第2話 傷心を癒やして

「おかえり」

「おかえりなさい、アリシア」


 アリシア・ダナン侯爵令嬢は実家に戻った。


 10歳を最後にして訪れることが無かった屋敷だ。


 本来であれば、懐かしさに胸が詰まる思いになっても当然だろう。


 だがアリシアには、そんな感傷的な気持ちは湧かなかった。


 侯爵家の玄関で両親に抱きしめられても、どこか現実味に欠けていて、自分の居場所だと思えない。


「アリシア。私のアリシア」

「辛かったね。もう大丈夫よ、アリシア。アナタの居場所はココにあるわ」


 とても美しいカーテシーを披露できたと思うのに、両親は褒めてくれない。


 アリシアは両親の温かい腕の中にいても、少し不満だった。


(お父さまたち、私の努力になんて価値がないと思ってらっしゃるのかしら?)


 両側から抱えるように抱きしめる両親たちに、頭を撫でられ、頬を撫でられしていたアリシアは、ぼんやりと思う。


 そんな我が子を抱きしめる、ダナン侯爵とその夫人は泣いていた。


 両親の涙を見ても、どこか現実味に欠けていて、アリシアはちょっと不思議に思うくらいで。


 少しぼんやりしながら、両親のなすがままに身を任せる。


 王宮からの引っ越しは簡単に済んだ。


 10歳から18歳までを過ごしたと思えないほど荷物は少ない。


 ドレスなどは処分してしまったし、王太子から貰った物も不用品となった。


 贈り物の数々を、返せ、と言われたわけでもないが。


 婚約破棄してくるような男からの贈り物が、欲しい物からも、必要な物からも、外れてしまうのは自然な流れだ。


 アリシアは殆ど身一つで侯爵家へと戻って来た。


 実家には彼女にとって必要な物は揃っているし、侯爵家の侍女たちが側に控えているのだから不都合はない。


 不都合があるとしたら。


 それはアリシア自身の仕上がり具合のみだ、と、彼女は感じていた。


(私の努力にも、我慢にも、価値がないのだとしたなら……私自身にだって何の価値も無いわね)


 10歳まで使っていた自室は、時が止まったような部屋だった。


 そこに、18歳のアリシアにとって必要な物が少しずつ運ばれて来る。


 大人サイズの寝巻に普段着。


 身づくろいをするために必要なヘアブラシや化粧品などの品々。


 調度品も一揃い整っている部屋に運び入れる必要がある物など知れている。


 教科書なども必要ない。


 学園は卒業してしまったし、王妃教育だって不要になったのだ。


 学ぶ必要など無くなった。


 そうなったら、必要な物など知れている。


(勉強と王太子殿下……その二つが不要になった私にとって……必要な物なんて、たいしてないわ。私自身の価値と同じ……不要なのよ……)


 私物の少なさが自分自身の価値と結びついているようで、アリシアは薄く笑った。


 10歳の私室とはいえ、貴族令嬢のそれは豪奢な品の良さとは切り離せない。


 18歳の自分が使っても不自然ではない物たちで作り上げられていた。


(王宮に引っ越しをした時、私は何を持って行ったのかしら?)


 アリシアには思い出せなかった。


 10歳の少女が実家を離れる時。


 それは、どんな心情だったのだろうか?


 アリシアは自分の事でありながら、その日どんな気持ちだったのか、何を必要だと考えたのか、さっぱり思い出せなかった。


 何をすればよいのか分からないし、特にしたいこともない。


 アリシアは部屋にある椅子に座って、ぼんやりと窓の外を眺めながら一日の大半の時間を過ごした。



◇◇◇



「あの子の様子がおかしい」


「当たり前ですわ、アナタ。10歳の子供を無理矢理、家から連れ出して……8年後に勝手な事を言って一方的に戻したのですもの」


「それは私も腹が立っているが……当のアリシアがアレでは。向こうの言い分が勝ってしまう」


「あの子に非はありません。女性が一方的に破談を言い渡される理不尽さに世間が慣れているとしても。当事者にとっては、たった一度のこと。初めてのことです。傷付けば、思わぬ反応が出ることだってありますわ」


「分かっているが……あの子は18歳だ」


「18歳だからなんだというのですか? 傷付くことに、年齢など関係ありません。殴られたら痛いのと同じです。むしろ18歳だから。10歳から18歳という、人間にとって大切な時期を理不尽な形で過ごさなければならなかったアリシアが。今回のことで、より深く傷付いたとしても不思議ではありませんわ」


