11、私のジャンヌ・ダーク


 ひどく取り乱してしまっていた気がする。

 正気を取り戻したディリートは、慌ててとりつくろった。


「……っ、申し訳ありません、私」


 ランヴェール公爵のひんやりとした声が、雨垂あまだれめいて耳朶じだをくすぐる。

「そなたは、こわかったのですね」


 子供をあやすような声だった。

 

 ――こわかった。


 ストンと心に落ちた言葉に、ディリートは糸が切れた傀儡くぐつ人形めいて首を縦にした。


 そうだ。そうだった。

 

(私は、こわかった) 

 自分の中から何かがあふれて、視界が透明な何かで歪む。

 ディリートのアメシストの瞳から溢れたのは、魔法でつくったものではない、本物の涙だった。

 

 ずっと。

 ずっと。

 

「こわかっ……」


 処刑されるのは、怖かった。

 殺されるのは、怖かった。

 

 自覚した瞬間に、次から次へと透明な涙の雫が止まらなくなる。


 ランヴェール公爵はそんな妻を無感動な眼差しで見つめながら、壊れ物を扱うように触れた。ディリートの背を撫でて、後頭部をつつむように手を添えて、ゆったりと髪の流れにそって頭を撫でた。手のひらはあたたかで、撫でられる感触は心地よい。


「そなたにこわい思いをさせてしまい、すみませんでした。襲撃を許すような警備の隙があったのは、反省せねばなりません」


 そうではない、と言いかけたディリートは、ランヴェール公爵がディリートの手にあったイゼキウスのハンカチに視線を落としたのを見てギクリとした。

 

 公爵の指先が、ハンカチの刺繍をなぞる。

 

 頭に王冠をいただき、背に盾を負う、翼を広げた鳥の刺繍。それは、爵位をたまわった皇族グレイスフォン公爵、イゼキウスの紋章だ。


 ランヴェール公爵は自然な所作でそのハンカチを取り上げて、自分のハンカチを取りだしてディリートの涙をぬぐい、取り上げたハンカチの代わりに持たせた。

 

 聖職者の紋章に似た紋章盾と、紋章盾を左右で支える狼が二頭。花と蔦の織り成す台座が優美。そんなランヴェールの紋章の刺繍部分にディリートの指をみちびいた公爵は、そよ風のようにささやいた。

 

「ランヴェールは、そなたに二度とこわい想いをさせません。このアシルがそなたを守りましょう。そなたの生命は未来永劫、この世の誰にもおびやかされることはありません」

 

 なんて、自信にあふれた声。

 なんて、この男らしくない、温かみのある声。

 この公爵は、こんな風に話すこともできるのか。

 

 ディリートは驚きつつ、自分が不思議なほど安心していくのを感じた。


「なぜ襲撃を知っていたのか、気になることもありますが、そなたのおかげで、大きな被害も出ておりません。後始末はそなたの大好きなロラン卿がそなたへの崇高なるミンネを胸に責任を負って取り仕切るというので、今宵は休みましょう」

 

 横抱きにしてフワリと抱き上げられると、ロラン卿が「えっ」と声をあげるのが聞こえた。


「そなたのミンネを示すがよい」

 公爵が無機質な声を降らせる。


「は……」


 ロラン卿が涙目になっている。


 

(公爵様の中で、私とロラン卿の関係はどう認識されているのかしら) 

 

 ディリートはぼんやりとそんなことを思いながら、ふわふわと目を閉じた。ゆったりと運ばれる振動の中、心地よい疲労が忍び寄ってくる。

 眠りのふちに意識をゆだねると、夢うつつの狭間にかつてのイゼキウスの声がよみがえる気がした。



『どんな苦しい夜も明けるものだ。だが、死者には夜も昼もない』


 

 夢の中のイゼキウスは、黒の駒を手に、チェス盤の前で追い詰められていた。

 数手で詰む。

 そんな局面なのだと語り、苦しそうに口元を歪めた。

 俺はずっとこんな人生だったんだと告げて、盤外に手を伸ばした。

 

