僕は婚約破棄なんてしたくない

亜逸

僕は婚約破棄なんてしたくない

「ステラ……両家の話し合いの結果、僕と君の婚約が破棄されることが決定された」


 エルランド公爵家の次男ニールは、婚約者であり、ヘルン公爵家の長女でもあるステラに向かって粛々と婚約破棄を言い渡す。

 

「謹んで、お受けいたします」


 普通ならば取り乱してもおかしくない場面なのに、ステラはニール以上に粛々と婚約破棄を受け入れた。


 二人が今いる場所は、ヘルン公爵家の屋敷。

 その二階にあるステラの私室だった。


 公爵令嬢とは思えないほどに質素な部屋が、耳が痛くなるような静寂で満たされる。

 やがて、耐えかねたように、ニールは先程とは相反する言葉を吐き出した。


「僕は、婚約破棄なんてしたくない」


 言葉を選んでいるのか、短くない沈黙を挟んでからステラは淡々と答える。


「ニール様のお気持ちは嬉しいですが……いけません。わたくしとニール様の婚約が破棄されるのは当然の帰結。それはニール様もわかっていることでしょう?」


 一から十までステラの言うとおりだったので、口ごもってしまう。

 婚約破棄も、ステラがそれを当たり前のように受けていることも、何もかもを否定してやりたいのに反論の言葉が一つも浮かんでこない。

 悔しさが、歯噛みという形で表出ひょうしゅつしてしまう。


「……いけませんね、わたくしは。事ここに至ってなお、このような言い方しかできないなんて……」

「子供の頃から君はそうだったからね。今さら気にする必要なんてないさ。それに、以前にも言ったことだけど、僕は君のそういうところにも惚れているから、今さら改める必要もない」


 物言いが直截ちょくさいすぎたせいか、ステラは照れたようにこちらから視線を逸らした。


「ニール様はもう少し、その直接的すぎる好意のぶつけ方を改めた方がいいと思います」


 淡々とした物言いとは裏腹に、少しだけ頬を赤くしているステラに、ニールは頬を綻ばせる。

 しかし、だからこそ虚しさが胸に去来してしまい、再び口ごもってしまう。

 どうやら虚しさを覚えたのは自分だけではないらしく、ステラも口ごもってしまい……再び、二人の肩に静寂がのしかかる。


 あるいは最後になるかもしれない二人きりの時間を、ただ無為に浪費したくなかったニールは、静寂の重さに抗いながらも訊ねる。


「ステラ。何か僕にしてほしいことはあるかい?」


 ステラは顎に手を当てて考え込み、ゆっくりとかぶりを振る。


「お気持ちは嬉しいですが、特には」

「どんな些細なことでもいい。なんでもいいから、僕は君のために何かやりたいんだ」


 そんなニールの熱意に負けたステラは、諦めたように答える。


「ならば、わたくしのために花を摘んできていただいてもよろしいでしょうか?」

「それってもしかして、あの花のことかい?」


 ステラはコクリと首肯する。


〝あの花〟とは、この屋敷の裏手の山に自生している、五枚の花弁と、青みががかった紫の色合いが特徴的な、ステラの好きな花だった。

 それくらいならお安いご用だと思ったニールが「わかった」と返したその時、入口の扉を控えめにノックする音が部屋に響く。


 ニールはステラに目配せをし、頷き返すの確認してから扉に向かって言う。


「どうぞ」

「失礼します」


 一言断りを入れてから部屋に入ってきたのは、ヘルン公爵家のメイドだった。


「ニール様、こちらにおいででしたか。エルランド公爵がお呼びですので、すぐに下に――」

「すまない」


 それ以上は聞く耳を持たないと言わんばかりに、ニールはメイドの言葉を遮る。


「僕は今からステラのために花を摘みに行く。父にはそう伝えてくれ」


 メイドは一瞬痛ましげな表情を見せるも、すぐに取り澄まして返事をかえす。


「かしこまりました。ですが、〝お時間〟までには必ず戻られますようお願いします」

「わかっている」


 そのやり取りを最後に、メイドはうやうやしく一礼してから部屋を去っていった。


「さあ、行こうか」


 言いながら、ステラに向かって手を差し伸べる。

 ステラは躊躇いながらもこちらの手を取ろうとするも……かぶりを振り、持ち上げかけていた手を下ろす。

 代わりに、微かな笑みを浮かべてこう返した。


「ええ。いきましょう」




 ◇ ◇ ◇




 子供の頃、ニールがヘルン公爵家の屋敷を訪れた際は、ステラと一緒に裏山をよく駆けずり回って遊んでいた。

 その度に貴族のやることではないと親たちに怒られたものだが、それもまた二人にとっては良い思い出だった。


 さすがに年齢が二桁になる頃には、駆けずり回るような真似はしなくなったが、ステラが好きな花が自生していることもあって、今でもたまに二人で裏山に足を踏み入れることがあった。

