第三話 救世主=少女
窓に貼ってあった段ボールが外れて、一人の少女が部屋に入る。
「瑞さん」
声の主を確認すると、羽雁天だった。
「不法侵入なのは重々承知ですが、大丈夫ですか」
心配そうに瑞を伺う天は瑞に手を触れようとして、自身の手をもう一つの手で抑える。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「きっと、瑞さんは大人ですから私に遠慮してくださっているのですよね」
天はより瑞に近づいて、瑞の頭を抱きしめる。
「瑞さんが遠慮しているのであれば、私は遠慮しません」
瑞はどうすることもできずに、天の心臓がひびかせる音を聞く。
その音は一定で流れていき、センチメンタルな気分を忘れさせた。
「瑞さんは感情をこぼせる相手がいなかっただけなのですよ。私があなたの苦しみを背負いますから、私にお世話をさせてくれませんか」
それでも瑞は首を縦にはふらなかった。
「子どもがどうして大人に守られているのか、ご存知ですか」
何も言わない瑞に天はあやすようにささやく。
「子どもには大人以上の力がないからです。子どもは自分で責任を取ることができないからです。しかし、一般的な大人以上に力をもち、そもそも自身で責任を取ることができる子どもであれば、大人に守られている必要もないのです。大人が子どもに頼ってはいけないという社会通念もないのです。あくまで大人と子どもは対等なのですから」
瑞の体が震える。天は背中をさする。
「甘えられるときは甘える、で大人も子どももよいのだと思いますよ」
「ごめん」
少年のようなつぶやきとこらえるようなうめき声がひびく。
「瑞さんは一人でがんばってきたのですよ。たしかに周りの方々の協力もあったのでしょうが、それでもやはりがんばってきたのは瑞さんなのです。努力は努力した人だけのものですから、ちゃんと自分を褒めてあげてください」
天の甘い声に、瑞は天を抱きしめようとしたのか、肩がかすかに動いたが止まる。
「それでも」
瑞のくぐもった声も包みこむように天はより強く抱きしめる。
しかし、瑞は一度も涙を流さなかった。
そのまま瑞はいつの間にか眠りにつき、天もそのまま寝息を立てた。
月明かりがさしこんでいた窓はいつの間にか朝日がさしこむようになり、瑞は目を覚ます。
体を動かせない状態に昨晩の醜態を思い出し、天に声をかける。
「羽雁さん、目を覚ましてください」
それでも目を覚まさない天に、少し悪いと思いながらも太ももをタップする。
「起きてください、羽雁さん」
ようやく意識が戻ってきたのか、天は小さなうめきを口にしながら目を開ける。
「おはようございます。瑞さん」
天は瑞を抱きしめたまま、頭を持ち上げる。
「離してくださりませんか」
瑞のお願いに、天は一度強く抱きしめてから解放する。
「瑞さんの声で目を覚ませるなんて、とてもよい一日です」
「私の声なんて、大したものじゃないですよ」
「いえ、誰かの声で目を覚ますことができるというだけですばらしいものなのですよ。それが大切な人の声であれば尚更です」
ふんすと自慢するような表情で言い切る天に、瑞は何も言えないとばかりの息をもらす。
「あまり納得いただけていないようですので、今度は私が起こしてさしあげます」
瑞は「そのときはよろしくお願いいたしますね」と流した。
「それで、今日は私が朝ごはんをお作りいたしますが、台所を使わせていただけますか」
「私は朝ごはん、いらないですよ」
「だめですよ。昨日もあまり食べていらっしゃらないでしょう。朝ごはんはしっかり食べてください」
自分よりも年下の少女に注意される気まずさからか、瑞は天から目をそらす。そして、軟式の野球ボールが転がっていることを思い出す。その先には段ボールがはがれ落ちていた。
「先に、あれらを片付けましょうか」
瑞が見ている方向を見た天は小さく声をもらし、頭を下げる。
「ごめんなさい。昨晩だけではなく、おとといも奏が窓ガラスを割ったとか」
ちょうど無気力になっていたために怒りを抱くこともなく、また主人とはいえ年端もいかない少女に怒るほどに傲慢でも狭量でもない瑞は「大丈夫ですよ」と声をかけた。
「なんとも思っていませんよ」
「あの」
言葉がつづかない天に瑞は首をかしげる。あまり適切な言葉が思いつかなかったようだが、天は祈った。
「もっと感情を露わにしてくださいね」
どういう意味か、瑞は理解しかねたようだったがうなずく。
天は「きっとですよ」と念を押して、段ボールを窓に貼り、軟式の野球ボールを拾った。
「それでは洗顔など済ませて、座っていてくださいね。私が朝ごはんを作りますので」
瑞が声をかける前に天は台所へ行き、一通りの材料を確認した。そして、スマートフォンを耳にあて誰かへ電話をしていた。
止めることもできずに瑞は言われた通りに手を洗い、リビングで待った。
それからしばらくして、天は二つの皿に盛られたパスタを持ってくる。
「瑞さん、お野菜もお肉も、冷凍食品すらないってどういう食生活をしてきたのですか」
呆れた様子で、天は具材が何もないパスタを瑞の前に配膳した。
「塩だけで味つけをしたパスタですので、お好みでお醤油や胡椒をかけてくださいね」
「ありがとうございます」
「あと、敬語はなしです。私は年下ですし、瑞さんと敬語ではなくもっと親しくお話がしたいです」
「そうはおっしゃっても」
「あと、私のことは天と呼び捨てでお願いしますね」
「さすがにそれはできませんよ」
上品に食べていた天は一度、カトラリーを置く。
「私はたしかに中学生でありながら社長を務めています。その務めも周囲の方の協力もあり、十全にこなしてきた自負があります。しかし、人間関係を隔てるようなものはないですよ」
有無を言わさぬ笑顔で瑞はうなずく他になかった。
パスタをふたたび口に運び、塩気を味わう。本当に最低限の食事ではあったが、瑞の味覚は久しぶりに働いた。
「瑞さん、今日は一緒にお出かけをしましょうね」
思わぬ言葉に瑞は天を見る。
「だって、これまでゆっくり食事をすることもなかったのですよね」
天は自分の目元に指をあてる。つられて自分の目元に手をあてるとかすかに湿っていた。
「だから私は瑞さんと一緒にお料理を味わいたいなと」
「そんな気にしなくても、私は自分で食べたいところに行きますよ」
「そう言っていかないですよね。私がいなくなったら、ずっとこの部屋にいるでしょう。なので、問答無用で連れていきます」
天はすでに食べ終えていた皿とカトラリーを台所に持っていき、洗い始める。
「皿洗いくらいは」
「なら、食事を終えてから言ってくださいね」
有無を言わさぬ天の笑顔に、瑞は黙ってパスタを口に運んだ。
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