第5話

 翌日は予定どおり父の棺を屋敷の裏、バラ園の一角に埋葬する。父は海に囲まれたこの島がいたく気に入って、死後も本土には戻りたくないらしい。クラレンスだけはあのあと状態を確かめるために棺を開けたが、「エレインは見なくて良かった」と言っていた。


 オートマタ達の手により棺は地中深くへと下ろされ、粛々と土が掛けられていく。啜り泣くハンナの肩を抱きながら思い出すのは、切り立った崖のようにそびえ立つ父の姿だった。


 父は護身術の中でも特にステッキ術を得意としていた。普段の練習相手であるサイは手加減してくれるが、父は一切しなかった。手合わせしては容赦なくぼこぼこにされて、何度も悔し涙を流した。自分は必死に向かっているのに息が乱れることすらない父に絶望させられたのは、一度や二度ではない。


 イアンに左目を潰され失ったあと、私は密かにこれで父は手加減をしてくれるだろうと思っていた。もしかしたらもう「しなくてもいい」と言ってくれるかもしれないと。でも父は、いつもどおり私をぼっこぼこにした。


――もう二度と何も奪われないためには、己が強くなるしかない。「いざとなれば全員殺せる」と思えるようになれば、片目であることなど気にならなくなる。


 涼しい顔で言い放ったあと、薄く笑った。

 だから正直、この遺言にもそれほど驚いていない。父が私のためだけに復讐の場を準備してくれたとまでは思わないが、まるで考えなかったとも思わない。父はいつからこの計画を立てていたのだろう。島へ移る前か、あとか。


 棺が全て土の中へ沈み、ハンナが私に抱きついて泣きじゃくる。宥めるように背を撫でながら、盛られたばかりの土の上に白バラの束を投げた。


 ふと感じた視線に勢いよく振り向くと、屋敷の陰へ逃げ込む人影が見えた。あれは、スカートか。……誰だ。


「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 「小さな子供がいた気がした」なんて、ハンナにはとても言えない。大丈夫よ、と付け加えて、震えるなだらかな背を撫でた。


***


「本当に帰らないの、ジョスリン。一緒に帰りましょうよ」

「ごめんね、ハンナ。でも、分かるでしょ」


 既に帰り支度も整えて車もドアを開けて待っているのに、ハンナは私を抱き締めたまま離れようとしなくなった。

「気持ちは分かるわ。でも、片目を奪われたくらいで殺すなんて!」

 見上げた私に、切々と訴える。サングラスのせいで色は分かりづらいが、きっと目を赤くしているのだろう。優しい表情は昔と変わらず、失神ぐせがついてしまったのは私のあの一件からなのに恨みもしない。でも私は、その視界に拭えぬ闇を与えたわけではない。


「……クラレンス、お願いね。帰りもきっと船酔いするだろうから」

 溜め息交じりに託して腕を抜け出し、手を伸ばしたクラレンスにあとを任せる。

「行こう、ハンナ。ここはもう、まともな場所じゃないんだ」

 クラレンスも言ってくれるが、確かにそのとおりではある。ここに残るのは殺してでも全財産が欲しい者か、シンプルにただ殺したい奴がいる者だけ。まともな奴は一人もいない。


「ハンナ、また本土で会いましょう。エレインも、気をつけて」

 最後に生き残るのは、私だから。

 後部座席の窓に張りついて泣きじゃくるハンナとその奥で宥めるエレインに手を振り、出立を見送る。綺麗に磨かれた黒いローバーは、石畳の上を滑るように船着き場へと向かった。



「ハンナは昨日、俺にも『いじめられていたくらいで殺すなんて』って言って止めた」

「でしょうね。善人は性質が悪いのよ」


 長い息を吐き、差し出されたギデオンの腕に手を通しエスコートを受け入れる。彩度の落ちたバラで埋まる前庭を眺めながら、屋敷へと向かう。こんなことがなければ心ゆくまで香りを楽しめただろうが、さすがにそこまでの余裕はない。用意されていたサマーツイードの喪服は、まるで誂えたかのように胸もぴったりだった。腹立たしい。


「それで、俺はぜひジョスリンに守って欲しいんだけど」

「いいわよ、あとはろくな奴がいないしね。昨日も言ったけど、私がお父様の財産で欲しいものはイースターエッグ一個だけなの。どうにか二人生き延びる抜け道を探って、あとはみんなギデオンにあげる。オートマタを含めて、お父様の残した知識と技術を引き継げるのはあなたしかいないもの。あなたが継ぐべきよ」


 私が引き継いでも、オートマタを父のように活かせるとは思えない。もちろん、椅子に座って指示を出すだけのアンドリューも。父の遺した全てを無駄にしないのは、最も父に近い場所で働いていたギデオンだ。


