから、肉は一切入れとらんっつーの! 良いから黙って全部食え!!」

「………はぁい。」


 怒鳴り叱られ渋々箸をそれに刺す──鋭い目がぎろりと向けられた──のを止めて、持ち直した箸で小さな丸い豆腐ハンバーグを摘まむ。

 それを口の中へと運び咀嚼すれば、確かに嫌いな肉の味がないと理解する。

 胃もたれし易い麻兎の為に味付けはさっぱりと淡白に作られたそれらをゆっくりゆったりと食し続けていると、目の前の彼が椅子の足元へと置いていたリュックサックを手に取る姿が視界に映った。


「俺はもう学校に行く。昼飯は冷蔵庫に入れてあっから、食欲が出たら食っとけよ。夜にはまた来っから。」


 背負いながらに席を立った彼がそう口にする。

 そして背後の冷蔵庫へと此方に向いたまま立てた親指で差し向けていた彼に、申し訳無さと面倒臭さを同時に感じてしまう麻兎は顔をしかめながらぼそりと言葉を溢した。


「………別に来なくて良い。」

「馬ッ鹿、こちとらテメェのお袋に頼まれてやってもいるんだ。……只でさえ忙しい人だ。それを、あの人が留守の間にお前の体調が崩れちまう様な手抜きなんかしてられっか!」


 そう言う彼の視線はダイニングキッチンと繋がるリビングの奥の、棚の上にて置かれた写真立てだ。

 その傍らには線香が点てられており、その写真に映る人物が故人である事を示していた。

 しかしその写真の中の人物には黒い“焦げ”がその顔を隠してしまって、それ故その人物がどんな風貌なのかは解らない。

 その傍らには良く見知った“女性”と並んで映る“誰か”との写真が並べ立てられており、その“女性”は白衣を纏っていることからその人が医者である事は明確だった。


 その女性は麻兎の“母親”であり、顔を隠されてしまった人物は麻兎が生まれる前に亡くなって顔も知らず会った事もない“父親”だ。

 今も尚健在な母親は海を越えた遠い場所で、世界中を飛び回りながら貧しい人々に治療を施す“国境に縛られない医者”の一人として忙しない日々を送っていた。

 彼女が訪れる場所には当然戦時中の地域や他にも危険地帯すら含まれており、それ故に女手一人で尚且つ一人息子の彼を連れては行けずに遠い親戚であり交流もあった或駆の一家“風間家”へと預けられていた。


 そういった事もあって彼等とは家族同然だった麻兎。

 彼も再婚相手から共に暮らす提案があったけれども、諸事情・・・があった為に付いていくのを丁重に断る事にした。

 それ故彼だけがこのアパートに残って一人で暮らしているのだった。


 一人残してしまった事に心残りがあるのか風間一家の人々は頻繁にこの家へと顔を覗かせにくる。

 その中でも特別毎日毎朝毎夜飽きもせずに来るのが兄弟の様でもあり、親友の様にも思っていた或駆だ。

 沸点こそ低いものの長男らしく責任感の強い或駆は、自身が尊敬する麻兎の母親に「宜しくね」と言い残されてより国を発っていくのを見守った事があった。

 そんな事があったからだろうか?

 以来彼が一番に張り切って麻兎に目を掛けて面倒を見、真面目に叱咤しながらも特に甘やかす様になっていってより今に至る。

 勿論或駆だけでなく彼の妹、そして二人の母親にとて世話を焼かれ続けて今の今まで過ごしてきたからか、それもあってか両親が居らずとも寂しく感じた事が麻兎には一度もなかったのだった。




 恵まれた環境だと彼は思う。

 それ故に……今は“こう”なってしまった事に、申し訳無さから罪悪感に押し潰されそうになる。

 それでも落ちぶれてしまった自分を見捨てず、こうもまだ気に掛けてくれる彼等に報わねばとは何度思った事か。

 しかし外に出る事すら儘ならなくなってしまってから、彼は日に日に外部からのものへの嫌悪感をより強めていってしまう。

 その為に半ば無理矢理にでも部屋から出させねばと躍起になっている或駆の献身的とも言えそうなその荒療治に、麻兎は嫌がりつつも本人とて“このままではいけない”という自覚が多少はあるが故に結局それに甘んじているのだった。


 今日もこうして彼に甘やかされながら、部屋より引っ張り出されている麻兎。

 いつもいつも世話焼かれている一人っ子でありながら末っ子気質な彼には、自身をこうも気に掛けてくれる或駆がどうにも同い年には見え難い程にしっかりしている様に感じてしまう。

 そして自分と比べては自己嫌悪に陥りつつも、同時に何処か他人事の様に感心した。

 それ故かつい思った事により「解ったよ……或駆“ママ”」と口を滑らせてしまうと、直ぐ様麻兎の顔面は鷲掴みにされたのだった。


「テメェのッ様なッガキを産んだ覚えは、ねェ!!!」

「あいだだだッ! 痛い痛いっ! ゴメンってば或駆っ、僕がっ僕が悪かった! だから許しっ……ぎゃああああああっ!」

 

 割と力の強い彼からのアイアンクロー、それは地獄での鞭打ちにも等しい折檻。

 ギリギリと込められていく或駆の馬鹿力に、麻兎はぎゃいぎゃい騒ぎながら足をばたつかせ涙目になって身悶えた。




 いつもそうだ。

 朝は或駆が朝食と昼食を持って起こしに来て、自分がそれに茶々を入れお仕置きされては馬鹿みたいに騒いで。

 いつもそうだ。

 或駆が学校へと向かうその背中を玄関までは付いていって見送って。

 一人きりになった安いアパートの一人しか居なくなって自分だけのものになってしまった、家具が少ない部屋のベッドに身体を潜り込ませていって……。

 いつも通り、だったんだ。

 何かやりたい事がある訳でもなく、何か出来る事は既になく。

 毎日毎日布団の中で眠くもないのに無理矢理意識を落とし、ゴミの様に自分を腐らせていく日々の一端。


 浅い眠りばかりで寝不足が解消されない瞼が、疲労感からか漸く段々重くなっていく。

 今度はちゃんと眠れますように、と祈る気持ちで背を丸めて、軈てその身体の力が抜けていく麻兎の意識は泥の様に溶けて失せ、眠りの中へと墜ちていった。






 *****






『──どうしてあんな事をしたんだ!』




 轟く怒声が頭上で響く。

 強張った身体に竦めていた肩は怒声の勢いにびくついた。




 違う、誤解だ。



 そうは言いたくても、無実を証明出来る“証拠”がなくっちゃ誰の信用も得られない。




『──お前がそんな奴だと思わなかった!』




 自分を見放していくその声に、自分の足元が崩れ落ちていく感覚を覚える。

 俯かせていた顔を咄嗟に持ち上げて見上げてみれば、怒りの形相が自分を咎める様に向けられていた。




 違うよ、本当は違うんだ、だって──。




 彼にだけは嫌われたくなくて、本当の事を口にしようとして……閉ざす。

 彼の背後から自分へと向けられていた目。

 素知らぬ顔で他人事みたく外野にいた“アイツ”からの視線。

 人影に隠れてニヤニヤ笑みを浮かべて、自分が陥れられていく様を見て楽しむ外道。




 ──しゃ、べ、る、な。




 視線が合ったまま声もなく、明確に自分へと向けられた“奴”からの命令。


 学校も家も友達も家族も、全部全部台無しにされた。

 目を付けられてしまってからはもう、有る事無い事言い触らされてしまったのだ。

 広がった噂話、中身が嘘か真かなんてそっちのけ。

 面白がられてより広げられていけばいく程、自分の敵が増えていく無限地獄。

 皆から向けられる様になった白い目の視線。

 自分を見てこそこそと内緒話に勤しみ出す群衆。

 今まではちゃんとあった筈の自分の立場は、どんどん奈落の底へと引きずり落とされていく日々。




 そして思い知った、自分には逃げ場なんてないと。

 思い知らされたのだ、“アイツ”には逆らう事は出来ないと。




 だからもう居場所のない自分は落ちて、




 落ちて、




 落ちて、




 落ちぶれて、




 惨めになって、




 嗚呼、もう──■んでしまいたい。






『そう、じゃあ■ねば?』






 *****






「──はぁッ…!!」


 飛び起きたベッドの上。

 汗だくになっていた額や頬から伝う雫。

 布団はいつの間にか蹴り落としていたようだ、ベッドの下で山になっていた。


 嫌な夢を見た。


 昔の出来事を思い出す夢だ、気分は最悪。

 魘され飛び起きたからか心臓がばくばくと喧しい。

 痛む頭は相も変わらず。

 最低な夢ばかり見る浅い眠りじゃ、やっぱり睡眠不足は解消されなかった。


 寝間着の袖で顎の脂汗を拭い取って気を取り直し、今は何時くらいだろう? と薄暗い部屋で時計を探す。

 暗闇の中手探りで辿る枕元、伸ばした腕の爪先に固いものが触れてそれを手に取った。




 ──ピンポーン。




 ……おや? 誰かが来たようだ。

 玄関チャイムの鳴る音が家の中を響き渡っていく。

 多分今は昼明けくらいだ。

 時間的には訪問販売だとかセールスだとか、来るのは大抵その辺の奴等だろう。

 相手をする気なんて更々起きないので、無視して居留守に決め込む事にする。


「──麻兎! 悪ィ、鍵を忘れたんだ! ちょっと玄関開けてくれないか!?」


 玄関から知った声が聞こえてくる。

 或駆の声だ。

 鍵を忘れるなんて珍しい、と深く考える事無く或駆の為ならばと重い腰を持ち上げる。

 インターホンの無い家だ、直接見に行かねば来訪者が誰かなんて解らない。

 それでも来たのが或駆ならば、面倒だけど仕方がないと時計を見ずにベッドを降りる。


 薄暗い部屋の扉を開ければ外は橙色、まだ明るくもちょっとだけほの暗い。

 なんだ、昼過ぎどころかもう夕方になるのか。

 なんて、少し虚を付かれた気持ちで目を丸くして、それからのそのそ玄関へと裸足で向かっていく。

 つるつるとした冷たい床を覚束ない摺り足で歩いていって、そして辿り着いた玄関前に立つとドンドンッと乱暴なノック音が響いた。


「麻兎、居るんだろ! 早く開けてくれ!」

「ハイハイ、解った解った。今開けるからちょっと待っ──、」


 ドアの鍵をガチャリと回す。

 開けようとノブへと伸ばしかけた手。


 そこでふと思うのだ。

 或駆は此処へ来る前に夜御飯を作りに、今彼が住んでいる家へ一時帰宅してからこの家へと戻ってくる筈。

 それが今はまだ夕刻、空はまだ明るく夜と言うには気が早い。

 いつも外が真っ暗な中やってくるのが彼だった。

 だと言うのに、いつもと違う様子で「鍵を忘れた」と開門を急かす“或駆の声”は一体──?




 ガチャンッ




 違和感に思考がぐるぐる回り出す中、鍵を開けたドアは無遠慮に開けられた。

 そして眼前に現れる来訪者の姿。


 その相手を見た瞬間、麻兎の表情はひくりと引き釣った。




「開けるのが遅いよ、麻兎。俺が“開けろ”と言ったらさっさと開けるべきだ。」




 思考が違和感の答えを出すと同時に、開けてしまった鍵に開けられた玄関ドアによって麻兎の退路は断たれてしまった。

 ひゅっと喉の奥から引き釣った音が響いて、震え始めた足が後退りたたらを踏む。

 狼狽える余りに咄嗟にドアを無理矢理閉める事すら出来ずに、全開まで開けられてしまってはドアノブへと届かなかった手は空を掴んで何も得ず。

 只々呼吸は荒くなっていき、表情は恐怖に引き釣るばかり。

 そんな自分を見て“奴”は、その形の整った美形と言い表す他無い綺麗な容姿に涼しげな顔で穏やかに笑んでいた。


「本当、馬鹿正直で疑う事を知らない奴だね。御前のそう言う所、とっても“便利”で好ましいよ。これからも利用してあげるから……ずっと変わらないままでいてね、麻兎?」


 とても或駆の声と良く似せられた低く唸る様な声は成りを潜め、彼本来の少し声音が高めなゆったりとした涼しげな声音へと元通りになっていた。

 人真似と嘘ばかり上手くって他人を蹴落とすのが趣味みたく、いつもいつも人を玩具にしては飽きたら投げ遣りに見捨てる悪意の塊とも言える男。

 麻兎は彼をそう認識しているからこそ、二度と顔も合わせたくない苦手な人物でもあった。

 それが彼──灰原はいばら無緘ナイトだ。

 或駆の母親が再婚した相手が連れてきた、双子の兄の方の片割れだ。

 そして同時に、かつて麻兎を陥れた最低最悪な大嘘つきの悪党だった。




 シルバーグレーのさらさらで丸いシルエットの短髪に、猫目の形の良い黒と銀のグラデーションが映る灰の瞳。

 モデル体型とも言えるすらりとしたスレンダーな体格はひょろがりな麻兎と違って身が引き締まっており、今は“元”ではあるが彼が子役…役者としてテレビに顔を出していたくらいには、鍛えられているのが解るもの。

 日本人的な名前でも風貌が“らしくない”のは、彼がクォーターだからだ。

 父親にそっくりな形で双子の弟と同じ顔で産まれた彼は、初めて顔を合わせた時には同一人物が三人になって現れたのかと思った程に良く似ている。


 ……似ているから、問題だった。 


 双子の見た目はまんま同じ過ぎて、入れ替わってしまえば本人達以外には見分けが付かない。

 弟かと思って声を掛ければ兄だった事もあれば、兄が話し掛けてきたかと思えば後から実は弟でした、なんて事件が多々あると或駆が言っていたのを思い出す。


 大富豪の御曹司の双子だ、今まで好き放題して生きてきたのだろう。

 あらゆる問題児を纏めて煮込んで出来た塊の様な奇想天外な双子は、誰も制御なんて出来やしない。

 一人親である父親が放ったらかしにしているからだ。

 金持ちで立場もあって、顔も広い彼等に怖いものなど何もなかった。


 それでも片方は比較的“まだマシ”で、もう片方は比較的“物騒”だ。

 ちゃんとどちらがどちらか解っていれば、降りかかる害も多少は減らせられる……と思う。

 だからよく見極めて近付かねばならない、間違ってしまえば何をされるか解ったもんじゃない。




 自分とてそれが原因で、してやられたのだから。




 土足で踏み荒らすが如く、無緘は家の中へと押し入り“ガチャリ”とドアの鍵を閉められる。

 急に踏み込まれてしまって間近になった互いの距離から、遂に腰が抜けてしまった麻兎は思わずへたり込んで尻餅を付いてしまった。


「久し振りだね、麻兎。元気にしていたかい? 此方は生憎、居なくなった御前の御陰で家も学校も安泰で過ごせてるよ……嗚呼本当に、御前が俺の“身代わり”に成ってくれて助かった。心から感謝しているよ。」