「だが……」


「今のあの子に、大人としての立ち振る舞いや貴族女性としての嗜みを求める方が滑稽ですわ」


「ん……」


「むしろ、10歳から18歳まで。甘えることを知らずに過ごさせてしまった分、あの子は弱いのです」


「あぁ……」


「あの時。アリシアに婚約の申し込みがあった時。是が非でもお断りするべきだったのですわ」


「それは……あの時点では難しかった」


「ダナン侯爵家が、今は亡き前国王であらせられる王兄派であることが関係しているのでしょう? それは承知しています。だからこそ、アリシアは大切にされるであろうと思って、泣く泣く手放しましたのに」


「ああ。亡き前国王は、現国王の兄上。王兄派を疎ましく思う国王陛下の気持ちも分かる。前国王派との架け橋としてアリシアを王妃に望んでいると言われれば、受け入れるしかなかったのだ」


「それは分かっております。だから一人娘であるアリシアを王家へ預けたのです」


「後継ぎなら養子を迎えれば良い」


「はい。私もそれで問題ないと思っております。ただ、アリシアは。あの子は。背負わされた責任に見合うくらい、幸せになる権利がある、と、思っておりました。そうでしょう? そうでなければおかしいではありませんか」


「あぁ、あぁ……分かっているよ」


「なのに。あの子は自分を見失うほど傷付いてしまったわ。私は……私たちは、あの子に何をしてあげたらいいのかしら……」


 両親は共にアリシアを想い、そして悩んだ。



◇◇◇


 アリシアのあずかり知らぬ所で、婚約破棄はなされた。


 王太子有責の婚約破棄である。


 王家が相応の責任を負うことになったが、どんな形であれば、責任を果たすことが出来るであろうか。


 何をしたところで傷付いたアリシアの心は元に戻らないし、失った時間も戻ってはこない。


 対して王太子は、ミラ・カリアス男爵令嬢との婚約を決めた。


 男爵令嬢は侯爵家の養女となった。


 そして意外な事に、王妃教育もこなしている。


 アリシアの両親は悔しさに歯噛みしたが、彼女自身にとっては、どうでも良い事柄であった。


 未来の王妃として望まれ、光り輝いていた彼女は、もう居ない。


 したい事もなかったし、しなければならない事もなかった。


 侍女やメイドたちに任せておけば、一通りの事は自分の上を過ぎていく。


 アリシアは相変わらず、自室の窓から空をぼんやりと眺めて一日の大半を過ごす生活を続けていた。



◇◇◇



「アリシア」


 変化は唐突に訪れた。


 懐かしい声に振り返れば、自室の入り口に懐かしい人が立っていた。


 金の髪に金の瞳。


 おぼろげな幼き頃の記憶がぶわりと浮かび上がる。


「……お兄ちゃん?……レアンお兄ちゃん?」


「アリシア。久しぶりだね。大きくなった……」


「お兄ちゃん……何年ぶりかしら?」


「ん……アリシアが婚約する前だね……遠い昔だ……」


 レアン・スタイツ伯爵令息は金色の目を細めてアリシアを見た。


「お兄ちゃんも、大きくなったわ」


「ふふ。私も大きくなった、か。……ねぇ、アリシア。お兄ちゃん呼びは、もう止めて?」


「あら? お兄ちゃんは、お兄ちゃんでしょ?」


「私は、アリシアの兄ではないから……レアンと呼んで」


「レアンさま?」


「レアン、でいいよ」


「ふふふっ。レアン? 呼び捨てなんて、なんだか変だわ」


「いいんだよ、アリシア。大人になったのだから。……私はキミに、一番親しい人として呼ばれたい」


「レアン……」


 アリシアは金の瞳を見つめながら、王太子ペドロを一目見て恋に落ちた理由に気付いた。


(ペドロさまは、レアンと似ている……)


 アリシアの心と頭にかかっていた、もやもやとした霧のようなモノが一瞬にして消え去る。


 そして気付く。


 本当の目的地は、ココ ――――――。


「ねぇ、アリシア? 出来る事なら、私を婚約者として見て貰えないだろうか?」


「……っ」


「私は、キミを守りたい。キミと……幸せになりたい」


「……ッ……」


 滝のように流れる涙は、寄り道の与えた苦痛を浄化していく。


「返事は、待つよ。その涙が乾いて……キミ自身が答えを出せるまで、ね」


「……ッ」


 答えは、もう出ているけれど。


 涙が乾くまでレアンが待ってくれるというのなら。


 それに甘えようとアリシアは思った。

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