 だから、花がどのあたりに自生しているのかも知っているため、たいして時間も手間もかからないだろうと高をくくっていたら、


「これは……」


 花が自生しているはずの一帯が土砂で埋まっていたことに、ニールは絶句する。


「十日ほど前に降った大雨で、土砂が崩れてしまったようですね」


 冷静に原因を分析しているように見えて、その実、ステラの声音はわずかに震えていた。

 なぜなら、二人の知る限りでは、くだんの花がこの一帯以外で咲いているところを見たことがなかったから。


 このまま呆然としていても仕方ないので、駄目元で土砂を免れた花を探してみるも、一輪たりとも見つけることができなかった。

 自分たちの知らない場所に自生している可能性に賭けて、山中やまじゅうをくまなく探したいところだが、メイドにも言われたとおり〝お時間〟までには必ず戻らなければならないため、それもできない。


「手詰まり……ですね」


 口惜しげに、ステラは呟く。


「くそ!」


 ニールは貴族らしからぬ悪態をつき、天を仰ごうとしたその時だった。


「! あれは!」


 崖を思わせるほどに勾配こうばいが急な山の斜面に、青みがかった紫色の花が生えているのを見つけ、目を見開く。


「ステラ! アレで間違いないな!」


 声を弾ませるニールとは対照的に、ステラは難しい顔をしながらも首肯を返す。


「間違いありませんが……さすがに、アレを取りに行くのは危険すぎます」


 彼女の言うとおり、花が生えている場所は危険の一語に尽きるものだった。

 勾配が急なことは言わずもがな、先の土砂崩れの影響で足元が脆くなっている可能性が高い。

 いくらステラの頼みといえども、たかが花一輪のために負うにはあまりにも危険リスクが高すぎる。


 、だった。


 だからこそニールは、微塵の躊躇もなく斜面を登り始める。

 これにはさしものステラも驚いたようで、悲鳴じみた声で制止を求めた。


「ニ、ニール様!? いけません! お戻りください!」


 いくら彼女の頼みといえども、こればかりは聞けなかった。

 たかが花一輪を摘んでくる――それこそがニールにとって、ステラのためにできる唯一のことだったから。


「確かにわたくしは、あの花を摘んできてほしいと言いました! けれど、ニール様を危険な目に遭わせてまでとは言ってな――ああっ!!」


 斜面を登っていたニールの足元が崩れ、滑落しかける様を見て、ステラは今度こそ悲鳴を上げる。

 ニールとてステラを不安がらせてしまうのは不本意が、それ以上に、彼女のために花一輪すら摘んできてやれないことの方がはるかに不本意だった。


 だからニールは、這ってでも花を摘みに行く。

 着衣が汚れるのも厭わずに、急勾配の斜面を登っていく。


 そして――


「よし!」


 花が生えている場所に辿り着いたニールは一輪だけ摘み取ると、登る時以上に慎重に、時間をかけて斜面を下りていく。

 無事にステラのもとに戻ると、彼女に向かって摘んできた花を見せつけた。


「ほら、摘んできたよ」

「『ほら』じゃありません。本当に心配したんですからね!」

「すまないすまない」


 と、笑っていたニールだったが、


「もしニール様に何かあっても、今のわたくしには何もできないんですから、ああいった無茶は本当にやめてください……」


 その言葉を聞いた途端、申し訳ない気持ちが沸々と湧いてくる。

 さすがに心配をかけすぎたと反省したニールは、ステラに向かって頭を下げ、もう一度「すまない」と謝った。

 誠意が伝わったのか、ステラは「わかってくれたのならいいんです」と許してくれた。


「それより、ニール様」

「わかってる。花も手に入れたことだし急いで戻ろう」


 言葉どおり、ステラとともに急いで山を下りたニールは、屋敷に戻り次第、汚れてしまった服を着替え、危険を顧みずに摘んできた花を手にすぐさま屋敷を後にする。


 しばらく歩き、向かった先は屋敷からやや離れたところにある教会。

 そこではすでにニールの両親であるエルランド夫妻と、ステラの両親であるヘルン夫妻を含めた、大勢の人間が集まっていた。

 調

 

 う。

 この教会では、のための祭儀ミサが行われようとしていた。


 ニールを含めた参祷さんとう者が全員集まったところで、司祭がこうを焚いて炉儀を行い、祈祷文を読み上げる。

 それらが終わったところで献花の儀に入り、参祷者たちは侍者じしゃから受け取った花を、棺に眠る死者に手向たむけていく。


 ニールの番になったところで、あらかじめ花を用意している旨を侍者に伝え、祭壇に鎮座にする棺のもとへと向かう。


 




