3、お姉様は、フレイヤの、影
「ランヴェール公爵家は、第一皇子派だ。ゼクセン公爵は対立する二派が第一皇子派の弱点になるのではと危ぶまれた」
父の話が続いている。
「そこで、派閥同士の溝を埋め、友好路線に
父の言葉をまとめると、「我が家の娘どちらかが敵対派閥の名家ランヴェール公爵家に嫁ぐ」というのだが。
「あなた。格上の名家なのはよいとしても、敵対派閥なんて。酷い待遇を受けるのではないかしら? ランヴェール公爵は特に、女嫌いで冷酷な人だと噂されてるじゃありませんか。感情がないとか、怖い人だとか聞いていますわ。フレイヤは嫁がせませんよ」
「お父様! わたし、お慕いしている方がいるの! 政略結婚はいやです! 敵対派閥の家に嫁ぐなんて、人身御供みたい。絶対不幸になるのが決まってます! いやですっ!」
義母と義妹が反発の声をあげ、父は予想していたようにディリートを見る。
(懐かしい。こんな感じだったわ。ところでこの時、前回の私は余裕がなくて気に留めていなかったけど、フレイヤがお慕いしている方というのはイゼキウスなのかしら?)
ディリートは一度体験した時間が再び繰り返されているのを実感しながら、父を真似るように気弱そうな微笑みを浮かべた。
「お任せください、お父様。お家のため、派閥のため、このディリートが嫁に参ります」
こうしてディリートは二度目の人生でもランヴェール公爵に嫁ぐことになったのだった。
* * *
「お姉様!」
食事の後で部屋に戻ろうとするディリートを追いかけて声をかけてくるのは、フレイヤだ。
「お家のために敵の怖い公爵のお家に嫁ぐなんて……わたしのために」
何かに酔いしれたような声だ。恍惚としている。この義理の妹の脳内では、ディリートという姉は自分のためにその身を犠牲にする優しくも悲劇的な姉になっているのだろう。
(フレイヤ。別にあなたのためではなくってよ)
一度目の人生のこの頃、家族に反抗することのなかった自分が、もし人が変わったように強気になってそう言ってやったら、この義妹はどんな顔をするだろう。
「人質は酷い目に遭いますよ。絶対。絶対です! でも、お姉様なら平気ね! だってお姉様は、フレイヤの代わりに酷い目にあうために生まれたのですもの」
義妹の無垢な声が、愛らしく響く。
自分の考えが絶対だと信じて疑わない笑顔は、甘ったるい砂糖菓子のようだった。
「お母様も仰いました。お姉様はフレイヤのために不幸になるの。お姉様が不幸になるほど、フレイヤが幸せになれるの」
フレイヤのアクアマリンの瞳がキラキラと煌めいている。
ディリートは知っている。
フレイヤは、本気だ。幼い頃から父と母にそう教え込まれたのだ。
「お姉様は、フレイヤの、影」
フレイヤの甘ったるい声が、うっとりと告げた。
過去から現在まで何度も唱えてきた、彼女が大好きな文言を。
「影が暗いのは、なぜ? 太陽が眩く輝いているから! お姉様が不幸になるのは、なぜ? フレイヤを幸せにするため! あぁっ、なんて麗しい姉妹愛かしら!」
演劇の舞台で演技する主役といった風情で、フレイヤは両手を胸の前で組んだ。お祈りでもするようなポーズだ。
義妹は、カッセル家の主役だ。
義姉ディリートは、引き立て役だ。
貴族の家において当主夫妻は絶対だ。
子供にとって両親と家族は世界の全てといってもいい。
家族がディリートにそのようであれと言い続けたから、かつてのディリートは逆らえなかった。うつむいて頭を垂れ、「その通りです、私はフレイヤの影です」と惨めったらしく頷いていたのだ。
――憎い。
ディリートの手が震える。憎しみがこみあげる。
あなたは主役ではないわ、私はあなたの引き立て役ではないわと言ってやりたい。
この可愛らしい義妹の頬を、衝動に任せて引っ叩いてやりたい。
――でも、今そんなことをしてどうなるというの。
(義妹が泣いて、私が叱られて、罰を受けて反省させられて終わり。馬鹿らしいのではなくて?)
この先の人生を5年ほど体験したディリートの思考が、感性が、野蛮な衝動と戦う。
(冷静になるのよ、ディリート。感情に任せて暴力を振るっても、状況が私に味方しない……)
「フレイヤ。私はもうじき、この家を離れます」
「お姉様……っ、寂しくなりますわ」
「私は離れていても、いつもあなたのことを思っていますわ。あなたのことが好きだから」
――あなたのことが、嫌いだから。
――ねえ、フレイヤ。
――私、あなたを不幸にしてあげたいの。
薄紅に色づく形のよいくちびるを三日月のように笑ませ、長いまつ毛に彩られた紫水晶の瞳で義妹をひたりと見据えて、ディリートは美しくやわらかに微笑んだ。
絶望の死を経験し、憎悪を自覚するディリートの笑みは、毒花のように妖しく美しい。
何不自由なく育った令嬢が持ち得ないたぐいの仄暗い情念に彩られた美貌は、凄絶な色香を放っていた。
「お、姉様……?」
フレイヤが目を見開き、冷水を浴びて夢から覚めたような表情になる。
何かがおかしい。
どこか変わった。
フレイヤの目にそんな疑念がのぼるのが見えて、ディリートはスッと目を伏せた。
「……」
気弱で従順な姉の顔をすると、安堵の気配が感じられる。
「……それでは、私は部屋で休みます。またお話ししましょう、フレイヤ……」
――しとやかに告げる声と裏腹に、胸のうちは穏やかではない。
その心には狂おしいほどの憎しみが渦巻いている。ディリートはそんな自分に困惑しつつも、悪くないと思っている。
――狂ってる。
私、もしかしたら狂ってるのかもしれないわ。
これは全部、狂気のみせる幻夢で、本当は炎に焼かれている最中なのかも。
けれど、頬をつねると痛みがあって、お腹がすいて、眠気が訪れて……眠ると朝が訪れて。
これは現実なのだというように、日々は過ぎていくのだった。
* * *
伯爵家を出発するとき、父ブラントはディリートを抱きしめた。
「我が娘、ディリートよ」
体温があたたかい。
――懐かしい。
父の愛を密かに切望していた一度目の人生では、別れに際して父が優しくしてくれたことに胸を熱くしたものだった。
「子宝に恵まれやすくなる薬だ。初夜に服用するように」
「ありがとうございます、お父様」
ディリートの胸に疑念が湧いた。
(この薬は、毒ではないかしら?)
一度目の人生で父の愛に飢えていたディリートは、父がくれた薬をありがたく飲もうとした。
しかし、ランヴェール公爵に取り上げられてしまったのだ。せっかく父がくれたのに、と、ディリートは公爵を恨んだのだが。
(敵対派閥から友好の
それを狙っての「薬」だったのか、と思うと、父の抱擁がおぞましく感じられるのだった。
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