第132話 海

 サクラが子供の頃、お父さんはいなかった。物心ついた頃にはすでにお母さんと二人きりだった。お母さんはいつも忙しそうだったけれど、休みのときはあちこち連れて行ってくれた。全てをはっきりと思い出せている訳ではない。でも、それでもお母さんと二人で見た海は覚えている。

 夏でもない、冬の寒い時期だった。ひと気もなく広々とした砂浜を「寒い!」と笑いながら歩いた。


 天気も良く風は冷たくとも、お母さんがぎゅっと抱き締めてくれたのが嬉しくて暖かかった。キラキラと海は煌めき、波の音だけが響くその砂浜でのんびりしながら、お母さんは申し訳なさそうな顔をしていた。


『夏に連れて来てあげられなくてごめんね』


 そのときの私はどうしてお母さんが申し訳なさそうなのかが分からなかった。

 私はお母さんと来られるならどこだろうと、いつだろうと楽しいのに、どうしてそんな悲しそうな顔をするの? どうして?


 幼い私には分からなかったが、今の私には当時のお母さんの気持ちも分かる。いつも忙しかったお母さん。夏休みに海水浴なんてことが出来るはずもなく、しかしお母さんはその季節にしか出来ないことをしてあげられない、ということを申し訳ないと思ってくれていたんだろうな。


 私にはそんなことよりも、ただ一緒にいてくれるだけで幸せだったのに……。


 今もそう。サラルーサとして、お父様やお母様、エナや皆と一緒に過ごせるだけで幸せだったのに……。どうして一人置いていったの? お父様……お母様……。



「すっごい!! ひろーい!!」


 リラーナが両手を広げ大きな声を上げた。

 そのまま海へと足を向けると、次第に砂浜が広がった。白く広い砂浜の先には寄せては返す波が優しい音を奏でていた。


 澄んだ海は魚が泳いでいるのすら見える。青いような碧のような、太陽の光を反射しキラキラと煌めく海。

 遠目には港だろうか、なにやら埋め立てられた陸地が海にせり出していた。


 そしてそこには巨大な船が……。


「船だわ……あれが、船ね? 本で見たことがあるわ!」


 声を上げると、皆が一斉にそちらを見た。


「おぉ、あれはガルヴィオの船かもな」

「ガルヴィオの!?」

「あぁ、エルシュにある漁業の船はあそこまでデカくないからな。おそらくガルヴィオの船だろう。やったな、ちょうど来てるんじゃないか?」

「そうなのね! じゃあ早く乗せてもらえるか交渉してみないと!」


 そう意気込むと、ディノは目を見開き苦笑した。


「まあ待て、そんなに急がなくても大丈夫だ」

「え? どうして?」


「到着したばかりのようだからな。まだしばらくは停泊しているはずだ」


 イーザンが私の疑問に答えるように言った。それにディノも頷き、船に向かって指差す。


「遠目にしか見えないが、荷下ろしをしているのが分かるか? 荷を今下ろしているということは、今日、しかもついさっき到着したばかりなんだろう。ならば、しばらくは荷下ろしに、物資の補給や買い付けなどで、エルシュに数日停泊するのが普通だからな」


 確かによく見ると、船からは大勢で何かを運び出している様子が窺える。


「なるほど」

「それまでに情報を集めたり、ガルヴィオの船員と仲良くなれないか、だな」


 全員顔を見合わせ頷き合った。


「船を見に行きたい気持ちもあるだろうが、とりあえずは宿だな」


 イーザンがそう声を掛けると、船を背後に見やり名残惜しいが、海辺を後にした。



 次第に陽も落ちて来たかと思うと、あちこちで街頭が点灯し出す。到着してから真っ直ぐ海に向かって歩いただけで、まだ街並みを全く見ていない。アランのお店やララさんのお店にも行かないとね、とそう思うとウキウキしてしまい、辺りをキョロキョロと見回す。


「とりあえず、せっかくだから海の見える宿にするか?」

「「海の見える宿!?」」


 リラーナと二人で声を上げ、顔を見合わせ笑い合う。


「絶対それが良いわ!」


 リラーナが声を上げる。私も横でうんうんと頷くと、ディノが笑った。


「ハハハ、そう言うと思った」


 こっちだ、とディノが歩き始めた後ろに続く。波の音を聞きながら海岸沿いを歩いて行くと、何軒かの宿が並んでいた。


「何軒かはあるが、俺がいつも使う宿でも良いか?」


 ディノが振り向き聞いたが、リラーナと二人、顔を見合わせつい笑ってしまった。ルバードでの宿を思い出してしまったのだ。


「お、おい、今回の宿は普通だからな!」

「な、なにも言ってないよ!」

「なにが言いたいかなんてすぐに分かるんだよ!」


 プリプリと怒ってしまったディノに、私たちは苦笑しながら後に続いたのだった。イーザンはやれやれと呆れた顔だった。


 三階建ての石造りの宿では、何組かの客が行き来していた。これから部屋に入る人たちや、夕食へ向かうのか階段を降りてくる人。受付をしている人など、様々だった。その人たちを眺めているとひと際目立つ数人の男たちに目が釘付けになってしまった。


「あっ」


 思わず口に出してしまい、慌てて口を手で抑える。リラーナも「あの人たちって」と、私の耳元で囁いた。


 そこには獣の耳と尻尾の生えた男たちがいた。


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