 ◇ ◇ ◇




 ステラ・ヘルンは、十歳になってすぐに心臓の病に冒された。

 ニールも病については当然知っており、彼女がいつ死ぬかもわからない身であることを承知した上で根気よく両親を説得し、先日、婚約までこぎ着けた。


 しかし、婚約を結んでから半年が経った頃、ステラの病は悪化し始め……今より二日前に帰らぬ人となった。

 

 覚悟はしていたつもりだった。が、どうやらそれは上辺うわべだけの話だったらしく、ニールはステラの訃報を聞いてなお、彼女の死を受け入れることができなかった。

 ヘルン公爵家の屋敷に向かえば、きっとステラが笑顔で迎えてくれる――心の奥底ではそんなことはあり得ないとわかっていながらも、わらよりも脆い希望に縋りつき、ステラの訃報を聞いた誰よりも先んじて屋敷を訪れた。


 そこで、彼女の亡骸を目の当たりにする前に出会ってしまったのだ。

 ステラ・ヘルンと。


 いったいなぜ、彼女が幽霊となってしまったのかはわからない。

 あるいは、死んだ人間は誰もしもがステラのように幽霊になるのかもしれない。


 はっきりとわかっていることは、幽霊となったステラが見えているのがニールだけであること。

 幽霊となってなお、ステラがステラのままであること。

 それだけだった。


 ステラが幽霊になった。

 だからこそニールはステラが死んだことを実感し、だからこそニールはステラが死んだことを余計に受け入れることができなかった。


 彼女の亡骸とは別に、彼女の幽霊がいる。

 ゆえに、間違いなくステラは死んだのだと頭では理解しているのに、幽霊となったステラがあまりにもいつものステラだったものだから、心は一向に彼女の死を理解しようとしてくれない。理解することを拒んでさえいた。

 そのせいか、彼女の亡骸に花を手向けた時も、彼女の亡骸を埋葬した時も、ニールの頬には一滴の涙も伝うことはなかった。


「たぶん皆は、僕のことを薄情な人間だと思っているだろうね」


 その夜、両親とともにヘルン公爵家の屋敷の厄介になることになったニールは、ステラの私室のベッドに腰掛けたまま、隣に座っている――というか、座っているように見える形で浮いている――部屋の主に話しかける。


「ご安心ください。わたくしの部屋で寝るとニール様が仰った時点で、気が触れたと思う方はいても、薄情だと思う方はいらっしゃらないでしょうから」

「それならまだ、薄情な人間だと思われていた方がマシだと思うけど」

「そうでしょうか?」


 事ここに至ってなおいつもどおりすぎるステラに、ニールは苦笑する。

 ステラも、「苦」の代わりに頭に「微」がつく笑みを浮かべていた。


 その笑みが不意に消える。

 それだけで全てを察したニールは、彼女が口を開くよりも先に拒絶の言葉を吐いた。


「聞きたくない」

「いいえ、聞いてもらいます。聞いてもらわなければ、ニール様はもちろん、わたくしも後悔することになるのが目に見えていますので」


 そんな風に断言されてしまってはワガママなど言えるはずもなく、ニールは口ごもってしまう。


「埋葬式が終わったせいかはわかりませんが、わたくしはもう長くはありません。おそらく現世に留まれるのも、今宵が限度でしょう」

「どうして……そんなことがわかるんだい?」


 訊ねる声音は、どうしても絞り出すような調子になってしまう。


「どうしてと問われたらお答えのしようがないのですが、わかるのです。理屈ではなく魂で」


 今や魂そのものとなった彼女を相手に、生身の自分が反論できるわけもないので、ニールはまたしても口ごもってしまう。


「ここからが話の本題になるのですが……ニール様。どうかわたくしのことは忘れて、他の女性と婚約して――」

「いやだ」


 こればかりは本当に聞き入れるわけにはいかなかったので、皆まで言われるまでにきっぱりと拒絶した。


「僕がこの世で……いや、あの世も含めて愛しているのは君一人だけだ。たとえそれが君の一生の頼みであっても、君以外の女性を愛することなんてできない」

「し、しかし、それではニール様が幸せになれな――」

「君のことを忘れなければ得られない幸せなんて、僕はほしくない!」


 つい怒鳴ってしまう。

 これには、さしものステラも口ごもってしまう。


「すまない。だけど、わかってくれ。僕が生涯愛する女性は、君一人だけであることを」


 直截ちょくさいすぎる言葉を前に、ステラは照れたように視線を逸らす。


「……わかりました。ニール様が心変わりすることを祈ることにします。それに……そう言ってもらえて嬉しくないかと言えば、嘘になりますし……」


 後半の言葉は、いやに小さな声音だった。

 その言葉を聞けただけでも充分だと思ったニールは、冗談めかしに言う。


「幸いなことに僕は長男じゃないからね。家のことは兄上に押しつけて、心置きなく独り身を貫くことができる」

「そのお言葉、エルランド夫妻の前では絶対に言ってはダメですよ」


 呆れたようにたしなめてくるステラに、ニールはカラカラと笑う。


 それから二人は、別れを惜しむように話を続けた。

 子供の頃の思い出話に、最近の出来事、これからニールがやろうとしていることなど、心ゆくまで話し続けた。


 けれど、裏山で無茶をしたり、埋葬式に参列したりと、身も心も疲れ切った状態で夜を明かすのは無理があったらしく、ステラと楽しく話をしている内に、いつの間にか、深い眠りについてしまった。



