18、私があなたを守り、あなたを滅ぼすわ

   

「夫人……大丈夫か?」

 

 ふわりと全身が浮く。

 イゼキウスは横抱きにディリートを抱えて部屋に入り、自分の膝の上に座らせるようにして、長椅子に座った。そして、扉に鋭い眼光を向けた。

 

「おい、お前らは部屋に入るなよ。レイクランド。扉を守っとけ」

 

 部屋の中についてきたカッセル伯とフレイヤは、困惑顔だ。


「どうして? イゼキウス様……? わたしの味方をしてくれないの?」

「こ、これ! フレイヤ!」

 

 狼狽える父が、フレイヤの肩を押さえている。 

 

「カッセル伯、俺の命令が聞こえないのか。お前の娘、うるさいぞ」

「使用人が教育を誤ったようで、申し訳なく……し、失礼いたします」

 

 オロオロと詫びた父はフレイヤを引きずるようにして部屋から出ていき、レイクランド卿が扉を閉める。部屋の中は、ただ二人だけの空間となった。


 

「ふう。……あ~~っ、あいつらはどうも、イラッとしていかん。殴りたくなってしまう」


 イゼキウスはそう言って、ディリートの顔を覗き込んだ。



「夫人、あんなのに囲まれていて胃が痛まないか?」

 ちゃっかり手が伸びて、ディリートの腹のあたりをさすっている。

「なあ、久しぶりだよな。俺に会いたかっただろ?」 

 そんなことを言いながら、すりすりと頬を寄せるのだ。

 

「……」 

(い、いけない……私ったら)

 ディリートはうつむき、ハンカチで口元を覆った。

 

「夫人も気分が悪かっただろう。俺も鳥肌が立ってしまったぞ」

 

 イゼキウスが、同情的に視線を向けてくるのが――楽しい。嬉しい。気持ちいい……?


「……っ」

 

(わ、笑ってしまいそう。私ったら。私ったら、すごく――)

 

 父も、フレイヤも。おそらく、義母も。

 その不幸が、滑稽な現状が――――嬉しいのだ。快感なのだ。ゾクゾクして、高揚して、はしゃいでしまいそうなのだ。

 

(……ああ! 神よ。私は、善人ではありません。私は、家族の不幸が気持ちいい。私は、私は……)


「カッセル伯め、あいつはどうも頼りにできない男だな」

 鳥肌をさすりながら椅子に座るイゼキウスは、気を取り直すようにディリートの頬にキスをした。


「なあ、何か言ってくれよ。俺は……会いたかった」


 イゼキウスの切々とした声には、一度目の人生では感じたことのない異性に対して媚びるような、甘えるような情愛の熱があった。


 触れられる熱に、ディリートは冷静さを取り戻した。

 

 イゼキウスの深緑の瞳が、以前には見せなかった執着めいた感情を浮かべている。

 その瞳と声は、ディリートの心を言いようのない動揺で乱した。


 殺意と歓喜が混ざり合って、せめぎ合うような。

 そんなぐちゃぐちゃとした感情が、心をザワザワとさせるのだ。


「俺は、夫人に会いたかったんだ。おかしいと思うだろ? あんな風に一度会っただけなのに……初めて会った気がしなくて……」


 眉根を寄せて口の端を歪めるイゼキウスは、抑えきれない情動に戸惑い、悩む青年といった風情だ。


「夫人もそうだろ。俺に運命を感じた……俺に惹かれた。あの夜の出会いは運命的だった。なあ、そうだよな」

 

 そうに違いない、という自信を口調ににじませて、イゼキウスはディリートの耳にくちびるを寄せた。


「俺と会いたかっただろ? 俺に会えて嬉しいだろ? わかってるんだぞ。……なあ、言ってくれ。声がききたい」


(この男――)

 

 ディリートの背にゾクゾクとした何かが走る。


(わかってるんだぞ、ですって。ああ、そういう男だったわ)


 そうだ、と心が叫ぶ。


(イゼキウス。あなた、私があなたに好意を寄せるように親切に振る舞ったのよね? あなた、私があなたに落ちて、尽くして、罪を全部かぶって死んでもいいと言ったのに、裏切ったのよね。最期まで演技していてくれれば、私……あなたに尽くせたって幸せな気持ちでスッキリ死んだのに。わざわざ、……わざわざ、私を絶望させたのよね)