『ルール通りにやっていても勝てないんだ』

 

 そう呟いて、盤外で手に入れた鮮やかな緑色のクイーンを黒キングの助っ人として盤上に載せた。

 

 


 * * *

 


「イゼキウス……」 

 

 自分が呼びかける声が、ディリートの意識を夢から現実に戻した。

 朝を迎えたとき、枕もとにはあの愛らしい仔狼に似た精霊獣が丸くなっていた。

 

 吸い込まれそうな透明感を魅せるトパーズの瞳は、じっとディリートを見つめていた。

 目があって、パチリと瞬いて、「きゅぅん」と鳴く姿は愛らしかった。


 窓から差し込む日差しは明るい。小鳥のさえずりが爽やかだ。平穏の象徴みたいな朝だ。

 

 昨夜の出来事が現実ではなく、悪夢だったように思えてくる。けれど、現実だ。


「イゼキウスのハンカチを公爵様に取られてしまったわ。あれはどう解釈されるかしら。落ちていたのを拾ったと言い訳しても、信じてもらえないかしら?」

 

 

 ――夜が明けて、朝が来た。朝日あふれる明るい現在の世界にいる自分は、生者なのだ。



「奥様、昨夜は大変でしたね。覚えていらっしゃいますか」

 呼び鈴を鳴らしてエマを呼べば、他の侍女と一緒にあらわれたエマは興奮気味に身支度を手伝ってくれた。

 

「旦那様がこう……軽々と! お姫様抱っこです、お運びになられて。ねえ、皆様?」

「ええ、ええ。それはもう大切そうに」

  

 エマは、公爵家の他の侍女たちと仲良くなったらしい。エマがディリートと気安く雑談を楽しむ様子に慣れた様子で、侍女たちは少しずつ会話に交ざるようになっていた。

 前回の人生では使用人とあまり良好な関係ではなかった。ディリートは「よいことだわ」と目を細めつつ、会話内容には恥じらいをおぼえた。


「それに、第一皇子殿下も。奥様のことを『私のジャンヌ・ダーク』と仰ったらしくて」

「ほら、戦記に出てくる、実在したかどうか定かではない乙女です。神の声をきき、常人にはわからない未来を知る聖なる乙女ジャンヌ・ダークです。国民的人気の高い聖女ジャンヌです。奥様はまるでかの聖女のようだ、と第一皇子殿下が仰って。他の者にも、第一皇子にはジャンヌ・ダークがついている、と噂されていますよ」


 思いがけない言葉に、ディリートの思考がストップした。


(それは、よいことかしら? 立ち回りやすくなる? ……危険かしら?)

 

 自分はもちろん、神の声をきいていないし、聖なる乙女でもない。

 しかし、常人にはわからない未来は一部だけ知っているのだ。


「……くるる」


 ふぁさ、と尻尾を揺らして、精霊獣が身を寄せてくる。頬をすりすりとディリートの手に擦りつけて、「自分を構って欲しい、撫でてほしい」と甘えるようだ。

「あら、甘えてくださるの?」

 この精霊獣は色合いからして、水属性とは相性が悪い火属性のように思われた。

 しかし、懐いてくれているようだ。

 

「さらさらで、心地よい毛並みね」

 

 耳の付け根をくすぐるようにしてから、首元へと指を滑らせる。

 ふかふかの毛並みを楽しむように手のひらで背を撫でて、モフモフの尻尾をやさしく撫でると、精霊獣は「撫でられるのは気持ちいいのだ」というように尻尾をぽふぽふと揺らした。

 

「……」

 侍女がその様子におしゃべりの口を閉じて、なぜだか頬を染めている。

「私語がすぎたようで、失礼いたしました」

 

「あら、いいのよ。好きにお話してちょうだい」

「いえ」

  

 精霊獣はしばらく撫でられてから、満足した様子で一足先に部屋を出て行った。

 

 そして身支度を終え、部屋を出たディリートは、固まった。


「……これは、なにかしら」


 部屋の前の通路には、白いハンカチが点々と一定間隔をあけて落ちていた。何枚も、何枚も。

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