 頭上から優しい声音で残酷な言葉を綴る声が降ってくる。

 恐ろしさの余りに麻兎は彼から目を逸らす事も出来ない。

 そして自分へと向ける無害そうなそのにっこりとした笑顔から、彼がまた自分に何かを“頼もう”としている事に気付いてしまって口から小さな悲鳴が溢れた。


 彼の頼み事はいつだって録な事がない、大体最後に自分だけが酷い目に遭わされる。

 奴はそれを蚊帳の外の最前列で観る為だけに、自分だけ安全圏に居着いてより高みの見物をしては楽しんでいる事くらい知っていた。


 逃げ場なんてないのに、力が抜けて上手く動けやしないのに、それでも逃れようと麻兎はもがき這いつくばったまま踵を返す。

 何とか手を伸ばして四つん這いで逃げて、どうにか部屋へと戻って閉じ籠ろうと四肢を必死に動かした。

 すると背後から聞こえてくるのは心底可笑しそうに笑う声、腹を抱えてまで笑っているらしい声が鼓膜に響いてまた青ざめる。


「あっはははっ! 何それ、そんなので逃げてるつもりかい? おっかしいなぁ、本当に御前は面白い奴だ………ホラホラ、逃げろ逃げろ。さっさと足を動かさないと俺に捕まってしまうよ?」


 必死に手足を動かして強張る身体に鞭打ち逃げるけども、後ろからカツカツと靴を鳴らす音が聞こえ迫ってくる。

 軈て直ぐ側までに近付くと背中へと降ってきた衝撃から「ぐぅっ」と蛙が踏み潰されたみたいな声が溢れた。

 そのまま床に突っ伏されてしまうと、頭上からまた愉しげな声が降ってきた。


「──ハイ、捕まえた。ショッボい逃亡劇だったねぇ? でも“わんちゃん”みたいで無様で中々に愉快だったから、退屈ではなかったよ。」


 背中を押さえ付けているのは、靴を履いたままの奴の足らしい。

 本当に文字通り土足で人の家に踏み込んできた無絃に、麻兎は軽蔑の感情を抱いた。

 しかしそれ以上に、これから何をされるのか想像するだけでも怖くて仕方がない麻兎は尚も足掻いて逃れようと腕を伸ばした。


 床に腕を付き押さえ付ける足から逃れようと、踏ん張り身体を持ち上げる。

 しかしひょろがりな自分よりもずっと力の強い彼の足が、硬い靴の溝で捻る様に踏みにじられた。

 下手したらあばら骨が折れてしまいそうなくらいに強く押し付けられた足から、ぐりっという音が聞こえてくると背中に激痛が走ってまた悲鳴を上げた。


「いっ……痛い! 痛い痛いぃっおねが、やめっ…!!」

「御前が逃げようとするからこうしているんじゃないか。抵抗するならもっと痛め付けてやっても良いけど……どうする?」

「ッ……解った、解ったからっ………お願い、だからっもう止めてぇっ……!」


 痛みに、恐怖に涙が溢れ出す。

 ぐすっと涙声を洩らしながら理不尽な仕打ちにも関わらず許しを乞い、今日もまた無様に屈してしまう。

 涙腺が弾けてしまって涙が止まらない。

 情けなくて、惨めになって、頭上で響く笑い声に悔しく感じても拳を作って握り締めるだけでハイ終わり。

 床に落ちて出来る水溜まりを睨みつけたとしても、やり返そうなんて気持ちは一ミリたりとも起きやしないのだ。

 只々ひたすらに、早く解放されたい、そう思うだけ。

 泣き虫で弱虫な彼にはどうしたって“逃げる”か“耐える”の二択しか残されていないのだった。


 そんな自身に屈して下僕に成り下がった彼に、思う存分笑い終えた無緘は溜め息混じりに口を開く。


「今日は金曜日だと言うのに、課題に必要なノートを学校に忘れてしまったんだ。月曜日には提出しないといけないものだからさ……それ、取りに行ってきてくれないかい?」


 唇に人差し指を当てて考えているみたいな素振りでそう言う彼。

 何を言い出すか身構えていたらそんな事だったので、その“頼み事”のしょうもなさに唖然とする。

 けれども、麻兎からすれば苦行にも近い“学校へ行け”という命令だ。

 確実に自分が嫌がる事を解っててやらせようとしている事に気付いてまた、彼は顔をより青ざめさせた。

 そして面倒臭がりで人を顎で使いたがる物臭な無緘は付け足すように言葉を続ける。


「嗚呼、そうそう。御前は学校に来ていないから知らないだろうけど、最近ウチの学校では“肝試し”が流行ってるんだ。」


 ニヤニヤニマニマ、また何か良からぬ事を考えている笑みを浮かべる彼。

 聞けば聞く程に胸の内が冷ややかに、奈落へと突き落とされていく感覚から手足の先から熱だけが逃げていっている気がして身体は震えが止まらなくなる。


「だからさ、麻兎も試してみてよ。ゴールは天辺、学校屋上に何故か置かれている小さな“鳥居”。その学校裏の海が良く見える場所に奉られた、真っ白な鱗柄の“御守り”を盗って俺の所まで持って来るだけ。……ね、簡単だろう?」

「なっ……!?」


 涼しい顔してとんでもない事を言い出す無緘に、何て罰当たりな! と、麻兎は絶句の余り言葉を失う。

 奉られているのだとしたらきっと大事な物なのだろう、それを“盗って来い”だなんて……!


「そ、そんな事をしたら、そこの“神様”に怒られるんじゃ……!」

「は? 何、御前、神様とか信じてるの?」


 顔を青くしたままにどうにかその罰当たりな事を避けられないか、麻兎は兎に角説得を試みる。

 しかしそれを聞くや否や、吃驚とした表情になった彼は間を置いて破顔、声を上げての大笑い。


「アハハハハハッ! 何それ馬ッ鹿みたい! そんなの居る訳がないだろう? ふっ…くくく、馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、本ッ当に愚かなんだね御前は! 今時子供だって神なんて信じちゃいないよ。」


 腹を抱えてまで一頻り笑いに笑い、麻兎の背中を踏み潰しながら土足のまま部屋を散策しに行く無緘。

 苦し気な声が溢れるのも無視してあっちこっちと扉を開いては、

「何これ、物置かい?」

「…うわっ、こんな独房みたいな場所で寝てるの? ええ……?」

「ボロい、臭い、汚ならしい。人間ってこんな場所でも暮らせるのか、同じにはなりたくないなぁ。」

 散々ボロクソに罵っては勝手に物に触り、その癖不快そうに手を払っては持っていたハンカチで拭い取るみたいに手を拭いていた。




 ……文句が有るならさっさと帰れば良いのに。




「………何か言った?」


 じろりと灰色の目が此方へと向けられる。

 咄嗟に口を手で塞いで、また無意識に思っていた事が口に出てしまった事をそこで自覚する。

 冷や汗とも脂汗とも言える、身体を冷ややかにして熱を奪っていく嫌な汗が焦りと共にじわじわと滲み出てきてしまい、それを隠そうと必死に首を振っては「な、なんでも、ない」と狼狽えてるのが見え見えな下手な嘘で誤魔化した。


 そんな自分を細めた目でじっとり見遣っていた無緘。

 しかしそれも直ぐに飽きたらしい、溜め息交じりに踵を返していった。

 どうにか何も仕打ちを受けずに済んだらしい。

 安堵に深く息を吐いて俯くと、視界に映った床の足跡。

 靴の形が丸解りだ。

 或駆が来る前に片付けなくちゃ、と考えてはどっと疲れを感じた気がした。


 玄関側の洗面所へと足を運ぶ。

 タオルラックから一枚目抜き取り、手に取ったタオルを水で濡らして力強く絞って無駄な水気を抜いていく。

 寝不足でへろへろ、背は低く食の細いひょろがりな身体、寝過ごし昼食を食べていない空きっ腹。

 様々な要因から力が入らなくて、絞っても絞っても水気が落としきれない。

 無緘や或駆の様に力が強くない麻兎はまた誰かと自分を比較しては劣等感に自己嫌悪、自らどつぼに陥れては一人でに落ち込むのだった。


 仕方がないのでそのまま持ち出し、汚れた床に雑巾として拭いて回る。

 水分が多く含んだ布からは、拭けば拭く程に床の上を水膜が広がっていく。

 這いつくばって無緘が通っていった道を右往左往、半ば夢中になって続けていれば足跡がキッチンへと続いている事に気付く。


 パタン、と扉が閉まる音が聴こえて、何だろう、と顔を持ち上げる。

 床にへたりこんで見上げる麻兎の視線の先には、いつの間にか人の家の冷蔵庫を漁って何かを口の中に放り込んでいる姿の無緘がいた。


「………んん? これ、ミートボールかと思ったら肉が入ってないじゃないか。」


 それを味わって違和感を覚えたらしい彼が、何様のつもりなのか眉間に皺を寄せ文句を言う。


「此処に来れば或駆が作ったものを食べれるかと思ったけど……野菜ばかりでつまらないな、麻兎ってもしかしてベジタリアン? それともヴィーガン? ……ま、どうでも良いけど。」


 もう一個、豆腐ハンバーグを摘まみ取っては口に放り込んだ。


「今度は肉も入れて貰ってよ。どうせ録に食えないんだろう? ……むぐ、また食べに来てあげる。」


 含んだそれを咀嚼しつつ、もごつきながらそう言った無緘は何処となく御機嫌そうだ。

 鼻歌交じりにすれ違っていく彼の玄関へと向かっていく姿を、麻兎はそれを眺めるだけで何も言葉にしなかった。

 只、その胸の内では恩着せがましく彼が言った言葉に、




 そんな“次”なんて要らない、もう二度と来ないでくれ。

 僕の事は放っておいてよ。




 そう麻兎は反発心マシマシで胸の内にぼやいた。

 またついうっかりぽろりと溢してしまわぬ様に、栓の緩いこの口を固く閉ざして。

 他にも色々文句や思うところは有りつつ黙っていると、玄関ドアのノブに触れた彼がくるりと此方へ振り向いた。


「明日の昼過ぎ、また来るよ。その時にノートと……肝試しをした“証拠”、ちゃぁんと見せて……ね?」


 にっこりと穏やかな笑みを浮かべて彼はそう口にする。

 そしてそのままドアを開けて去る背中が見えなくなると、ドアは自重で一人でに閉まっていった。

 すかさずそのドアの鍵を締めてカンカンとなる階段からの足音が遠ざかっていくのを聞き耳立てて、それが遠くで止んだのを確認すると脱力感からその場にへたり込んだ。


 なんて最悪な日なんだ。


 目には再び涙が滲む。

 無力感と自分の非力さにうちひしがれる。

 また良い様に扱われてしまった、自分の逃げ場は此処にすらないのか。

 そう考えてしまってネガティブになっていく気持ちから、溢れる前にと目元を袖で拭う。

 それから立ち上がり直して奴が去った後を振り返ってみれば、折角拭いた場所にはまた足跡が。

 絞りきれずに拭く程広がっていった水の跡が至る所に残っているのも相まって、より汚れてしまった自分の家の中を見た瞬間麻兎は思わず気が遠くなるのだった。






 *****






 時刻は大体17時半くらい。

 空は橙色と赤と黒が入り交じったグラデーションカラー。


 東から顔を覗き込む様に浴びせてくる、目が痛くなる程の夕陽の日射しが顔を焼く。

 その眩しさからくる不快さに麻兎はくしゃりと顔をしかめた。

 恐る恐る踏み出した外には至る所に疎らに人がいて、それを避けながらに足早に進んできて漸く辿り着いたその場所。


 自分が通う筈だった、この町と同じ名前の“花都高等学校”。

 町の至る所に花が咲き乱れ、春夏秋冬何処かしらの花が開く様から“此処は花の都、日の本の中の花都街フィレンツェ”という、何とも格好付けたキャッチフレーズまである、麻兎が産まれ育った街にある唯一の高等学校がそこだった。


 

 久し振りに腕を通した学ランの袖、私服では寧ろ目立つかと考え思い切って着替えてみた。

 木を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中。

 学生ばかりの場所に乗り込むのならば、自分もそれに紛れてしまえばきっとバレない!

 そう考えての事だったが、いざ学校の門前まで来るとまだ至る所から見える人影を見て尻込みしては学ランの袖を握り締めた。

 新しく・・・買い換えた学ランは新品のままで、ゴミ箱に封を開けないで放り込んでいたからか少し型崩れしていてもピカピカに綺麗で少し固い。

 着方を忘れかけて少しばかり大変だったけれども、何とか身につけることが出来たそれは袖に手が出きっておらず、ベルトで押さえ付けてずり下がらない様にしただぼついたズボンとて自分の身体より少しばかり大きく感じた。




 以前、余りにもしつこく戻ってくるものだからズタズタに引き裂いて棄てた学ラン。

 汚して棄てるだけでは洗って戻ってくるだけ、ならば修復出来ない程に壊してしまえばきっと諦めてくれるだろう──そう考えての事だった。

 その次の日にはやはり元通りにされた制服が戻ってくる事はなく、これで鼬ごっこは終わりだと高を括ってそれから数日。

 もう二度と戻ってくる事はないと思っていた制服は未開封の新品で、ここぞとばかりに部屋の前に置かれていたのだ。


 露骨に外されていない値札に書かれた額、それを見てサァッと青ざめていく顔。

 当然だ、制服なんて良いもの安値で買える訳がない。

 それが直ぐに部屋の前へと置かれたのではなく“数日置いて”届けられた事にも意味があると気付く。


 きっと最中の仕業だろう。

 足の悪い彼女が汗水垂らして働いて得た薄給を叩いて買い直したものだと、その意図を察した麻兎は気付いたのだった。


 以来、制服をダメにする様な真似は辞めた。

 これ以上彼等に迷惑を掛けられない。

 しかしその時の事を家を出ていって以来顔を合わせる事がなくなってしまった彼女にまだ謝れていない事が、ずっと心の中で引っ掛かっていた。




 そこでふと視線を感じた気がして、現実逃避から物思いに耽っていた意識が引き戻される。

 辺りを見渡してみれば、直ぐ近くの校庭から運動部の人達が此方をチラチラと見ている事に気付く。

 不審者だと思われたのだろうか?