「あの、家に飾ってあったやつだろ。あんな卵一個で満足か?」

「うん。本当は、お父様に勝ったらもらう約束だったの。でも島に行っちゃってからは一度も手合わせしてなくて。本当はぶちのめして勝ち取りたかったけど」


 正確には、インペリアル・イースターエッグだ。金細工師のファベルジェが作った美しい卵型の宝飾品で、「インペリアル」とつくものはロマノフ朝のアレクサンドル三世とニコライ二世に納められたものを指している。しかし綺羅びやかなその卵達は、ロシア革命の折に散り散りになってしまった。父の手元に転がり込んだのは、そのうちの一つだ。あれは私にとって、金銭では代えがたい価値を持つ。


「父さんに勝つなんて言えるのは、ジョスリンとイアンだけだろうね。俺はいかにしてサボるかしか考えてなかった。寄宿学校に入って何が嬉しかったって、ラジーヴのしごきから解放されたことだったからな。ほかの奴らも似たようなもんだよ。ま、入ったあとで真面目にしときゃ良かったとは思ったけど」

「目的もないのに、真剣に訓練する気にはなれないでしょ。まあ『この島と屋敷にある全てのものを利用して』だから、護身術じゃない方法で殺せばいいのよ。知性的で優雅なやり方なら、お父様は許すでしょ」


 私は多分ナイフを使うだろうが、わざわざ戦わなくても毒で殺せばいい。


「イアンはフレデリックと組むとして、残りはABDね。私、バーバラは帰ると思ってたんだけど。男爵に嫁いだくせに、お金に困ってるの?」

「多分、アンドリューが強請ってる。理由は分からないけど、船でそんな話をしてるのを見た。『遺産の話だったら分け前の半分寄越せ』って」

「半分も? 随分高邁な信念ね!」


 あの頃はまだ、十等分に現実味のあった頃だ。


「それだけ暴かれたら困る話なんだろう。案外、浮気だったりしてね」

「自分が五十半ばで産まれたことを棚に上げるけど、ただひたすらに気持ち悪いわ。四十過ぎても、まだそんなことしてるの? 子供も大きくなってるのに男漁りなんて」


 胸に湧いた嫌悪感を逃せず吐き出すと、ギデオンは笑う。見上げた横顔の目元に巻き毛が零れ落ちて色っぽい。ギデオンも数年前に結婚して、妻がいる。子爵の妾の娘で、ギデオンとフレデリックの不仲を決定的にした人だ。


「ま、Jはまだ子供だからね。俺もそれくらいの年の頃は父さんが気持ち悪かったよ、いい大人が何やってんだって」

「今は?」


 顔をしかめて窺う私に、ギデオンは苦笑しつつポケットから煙草を出して咥える。いつの間にか移動していたサイに火を借りて、最初の煙を長く吐いた。

「そうでもない。大人になってみると、三十も四十も子供の頃に思ってたほど立派でも清潔でもないって分かったんだ。ただ命が何インチか縮んだだけ」

「ふうん」

 兄妹を眺めて育ったからある程度の諦めはついているはずだが、まだ期待しているのかもしれない。ギデオンは煙草を噛み、懐かしいものを眺めるように私を見下ろした。少しの間を置いて煙草を引き抜き、向こうへ溜め息と共に煙を捨てる。


「……お姫様が大人になったら一緒に酒飲むの、楽しみにしてたんだけどな」

「だったら、今からでも帰れば? フレデリックの一人や二人、頼まれなくても私が殺すわよ」


 後ろへ親指をやって勧めると、ギデオンは小さく声を漏らして笑った。

「分かってるよ。でも、これでも兄貴だからね。大事な妹に殺し合いをさせといて、自分は安全な場所で酒を飲むようなことはしたくない」

「立派な兄ね、大好きよ」

「悪くないね」


 満足そうなギデオンの返事に笑い、オートマタ達が大きくドアを開いた先へと足を向ける。その時、遠くで轟音が響き風が髪を揺らした。即座に振り向いた先に見えたのは、もうもうと立ち上る煙。……まさか、まさか、そんな。


「生きて島から出られるのは勝者一人のみと、旦那様がお決めになりました」


 聞こえた声に向き直るや否やサングラスを投げ捨て、腿のレッグシースから引き抜いたナイフを手にラジーヴへ飛び掛かる。ラジーヴは手で攻撃を払ったあと、一歩退いた。

「ふざけないで! ハンナ達は戦う気がなかったのに!」

 私の繰り出す攻撃を確実に避けながら、ラジーヴは下がって行く。

「旦那様は、敗者以下に情は掛けるなと仰せでした」


 敗者以下、とは。


 ふっと熱が上がるのが分かる。持ち替えたナイフで首を狙うと見せ掛けて、寸でのところで腰を落とす。落ちきる前にラジーヴの膝を蹴ってバランスを崩し、すかさず足元を払う。ゆっくりと崩れ落ちていく胸倉を掴みナイフで首を掻き切ろうとした時、誰かがその手を掴んで防いだ。「誰か」、ではない。分かっている。


