第31話
「ラシード殿下……!?」
最後にヴィダ国であってから、一ヶ月が経過しているだろうか。
ああ、もうそんなに会っていなかったのかと思うと不思議な気持ちにすらなった。
大慌てで立つ私に向かって大股で歩み寄ってくるラシード殿下は、どこからどう見ても不機嫌そうな表情だった。
椅子から立ち上がった私が淑女の礼を取るよりも先に、私の肩を掴んで座らせるとそのままがっちりと押さえ込まれた上で顔を寄せられる。
まるで今にも口づけしてしまいそうなその距離感に思わず顔が赤くなるのを感じたけれど、彼はまるで意に介する様子ではなかった。
「俺はきちんと愛をしっかりと伝えていたつもりだったが、まだわかってもらえていなかったらしい」
「ラシード殿下……」
「挙げ句の果てに遠くの地で俺の幸せを祈るだと?」
「ど、して、ここに……」
「兄上から早馬が来た。読み違えたと平謝りをされたよ」
「読み違えた……」
それは、私が聖女でなくなったことだろう。
利用価値のない私をどうやってラシード殿下の傍におくのか、それが問題だって。
ああ、そうか。
価値がなくなったからこそ愛妾でもなんでもいいのか。
私の死亡届けについては今もまだ取り下げるかどうかで揉めている。
一度は聖女として名を馳せた私が、奇跡の力を失っても生きているというのは外聞が悪いという意見もあるのだ。
これまでの戦争の罪を、『聖女』に押し付ける不埒な輩もいるだろうという私を案ずる人たちもいる。
それならいっそ、
そもそもハシェプスト伯爵家の罪は父と義母の散財なのだから、あの二人が償うべきだという意見。
一族の者なのだからそこは現行法に則って私も何かしらの処罰を受けるべきという意見。
これまでの聖女としての功に免じて私は出家するべきという意見。
……いろいろな意見があって、まとまらないらしい。
「そう、ですよね。私は……投獄されるかも知れませんし、出家かも知れないし……きちんと会って、お別れを言う機会をイマーム殿下も与えてくださったのですよね」
「違う!」
至近距離で強く言われて思わず体がびくついた。
そんな私の肩から手を離して、片手で顔を覆ったラシード殿下は大きなため息を吐いた。
「俺は命を差し出してもいいと思うくらい、ラフィーアを愛しているんだ。聖女として確かに国を……両国の民を助け、兄を救ってくれたらと願わなかったわけじゃない。だけど、俺は俺個人としてラフィーアという女性に愛を乞い、捧げたんだ。伝わっていないのか?」
「……それは、わかって……」
「わかっているなら! どうしてそんな遠くの地へ行こうなどと……!!」
「だって!」
私は望んではいけないのだ。
だって『用無し』だから。
「私は、聖女ではなくなったんです。奇跡の力は失われ、貴族令嬢としての教養も何もない、ただの小娘しか残っていない。そんな私が……」
「それがいい。聖女なんかじゃなくていい。ただのラフィーアがほしい」
「……ラシード、殿下?」
「何も持っていなくていい。ラフィーアという一人の人間でいい。なんなら身一つでいいんだ。俺がお前の全てになる。他のものなんてなにもない、ただのお前をくれ」
「私……何も持っていない私がいいんですか?」
「そうだよ、ラフィーア。愛し人。もう柵が何もないなら、俺に囲われてくれ。その準備は済ませてきたんだ」
「えっ?」
目を丸くする私に、今度こそラシード殿下はキスをした。
そして先ほどとは違うため息を吐いて、私の肩に頭を乗せる。
「兄上から、聖女という立場で縛って時間を稼いでおくから王都に戻って俺の派閥の中の誰でもいいから貴族に養子縁組の準備をさせておけって言われたんだ。父上の説得はそれからでいいだろうと……」
「……え?」
「ところがラフィーアは奇跡の力を失っていて、パウペルタスじゃあ死んだことになっていて、どこに行くにも自由になってしまった」
だって私は用無しで。
もう、どこにも必要ない人間だと思って。
「間に合って良かった」
「……私、何もできないわ」
「いいや、これまで自分の立ち位置を理解してきちんと動けていたし、誰かのために気を回し続けていた賢さがラフィーアにはある。そしてなにより民を思う気持ちがあった」
ラシード殿下は、膝をつく。
私の手を取り、真っ直ぐな視線を向けて。
「ラフィーア。どうか俺の妻になってほしい。誰よりも優しく、思いやりに満ちあふれた君とならば俺は暴君にならず、兄の補佐をしながら民のために尽くせると思う」
「……ラシード殿下……」
「奇跡の力なんて必要ないくらい、平和で豊かな暮らしを人々に送らせられるように努力をする。それを俺の傍らで、見守っていてほしい」
ぎゅっと私の手を握る彼の爪には懐かしい色が輝いている。
彼と最後に会ったのは、一月ほど前のことだ。たかがそれだけの時間を、こんなにも懐かしく思うなんて。
私の爪には、彼が塗ってくれた爪紅がところどころ剥げていて。
それが未練がましく色を落とせずにいた自分の気持ちを見せつけられた気分だった。
ああ、もういいのだろうか。
「……私の爪を、また塗ってくれる?」
「ああ。生涯俺だけに塗らせておくれ、愛しい人」
「ふふ、生涯だなんて……とても長い時間になるわ」
「構わないさ。俺にとってラフィーアはその価値のある人なのだから」
繋いだ手は、温かい。
私の目から、涙が零れる。
「……何もない私だけれど、この身と、貴方を愛する気持ちを捧げるわ」
「ああ、ラフィーア!」
用無しとして捨てられるとばかり思っていた私を、拾い上げてくれる貴方に、全てを。
万感の思いを込めてそう答えれば、彼はこれまで見た中で一番輝くような笑顔を見せてくれたのだった。
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