 何やら自分の方を見ては指差し、そして側にいる誰かとこそこそと話している様だ。

 その様子に麻兎は過去の出来事からぶわりと恐怖心が膨れ上がる。


 近くとは言ってもハッキリとその顔付きは解らない程度に離れているその距離、もしかして自分を知る人物なのだろうか?

 過去に擦り付けられた冤罪から後ろ指を指され、白い目に囲まれ嘘か真かも曖昧な噂に居場所を失った経験から、思わずサッと視線を逸らす。

 勿論、余り騒ぎを起こしたくもない。

 誰から見ても見慣れなくて当然な不登校を貫き続けていた麻兎は、誰とも顔を合わせない様にまだ開いていた校門を越え教室のある校舎へと逃げるように足早で進んでいくのだった。


 自分は元よりその学校の学生であって部外者ではない筈だけれども、全く通っていない為にまるで知らない場所へ乗り込む気分だ。

 何列も靴箱が並ぶ人気の無い玄関へと足を踏み入れて、高鳴る鼓動から変に上がってくるテンションに麻兎は目をぐるぐると回す。

 誰かと出会すかもしれないという緊張と恐怖から、身体には変に力が入ってしまう。

 足を上げたら同じ側の腕が引き釣る様に振ってしまうのだ、まるで自走する人形の様なぎこちなさがあるけども、早く終わらせてしまおうとさっさと先を急ぐ事にした。




 朧気な記憶を思い起こして、付属する嫌な記憶にぶち当たる。

 気分はどんどんと気が滅入っていく。

 此処は嫌な記憶ばかりしか自分にはない、出来る事ならもう二度と訪れたくないと思う程に。

 そんな中で漸く無緘の教室へと辿り付いた。

 麻兎は誰も居ませんように、と胸の内にて祈りながら自分の教室でもあるその空間へと恐る恐る顔を覗かせた。


 中には誰もいない、しんと静けさだけが空間を包んでいた。


 その様に思わず安堵の息を溢す麻兎。

 そして安心して教室へと入ろうとすると、階段の方から声が聴こえてきた。




 ──…でさぁ………屋上の………。

 ──………訳ない………行って………。




 何人かが直ぐ側に居るようだ。

 その声を耳にした途端、麻兎は逃げるように教室の中へと飛び込んだ。


 扉を背にして身体を縮込ませて、頭を抱えてびくびくと震える。

 必死に身を隠し息を潜ませる彼は固く唇を噛み締めて、溢れそうな涙を堪えて人の気配が去るのを待つ。




 ──…噂では祟り神が………。

 ──……大昔に生け贄にされて………海に沈ん……。




 どうやら誰かが語って、他の者へと聞かせているらしい。

 一人の声が仰々しく言葉を綴り、その中で時折別の誰かが態とらしい悲鳴を上げていた。

 その声は教室から離れた階段を登っていったらしく、段々遠く離れて小さくなっていく。

 軈て階段を上がる足音も次第に聴こえなくなって、暫くしてやっとしんと静まり返った空間へと戻ったことに、麻兎は脱力し項垂れた。


 しかしそれも束の間、ハッと顔を上げては思ったそれを口にした。


「“祟り神”だって……!? 僕はそんな恐ろしい神様のものを盗まなきゃいけないの……!?」


 両手で頬を包み、絶望感にうちひしがれる。




 なんてこった……触らぬ神に祟りなし所か、触る前から祟ってきそうな神様じゃないか!




 想像してみるだけでも沸き立つ恐怖に、どうしよう、どうしよう、と麻兎は頭を抱えてしまう。

 先程には思わず口出しをしてしまって無緘からは笑われてしまったが、麻兎とて別に神様がいると本気で思った事はない。

 只、誰も見たことが無いからこそいないとされている事は、転じて言えばいないという事も“証明”が出来ないのだ。


 ハッキリと“証明”出来るものは“存在する”ものだけ。

 つまり“曖昧”にいないと言われているモノだからこそ、彼にとっては逆にいるかもしれない・・・・・・という“無意味の証明”に成ってしまうのだった。


 皿の上に盛り付けられた林檎が目の前で食べられて無くなったのなら説明がつく“存在しない”だけれども、神様と言うものは世界中何処の国へ行っても“実在”を信じる人と信じていない人が入り交じった謎の存在だ。

 そういったものを、いるかどうかもハッキリしないものを態々・・奉っていると言う事は、きっとそれに何かしらの意味があるのだろう。

 麻兎はそう考えているからこそ、そんな不透明なものに泥を塗る様な行為に怯えているのだった。

 勿論、言われたことをちゃんとして何も起きなければそれで良い。

 いつか何か罰を受けたりしないか不安は残れども、痛い目に遭わなくて済むのならば越したことはない。




 でも……でも、やっぱり、誰かから“盗む”のはいけない事だ。




 そう考えて麻兎は、まだ行ってもいない悪事に罪悪感を覚えてはまた頭を抱えるのだった。


 しかし無緘から言われたからには、従わなければ次にどんな酷い目に遇わされるのか解ったモンじゃない。

 祟り神からの祟りと無緘からのお仕置きとを比べてどちらがマシかと思い浮かべてみれば、具体的には何をされるのかピンと来ない祟りよりも今まで散々苦汁を味わう羽目になった無緘の方が今の彼にはずっと恐ろしい。


 だからこそ本当は籠ったまま出たくもなかった家を出てまで、校門を前にするだけで足が震えそうな程に怖くて堪らない学校へ来てまで、言われた事を成そうと彼は此処まで一人で来たのだ。


 そして彼はすくりと立ち上がり、教室を見渡してみる。

 どの机も似たり寄ったり。

 落書きが残った机もあれば、椅子を引かずに乱雑なまま放置された席もある。

 その席に座る人物の性格がほんのりと現れている様を眺めていく中で、一際目を引く席が在った。


 窓際一番後ろの席。

 一番影の薄いその席には、机の上にこぢんまりとした花瓶に一輪の花を差して置かれていたのだ。




 クラスメイトの誰かが亡くなったのだろうか?




 その光景から解るものはそれくらいだ。

 真新しい花瓶にまだ生けられたばかりらしい花が、ほんの僅かに隙間が開いていた窓から吹き込んでくる風にくるりと花弁を回して揺れた。

 顔も知らない、きっと話した事もないクラスメイトだ。

 いつに喪に伏したのかすら解らずとも、同い年で亡くなってしまったのだ。


 きっとやりたい事は沢山あった事だろう。

 もっと生きていたかった事だろう。

 自分達はまだ学生で子供だ。

 まだ老いるには先の長い日々を、苦も楽も噛み締めながら過ごしたかった筈だ。

 そう思うといてもたってもいられず、その席まで足を進めていって麻兎は掌を合わせた。




 偶々学校に来ただけの自分にはこれくらいしか出来ない。

 だからせめて、安らかに眠ってくれていますように──そう祈って彼は目蓋を閉じた。




 目を隠す程に長く伸ばした前髪が風に揺れる。

 人と目を合わせるのが苦手で作った、前をよく見えなくする為の“バリケード”が何か急かす様に額を露にさせてくる。


 外から聞こえる他の生徒達の声を聞きながら、ゆっくりと目蓋を持ち上げて再び花瓶の置かれた机を視界に映す。

 そうしていたらつい感傷的になってしまい、ほんのりじんわりと目尻に水が浮かんできてしまった。

 それをぐいっと袖で拭って気を取り直そうと頬を叩く。


 パンパンッ


 乾いた音が静かな教室に響き渡る。

 そして気持ちを入れ換えてスッキリさせた麻兎は、ふとそれが誰のものなのかが気になってきたのだった。


 周りを見れば、教室の後ろからなら見て解る椅子の背裏に記されたネームタグ。

 それを見ればどの席も一発で誰のものなのかは解るのだ。

 麻兎は花瓶の席の真横にいた立ち位置から背後へと周り、その他の置き勉されている席と違って物が一切詰められていない空の席の椅子の背へと視線を向ける。

 そして、その名前を見て彼は目を大きく見開くのだった。




 “雷門 麻兎”




 その椅子には、その席が自分のものだと示す名が書き記されていた。




「──何してんの。」




 不意に背後から声が聞こえてバッと振り返る。

 教室の出入口である、先程麻兎が閉めた扉が開かれてそこには一人の少女がいた。


 心臓がばくばくと脈打つ。

 冷や汗がぶわりと滲み出し、強張り引きつった顔の目蓋が僅かに痙攣する。

 誰とも出会いたくなかったのに、長居してしまったから出会ってしまった。

 声も出せなければ呼吸すらも忘れて固まった麻兎は、自分をじとりとした冷ややかな眼差しで此方の様子を伺うツインテールの可憐な少女と目を合わせてしまうのだった。


 すっかり硬直してしまって返答をしない麻兎に、呆れる様に気怠げに視線を逸らした少女は折角の見目の良いその顔付きを無愛想にぶすくれた表情を張り付けた。

 そして小柄な体型を支える華奢な足を前へと進めると、ツインテールの留め紐に飾り付けられた貝殻の装飾をシャラシャラと小気味良い音を鳴らしながら、此方へと向かってきた彼女が麻兎の前で立ち止まる。


 ……否、麻兎の前と言うよりは麻兎の“席”の側で、だ。


 彼女は机の上の花瓶をじっと睨み付ける様に見詰めていると、それを手に取っては踵を返し教卓の方へとスタスタと歩いていった。

 その態度は自分の事など眼中にない、そう感じさせるものだった。

 麻兎は何をされる事になるのか、何を言われる事になるのか、ひたすら不安感が募りのし掛かってくる圧迫感から泣き出してしまいそうになる。

 しかし始めの一言以外何もない彼女の後ろ姿を見て、彼女が自分に何かしようとするつもりがないらしい事に気付いては、漸く身体の力を抜く事が叶った。


 自分の席から持ち運んでいった花瓶をどうしようというのか。

 その行き先を眺めていた麻兎の目の前で、とある席の前に立ち止まった彼女が静かにそこを見下ろした。

 沈黙が流れる。

 彼女の動向を静かに見守っていると、徐に花瓶を持った手を頭上へと持ち上げる姿が視界に映った。


「──ま、待って!!」


 咄嗟に口から声が吐き出される。

 それは殆んど無意識だったけれども、それでも構わず彼女がしようとしていた事に麻兎は慌てて駆け寄っていくとその持ち上げていた花瓶を取り上げた。


「………何?」


 露骨な不機嫌さがひしひしと伝わってくる目がギロリと向けられる。

 それについ「うぐ」と恐怖心から呻き声が零れてしまうも、それでも見過ごしていられなかった麻兎は何て言おうか視線を泳がし思考を巡らせた後に、震える唇を無理矢理抉じ開けてそれを口にした。


「……わ、割れたら、危ない、から…。」


 どうにか放り出した言葉は何とも説得力の乏しいもの。

 敵意マシマシなチクチクと刺さる視線から必死で顔を逸らしながら、それでも花瓶は持っていかれる事がない様に抱えて彼は言葉を続けた。


「ふ、服も、濡れちゃう、し……それに、人の机に、そんな事したら──、」

「此処があの席に花瓶を置いた奴の席だとしても?」


 吃りながらでも何とか許して貰えないか震える声音で話し続けていると、それを遮って彼女はそう言葉を吐いた。

 その席には“灰原 無緘”のネームタグが付いていた事は、教室の後ろから見た時に気付いていた。


「人が嫌がる事を面白がってやる様な奴だ。自分がそれをやるならいつかは自分に返ってくるって事を、こうやって誰かが教えてやらなくちゃ。それも奴がやらかした分だけ返すのさ、そして自業自得だって叩き付けてやるの。……キミだって、そうした方が公平だと思わないかい?」


 その冷ややかな声音には怒りが入り交じっていた。

 パッチリとした猫目には明るい色の瞳が水気を帯びて潤んで此方を睨み付けており、彼女の掌は拳を作って込められた力から微弱に震えていた。

 そんな彼女からの訴えに麻兎は一瞬怯み口をつぐむけれども、間を置いて震える唇を開くと絞り出す様な声でそれを言った。


「……それでも、ダメだ。そんな事、したら、悲しんで、しまう。」


 目を合わせる事は出来ないままだったけれども何とか吐き出す事が出来た言葉に、それを聞いた彼女が猫目を大きく見開かせた。

 そして戦慄くと麻兎を怒鳴り付けるようにして言葉を吐き付け大きく開いた口から八重歯を見せるのだった。


「──ッ馬鹿じゃないの!? こんな奴、同情する余地なんて無いじゃないか!」


 その大きな声にびくりと身体を跳ねさせ縮込ませた麻兎が目に涙を浮かべる。

 花瓶を抱えて彼女から背を向ける様に踞る麻兎に、少女はその怒鳴り声が止むことはなかった。


「“悲しむ”だって? 彼奴はそういう事を自分の思い通りに動かない奴等に強いてきたんだよ、彼奴のせいで周りの皆が損をするんだッ! 自分に立場があるからって良い気になってふんぞり返っているだけの最低な奴、報いを受けて当然だ! 奴は人の気持ちを知るべきなんだ! それを、どうしてッ……!」


 どうして庇うんだ。

 そう捲し立てる程に強く訴える彼女の声に、麻兎は俯いたままに首を横に振って返す。


「それでも、だよ……誰だって、されたら、悲しい筈だ、から…そんなのは、ダメ……だと、思、ぅ…。」


 掠れた声が後半に連れて、徐々に徐々に小さく消えそうになっていく言葉。

 今にも消え入りそうなその声を聞いて、絶句した彼女は遂に言葉を失ってしまった。


 止んだ声に麻兎は涙を拭って彼女を見上げる。

 その表情は解らない。

 窓から差し込んだ日射しは丁度彼女の首より下しかその姿を照らしておらず、影に覆われた顔は真っ黒に塗り潰されどんな顔をしていたのか目で確かめる事は叶わなかった。


 そして彼女の手は強く握り締めた拳のまま、踵を返したかと思えば勢いよく蹴り上げた足が無緘の席を蹴殴った。

 ガシャンッと大きな音を立てて机は転び中身は散乱。

 その様に「あっ」と口にした時にはもう、彼女はスタスタと教室を出ていってしまっていた。


 彼女の床を叩き付ける様な乱暴な足音が段々遠ざかっていく。

 その音を聞きながらに、軈て静けさを取り戻した教室でへたり込んだ麻兎は、目の前で転げた机と中身が全部ぶちまけられて目茶苦茶な在り様の無緘の机を眺めて、暫くして重い溜め息を吐いた。