 ディリートの胸に暗い感情があふれる。

  

(ああ……よかった。私は、ちゃんと憎んでいる)


 自分の魂の核みたいなものは、憎悪なのだ。殺意なのだ。

 甘ったるい恋心であってたまるものか。惨めな嫉妬心であってたまるものか。


 ディリートは自分に言い聞かせた。

 

(私は、このイゼキウスの敵。こんな男に、好意なんてない)


 ゆったりと呼吸を紡いで微笑み、指をイゼキウスのあごに滑らせると、イゼキウスの不遜で傲慢な目が嬉しそうに細くなる。

 ゆっくりとあごを指で撫でてやると、されるがままになっている。

 

 ……猛獣使いにでもなったような気分だった。


 

「イゼキウス。会いたかったわ」

 


 呼び捨てで名を呼ぶと、イゼキウスはパチパチと瞬きをして、数秒だけ迷う様子をみせた。


「お前、随分えらそうに……、まあいいか。……悪い気はしない」

 

「ふふ……」

  

 ディリートは手を伸ばして、彼の赤毛頭を抱えるようにして撫でた。


(怒らない。されるがまま)


「あなたは私の噂をどれほど知っていて? 神の声を聞く、という話を聞いたことが?」


 優しく赤毛を撫でると、イゼキウスは頷いた。


「ああ。そんな噂、あったな」


 ディリートはふわりと微笑んだ。そして、毒を流し込むようにイゼキウスの耳にささやいた。


「私は、あなたのことを知っているわ。あなたには、……水属性がない」


 

 ビクリとイゼキウスの肩が跳ねて、パッと顔があげられる。

 表情はこわばっていて、焦燥感と危機感を瞳にありありと浮かべていた。

 全身から警戒が感じられる。


 

 当然だ。

 ディリートが復讐のために生きているとすれば、このイゼキウスは、皇帝になるためだけに生きている。


 水属性がないのを、ずっと隠して生きてきたのだ。

 それがバレると、彼の生命は断たれるも同然なのだ。



 ディリートは微笑んだ。


 聖女ジャンヌ・ダーク――自分が再来だと噂される、実在したかどうかもわからない人物を連想させるように、余裕を浮かべて。

 自分は特別な存在なのだ、と感じさせるように……あのランヴェール公爵が自分に余裕を感じさせるときのように、ゆっくり、ゆっくり、言葉をつむいだ。



「あなたは、ナバーラ国と通じている。あなたは、病に乗じて自分以外の皇族を排除する。あなたは、皇帝になる」

「な……っ」


 

 イゼキウスの瞳が限界まで見開かれる。

 

 普通ではない、神性を感じさせる存在を見ている――そんな表情だ。


 ディリートは幼子を慈しむようにイゼキウスの頬にキスをして、耳元でささやいた。



(あなたのほしい言葉をあげる)

「今まで、大変だったのよね。私は知っているわ。……神は、あなたを助けよと言ったのよ」



(……神よ。あなたの家、神の家たる教会で、悪女があなたをかたっています……もし神が存在するなら、今すぐ天罰の稲妻でも落として私を裁くといいでしょう)


 ディリートは心の中で神に呼びかけた。

 しかし、稲妻がくだる気配はない。


(そうね、そうね。そうよね。いないのよね、神様なんて。……だから、世の中には悪がはびこる。善良な人を騙し、利用して、殺して――イゼキウスは皇帝になったじゃない)


 

 その心には、恨みがあった。

 世の中の理不尽に対する怒りがあった。


 

 恨みと怒りを燃料にした声は優しく、ゆっくりとつむがれた。

 

「水属性がなくてもあなたという人間の魅力は変わらないわ」


「私にあなたを助けさせてくれるわね? あなたの計画を、共有してくれるわね?」


 

 ――私がこの男の罪を、世に晒す。そして、処刑台に送ってあげる。



 

「私があなたを守るわ、イゼキウス」


 ……私があなたを滅ぼすわ、イゼキウス。



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