 翌朝――



 ステラのベッドで横たわっていたニールは、カーテンの隙間から差し込む朝日に顔をしかめながらも目を覚ます。


「すまない、ステラ。つい眠ってしまった」


 そう言って、一欠伸したところで気づく。

 ステラの返事が、かえってこないことに。

 ステラの姿が、どこにも見当たらないことに。


 ステラは言っていた。

 現世に留まれるのは、今宵が限度だろうと。

 その今宵は、もうとうに過ぎ去っている。


 最早答えは出ているも同然だが、やはりというべきか、現状を受け入れることを拒んだ心が、ニールの口から愛する女性の名前を叫ばせた。


「ステラッ!!」


 着の身着のまま部屋を飛び出し、いないとわかりきっている彼女の姿を捜す。


「ステラッ!! いるんだろうッ!? 僕をからかっているだけなんだろうッ!?」


 自分の両親に、彼女の両親に、使用人たちに奇異の視線を向けられようが、お構いなしステラを捜し続ける。


「出てきてくれッ!! 頼むから出てきてくれッ!! ステラッ!!」


 屋敷中を捜し回っても、当然ステラの姿は見当たらない。

 その現実すらも受け入れることを拒んだニールは、もしかしたら墓の方にいるのかもしれないと思い、裸足のまま屋敷を飛ばして墓地へ向かう。

 ステラの墓の前に辿り着くも、やはり、当然のように、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。

 目に映るのは、彼女の名前が刻まれた十字墓だけだった。


「あ……ぁあ……」


 愛する女性の死という現実を、いよいよ受け入れざるをえなくなった心が、ポッキリと折れてしまう。

 立っていることすらできなくなり、その場でくずおれてしまう。

 彼女が死んでから一滴たりとも零れなかった瞳から、澎湃ほうはいと涙が溢れてくる。


 その日ニールは、声も涙も枯れるまで、愛する女性の名前を泣き叫んだ……。




 ◇ ◇ ◇




 一ヶ月後。

 最愛の女性をうしなった息子の言葉に、エルランド公爵は素っ頓狂な声を上げる。


「家を出て医者を目指すだと!? 本気か!?」


 裏返ったエルランド公爵の問いかけに、息子ニールは微塵の躊躇もなく首肯を返した。


「ステラを死なせた病の治療法を見つける。こういう生き方なら、きっとステラも認めてくれるだろうからね」

「しかしだな……」


 と、反論しようとしたところで気づいてしまう。

 ニールの目が、こちらが思っている以上に本気だということに。

 医者を目指すと言ったのも、当主である自分の了承を得るためではなく、息子としての義理を果たすための報告にすぎないことに。

 反対された場合は、親子の縁を切ってでも医者を目指す覚悟でいることに。


 ニールは、昔からそうだった。

 いつ死ぬともしれないステラ嬢との婚約を結ぶと言った時も、全てを投げ出す覚悟でこの父に臨んできた。


(こうなってしまっては、何を言っても無駄だな。……まったく、何人もの子宝に恵まれて、今ほど良かったと思えた時はないな)


 長男と次男ニールの他に、男子が二人、女子が三人子供がいることはさておき。

 エルランド公爵は、諦めたように、それでいて愛する女性を喪った息子が前を向き始めたことを喜ぶように言った。


「わかった。お前の好きなようにしなさい。ステラ嬢のご両親も、きっと喜んでくださるだろうしな」


 そうしてニールはエルランド家を飛び出し、医学の道に進んだ。


 やがて医者となり、ステラの命を奪った病について生涯をかけて研究したが、ついぞ根治させる治療法を見つけることができなかった。


 けれど、いくつもの対症療法の発見をし、それによって病に罹った患者の延命率を劇的に向上させることに成功した。


 それ以外にも数々の功績を挙げ、いつしか「医学の父」と呼ばれるようになったニールだが、彼自身が人として父と呼ばれることは、ついぞなかった。


 そんな彼の部屋には、いつも花が飾られていた。


 五枚の花弁と、青みががかった紫の色合いが特徴的な、〝彼女〟の好きな花が。




 Fin

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