「そこまでです、お嬢様」

 冷静なサイの声に、唇を噛んだ。


「私がお嬢様の全てに従うように、父は旦那様の全てに従います」

 振り払おうと力を込めても、手は外れそうにない。「私の全てに従う」のなら、ここで手を離すのではないのか。一息つき、ラジーヴを解放して体を起こす。仕方ない、サイの親だ。


「これは『借り』よ、サイ」

「承知しております。寛大なお計らい、心より感謝いたします」


 大人しい声で慇懃な礼を返すサイの背後で、ギデオンが呆然とこちらを眺めていた。


「……今のは、何が起きたんだ。全く分からなかったぞ」

「人は元々あった感覚を失うと、それを補うようにほかの感覚が発達いたします。ジョスリン様も左目を失われたことで、天賦の才に目覚められたのです」


 ラジーヴは乱れた胸元を整えつつ、ギデオンに説明をする。でもそれは、決して正しくはない。


「そうね、『完璧に』『勝手に』目覚めたわ。お父様とあなたのおかげでね」

 泣いてもやめないのは当然のこと、包帯に血が滲んでも吐いても、痛めつける手を止めなかった。

「バラは気高く咲き誇るものでございます。図らずも、私めも血が沸き立つ思いがいたしました。やはりジョスリン様は、旦那様の血を強く引いておいでです」


 ラジーヴとサイに護身術を超える武術を叩き込んだのは、ほかでもない父だ。それだけ強ければ護衛も何もあったものではないが、ともかく自分を守れるまでに彼らを鍛えた。ラジーヴは元々武芸の心得があったから、まあそれが父に拾われた理由だろうが、仕上がるまでにはそれほど時間は掛からなかったらしい。



 ナイフを脚に戻す頃、慌てた様子でアンドリュー達が大階段を駆け下りてくる。まあ、アンドリューの動きは急いでいるように見えないほど緩慢だ。


「さっきの爆発は何だ、何が起きたんだ!」

「クラレンス達を乗せた車が爆発したんだよ。父さんの指示だったらしい」


 アンドリューの息苦しそうな問いに、ギデオンが答えた。


「なんてこと! 早く、助けに」

「無駄だろ」


 悲痛な声を上げる騒がしいバーバラの背後から、口を挟みながらイアンが下りてくる。


「あの規模で爆風がここまで届くくらいだ、肉片しか見つけられない。少し距離が足りなかったんじゃないか」

「申し訳ございません。少しばかり長くバラを楽しまれてのご出立でしたので」

「ニトロ?」


 確かめた私に、ラジーヴは頷く。


 ニトロは凍結させると液体より衝撃感度が鈍くなるが、部分解凍でより鋭敏になる。ちょっとした衝撃を加えた瞬間に、大爆発を起こすのだ。おそらく何かの溶剤と混合し衝撃感度を低下させたものを完全に凍結させて使用したのだろうが、一歩間違えばあそこにいた全員が吹き飛ばされていたかもしれない。運も実力の内、とでも言うつもりか。


「ご遺体のことは、私共にお任せください。では参加される皆様に規定をお話いたしますので、食堂までお集まりください」

 淡々とした口調で伝えるラジーヴに、兄妹の間に何とも言えない空気が流れる。逃げても、逃げなくても死ぬ。


「別に難しくないだろ。生き残りたければ全員殺せばいい」

「あらイアン、いつ『こちら側』に来たの?」


 言い返した私を鼻で笑い、イアンは広間へと向かう。明らかに戦いには向かないABDFも動揺と不安を隠しきれない顔を見合わせながら、墓地に向かうような足取りで歩き始める。


「あいつらに比べれば、ジョスリンと組めた俺は有利だね」

「そうでもないわよ。私と組んだ時点で、イアンの敵だもの。ご愁傷さま」


 父が優雅と洗練を条件にするとしても、それは殺し方であって死に方ではないだろう。激痛と共にのたうち回って事切れたとしても、殺し方さえ美しければいいはずだ。


「できる限り守るけど、イアン以外はいつでも殺せるようにしておいて」

「そうだな。あとで軽く遊んでくれ」


 肩を竦めるような仕草をして、ギデオンは歩き始める。既に閉じられた豪奢な玄関ドアの向こうでは、もう煙も散っただろうか。


 どうか、安らかに。

 思い出せば引きずり込まれそうな記憶に蓋を閉じ、胸の内で祈った。

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