 花瓶を一旦側に置いて、散らばった教科書やノートをかき集めては目的のノートを引き抜いて紛れない様に傍らにあった他の人の机へとそっと置く。

 それから転がっていた机を持ち上げ立て直すと、足元に置きっぱなしにしていた花瓶が足に当たって今度は花瓶の中身をぶちまけてしまった。


「あっ……わわ、わ、待って待って…!」


 花瓶に溜められていた水がとくとくと零れて、池を作っては水面が末広がっていく。

 床にまだ置いていた無緘の教材達へと水が迫っていくのに気付いて、咄嗟に持ち上げてはそちらは何とか危機を逃れる事が出来た。

 只うっかり水溜まりに膝を付いてしまったので、折角の新品な学ランは一瞬で水に汚れてしまった様だ。

 そちらにも漸く気付いた麻兎があわあわと今更ながらに立ち上がり、拭くものがないからと無駄な足掻きで膝に付いた水分を掌で払い落としていった。


 足元はグショグショ、下まで伝って靴まで濡れてしまった。

 どうにかこうにか掃除用具ロッカーから雑巾を探し出して片付けようとすれども、自分が歩いていった場所にまた水溜まりが出来てしまって余りの自分のどん臭さにまた涙を浮かべながら床を拭いて回った。

 自分の靴の水気も出来る限り取って、名残を残しつつも何とか証拠隠滅が完了した教室で漸くゆっくり息を吐く。


 直ぐ帰るつもりが随分と長居をしてしまった。

 大分暗くなってきた外に遠い目を浮かべて眺めてより、後は……肝試しか、とまた何度目かの重い溜め息を溢しては、無緘のノートを手に教室を後にした。






 *****






 眼前に伸びる階段を見上げる。

 先程の人達が昇っていった階段だ。

 あれから誰かが降りてきた気配は感じられなかったが、まだいるのだろうか? と不安を感じつつも足を進めていく。




 一段、二段、




 カツカツ響かす足音のリズム。




 三段、四段、




 時刻を報せる街の放送音スピーカー




 十段………二十段、




 外から聴こえる「バイバイ」の声。




「………はぁっ、はぁっ………」


 寝てばかりで体力などまるでない身体が悲鳴を上げる。

 ベタつくズボンが足の動きを阻んで、濡れた靴が昇る程に重く感じていく。

 昇れば昇る程にじわじわと削られていく体力から、もう随分と前から呼吸に合わせて肩は上下に揺れていた。

 乱れる息と肺にくる痛みを堪えつつも昇り続ける階段。

 未だに最上階には届かない階層で一歩、また一歩と踏み締める度、丸めた背中には何か重いものを乗せられている様な気を起こす。


「ま、まだ上がある、のかな……?」


 今自分はどのくらい上がってきたのだろう?

 汗だくの顔を持ち上げて頭上に目を向ける。




 少なくとも三回は角張った螺旋を曲がり昇ってきた筈、ならば此処は二階半だろう。

 ………二階半だって? そんな馬鹿な!

 たった二階半ぽっちの階段で、こうも疲れてしまうなんて情けない……!

 体力が無さ過ぎるってレベルじゃないもの、昔はこんな酷くはなかった筈。

 ……よくよく考えてみれば此処まで体力が落ちているのだって、実は結構不味いのでは?




 口からはつい噎せそうな程に荒い呼吸音しか出てこないというのに、頭の中での“自分会議”はペチャクチャ賑わい騒がしい。

 自分で自分を卑下して貶してさっさと足を動かせとケツを叩いて、どうにかこうにか足を進ませていく。


 やっとこさ三階まで辿り着いた足が、体重をかけて床を踏み締めてはタンッと大きな音が響く。

 そして口から吐くのはゼェハァと息切れする呼吸。

 額や頬から伝う汗が、俯いた先の床に雨粒の様に幾つも落ちていった。


「はぁっ……はぁっ、あ、あと、一階………!」


 この校舎は三階建て、つまり四階目こそ屋上だ。

 目的地まで漸く目前という所まで来れた事に、気が抜けてしまったくたくたな身体がへたりと膝を付いてしまう。


 此処まで来るだけでもうへとへとだ。

 久し振りの“運動”で火照った身体はカッカと熱く、喉はカラカラ。

 何か飲み物が欲しくなってしまうが、無緘のノート以外手ぶらな身。

 例え自販機が側に在った所で、買う為の金銭すら持っておらず項垂れるしかない。

 跪いて両手を付いて、俯いていた“orz”の体勢から身体をひっくり返す。

 丁度まだ階段の傍、三階到達の最上段に腰を掛けて息を付く事にした。


「──ふぅ……。」


 ほっと一息、階段の中継地点に大きく見開いた窓ガラスから校庭を眺める。

 いつの間にかそこにいた人達は随分と減っていた。

 どうやら運動部も皆解散していったらしい、疎らな人影はポツポツとしか見受けられない。


 空も随分と暗くなってきた。

 まだ日射しは残っていれども、夜空が迫って紅空を追い立てていくのが目に見える。

 鴉の鳴き声も相まって、正しく今が黄昏時だと映す景色をより際立たせていった。


「……或駆が来るまでには帰らなきゃ。」


 暫くぼうっと眺めていたけれども、ふと親友の事を思い出しぽつりと溢す。

 何せ、是が非でも梃子でも外へ出たがらない自分が自宅を訪れたら居ないのだ。

 不在に気付いた瞬間、死に物狂いで街中を探し周りかねない。

 住む家が変わっても毎日通うくらいに過保護なのだ、きっと物凄く心配を掛けてしまうだろう。


 ……そうなる前に、早く帰らなくては。


 すくりと立ち上がり、階段上階を見上げてみる。

 三階からでは中継地点までしか見えず、直上の屋上入り口の様子まではそこからじゃ伺えない。

 これ以上昇ってしまえば、誰かに出会しても逃げ場は無いだろう。

 先程上へ上がっていった学生グループの事も気になる。

 こんなに屋上へと近付いてきても、あんなに騒いでいた声が一切聴こえて来ないのだ。

 校舎の中で階段通路はこの一ルートしかない、降りるならば此処を通るしかないと言うのにあれから誰かが降りてくる気配はなかったと麻兎は思う。

 だからこそ、自分が物音を聞き逃してさえいなければ、恐らく彼等はまだ帰っていない。

 屋上にまだ残っている筈なのだ、それなのにこの静けさは一体何なのだろう?




 そう胸の内にて思いながらも、麻兎は恐る恐る最後の階段を昇り始めていった。




 かつん、かつん、

 静寂の中、足音が響く。




 三段、四段、

 身体が重い、重力に圧されてく。




 右足、左足、

 歩くリズムが乱れていく、吸った空気が肺を擽ってくる。




「はぁっ、は、げほッ! ごほっ、……っはァ…!」


 乱れた呼吸で噎せ返る。

 まだまだ中継地点だというのに、少ない体力では持たなそうだ。

 思わずまたへたり込んでしまいそうになる身体を、膝に手を付き何とか持ち堪えた。

 それから何度拭いても溢れ出す汗水をもう一度拭い取り、やっと見える様になった屋上への扉を視界に入れて「後もう少し……!」と自分を奮い立たせる。


 そしてまた踏み出す一歩。

 屋上の様子をうっすら見せる、夕焼け空の橙色が満面に映る磨りガラスに目を向けたままのラストスパート。

 最後の階段を昇っていく。




 中継階段の窓ガラス。

 殆んど日が落ち仄暗い外は背に振り返る事無く、気付かぬままに。






 *****






 漸く到達、最上階。

 汗だくの額を腕で拭う。

 窓ガラスには夕焼け明かりが差し込んでおり、磨りガラスでは向こうの様子は解らない。

 人の気配すらない様にも思える。

 はて? と首を捻りつつも、そうっとドアノブへと手を伸ばした。




 ガチャリ。




 鍵はやはり掛かっておらず、扉は簡単に開かれた。

 ノブを回した時に大きな音は出てしまったけれども、構わずそろっと身を屈めドアに隠れながら屋上の様子を伺ってみる。


 ほんの僅かに開いたドアの向こう、少しだけ見えてくるその景色。

 橙色が一面に広がる空、うっすら雲が点々と浮かぶ。

 音はない、おかしいな? 校庭からの声すら聴こえてこない。


 皆もう帰ってしまったのだろうか?


 おっかなびっくりにゆっくり開けていく扉。

 半分程開けた所で差し込んでくる強い光。

 視界を焼く程に強い眩しさから思わず腕で顔を覆う。

 夕陽だろうか? それにしたって眩しすぎる。

 開いて離れたドアに隠されていない全身に日射しを叩き付けられる中、何が起きているのか薄く開いた目で日射し避けの腕越しに“そこ”へと目を向けた。


「………ッ!?」




 人が、倒れていた。




 咄嗟に駆け出しその人の元へ。

 日射しから顔を守りつつ、駆け寄った先でその倒れている人の顔を覗き込む。

 知らない顔だ、胸は動いている。

 呼吸があるなら死んでいる訳ではない。

 どうやら気を失っている様だ、浮かんでいる表情は何故だか引き釣っていた。


 ふと視界の中に別の人影が映る。

 光を遮りながら辺りを見渡して見れば点々と転がる人の身体。

 きっとさっきの学生グループなのだろう、あの時聞こえた声の数と一致していた。


「どうして……。」


 皆気を失っている様だった。

 皆その表情は苦悶の色を浮かべている様だった。


 異様な状況だ、一体何が起きているんだ?


 眩しい光に視界を遮られながら、何とか周りを見渡してみる。

 軈て見付けたのは転がる彼等の中心地のもの、一枚の用紙とそこに乗せられた一枚の硬貨。

 そこへ近付いて見下ろしてみれば、用紙には“あいうえお表”と“はい/いいえ”、それから“鳥居”が書かれて、そこに乗っていた硬貨が“いいえ”の上に乗っていた。




「これって……“こっくりさん”?」




 有名なおまじないだ、降霊術でもあると麻兎は知っていた。


 彼等は此処でこれをやったのだろうか、それにしたってどうして皆眠ってしまっているのか。

 謎は深まるばかりだった。




 ──かつん。




 不意に物音が聴こえてびくんっと身体が跳ね上がる。

 身を縮み込ませて、怯えながらに物音がした方へと視線を向けた。

 それは強い日射しが射してくる方角。

 うっすら目を凝らして伺うと、何やら小さな物が床に落ちているものが僅かに見えた。

 音は何だか硬質なモノが落ちて響いたものらしく、それは同時に少しだけくぐもっている様にも感じられるもの。

 足取りには不安が混じっているものの、一先ずノートをその場に置いて構わずそれに近付いてみる事にした。


 近付けば近付く程に、その落ちているものが何なのかが明確になっていく。

 どうやらそれは小袋の様──小さな“巾着”の様だった。

 どうしてこんなものが此処に?

 眺めながらに首を傾げて疑問符を浮かべていると、ふと屈んだ頭と同じ位置に何かが在る事に漸く気付いた。


 屋上のフェンスに取り付けられていたのは、小さな“神棚”と大きな“鳥居”。

 そこら一般的な神社に在るもの程は高くない鳥居はどうやら雨避けの様に屋根にして神棚を跨いで立っており、それが神棚を雨などで濡らさぬ様守っている様に思えた。

 その下、中心に在る神棚は……何て事だ!

 中心に置かれている筈の“神鏡”が落ちてしまったらしく、その下で割れて砕けて散っていた。


 それを見た麻兎はあわあわと焦って慌てふためいた。




 どうしよう、どうしよう!

 大切な鏡が壊れてしまっている、早く誰かに伝えないと!




 しかし彼は誰とも関わりたくない。

 他人が怖くて仕方がないのだ、頼ろうにも声を掛ける勇気すらない。


「どっどうしよう、どうしたら……!?」


 頭の中ではちょっとしたパニック。

 焦る頭でどうするべきかぐるぐる思考を回して、パタパタとやり場の無い腕を振り回した。


 誰かが怪我をしたら大変だから、鏡の破片を集めなくちゃ。

 手で集めたら怪我をしてしまいそうだ、ならどうやって集めようか。

 気絶している人達も心配だ、怪我はない様だけど一体どうしたんだろう。


 悶々ぐるぐる、様々な気になること、気掛かりなことに溢れて何からすれば良いのか解らない。

 考え過ぎて目が回りそうになりながらも、俯いた拍子に目に映ったものから「そうだ」と彼は溢す。


「多分だけど……これって神棚に飾られてたもの、だよね? 元に戻さないと──、」


 神棚には空の皿が置かれていた。

 そこから察するに、その金糸の装飾が施された慎ましくも安っぽくない巾着は此処から落ちてきたのだろう。


 そう思って麻兎はそれを拾い上げると、裏返しになって落ちていたその巾着の表面を見て、びたり、と動きを止めた。

 顔は引き釣り、冷や汗が流れる。

 強張る身体が動きを止めて固まる中、彼の脳裏には無緘のせせら笑う声が響いた気がした。




 その巾着の表面には、金糸の刺繍で“御守り”と書かれていた。




 空いていた震える手を胸に当てて、落ち着け、落ち着け、と深呼吸をする。

 吐き出した息が震えていた。

 今自分がどちら・・・に怯えているのかすら、段々解らなくなってくる。


 無緘の言う事を聞かなくては、きっと持ってこいと言っていたのはこれの事だろう。

 神鏡まで割れている、それなのに大事なものらしい“御守り”まで持っていってしまったら、きっと神様はカンカンになるに違いない。


 ううーっ! と思わず呻く麻兎、頭を抱えたくなる思いに踞ってしまった。




 ──かしゃんっ。




 またも硬質なものが落ちる音が響いた。

 直ぐ傍から聞こえた音にハッと目を向けると、留め紐が解けかけていたらしい御守りの緩んだ口から中身が零れ落ちたらしい。

 からからん……と硬い地べたで軽やかな音を響かす“板”が見えた。


「あっ、た、大変だ……!」


 顔を青ざめた麻兎が慌ててそれを拾おうと手を伸ばした。

 咄嗟にしゃがみこんで、その白っぽく澄んだ硝子にも見える歪な四角の板を手に取ると、直ぐ様巾着の中に戻そうと口を広げて──ふと手を止めた。


「……? 何か、書かれている……。」


 持ち上げた仄白い水晶みたいな板に、その自分の姿が映る程に磨かれていた面に何か文字が書かれている事に気付く。

 その文字は反対を向いていた、どうやら自分が見ていた面は裏側だったらしい。

 麻兎はそれをひっくり返すと、正しく見える様になったその見覚え・・・のある文字をぽつりと口にするのだった。




「……金……花……、………金花きんか?」




 何だろう、花の名前だろうか?

