第3話 知ってるようで知らない世界

 どれくらい時間が経っただろうか。

 目を覚ますと、両目の痛みはすっかり引いていた。


「どこ、ここ」


 見知らぬ天井。見知らぬ景色。

 ひとつだけ言えるのは、イーストエンドにこれほど立派なログハウスはないということ。


「起きたようだね」


 聞き覚えのない声に目を向けると、白髪の老爺が扉を開いて部屋に足を踏み入れた。


「アンタ、だれ」

「私の名はハリス。よろしく、カミラ」


 ベッドに腰かけたまま首を傾げるカミラの隣に座ると、老爺が自己紹介をする。


「ここはどこ?」

「私の家だよ」


 続けて尋ねるカミラに対して、ハリスと名乗った老爺は簡潔に答えた。

 そう言えば、先ほどから香っている花の良い香りの正体はなんだろう。カミラの視線は部屋の隅で咲いている小さな白い花弁の花に注がれる。


「いい匂い」

「ありがとう。これはカモミールといって、私の妻が好きだったハーブなんだ」

「ふうん」


 興味なさそうに相槌を打つと、カミラは再び疑問を口にする。


「なんでアタシ、こんなとこで寝てんの」


 ふと、自身の服がボロ布でなく小洒落た花柄のワンピースに変わっていると気づいたカミラは、猛禽にも似た鋭い目つきでハリスを睨んだ。

 知らぬ間に着せられたということは、知らぬ間に脱がされたということ。

 しかし睨まれたハリスは、まるで子をあやす親のように優しく朗らかな笑みを浮かべる。


「君を拾ったのは私でなく、少し前からウチで間借りしてるファルタという娘だ。そのおさがりに着替えさせたのもファルタだよ」

「そっちも知らない」

「おや、噂をすれば」


 カミラが目を動かした途端、突然の来訪者が視界に入る。


「あぁっ! その子起きたんだ」

「さて、私は畑仕事があるんで失礼するよ。食事ならウチにあるものを適当に食べてもらって構わない」

「はぁ? ちょ、待ちなさいよ!」


 カミラの言葉を聞く前に部屋を出たハリス。

 その後ろ姿を呆然と眺めていた彼女の様子を気に留めず、ファルタが口を開く。


「ボクはファルタ・フローラル。あなたは?」


 綺麗な赤髪を後ろにまとめた快活そうな美少女を、当然ながらカミラは知らない。


「……カミラ」

「カミラ! いい名前!」


 自己紹介した後、ファルタは屈託なく笑ってみせる。


「それ、前にも言われたことある」


 カミラはその笑顔をじっと見つめた後、ぼそりと呟いた。


「やっぱり?」

「ええ、でも……誰に言われたか思い出せない」


 少しの間考えた後、カミラが答える。


「記憶、ないの?」

「そういうワケじゃない。ちゃんと覚えてる。だけど……」


 濁すような口振りでなにかを察したように眉をひそめたファルタ。

 彼女がカミラの言動のなにを訝しんだか、彼女にしか分からない。

 おおよそ、言えない事情でもあるかと思ったのだろう。


 ――だが、濁した言葉はカミラの記憶そのままである。


「ごめん、まだ調子が戻って――」


 そう言ってファルタの目を見た瞬間、両目の奥のほうからまた熱がこみあげてきた。


「うぅっ!」

「ちょっ、大丈夫!?」


 目を押さえながらよろめいたカミラの上体を咄嵯に抱き留めたファルタは慌てて声をかける。


「ゴメン、なんでもな……」


 ファルタの華奢な肩を掴んで引きはがそうとしたのは、心配かけまいという不器用な気遣い。しかしその行動も、途中で止まってしまうことになるのだが……。



――ブーツの分厚い底で踏まれるハーブ。

――目の前で惨殺されるハリス。


――そして最後に、青白い外套をまとった襲撃者たちのひとりに見つかり、それから……。



 彼女の瞳を見たカミラの脳裏に浮かび上がった映像が、あまりに強烈過ぎたのだ。

 フラッシュバックした凄惨すぎる光景のせいで、一瞬にして頭が混乱状態に陥ってしまったカミラ。そんな彼女を支えるファルタの腕を振り払って、カミラはベッドの上から転げ落ちる。


「青白い服……前にも見たヤツらだ……」

「青白い服? それもしかして、グレアムの使徒? 襲われたの?」

「グレアム? グレアム……」


 カミラだって、ハザ教やグレアム派は知っている。いや、この国にいる誰もがその名を知っているはずだ。

 王都ヘブリニッジでの内乱で旧教アルマを打ち破り、新教グレアムのゴドフレッドが王権を握ったのは三年前。

 それから、グレアムの使徒によるアルマ派狩りは過激化する一方である。


(そうだ、アイツらはグレアムの使徒。分かってる、分かってるはずなのに……なんなの、この違和感)


 床に打ちつけて赤く腫れた額を擦りながら立ち上がったカミラ。


「ねぇ、アンタはアルマなの?」

「え? う、うん……その……」


 言い淀んだファルタの気持ちは分からないでもない。万が一、目の前にいるカミラがグレアムだった時のことを考えれば、軽率に「自分はアルマだ」なんて言えない。


「じゃあ答えなくていいわよ、その代わりこれだけは答えて」


 ファルタに背を向けるや否や、カミラは着せてもらっていたワンピースを脱いで生まれたままの姿になる。

 ほどよく筋肉がついて浮きあがった肩と背筋と対照的に、きゅっと引き締まった腰。体の向きを傾けたときに見えそうになる胸部はさほど大きく膨らんだものではないにしても、カミラのメリハリのある肉体は、同じ女性から見ても見惚れてしまうほど芸術的で美しい。


