10、あなたは夫の敵なのでしょう?
「カッセル伯が、
イゼキウスが繰り返す声に、ディリートは頷いた。
「そうではなくて? 私は無知だから知らなかったけど、誰でも知っているような毒らしいのよ。有名な毒を初夜に旦那様の目の前で出せと指示するだなんて。そんなの、初夜が台無しになるに決まっているじゃない」
「誰でも知っているような毒? カッセル伯はそんなヘマは……わざとじゃない限り……」
父と
ディリートはそう確信しつつ、言葉を連ねた。
「私も出てきたけど、夫もおそらく第一皇子殿下のところに行ったでしょうね。親しい殿下相手に、今頃は友好の意思が欠如している我が家への愚痴でもこぼしているかもしれないわ」
遠くでブワリと炎の明かりがあがったのは、そのときだった。
「すまない。俺は用事があって、ここを離れないと」
イゼキウスはハッと自分の置かれた状況を思い出した様子で言って、ディリートの肩に手をかけて身体を離した。
「私が邪魔をしてしまったならごめんなさい?」
ディリートは彼を発見したきっかけの魔法の火花を思い出した。
(別方向にも着火して注意を引き、人手を割かせようとしていたのかしら)
真意はわからないが、イゼキウスは首を横に振った。
「夫人、……また会おう」
森色の瞳には、熱が宿っている。
運命的に出会った魅力的な異性に対する興味、関心。
寄せられた体温におぼえたらしき情欲。
疑念。葛藤。困惑。恍惚。
それらの感情の熱は演技ではなく、本気の温度であるようにディリートには感じられた。
(ああ、公爵様と違って、わかりやすい人)
ランヴェール公爵と接するときに感じるような、良心の
この男は、自分にとって敵なのだ。
ディリートはイゼキウスから頂いたハンカチで涙をぬぐい、頷いた。
「ええ。どなたかはわからないけど、お話を聞いてくださってありがとう。あなたは、……
「よ、
年下のディリートが姉のような口ぶりで笑むと、イゼキウスは一瞬ぽかんとした。
この男にはマザコンの気があるのだとディリートは思っている。ゆえに、「フレイヤを皇妃にする」と言われた事実が未だに信じられないのだが。
(私には5年ほど先を生きた経験があるのだもの。意識して振る舞えば、それらしく感じさせられるのではなくて?)
「俺は夫人より年上……――」
「ご主君。移動しなければなりません」
木陰から配下が声をかけている。
イゼキウスは焦燥の色を濃く表情に浮かべて、ディリートの手を取った。
手の甲にキスを落とし、ささやく声は必死だった。
「俺がここにいたことは、どうか内密に。……頼む、夫人」
ディリートはゾクゾクと背筋を走る得体の知れない快感を表情に出さぬようにこらえて、
「私が思うに……あなたは、夫の敵なのでしょう? ご安心なさって。私はあなたの味方ですわ。元々、私と夫は敵対関係にある派閥の家柄だったのだけど、やはり気が合わないようで。私、夫のことが好きになれそうにありませんの」
「そうか。夫人をこのままさらって逃げるのも悪くないが」
「ロマンチックね。素敵な夢だわ。現実にかなえるのが難しい夢って、美しいわね。世の中って、そんな夢がたくさんあるわね」
去っていく青年が何かを呟く。
風にさらわれて、聞き取れない。
ディリートはそれを残念に思いながら、イゼキウスのハンカチを手にしたまま、自分も移動を再開した。
* * *
建物から人が出てくる。水を運んでいる。
金属同士が衝突する高い音や、怒号が非日常の気配を濃くしている。
「エミュール皇子殿下!」
警備が集まる中をディリートが近づくと、周囲がぎょっとした顔でディリートを見た。
「なっ!? 奥様……!? な、なんてお姿」
「お部屋にいらっしゃるはずでは? ……コ、コートをお持ちしろ!」
「警備は何をしているんだ」
襲撃犯とおぼしき数人が、炎を躍らせている。まだ生きている。
「炎の使い手は操られているだけですわ。殺してはなりません」
ディリートは声を響かせた。
エミュール皇子が水の魔法で被害を抑えようとしていて、周囲からは「ゼクセンの水魔法使いを呼べ」とか「すでに呼んでいる」とか「断られた」とか怒号が飛び交うのが聞こえる。
――声を放つ中にイゼキウスの間者がいる。虚偽の報告で、二派に亀裂を作ろうとしている。
「ゼクセン派の水魔法使いなら、ここにおります」
ディリートはエミュール皇子の近くに膝をつき、水の魔法を練り上げた。
「殿下、ご無事でよかったですわ……」
「夫人はどうして来たんだ? 普通、こういうときは部屋で震えあがっているだろう。変わっているというのにも限度があるぞ」
エミュール皇子の声は冷静だった。
「水の魔法の使い手は私以外にいなかったから、助かるが」
炎から守るように水の膜が広がり、自然の樹木や花、建物を防護する。
それを見て、エミュール皇子は「見事だな」と呟いた。そして、眉を寄せた。
「顔色が悪いな、夫人」
「……」
指摘された通り、ディリートは自身の変調に気付いていた。
薄着で駆けてきたからだろうか? 魔力を使い過ぎただろうか?
自分の意志に反して全身がぶるぶると震えて、止まらない。
指先が冷たくて、脚が萎えている。
ふ、と視界が赤一色に染まる。
「寒いのか?」
問いかけの声は、誰の声だろう。わからない。耳に何かが詰まったように、世界の音が遠くなる。聞こえなくなっていく。
ただ――パチパチと爆ぜて燃える火の音がする。炎が見える。熱を感じる。
「あ……」
――――熱い。
ゾクリと全身が総毛立つ。
「あ……あ……」
火だ。
……燃えている。
ドクン、ドクンと心臓が胸のうちで暴れている。
全身がガクガクと震えて、過去がよみがえる。生々しく、灼熱にもだえ苦しんだ記憶が思い出される。フラッシュバックする。
燃える。
燃やされる。
苦しい。痛い。怖い。熱い。
――死ぬ。死んでしまう。
「――い、いや。いや、いや……」
誰かが何かを言っている。
誰だろう。わからない。
ディリートは取り乱し、水の魔力を暴走させかけた。
「私を殺さないで。熱い、熱い、熱い……!! 私は、無実です。私をたすけて。誰か、だれか……!」
「ディリート」
絶叫するディリートは、誰かに肩をつかまれ、全身が抱き寄せられるのを感じた。
視界が誰かの体で塞がって、暗くなる。炎が視えなくなる。すっぽりと覆われるように、誰かの体温と鼓動を感じる。
優しい花の香りが、鼻腔をくすぐった。
――抱きしめられている?
瞬きを繰り返すうちに、呼吸が落ち着いてくる。
……自分を抱きしめているのは、ランヴェール公爵だ。
名前を呼ばれている。繰り返し、繰り返し。
ディリートはそんな現実に気が付いた。
「あ……」
いつもと変わらない、人形のように無機質で整った顔がディリートの顔を覗き込んでくる。
頬には煤のような汚れが付着している。
じっと見つめる瞳は、澄んでいた。
熱を寄せ付けないような冷たい透明感があって、そこに自分が映っている。
「公爵、様」
この夫は、こんなときでも落ち着き払っている。
何を考えているか、わからない。何も異常事態など起きていないかのよう。
ディリートは不思議とそんな夫に安堵する自分を自覚した。
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