 聞いたこともない響きの“名前”らしきものが書かれた銘板に、その板の澄んだ色と名前の響きに麻兎はつい「綺麗だなぁ」とポツリと溢すのだった。




 ──誰だ、おれやしろを壊した奴は。




 不意に、何処からともなく声が響いてくる。

 驚きバッと顔を上げて辺りを見渡してみるけれども、辺りには起きている“誰か”は見当たらない。

 気のせい……とも思い難い、恐ろしく低く響かされた正体不明の誰かの声。

 腕で日傘を作りながら何度と右や左、前や後ろと、キョロキョロ見回し続けながら、一向に姿が見えない何かに怯え身体を強張らせていく麻兎。

 そんな彼にまた声は響いたのだ──信じがたいが、頭の中で。




 ──オマエか?




 鐘の様にくわんくわんと頭に響く声が、ハッキリと自分に向けて物を訊ねてきた。

 その恐ろしさの余りに涙を浮かべ声も出せず、只々固まって動けないでいるとその声の……気配なのだろうか?

 何か傍に居たような気を起こしていた感覚が徐々に遠ざかっていくのが伝わってきて、それから緊張が少し解けると思わず脱力してしまった。




 何なんだ、今のは一体何だったんだ!?




 不可解な現象への恐怖心はまだ収まらない。

 自分では理解し難い何かが、今確かに自分へと話し掛けてきたのだ。

 一体何が話し掛けてきたのやら、姿の見えない何かに恐怖心よりも好奇心が勝ってしまった麻兎は恐る恐るに振り返ってみた。


 そこに在ったのは……否、やはり何もない。


 只々ひたすらに、煌々明々と照らされている屋上が見えるだけ。

 ……只、そこで麻兎は“違和感”に気付くのだ。


「(…………あれ? 影が無い。)」


 辺りの物陰、それから自身の足元。

 今は夕刻18時過ぎているであろう頃合いだ。

 傾いた陽に影は長く伸びている筈が、直下にしかない──まるで太陽が真上に在るかの様に。


 そう言えばさっき、薄暗い空を見ていた筈。

 それなのに、今頭上には暗がりなど何処にもない。

 辺りを見渡しても迫る夜はなく、一面橙色の空が広がるばかり。

 思えば夕焼けにしたって明る過ぎたのだ。

 余りに可笑しい、余りにも異常だ。


 そう考えてしまった麻兎は“上に何かが在る”と思い至り、そして見上げたのだ。




 ──見上げてしまったのだ。




 眼前に広がるは煌々と輝く巨大な光球、太陽の如き熱波の渦。

 目を焼く程に光を放つそれは、丸を描きながらも端には炎々と焔を揺らしていた。

 小さくも薄いヴェールを靡かせる中で、その表面からは時折火柱が飛び上がっていくのを見た。

 それは弧を描いてはアーチを作り、軈て表面から離れていった尾まで沈んでいくと、また別の場所から火柱が上がる……それを何度と繰り返している様だった。

 それ以外にも頻りに火花を散らしては線香花火の様に、しかしその壮大さからはその花火に例えるには仰々し過ぎる程に強大過ぎた。

 そんな太陽が空に浮かぶにしては近過ぎる、近距離にいたモノから放たれる光は辺り一面を余すこと無く照らし上げていた。


 絶えず凄まじい熱波を放ち見ているだけで皮膚がチリチリと焼けていく心地を起こすそれは、焔の中にいくつもの光球が蠢いているのが、眼球の奥に熱を帯び始めた目に映り、そして理解した。

 それは一つの強大な光の玉ではなく、無数にも思える幾つもの火の玉が重なり集まったモノである、と。


 それを知ってしまった麻兎は、その直後に頭がくらりと揺さぶられる感覚を覚えた。

 吐き気がする、眩暈がする。

 意識は今にも飛びそうで、それなのに強張った身体が気を抜けさせてくれない。


 それでも何とか身を屈める事が叶い、じわじわと痛みを覚え始めた目を押さえてやっとの思いであの“太陽”から目を離す。


 熱い、目の奥が、痛くて熱い。


 ジリジリとひりつく目の熱を何とか誤魔化そうと掌で押さえていると、ふと掌にぬるっとした感触を覚えた。

 何だろう? と疑問に思い、そっと目蓋を押さえていた掌を見下ろしてみれば、ぼんやりと霞む視界の中、掌には赤色が──血が手を濡らしていた。


「………え?」


 一瞬、何が起きたのかが理解出来ず思考は停止フリーズ

 その最中にも自分の頬を雫が伝う感触を感じると共に、目から零れたその水滴は赤い色を伴ったまま見下ろしていた掌へと落ちていった。




 ──おれやしろを壊した悪餓鬼共め、罰当たりな奴等め。罪深いオマエ達に“天罰”をくれてやる!




 不意に雷鳴の様な怒鳴り声が、辺り一面に響き渡る。

 その大きな音にびくりと跳ね上がりながらもその声の方角を見てみれば、次の瞬間屋上に一つの火柱が上がった。




「ぎゃあああああああッッッ!!!!」




 つんざく悲鳴が鼓膜に響く。

 先程自分が駆け寄った生徒が居た場所で、ごうごうと凄まじい炎を燃え上がらせる。




 何だこれは……何だこれは………何だこれは………!!!




 炎の中で人影が見えるのだ。

 その中から悲鳴が聴こえてくるのだ。

 今、自分の目の前で………人が、燃えていた。




「──ッ!!」




 咄嗟だった。

 強張っていた身体に鞭打って、転けそうになりながらも必死に足を交差させて。

 無我夢中だった。

 凄まじい悲鳴は余りにも苦しそうで、あんな悲鳴聞いてしまっては見過ごせる訳がなかった。


 駆けて、走って、飛び込んだ火の中。

 炎の中の見知らぬ人物を、只々助けたくって身が焼かれるのも構わず手を伸ばした。


 炎の海の中、触れた身体。

 押し出す様に力を込めて、飛び込んだ自分の勢いをその身体へと伝わせていく。

 炎を浴びた身体が熱い、頬の皮膚がジリジリと痛む。

 それでも掌を押し当てたその身体を炎から突き放す様に、確実に遠ざけさせていく様に──力強くその背中を押した。


 炎の柱、囚われる身体。

 入れ替わる罪人と冤罪で浴びる業火。


 熱い、吸い込んだ空気が肺を内側から焼いていく。

 苦しい、喉は焼け内臓も焼け、内も外も関わらず熱気に身体が融かされていく。

 痛い、皮膚が焼けて捲れ上がっていく、生の肉は剥き出しに焦げた肉は軈て炭になり灰になっていく。


 燃えていく苦痛に意識は徐々に遠退いていく。






 ──嗚呼……自分は此処で死んでしまうのだろうか?






『──すとーーっぷッ!! タンマタンマぁ! その子は違うからっ焼くのは止め止めーーっ!!』




 急に聴こえてきた間の抜けた声。

 それに合わせて火柱が止んだ。


 炎の檻から解放されて、力の残っていない身体がどしゃりと崩れ落ちる。

 薄れ行く意識、ひゅぅひゅぅとすきま風みたいな音がする溶けた喉。

 痛みも苦しさもドが過ぎて、只々熱いばかりで虫の息の彼はゆっくりと目蓋を閉じ掛けていく。


 その最中に、あれ程眩しかった景色がいつの間にか真っ暗になっていた事に気付く。

 夜の冷たさに温度を下げた風が頬を撫でていくと、その気休め程度の冷ややかさにすら火傷した皮膚には心地好かった。


 それから次に、先程の火柱にいた人物の事を思い出す。

 自分とて少し入っていただけで此処まで辛い思いをしたのだ、きっと彼とてもっと苦しかったに違いない。

 そう思って何とか身体を這わせ、その見知らぬ人物が見える方へと身体を向けていく。

 痛む身体を引き摺って、どうにかこうにか何とか動かして……そして見えた景色に、麻兎は言葉を失った。




 真っ黒焦げ、炭の身体。

 押し出した際に受け身の取れなかった身体は、地べたへと打ち付ける衝撃に耐えきれなかったのだろう。

 ぐずぐずに砕け散った、人の形を僅かに残した炭と灰の山がそこに在った。




「………ああ、あああっ………!」


 理解した瞬間、焼けてジリジリと痛む目から込み上げてくる涙。

 自分がしたことは何の意味もなかった、自分が出遅れてしまったから彼は死んでしまった。

 つまりは、自分は“見殺し”にしてしまったのだ。

 助けられた筈の命に、顔も名前も知らないその人物の為だけに、何がなんでもと“死ぬ気”で身体を張ったところで、何も成せなかった麻兎は自身の無力さにうちひしがれた。


「ごめっ、ごめんなさいっ……ごめんなさい……っ…!」


 ポロポロと零れ落ちる涙に、喉の奥から痛みと共に溢れてくる嗚咽に、掠れて今にも消え入りそうな声音で何度も何度も謝罪を繰り返す。




 助けられなくて、ごめんなさい。

 役立たずで、ごめんなさい。

 何も出来なくて……ごめんなさい。




 身体の力は抜けていくと言うのに、胸の内をいっぱいに満たしていく無力感と虚無感から涙は一向に収まる気配はない。

 同じ言葉を何度も溢す口とて限界は近いのだろう、声音も徐々に弱っていく。


 その最中に、自分の傍で“裸足”が視界にぼんやりと映った。




『──ねぇねぇ、何で邪魔したの?』




 頭上から降ってきたのは子供の声。




『悪い事をしたのがキミじゃないのなら、キミがソイツを助ける義理は無いよね?』




 死に体の意識は今にも消えそうだ。

 その問い掛けに答えようと唇を動かした所で、途切れ途切れの息が零れるだけ。




『──……何だって?』




 聞き返された事で、もう一度掠れた声で振り絞る。

 微かに空気が抜ける様な音だ。

 残る力を使っての“弁明”だったが、きっと届く事はないだろう。

 力の全てを使いきった身体からは、急激に“抜けていく”様な感覚を起こした。




『………嘘吐き。』




 そんな死に間際の自分に、冷ややかな声が降り注ぐ。




『……オマエ、よりにもよって“嘘”を吐いたな。このおれが一番嫌う事を。』




 ……違う、嘘じゃない。

 本当なんだ。

 だって自分は悪い事をした・・


 自分にだって罰が当たる義理はある。




『………そうか、そうかそうか。そんなに“罰”が欲しいのか。』




 元より自分は御守りを“盗みに”此処まで来たのだ。

 達成は出来なかったけれども、それでも悪い事をしようとした事に変わりはない。

 言い掛かりになるかもしれないけれど今の状況だって、泥棒しようとして達成する前に現行犯逮捕されるようなものだ。


 だから、自分も悪い。


 自分の方が悪いのだから──他の人は見逃して欲しい。




『そんなに“罰”が欲しいのならば……くれてやる。死ぬよりもずっと苦痛を味わう、本物の“地獄”を。』




 これ以上誰かが傷付く所は見たくない。

 こんな自分が“犠牲”になるだけで、他の誰かが無事でいてもらえるのなら……これ程嬉しい事はない。

 それで誰かの役に立てるのなら本望だ。




『ならば願え。おれがその願い、叶えてやろうじゃないか。その役に立たない“嘘”を吐く口を閉じ、胸の内にそれを思い浮かべるが良い。』




 誰かの為になるのならば、どんな責め苦だって受けてやる。

 だって、自分には………そのくらいしか出来ないのだから。




『覚悟すると良い。この先にオマエに“逃げ場”はない、と──。』




 ………嗚呼、でも………、




 母さんや或駆、それから皆。

 御礼も謝罪も“サヨナラ”ですら、何も伝えられず終い……だったな。






 *****






 歌が聴こえる。

 少しがびついた、街の放送音。

 夕刻18時を報せる、赤蜻蛉の曲。


 遠くから風に乗って聴こえてくるのは、誰かと誰かが別れていく「バイバイ」の声。




 ぱちり。

 目蓋を開ける。


 目の前で大慌てで駆けていく数人の学生達の後ろ姿。

 何か恐ろしい事でもあったのだろうか?

 去り間際に見えた表情は恐怖に引き釣り、各々が口から悲鳴を上げていた。


『──これで満足かい?』


 端から聴こえてくるその声、脳裏に響くのに“何処から”聞こえてくるのか方角をも感じさせてくる声の在る無音。


 はて、何の事だったか。


 なんて考えていると、去っていく人影の内に“見覚えのある”顔がチラリと見えて「……あ。」と口から声が洩れる。

 咄嗟に掌を前へ出し腕・服・足と確かめていって、最後に頬に両手を添えて“何もない”事を確信する。


「……火傷が、ない!」

『そりゃあねぇ、遡って“無かった事”にしたんだもの。怪我は無くたって当然さ。』

「遡って……“無かった事”?」


 それを聞いて麻兎はふと空を見上げてみた。


 空は随分と暗くなってきている。

 先程の橙色一色の空は既に無く、大部分を占めていた濃紺の空には星が浮かび上がり、太陽は眠りにつこうと微睡んで地平線に身を委ねていっていた。


 先程に聞いた放送音も、同じ声音で聞こえた「バイバイ」も。

 何もかも、さっきと同じだ。

 過ぎ去った筈のものと同じ景色がそこにあった。


「………時間が、巻き戻ってる?」

『そ! そゆことー。』


 浮かべた疑問符、口にする度に頭の中の声が答えてくれる。

 暫く屋上から地上の景色を眺め、そして軈てまたその“違和感”に気付く。




 自分はさっきから“誰”と喋っているんだろう?




