職場

 職場に着くと、割り当てられている駐車スペースへと車を停める。


「どれ、メイクすっか。あー、ダルい」


 トートバッグの中を探り、持ち歩き用の化粧ポーチを取り出す。下地リキッドを塗り、ファンデーションケースを開けてパフをとり、頬に叩き込もうと鏡を見る。


 その瞬間、また激しい頭痛が押し寄せた。


「あっ!くっ!いった…」


 目を閉じ、上を向いて深呼吸をした。淀んだ空気が体内にあると、余計悪くなる気がしたからだ。


「こんなことしてる場合じゃないのに…遅刻する…あー、もう」


 再びファンデーションを付けようと、ケースに目を向ける。


「ひっ!?」


 肌色であるはずのファンデーションが、黒くなっていた。


「なん…!なんなの!?」


 運転席のドアをあけ、ファンデーションケースを外で払う。


 黒くなっていたのは表面だけで、急いで払うたびに、また煙のように立ち上って、消えていった。


「気持ち悪い…なに、なんなの!」


 小声で、しかし悲鳴のように、嫌悪感を丸出しにして呟く。


 そして、また気がつく。


「頭痛…また…消えてる…?」


 もう、三度目だ。なんとなく、分かってきた。


「あの黒い粉って、頭痛を消していってる?」


 不可解な現象ではあるが、あの黒い粉が煙のように無くなるたび、頭痛が消えるのである。


「なんか気持ち悪いけど、頭痛が消えるなら、ウェルカムだわ」


 頭痛が消え去って軽くなった体で、メイクを再開して身なりを整え、職場へと向かった。


「あーあ、今日も、仕事かぁ」


 小さな規模の会社では、自分のような事務員は、雑務から総務、経理、分野に偏る書類作りなど、全てを把握しなければならない。


 何かあれば声をかけられやすい事務員は、事実上、何でも屋である。


「なんで、ここまで頑張らなきゃいけないんだろう」


 おそらく、常にある頭痛の種は、仕事である。


 地味なのに関わらず、頼まれれば、なんでもこなさらければならない状態に追いやられる。


《事務員は儲けを生み出さないでしょ? 君たちは人件費。出費でしかないんだよ。それなら少しでも多くの仕事をして、会社の役に立て。俺に損させるなよ》


 社長から、役員から、周囲から、何度も吹き込まれたセリフ。


 何でも屋は、必要なのに、会社の重荷でしかない。


(事務員は、必要悪なの? おかしくない?)


 疑問を、喉元で押し殺す。呟いてしまえば、また頭痛が再発しそうで怖い。


 トートバッグをロッカーに仕舞っていると、後ろから声をかけられた。


「キョウコ、おはよ!」


 振り向くと、隣に座る同僚のサキが、手をヒラヒラさせながら朝の挨拶をしてきた。私も少し微笑み、挨拶を返す。


「おっはよー、サキ」


 私の顔を見て、サキが途端に心配そうにした。


「どしたの? 具合悪い?」


「え?そうでもないけど。そう見える?」


「うん。目の下、クマがすごいよ? 顔色も悪いし」


「そうかな? たしかに起き抜けから頭痛はしてた。なんか治まったけど」


「おっふ、また頭痛してたんだ? あんた、いつも頭痛薬飲んでるもんねえ」


「いやもう、ほんとそれ。もはやゴハン代わりって言うか?」


 笑いながら、二人でデスクに戻り、パソコンの電源スイッチを押した。立ち上がるまでの間、軽くモップで床掃除を始める。その間にも話は続いている。


「それさ、ある意味中毒じゃん? 笑い事じゃなくない?」


「そうなんだよねー。色々試したけど、全然ダメでさー」


「頭痛外来とかは?」


「まだ行ったことないなぁ。調べて、行ってみようかな」


「ってゆうか、あんたが頭痛薬飲むのって、精神安定剤代わり的な? そんなのもある?」


「んー、否定できない…」


「それならさ、下手に頭痛薬飲み続けるより、病院いった方がいいよ」


「そうだよねぇ…」


 話をしながら、ホコリがいかないよう、くるりとサキに背を向けて、モップについたゴミを落とした。


「…あれ? 少し髪切った?」


「は?」


 意外な質問に、私は髪に手をやりながら、サキの方に振り返った。


「後ろのへん、ちょっと切った? にしても、毛先ボロボロだけど」


「ボロボロとかうるさいわ! …え、でも、切ってないよ? サロン行くヒマ無いし。昨日だって、一緒にサビ残してたじゃん?」


「そうだよねぇ…見間違えたかなぁ?」


「サキも、疲れてんじゃない?」


「やっばー、目がおかしくなったかなぁ」


「一緒に、おててつないで、病院いく?」


「うちのチビも、一緒におててつないでいい?」


 二人で自虐的に笑う。


 正直に言えば、年度替ねんどがわりである今は、とても忙しい。いつも勝手に上から押し付けられる雑務や書類に加え、新年度に向けたファイルの用意や新しい仕事の準備がある。


 地味な作業で他からは分かりにくいが、量があれば、とてもわずらわしい仕事。それを私とサキで、なんとかこなしているのである。


 サキは家庭があり、一児の母。なにかあれば、独身者である私が、率先して仕事を代わることがある。


 その度に申し訳なさそうにし、お詫びのスナック菓子などを渡してくるサキに、文句など言えるはずもない。


 立場は違えど、仲の良い同僚、そして友人。その関係を壊すこともしたくは無かった。


「さーて、今日も書類地獄に行きますか!」


「一緒に行けば怖くない!」


 事務員特有の自虐で笑いながら、それぞれのデスクに座り、書類を手に取った。

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