「ふぇっ!? どどどどどっ!」

「グレアムから狙われるのに心当たりは?」

「ひゃいぃ!?」


 顔を真っ赤にしたファルタの動揺など構わずに淡々と質問をぶつけるカミラの問いは、まるで尋問のよう。


「このままだとアンタも、あのジジィも死ぬ。グレアムの使徒に殺されるわよ」


 ベッドの脇で丁寧にたたまれている衣服を広げると、ほんのり花の香りがした。

 黒い襟なしのシャツも、赤黒いズボンも、元々カミラが着ていた衣服は、どうやら彼女が寝ている間にハリスやファルタが洗ってくれたらしい。おかげで染みついた汗の臭いが取れ、実に快適である。


「グレアムに? そんなはずないよ。たしかにこの村は王都から近いけど、ここにいるのはグレアムの信徒ばかりだし」

「村ぁ? アタシはイーストエンドにいたはずよ」

「イーストエンド?」

「ヘブリニッジの郊外にある貧困層の掃き溜め」


 着替え終えたカミラが、部屋の窓から外を見る。そこに広がっていたのは、緑に包まれるのどかな村の景色と、丘の遥か先に見える灰色の巨大な壁。

 その景色に、カミラは思わず絶句した。


「ウソ……なにこれ……」

「だから、ここは――」

「ちょっと! ここどこなの!? アイシスは……」


 バチンっと頭の奥でなにかはじけたように痛みが走る。


「痛いっ!」

「カミラ!?」


 急に頭を抑えてその場にしゃがみ込んだ彼女に、慌てた様子でファルタが駆け寄る素振りを見せたが、「来るな」と言わんばかりに伸びたカミラの手がその足を止める。


「アイ……シス……?」


 妙に温かく、優しい響き。

 とても懐かしい響き。


「誰なのよ……アイシスって……」


 しかし思い出そうとすればするほど思考は錯綜し、頭痛が増すばかりである。


「アイシスってまさか、グレアムの魔女の」

「魔女?」


 振り返りざまに問いかけたカミラの視線の向こう。ファルタの表情は青ざめ、どこか怯えているようにも見えた。


「知らないの? 魔女アイシスのこと」

「そんなの知るワケ……」


 少し考えたのち、「いや」と痛みが穏やかになりはじめた頭を抱えたまま、カミラが呟く。


「知ってる。グレアムを仕切ってる魔女アイシス。なんでアタシは、アイツのことを探してるの……?」

「もしかして、魔女の知り合い?」

「思い出せない。そんな気もするし、そうじゃない気もする。そんなことより、今すぐここを離れるわよ」


 ハッと我に返るなり、すぐさま歩み寄ってファルタの肩を掴むカミラ。


「ちょっ!」


 驚くファルタをよそに、彼女は続けた。


「さっきも言ったけど、ここにいたら殺される。今のうちに離れたほうがいいわ」

「なんでそんなことが分かるの。もしかして本当に魔女の――」

「そんなのどうだっていい。とにかくアタシを信じなさいよ!」


 声を荒げたカミラに驚きつつも、それでも首を横に振るファルタの頑固っぷりときたら。


「ボクたちには、ここを離れられない理由がある」

「……はぁ?」


 意味が分からず聞き返すカミラに対して、彼女は言った。


「だけどごめん、理由はカミラには言えない」

「アタシが魔女の仲間だから?」

「……」


 黙り込んだファルタの目は、言葉を探して左右へ泳ぐ。

 「グレアムの信徒」だと言っておきながら、魔女に対する畏怖が隠しきれていない。使徒たちの襲撃を受けている未来からカミラもなんとなく予想はしていたが、やはりこの村は【王都近くにあるグレアム信徒の村】という単純なものではないよう。


「じゃあ、なんで助けたの」

「道で倒れてる人がいたら、見捨てられるはずないだろう」

「それが敵だったとしても?」

「うぅ、それは……」


 仮にファルタたちがグレアムと敵対する存在、例えば【旧教アルマの信徒】であった場合、カミラに魔女の仲間である可能性を見た時点で、殺しにかかってもおかしくはない。

 しかしながら彼女は、道で倒れている見ず知らずの女を無償で助けるくらいの優しい少女だ。どんな立場の人間であったとして、暴力を振るうことも、決めつけで拒絶することも、良心が許さないのだろう。


「ったく、バカじゃないの」

「ぼっ、ボクはバカなんかじゃ――」

「安心して、アタシは敵じゃない。今は記憶とか色々混ざって頭がおかしくなりそうだけど、それだけは約束できる」


 カミラが右手でうなじを抑えるのは、幼少の頃からの治らないクセ。恥ずかしさでむず痒くなってくると、彼女はいつもこうして右手を自身のうなじに添える。


「あぁ、まぁ、信じられるワケないか」

「ゴメン」

「謝る必要ない。あとこれ、借りてくわよ」


 そう言ってカミラが手に取ったのは、部屋の壁にかけられてあった金属製のゴーグル。


「いいけど、そんなもの何に」

「このクソ迷惑な力を抑えるため。こんなので抑えられるか分かんないけどね」


 言いながら黒レンズのゴーグルを装着し、ファルタのほうを振り返ることなく部屋をあとにした。

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