 そう疑問を頭に浮かべた途端、頭上から人の影──否、人の“頭”が降ってきた。


『──ばあっ!』

「うわあっ!?」


 姿を現すと同時に大きな声を上げて互いの顔面をスレスレの間近へと迫らせてきた“それ”に、驚いた麻兎は身体のバランスを崩しそのまま後ろへと倒れ込む。

 硬い屋上の床に強く尻餅を付いてしまって、その痛みに揉んどり打って身を屈めた。


「いっ……たたた、こ、腰が……!」

『んっふふふふ! 良いねぇ良いねぇ、初々しいよその反応! これくらい可愛げがあったら、弄り甲斐も十分に有りそうだねぇ!』


 くすくすと笑う声が頭の中に響いてくる。

 一体何事!? と痛む腰を擦りながら、その声の主へと麻兎は見上げた。




 それは人の形をしていた。

 自分に近しい程に幼い風貌の少年とも少女とも付かない、只ひたすらにとても美しい姿をした“何か”だった。




 笑いを溢す口元と素手を隠す揺蕩う袖。

 滑らかな陶器の如き素肌を晒す仄白い細足とその先の裸足。

 死人羽織で着こなした左前の“着物”は、肌も髪色もその他殆んどの色素が薄いからか染められている青が優しく淡い色だとしても尚一際映えて目に映る。

 それは一見無地の様でも光の加減でうっすらと見える波を打つ織り柄が映り、波は鱗の様にも見えるのだった。


 その衣服を身に纏った線の細い身体のラインと、胸元に垂れて揺れる顔の側面から伸びた揉み上げ。

 後ろは短く青い紐で括られた小さな尾っぽが項部分にあるだけで、その他の短い髪が外跳ねして散る中、唯一揺れる程に長いその横髪は身動ぐ度に柳のようにさらさらと揺れていた。


 その色素の薄い髪の中心、特に目が惹かれてしまうその小顔。

 くりくりとした目に空色の宝石の様な瞳、その美しさを際立たせる様にピンと立ち跳ねる長い睫毛。

 薄く形の良い唇に陶器の肌にほんのりと乗る薄い朱。


 それは今までに見たことがない程に何処からどうみて絶世の美形だ。

 美貌を追及した良く出来た精巧な人形ですら、幾ら美しかろうが“それ”と並べばきっと霞んでしまうだろう。

 自分がもし何処かの王様だとすれば、それがチラリと見遣るだけで虜になってしまいそうで一国傾城も有り得なくないと思わせてくるもの。

 見れば見る程に見とれてしまう、息を呑む事すら忘れて眺めていたくなってくる。


 そう只ひたすらに美しいの一言に尽きる容姿だった。




「…綺麗な……人?」

『ん? ………んふふ、うふふふふ! 綺麗? ねぇ今、おれの事綺麗って言った?』


 ぽろっと溢した無意識な言葉。

 その声を耳にした目の前の“それ”はすかさず麻兎へと迫ると、まるで“もう一回!”とせがむ様にその美しい顔を迫らせた。


「えっ? あっ、あの、えと………は、はい?」


 近付かれた事に、対人からの恐怖心よりも戸惑いが勝ってしまう。

 だって眩しい程に綺麗な顔なのだ。

 何だか美人に言い寄られている気を起こしてしまって、耐えきれず麻兎はぽひゅんっと煙を上げて顔を真っ赤にさせていく。

 終いには頬を手で包み踞ってしまった麻兎のその姿に、その“人間”なのかどうかすら怪しい、翼もないのに宙をふよふよと浮かぶ“何か”はニヤニヤニマニマと笑みを浮かべて頻りに笑いを溢しているのだった。


『うふふふ、ふふふふふふっ! まさかまたキミから“そう”言われるなんて、これっぽっちも思わなかった。明日には雨でも降るんじゃなかろうか!』


 そう言うと頻りに笑った後、はた、と止まり、少し考える素振りを見せてから「いや、これじゃあ雨は無理だ。寧ろ晴れてしまうな。」と口元にうっすらと笑みを浮かべてぼそりと溢した。


 ……“また”? “また”って何だろう?


 “それ”が何気なく溢した言葉に麻兎はふと疑問に思い、気恥ずかしさに口をもごつかせながらに言葉を投げ掛けた。


「あ、あの………何処かで、会った、こと、ある……です、か…?」


 吃り口調で、それから付け足す敬語。

 何かは解らずとも、何か尋常なモノではない事だけは察せるからこそ、麻兎は頭を下げたままにチラとそれを見上げた。

 するとくすくす笑いをピタリと止めたそれは、じっと此方を見詰めると揺蕩う着物の垂れ袖に隠れた手を麻兎へと向けた。


 何だろう? と首を傾げながらにその手の先が何処なのか自分の周りを見渡してみると、へたり込み胡座をかく形で床に座り込んでいた自身の膝元に先程の巾着がちょこんと乗っていた。


『……さっき、そこで。』


 その言葉に、“それ”の指先と手元の巾着とを見比べていると、先程の事を思い出しては「あっ」と溢す。


「こ、これ、貴方の?」


 すかさず差し出す様に巾着を手に持ちそう口にすれば、袖で口元を隠したそれがコクリと頷く。


『そこに“名”が彫られていただろう? それがおれの名前さ。……大事なモノなんだ、それ以上壊されてしまっては困る。』

「名前……、…壊されて?」


 名前、と聞いて先程の文字を思い起こすけれども、その後の言葉からあの歪な四方形は何かが壊れて残った破片なのだとそこから察する。

 鏡の様にも見えたが硝子の様にほんのり白を滲ませ透き通っていた事から、何かの硝子細工なのだろうか? なんて考えてみる。


『それがおれの“御神体”だからねぇ。無体を働いたら当然“怒る”けど……まぁキミの様な善良そうな子なら、そんな事は──、』

「貴方の名前って……此処に書かれていた“金花キンカ”っていうの?」

『しないだ、ろ……って──えっ?』


 何やらぶつぶつと話していた最中のそれに、思い起こしてより“らしき”単語を口にしてみる。

 麻兎には悪気なく、そして何気なくそう読んでしまった・・・・・・・

 それを聞いた“それ”は一瞬スルーしてしまいそうになりながらも、虚を突かれたみたいな顔を浮かべるのだった。


 そして流れる沈黙。

 互いの顔を見合せ、それのキョトンとした表情から固まって動かなくなった様から、自分は何か間違えたのだろうか? と不安になり短い眉の端を下げた麻兎は肩を竦める。

 そして暫くし『ぶふっ』と噴き出す音が聞こえたかと思えば、目の前のそれは腹を抱えてゲラゲラと笑い始めたのだった。


『ぶぁっはははははははッ!!! “キンカ”! “キンカ”ときたか!! 何だそれっ、お金みたいな名前! んひひひっ、ひぃ~っヤバい、面白すぎるっ、お腹がっお腹が捩れちゃう! うふふひひひっ!』


 ゲラゲラケラケラ。

 誰もが羨む美貌は儚げなイメージを抱かせる今にも桜に拐われそうなものだと言うのに、それをガラガラと崩壊させてくる豪快かつ下品な笑い声を上げる目の前の人物。

 宙に浮かべた身体は、バタバタと空を蹴り続ける六分丈のズボンから伸びた裸足に、そこに床など無いのにバンバンと手を打ち付け袖を回す動作。

 目には涙を浮かべて宙に漂う身体を揺らし、それはひたすらに沸き起こる大きく口開けた笑いやらひぃひぃと悲鳴みたいな声まで溢して悶えていた。

 その様子から戸惑いはあったもののどうやら“名”を読み間違って口にしていたらしい事に、流石の麻兎も言われずとも察したのだった。


「えっ、えっ? ち、違うの?」

『んふふひひっ………いや、いいよ。もう“それでいい”や。』


 不安げに訪ねる麻兎の声に、目尻の澄んだ色の涙を拭いながら“キンカ?”という人物はそう口にする。

 漸く無限に込み上げんばかりだった心の底からの笑いが、漸く落ち着いたらしいその人物は、ふぅ、と一息吐くと、浮かばせていた身体をストンと地べたへと降ろす。

 正しく地面に足を付かせたそれは徐に両袖の口を合わせ腕を持ち上げると、とその絶世の美貌たる御尊顔は袖の垂れ幕の向こうへと隠していった。


『………ふふ。じゃあ折角だし、キミから“貰った”その名で名乗ってあげようか。』


 麻兎にチラリと見せてきた弧にして細めた澄んだ空色の瞳にはニンマリとした笑みが浮かび、男子とも女子とも区別の付き難い幼声が頭の中で響く。

 そしてゆっくりと幕開ける様に両の手を左右へと開いていくと、開けきる最後にバッと腕を両側へと払い落とし勢い良く靡いた袖は風を切る音を鳴らした。




『よぉくその耳をかっぽじいて聞くが良い──我こそは地の底より天辺へと流るる星の花形。空を裂き晴天に咲く、雷鳴を喚ぶ大輪の花火!』




 タンッ!

 踏み鳴らした裸足が床を叩く。

 すらりとした細足を一歩踏み出し、露にした顔を見せ付ける様に顎を上げた。

 そこから流れる麗しき眼差しは、目が合った瞬間人を虜にさせていくものだろう。

 例え一瞬だけしか向けられていなくともその蠱惑的な瞳からはきっと誰もが逃れる事は叶わず、見る者全ての心を奪い思わず平伏したくなる思いに駆らせていく。




『其の身に宿らせたるは極上の究極美APP18、老い無き枯れ知らずの永遠の華! 万物の頂点に君臨せし我が身の象徴より、司りし属性は“雪華”と“白塵”──そして“富”!』




 ダダンッ!

 ずらし調子で交互に両足を踏み鳴らし、揺蕩う袖から玉の様な素肌が美しい白き手を覗かせた。

 それを胸元へと翳しては自身を主張し、我こそは主役と言わんばかりに声高らかに胸を張る。




『彼方と此方、おのこめのこ、生と死に有と無。あらゆる“境界”を往く者で在れども、今此処に確かな存在となるべく我が名を刻もう!』





 その威風堂々たる姿は、まるで舞台に華を持たせる歌舞伎役者の如き存在感だ。

 しゃんと真っ直ぐに伸びた背筋に明々とした力強い声音、それからへたり込んだ観客を惹き付ける上から見下ろす蠱惑的に魅惑的な眼差し。


 そして自身をポカンと見詰め惚ける麻兎に微笑みを向けて弧を描いていた形の良い薄い唇をもう一度開くと、それはハッキリと“誤った”名を口にした。




『我が名はキンカ、どっち付かずの“金花キンカ”! 万物の願いを叶える者にして争いと災いを招く邪悪で在り、其れ即ち賽と匙の天秤たる神柱──黄泉こうせんのイドを巣食う大神おおかみなり!』




 凛ッとした態度で、人の常識では説明のしようがない得体の知れない何か──“金花キンカ”は神を自称した上で名乗りを上げる。

 その堂々とした姿勢からは一切の迷いはなく、そして気後れも陰気さすら見受けられない。


 そんな彼……或いは彼女とも言える“どっち付かず”の神、金花は名乗りを終えて威風堂々とした態度を解くと両の手を目元の両端へと再度持ち上げた。

 そしてチラリと見せた白く細い人差し指と中指を真っ直ぐにして袖から見せると、掌を見せる様に額に当てた“ダブルピース”と片目を閉じてはバッチリとキメた様になるウインク。

 それから真っ赤な舌をちろりと見せて荘厳で堂々とした態度から一転、お茶目で愛くるしいポージングをして魅せたのだった。


おれの事は親しみを込めて“金花ちゃん”か“金花くん”と呼ぶが良い! 勿論恭しく“金花様”でも良いけど………やっぱ距離感は近い方が良いからね!』


 そう言っては屈託の無くにぱっと笑った顔は満開の花の如し。

 先程の禍々しさの滲む得体の知れなさを打ち消す程の人懐こさを感じさせるその様から、それをずっと口を開けたまま見上げていた麻兎は漸くハッと放心を解く。

 そして金花が口にした事から「ええと…」と声を溢すと、恐る恐るにそれを口にした。


「金花……ちゃん?」

『うんうん、それでいいよぉ。親しみと親愛を込めてそう呼んでくれれば良い。なぁに、幾らおれが人を脅かせる程に強力な祟り神と言えども、信者敬う者がいなけりゃ“形無し”だからね。貢ぎ物を捧げるつもりでどんどん呼びなさい。』


 名を呼ばれたからか、ふふん、とご満悦そうな笑みを浮かべる金花。

 そんな神様に麻兎は不安げな表情を見せると、迷う様に視線を泳がせてまた俯いた。


 知れば知る程、聞けば聞く程に聞きたい事や疑問が増えていくのだ。 混乱する頭は思わず抱え込んで仕舞いたくなる程に、絶えず回される思考に目を回してしまいそうだし寝不足が祟って鈍くも痛い。

 神様というその正体を知っても尚、状況に付いていけない頭を必死に回し数在る聞きたい事から一体何から訪ねれば良いのか迷って困って麻兎はうんうんと唸り声をあげるのだった。


 そこへ金花が彼の前でしゃがみ込み、顔を覗き込むようにして頬杖を付いた美顔を傍へ寄らせた。

 一体何だ、と頭に浮かべるよりも先に近付けられたその御尊顔に麻兎はおっかなびっくりに身体を強張らせると、咄嗟に後退り様に顔を遠ざけさせていく。


 光が無かろうと眩しい程に美しい造形をしているのだ。

 彼が知る他の美形顔と言えば無緘達双子兄弟であるが、それすらをも遥かに凌駕する人知を越えた美しさだった。

 それ故近付けられただけで考えていた事や対人の恐怖心すらをも吹っ飛んでしまった麻兎はそのまままた固まってしまい、そんな彼を気にもせずに金花の方が先に口を開く事になった。


『……まぁ、此方の自己紹介は程々にしておいて。今度はキミの事も教えてよ、今後は“長い付き合い”になる訳だからさ。』

「………へっ?」


 何だって? 長い付き合い?

 初めて聞くその情報に、思い当たりのない麻兎はキョトンと呆ける。

 すると金花はくすりと笑った。


『さっき言ったろう? “罰”を与えるって。だからおれはその為に取り憑いた・・・・・のさ、キミに……ね。』


 神様からの話に、麻兎は先程の“無かった事”になってしまった出来事を思い出す。


 そうだ、自分は“罰”を与えられるんだ。


 てっきり意識が閉じかけたあの瞬間に何かされてしまうのかと思っていた麻兎だったが実際には何もなく、今こうして再びその話が出てきた事により彼は軈て肩を竦めた。

 自分は今から酷い目に遭わされるんだ、そう思うと忘れていた陰気臭さが甦ってくる。

 今相談したら親しい人と別れの言葉だけ伝えたい、なんて相談したら許してくれるだろうか?

 等と、そんな事を考えながらも、相手が神様なら従わなくちゃと麻兎は金花へと身を委ねる様に頭を下げたのだった。


「……はい…何でも、お受け、します……。」


 俯いて視界に映る床を眺め、引っ込んだ涙が零れそうになるのを堪える。

 そして具体的には何をされるのか解らぬままに、何故“取り憑かれる”事になってしまったのかも解らぬままに頭を下げたままでいると、カラカラと笑う金花の声が頭に響いた。


『ははは、何を言ってるんだか。キミは既にもう“罰”を受けているよ。……ああいや、正に今受けている“最中”なのさ。』

「え……? 最中? でも………何も、起きて、いないような……?」


 金花の話を聞いて、怪我も無ければ苦しさも何もない身体を見回して麻兎は戸惑う。

 神様からの罰と言われるからにはそれはもう凄まじい責め苦を受ける筈なのだ、しかし“最中”と言われた所でピンと来ない麻兎がキョロキョロパタパタと身体中を見て回る姿に微笑ましげにくすりと笑った金花は、その額につんっと人指し指で小突いた。

 強くもなく痛くもない軽い衝撃が額に伝わる。

 その感触に小突かれた額に触れて自身で撫でると、穏やかな笑みを浮かべた金花はゆっくりとその口を開いた。




『起きているとも。おれが与える“罰”はいつだって──生き・・地獄だからね。』




 “生き地獄”。


 神様が声の在る無音にて口にした、並ぶ単語はおっかなくとも何処か残酷と言うには首を捻ってしまいそうなその言葉に麻兎は焦げ茶色の眼差しを空色の瞳と交わらせる。


『キミに罰を与える為に、キミが“永き眠り”に逃れない様に、おれがキミの傍にいて見張り続ける為に取り憑いたのさ。勿論、解放を望んでも逃がしてやらない。キミにとって“死”こそが救済であろうと、死ぬ事を赦さない……それがおれからキミに与える、最上級の“罰”だ。』


 理解が出来ない、理解がし難い。

 拷問でもされるのかと思ったら“生き続ける”事が罰だって?


 それを口にしていると言うのに鼓膜を通らずに頭へと直接流れ込んでくる音を響かせてくる、鈴の音の様に軽やかな幼声の神様は麻兎の左手を拾い上げるとそれを自身の頬へと触れさせた。


 冷たい様な、熱い様な、涼しい様な、暖かい様な。

 何とも形容し難い温度を醸し出すその頬の温度が柔く撫でて、まるで慈しんでいるかの様な雰囲気でその手に頬擦りをする金花。

 その姿は何処か遠い昔を懐かしむかの様な素振りで、それでいて親が子を労る様なものにも見えた気がした。


 不思議なヒトだ──麻兎は胸の内でそう思った。


『……だからね、キミは覚悟をするべきだ。生きる以外の道を赦されない、そして“逃げる”事も赦されない。それがどんな意味を持つのか──、』

 

 校舎の屋上では既に日も落ちきり真っ暗闇が辺りを包んでいると言うのに、穏やかな淡い光が金花の身体から放たれていて彼等の傍だけがほんのりと明るい。

 頬を撫でる夜風は冷たいと言うのに、全くもって寒くならないのだ。

 物を余り食べきれない貧弱な身体には贅肉なんてこさえておらず、骨と皮とちょっとの肉厚だけの身は着込まなければ夏でも寒く感じる事がある。

 それなのにその淡い光がどうやら温もりを放っているかの様で、それに気付いてからその然り気無い優しさが滲み出ている神様への自身の内に在った“怯え”がすっかりと消えてしまっていたのだ。


『──生きていく上でのし掛かってくる苦しみから、一切逃げられなくなるんだ。どんなに傷付いても、どんなに苦しむ事になろうとも、これからのキミは死ぬ事が出来なくなる……“不死”の罰だ。』


 神様が自身を“祟り神”と言っていたとしても、今は無かった事になっていたとしても、一度は目の前で人を殺していても、言動から少しずつ感じられる穏やかな温かみ。

 故にこそ、麻兎にはどうしても金花が邪悪なモノには到底思えなかった。


「死ねないって、事は、この先に或駆が……ううん、友達や家族が、死んでしまった後にも、生き続けなきゃいけないの……?」

『……いいや、そのつもりはないよ。』


 麻兎の疑問に金花が首を横に振る。


『この世界には魔法なんてものはないからね。死ねないと言っても、どんなに怪我をしようが“生き永らえる”程度さ。不老はなく、立つ時が重なる程に老いて来る身体の衰えは日に日に募り、軈て機械に繋げられ無理矢理に押し留められる形になってでも生かされ続ける……この世界においての“不死”とはそういうものだ。』


 そして神様は『おれはそうなる様に、ちょいちょいっと“軌道”を弄るだけさ』と付け足した。

 それを聞いて麻兎は考え込む。


 確かにそれは死ぬよりも辛いだろう、自力で何が出来なくなろうと人の手を借りてまで生き永らえさせられるのだから。

 きっと自身を抱えてしまう羽目になる家族や他の誰かに迷惑をかけ続ける事に、罪悪感で押し潰されてしまいそうだ。

 何をするにも誰かにしてもらって、自分は寝こけたままで動けずに腐るばかりで、自分が落ちぶれる程に周りへの負担は増していって……。


 そこまで考えてみて麻兎はふと思うのだ。




 ……あれ? それって今と余り変わらないのでは?




 サァ、と血の気が引く感覚を覚える。


 考えてみた事もなかった、人に甘えていたばかりに周りへ押し付けていた自分が持つべき重荷。

 制服をズタズタにした後、新品の制服を受け取った時に感じたあの罪悪感。

 自身を蔑ろにする余り、親友が毎日朝早くから自分の為に尽くしくれるばかりに自身が奪ってきた彼が身を休む為の時間。


 全て自分が投げ遣りになっていたせいで起きた、自身を大切に思ってくれていた周りに負担をかけるという“恩を仇で返す”行為。

 それに彼は漸く自らが犯してきた本当の“罪”に気付く。

 自分が自分で思っていたより、ずっと幼稚な人間だったと思い知らされたのだから。


「い、嫌だ………そんなのっ………!」


 それは不死への恐怖よりも、自身が犯してきた罪を認めたくない思いから口に出た言葉だった。

 しかしそれも自覚したが故の言葉。

 理解してしまった彼に今までで一番重くのし掛かる罪悪感に苛まれて、抱え込んだ頭に目からは涙が溢れだした。

 そこに静かな、叩き付ける様な声が頭上から振ってきた。


『逃れは出来ないよ、おれが赦さない。……でも一つだけ、死に損ないの不死を免れる“道”を与えてあげよう。』


 そう言った金花は踞る麻兎へと袖から出した手を差し伸べた。

 顔を持ち上げ見上げた先の後光が射しているかの様にも感じてしまう光輝くそのヒトを見上げた麻兎は、神様である金花の口から続く言葉にすがる思いで耳を傾けた。




『走り続けなさい、休む事は赦さない。』




 成長せよ、じめじめと根腐れるな。




『周りに目を向けなさい、現実から逃れると思うな。』




 井の中の蛙で在り続けるな、大海を知って世界を知れ。




『人と関わりを持ちなさい、一人で生きていけると自惚れるな。』




 人を知って自身を知れ、すれば自身の抱えるもののちっぽけさも解るだろう。




『………それから………』




 自身を見下ろす瞳が揺れ、細めた目にの間に眉間の皺が少しだけ立ち上がった。

 その表情は僅かに歪む程度のモノ。

 それに苛立ちや不快さを持つ様な感情ではないは事くらいは察せれども、明確に“こうだ”と浮かんでくる知識にはない表情だ。


『………いや、良いや。これはおれが言う事でもないか。』


 一人ゴチては首を横に振り、そしてまたその顔が麻兎へと向けられると互いの視線が真っ直ぐに合わさる。

 屋上を撫でる夜風の音だけが鼓膜を震わせる中、声の在る無音は頭の中に響かされた。


『それらを守れば、キミから取り上げた“六道銭”を返してあげよう。それが戻ればキミは只人と同じく生き、只人と同じく死ぬ事が出来るだろうよ。』


 差し伸べられた先に在るその美顔に薄ら笑みが浮かぶ。

 それは無の表情に近けれども、込められた意味合いは酷く複雑に入り交じっている様に感じられる。

 麻兎はその慈悲深き言葉からそれを求める様に差し出されていた手を取ると、触れたその白い手は陶器の様でも柔らかい“生きている”ものの感触に思えた。

 しかし温もりはやはり曖昧だ。

 温も冷もなく感じられるそれをしかりと合わせ握り締めると、その自分と似通う小さな身体の何処から出るのか力強く引っ張り上げられ麻兎は漸く立ち上がったのだった。


 起き上がった際にバランスを崩しかけふらつくけれども、麻兎は五体満足故に足は二本在るから倒れゆく前に踏み出す足が身体を支える。

 たたらを踏んででも地に落ちる様に転ぶのを免れたのだって、彼の手を確かに掴む金花の支えとあったからこそ。

 その互いが倒れぬ様に引っ張り合う伸びた腕と腕は、金花の引く力より麻兎の身体が誘われ二つの身が寄せ合わされる。


 夜空の下、満点の星空の天井、月明かりのスポットライトが照らすステージは学校の屋上。


 金花の腕の中で身体を海老反りに傾け寝かされた麻兎は、見上げた先に在った硝子の様に澄んだ髪束の向こうに星空が透して見えた気がした。

 繋ぎ合った手と手は天を指す様に上を向き、まるで舞踏会で踊る二人みたいな触れ合いだと感じた瞬間麻兎の顔はぽひゅんっと赤くなっていった。

 それは間近に綺麗な顔があるからという理由だけではなく、男の自分がお姫様みたく身を委ねさせられていたからだ。


「えぁ、あれっ…? 立場が、逆、じゃ…、」

『んー? いいや、キミは正しく“お姫様”だよ。だって──、』


 一際強い夜風が透き通った宇宙色の毛先を揺らしていく。

 髪が靡いて顔の一部を隠して、暗い影に覆われた顔から一瞬垣間見えた“黒い眼差し”。




『キミは“蛙の王様”のお姫様だからだ。恩知らずの世間知らず。知も無い癖に流すのは血と涙独り善がりな事ばかりなキミ。死にたくなろうとも死ねない責め苦を与える為に、おれはキミを地獄へと叩き落としてやる──どんな手を使ってでも。』




 にたり、と口角を釣り上げて薄く開かれた口に黒い三日月が浮かぶ。

 今までとはうって変わり、酷く恐ろしい形相の姿だった。


 思わず息を呑む。

 真っ黒な口の内側も、真っ黒な眼差しにも、先程までそこに在った筈の歯や舌、それから眼球がまるで無いかのような虚の闇が広がっていた。

 それだけじゃない。

 その奥から滲み出るように、黒い液体が溢れ出し始めたのだ。

 真っ白な陶器の肌を伝って幾つもの雨垂れを作って落ちていくそれが、互いの顔を上下に並び立て金花の顔面の真下にいる自分へとポタポタ水滴が落ちてくる。


『キミは今から改めて“目”を覚ますだろう。そうしたらキミに今までの様な“逃げ場”はない、確かな現実の地に足をつけて歩み続け無ければならなくなる。………微睡みの甘えはもう、キミの手には戻ってこないと思え。』


 白の素肌が真っ黒へと染まっていく。

 水滴で落ちていた黒い雫は次第に糸を引く様に細長い滝を作ったかと思えば、軈てねっとりと身体を濡らす感触が身体に纏わり付いていくものへと変わっていく。

 黒い水の滝は木の幹の様に真っ直ぐさを持っていたのが、ぐにゃりとうねりを見せそれが意思を持っているかの様に管を波打ち──軟体動物の触腕の様に蠢き始めたのだ。


 形容しがたい現象が目の前で繰り広げられる。

 月明かりが名状しがたいものを隠す様に、逆光が祟り神だというその存在の姿をハッキリと見せなくして暗い影を落としていた。


 その視界も次第に黒く塗り潰されていく。

 触腕達が身体を巻き付く様に包み込んでいたからだ。

 そしてどぷんと水面に物が落ちて水が跳ね上がる音が聞こえた瞬間、触腕達に腕も身体をも引かれていく感覚から自分が酷く高い場所から“堕ちて”いっているのが解った。


 落下していく身体、閉じ込められた真っ黒な空間。

 暗いのに自分の姿は確かに見える暗い筈のその空洞はいつからか広く底が深いものへと変わっていた。

 その広がっていた空間はまるで大穴の様に自分の身体を呑み込んで、より奥へ、より奥へと重力で押しては腹の底へと誘うのだ。


 ごうごうと耳元で風が唸る音がする。

 低くて絶えず聴こえるその音を聴きながら、見上げていた場所で金花が自分を見下ろす姿を麻兎は只々眺めていた。

 これから一体どうなるんだろう、そう考える頭は何処か今の状況が他人事の様に感じているらしい。

 罰は受けなきゃでもやっぱり痛いのは嫌だなぁ、そう考える自分はやはり甘えたな人間なんだと理解する。




 只、その時に見た金花の姿に、何処か見覚えが在った気がした。




 高い場所から落ちる自分、それを高い場所から見下ろす“誰か”。

 閉じていくのは蓋を閉ざすかのような空間の扉──ではなく、生き延びようという“生還”を諦めた自身の目蓋。


 あの時に見た、自分へと手を伸ばす誰かの今にも泣き出してしまいそうな顔。




 あれは一体、誰だったっけ………?






 *****






「──っぐ、うぅっ……!」


 全身に響く様な背中の激痛が走る。

 思わず額に脂汗が滲む程に苦痛を覚えるそれについ身悶えてしまうも、それでまた身体にひりつく痛みが広がっていく。

 薄暗がりの中、重い身体を何とか起こして柔らかな地べたに触れていても痛む背中を庇って屈む。


 荒い呼吸音と、秒針が進むかのような単調な電子音が静かな空間に響く。

 呼吸する度に鼻につくツンと尖った臭いが鼻腔を弱く刺激する。

 起き上がった時に落ちた分厚い毛布が膝の上に山を作っていたのを見て、はた、と固まった。




 あれ?

 此処は自分の家?




 気付けば自分はベッドの上。

 薄暗く狭い部屋に、カーテンが締め切り外界を断つ窓。

 その薄く空いた隙間から見える景色を見れば、外は明るく昼間である事が解った。




 ……あれは夢だったのだろうか?




 なんて考えながらも、確かに“墜ちて”きたからこそ痛む背中を不思議に思って首を傾げた。

 そして手を伸ばすは枕元の時計。

 一体今は何時頃だろうか?


 只今の時刻は午前8時。

 いつも或駆が訪れてくる頃合い。

 自分の時計では日付までは解らないのであれから日を跨いだのか、はたまた神様が遡らせて“無かった”事にしたのか、そのどちらかが解らずまた首を捻る。


 目を覚ましたばかりの頭は随分と重たく、そしてちょっぴり痛い。

 寝過ぎたのか寝不足なのかはさっぱり解らないままに、どうにも凝り固まった身体を動かそうと腕を持ち上げる。

 しかしその腕を引く感触に麻兎は、おや? と動きを止めた。


 何かが身体中に纏わり付いていた事に、麻兎はそこで初めて気付いた。

 何本もの細く長い物が至る所に巻き付いていて、口には何やら硬いマスクのようなものまで付けられてもいるようだ。

 しかし、薄暗がりの部屋ではそれが何なのか確認する事が出来ず、解らない。


 口元に被さったそれを外して脇に置く。

 するとどうしてだか、吸い込んだ空気に重みを感じて少し呼吸が苦しくなった気がした。

 ………一体、これはどういうことなのだろうか?

 電気をつけて確かめようにも、上半身を起こすので精一杯。

 麻兎はそこからベッドを降りることすらも出来なくなっていた。


 カンカンと鳴り響く音が耳に聴こえてくる。

 その足音に気付くや否や、此方へ向かってくる誰かに思い当たりのある麻兎は直ぐ様「或駆だ!」と顔を上げる。

 そして身動きの取れないのを彼に助けて貰おうと、声を出そうとして掠れた音を吐き出した。




 あれ? 声が出ない。




 何度名前を呼び掛けようと喉を鳴らしても、掠れ声ばかりですかすかとした音しか出てこない。

 まるで随分と長い間使われていなかったかの様な、そんな違和感を覚えた。


 近付く足音が部屋の前で止まる。

 カラリと開いたドアからは薄暗い部屋へと光を差し込む様に、ぼんやりとしていた景色を明確なものへと変化させていった。


 傍らに転がる呼吸器らしき管付きのプラスチックマスク。

 丁寧に手入れされた真っ白で綺麗なシーツが波打つベッド。

 その脇に申し訳程度に置かれた小さなテーブルと、その上にちょこんと置かれた林檎が一、二個入った程度のや小さめなフルーツバスケット。

 壁には埋め込み式のクローゼット……は無くて、この部屋を行き来する為の出入り口であるスライド式の扉。

 必要最低限の家具だけを置かれた、牢の様に狭くて質素な一人分の個室。

 それは、今まで自分の部屋だと思っていた場所は自室と言うには余りに侘しい、まるで“病室”にも思える簡素な部屋だった。


 そして、スライドドアを開けて立っていたのは、思っていた通り或駆であった。

 麻兎を視界に映した彼は途端に身体中の動きを止めると、目を大きく見開き凝視したまま固まってしまい、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 その様子にどうしたんだろう? と首を傾げる。


 身体中に何か紐状のものが絡んで上手く動けなくて、訳も解らず

「或駆、助けて!」

 そう言いたくて口をパクつかせる……が、やはりどうしても掠れた音しか出せない。

 やりきれなさから肩を竦め項垂れようとすると、そこで漸く足を動かし出した或駆が徐々に早足となって此方へと向かってきた。


 漸く近付いてきてくれた或駆に、声が出せなくて説明が出来ないからと彼に見せ付ける様に紐が絡み付いた腕を伸ばした──ら、どういう事なのか。

 或駆はそれに“応える”かの様に、自分の身体をひしりと抱き締めてきたのだった。




 ………………あれ? あれれ?




 状況が飲み込めない。

 一体今どうなっているのかが解らない。

 自身の頭の真横にある或駆の頭、自分の後頭部辺りから聞こえてくる鼻を啜る音。

 小さく何度と跳ねる肩からは、どうしてかは解らないが彼が泣いている事だけ察する事が出来た。

 視界に、或駆の背中の向こうに伸ばした腕が映る。

 その時に明るみに出たからこそ見えた腕の紐達の正体を、麻兎はそこで漸く知った。




 全身に纏わり付く紐達は何本ものチューブの管で、それはベッドの至る所から伸びて“自身”に繋がっていたものだった。




 身体へと繋がる先端は皮膚の中へと針を挿し、その波打つ管の一部を視線で辿った先には大掛かりな機械。

 そこに備え付けられていた液晶画面には波打つ線が今も揺れており、自身の心臓の動きに合わせて揺れていた事からそれがバイタルセンサーなのだと気付いた。

 そしてそれは自分の脈動を現していることも。


「……っとに、お前ってヤツは……ッ……!」


 或駆の涙声が聞こえてくる。

 自身をきつく抱き締めてくるその力強さはほんの少しばかり苦しい。

 しかしそれを拒むのは何だか良くないような気がして、行き場のない腕を彼の背中に回しては泣いてる彼を慰める様にそっと撫でた。


「………一年だ。」


 ポツリと或駆が溢す。


「一年もの間ずっと、お前は目を覚まさなかったんだ……お前が──屋上を飛び降りてから、ずっと!」


 今まで溜め込んでいたモノを吐き出す様に、或駆は嗚咽と共に言葉を紡ぐ。

 彼が言う事に思い当たる事がない麻兎はぼんやりとしたまま、そっか、とだけ返す。

 その声はやはり音にするには掠れたモノだった。

 けれども何とか口にする事は出来たからか、どうやら傍に耳があった彼には伝わったらしい。

 抱擁の力がより込められた。


「なんでッ……なんで、あんな事・・・・をしちまったンだよ! なんで俺の事、頼ってくれなかったンだッ……なんで………なんでッ……!」


 訴えてくる彼の言葉が何を意味しているのかが解らない。

 自分とてどうしてこんな状態になっているのか思い出せないのだ。

 なんで、どうして、と繰り返し口にする彼に何も言えないでいるまま、彼が通ってきたドアの方へと視線を向ける。


 転がった小包、きっとあれに入っているのは弁当だろう。

 無動作に傾いた状態で床に転がっているそれをぼうっと眺め、ぐすぐすと溢れる嗚咽と引き釣った呼吸音を響かせる或駆へと身を委ねる。

 そしてもう一度口を開くと、ポツリと言葉を溢した。




「………ごめんね? 或駆。」




 まだ掠れてはいたものの、漸く声は出るようになってくれたらしい。

 彼がどうしてこうも涙ながらに訴えているのか、自分がどうしてこうなってしまっているのか。

 そして滅多に泣く事のない気丈な親友を悲しませてしまったと言うのに、何に対しての謝罪をすればいいのか。

 解らない事まみれの中、取り敢えずと何となくで口にしたその言葉。


 その瞬間、堰を切った様に或駆は堪えていた声を上げてわんわんと泣き出してしまった。

 小さな子供の様に自分にすがり付いて、もう15にも……否、一年経っているのならばきっともう16にはなっていることだろう。

 そんな年にもなって自分の肩を涙で濡らし泣き喚く親友の背を、麻兎は噛み締める様に抱き締めた。


 理由は解らない、どうしてなのか思い出せない。

 只、自分は今までずっと眠っていた事は解った。


 もう一つ、解ることがあるとすれば──






 ──多分、自分は後少しで“旅立って”しまう所にいたのだと、心の中で静かに確信した。






 *****






 学校の屋上、静かな空間。

 頬を撫でる風ばかりがすぐ傍を通り抜けていく。

 眼下には愛おしい未来在る子供達が、既に胸に抱いた将来の夢や大人になる為勉学に励もうと登校しに来る幾つもの姿。

 それを眺める空色の瞳がゆっくりと細められていった。


 そこは子供達が知を求め集う場所。

 幾つもの知識がそこには蓄えられ、多くの人が集まるならば当然縁も多く色とりどりに絡まり合う、そう言ったもの。




 そんな場所を、その“神様”が気に入らない筈がなかった。




 知を好み、子を護り、人も獣も全てを愛する万物の父にして母なる“神様”。

 それは“過干渉”な女神から生まれ、“不干渉”の神の世界で至ったモノだ。

 故にこそ常に人々の傍に在れども、直接的に関わり合う事のない近からずも遠からずの存在だった。


 神様は自身の社の屋根、鳥居の上に素足を立たたせ、辺りに彼を遮るものがない一番の頂上から街全体を眺めていた。

 ゆっくりとターンするように、風に長い髪を靡かせて、遊び心で時折風に身を任せくるりと回りながら──風見鶏の様に。




 そうやって人々の行く先を見守っていたのだ、今までも。

 そうやって人々の傍で寄り添ってきたのだ、勿論この先もずっと。




 その最中にピタリと彼の足が止まった。


「………んー? なぁに、何か気になる事でもあった?」


 傍に誰もいないのに、その神様は一人でに“返答”をする。


「名前~? ああ、うん、別にどうってことないよ。何も変わっちゃいないさ。」


 神様の耳に届いた“声”は、読み間違えられた名前から自身への影響がないか、というそれの身体を気遣うもの。

 名前こそが自身の存在証明とする“曖昧模糊”なものである神様だからこそ、その“声”の主はどうしても神様へ心配する思いが募ってしまうのだ。

 誤った名前で罷り通ってしまったらそれに沿って“変質”してしまいかねない、それを危惧しての事。


 “神”なんて実在するか否か曖昧な癖して“伝話”ばかりは数多く残り、その種類も腐る程にあるものだ。

 誰もが実際に出会える訳ではないのだからそれを一番象徴とする“名前”が間違って伝わってしまったら、当然元の形は失せ歪んでいく事だろう。

 神様とてあの麻兎が手にした御守り袋に入っていた“銘板”を大切なものとして持っていた訳で、それに悪戯しようとした“悪餓鬼”達にほんの少しばかり焼き・・を入れたのだってそれ故だ。


 只、それだというのに神様は“間違った”ままでいい、と名乗り口上まで声に出してしまった。

 それもまた、神様の“遊び心”で。


「童心忘るるべからず……たまにはこう言うのも良いんじゃない? 損得勘定ばっかじゃ折角の純な心も擦れちゃうかんね、ちょっとばかし贔屓・・したって何も咎めるものなんていないでしょ。」


 そう言う神様は涼しげな顔をして“此処に居るわ、此処に!”と言う言葉に続く口煩い説教ばかりの声を右から左へと受け流す。

 

「だってさぁ、良い“名前”じゃない? 金花って名前、おれは素敵だと思うよ。」


 再び身を翻しては裸足のステップが軽やかなリズムを奏でる。

 鳥居の上の頂上の踊り場でくるくる回りながら神様はそれを口にする。


「金花の花、流金花。宿る言葉は“富”、“必ず来る幸福”、それから──」


 両端までいっぱいに広げた腕。

 瞳を閉じて全身に風を浴びて、揺蕩う袖も長い髪も揺らめき靡かせ風に身を任せていく。


「──“貴方に会える幸せ”。春との再会を喜ぶ花の名前だ。申し分無い、寧ろ願ったり叶ったりなくらいさ。折角貰ったんだし、この名前を利用する他ないよ。」


 そこへ吹き上げてくる一際強い春一番。

 とんっと跳ねる足に鳥居から小さな身体が遠ざかる。


 宙に浮かび風に乗り、身を翻して姿を一転。

 その身体が炎に包まれた。

 揺蕩う袖は焔が揺らめきはためきながら末広がらせ、靡く長髪はより伸びて房を増やし、尾羽が如く背後で流れる波にして風を打つ。

 再び広げた腕は先程よりも倍近い。

 それを上下に羽ばたかせれば、風に乗った身体は簡単に飛び上がった。


 天高く、空蒼く、火花を散らす身体は溶け往く。

 空の色に混じっては火の粉の羽根を散らして宙を駆ける。

 それは太陽よりずっと熱い、高温域の澄んだ焔。




 絶えず死と再生を繰り返す、蒼く燃ゆる焔の風鳥。

 その姿は“脚と肉のない鳥”を模していた。




『──お前がそれで良いなら此方も強くは言えねェな。ならまァ、思うが儘“好きにして”くれや。』


 姿無き声が神様へとそう言う。

 放棄する様に突き放す言葉だが、そこには自由意思を尊重する思いが連なっていた。


『俺は一切の関与をしねェ、やるとすれば“観測”のみ。その代わりお前に全ての采配を任せる。雲行きも出目も、お前の匙加減次第だ。』


 それに火の鳥は頷いた。

 そして羽ばたきをゆったりと繰り返しながら、一直線に目的地へと空を駆けていく。


『アレは元より定められていた運命スケジュールを、お前が阻んで生まれた本来“起こり得ない”事象だ。此処は魔法も奇跡もない“不偏”の世界だっつーのによ……。』


 呆れ声が響く中で視界に映るは、自身が“寄生する宿る”べく粉をかけた縁を結んだ一人の少年のいる病院。

 カーテンでしっかりと閉められた外界を断つ部屋に閉じ籠っていた彼だけれども、そんな彼のの内側へと潜り込むべく羽ばたきながらに狙いを定める。



 

『これは起こしたお前の責任だ。矛盾も晴らして、きっちり型に嵌めてこい──解ったな、“ニエ”。』




 内側の響く声が自身の本来の呼び名を口にする。

 それに頷き応えるように一際大きく羽ばたいてみせれば、目的地はもうすぐそこまで近付いてきた。


 これからその火の鳥の神様──“ニエ”は“金花キンカ”へと名前を変え、その在り方を変質させていく。

 いつかの嘗ての自分が受けた様に宿主の腹の内に身を潜らせて、安全である物陰から自ら日向へと躍り出していく様に仕向けていくのだ。


 その先に危険が待ち受けていようとも、苦難が宿主に襲い掛かろうとも、そんなこと神様には知ったこっちゃない。

 寧ろ大歓迎だと、それこそが目的なのだと蝸牛の身の虫レウコクロリディウムは不敵に笑む。


「さぁさ、朝は来た。日は登った。泣いたのは子を囲っていた虎だけども、籠り子守りを続けるのだってもうお終い。」


 賽は既に投げられた。

 物語はとうに動き始めていた。




 此処から始まるのは一人の哀れな“探索者登場人物”の、何の変哲もない物語。

 魔法もなく、奇跡もなく、只々普通で不偏な世界で冒涜的かつ傾国的な神様をスパイス程度にそっと添えて、平凡な生活を送るだけの日常ストーリー。

 そこには至る所に見覚えがある人物がいて、似たような運命を送りながらもコメディチックに笑って過ごす。


 世界滅亡なんて危機が訪れる筈もなく、当然魔王や勇者もいない。

 救世主だって、教科書の中のお伽噺だ。

 戦争や奴隷制度、それに圧政がある訳でもないのだから誰も不幸である筈がない。


 そんな退屈で苦のない世界観だ。

 そんな夢の様な世界でたった一人、絶えず悪夢に魘され続けるだけの世界。




 誰かの為に続いた世界後日談──終えた筈の物語が行き着いた、最果てのお話。



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