#80 獅子は我が子を千尋の谷に落とすという

「結局、チケット渡せなかったね」


「今日は仕方ないな。……まぁ、他の話があったし」


 あの名前呼びの話題で、気付けば昼休みは終わってしまった。あれから五、六限で渡す機会は当然なく、チケットは一日中クリアファイルの中に入っていた。

 旅行までまだ時間はある。それに、その前にはサッカー部の大会と夏祭りも残っているのだ。慌ただしくなりそうな夏休みに、俺はワクワクし始めていた。


 だが、夏休みに向かう俺達に立ち塞がる、大きな関門が待っている。


「もうすぐ期末テストか」


「あー、もうそんな時期だね」


 正直なところ、前回の勉強会からそこまで時間が経ってないような気がする。それでも、定期テストはいつの間にか背後まで迫ってきていた。


「勉強は順調か?」


「そこそこ、かな。友哉君は?」


「俺もそこそこって感じかな」


 やがて、沈黙が訪れる。けれど、嫌な時間じゃない。彼女と、夕夏と時間を共有しているという感覚が、言葉を交わさずとも充実感を与えてくれた。


「友哉君」


「なんだ?」


「ん? なんでもないよ、呼んだだけ。えへへ……」


 夕夏は、えらくご機嫌だった。『ん?』と言って首を傾げる仕草も、『えへへ』と言ってはにかむ姿も、可愛すぎて刺激が強い。

 外見上の影響力もあるが、名前で呼ばれることのインパクトが想像以上に大きかった。


 異性という括りでは、井寄が一番最初に名字以外で呼んでくれた。しかし、あれはあくまであだ名だ。

 付き合う前の時点で、誰かに名前で呼ばれなくて良かったと思う。そんなことにでもなったら、きっと勘違いで惚れてしまったはずだ。呼び方一つで、こんなにも印象が変わるとは。


 それから数歩進んだところで、突然夕夏に回り込まれる。


「ねぇ、友哉君は次いつ呼んでくれるの?」


 抽象的ではあったが、それが「いつ名前を呼んでくれるのか」という問いであることは明白だった。


 実際、名字で呼ばなくなってからというもの、名前を口に出すのを無意識に避けている実感があった。心当たりがあったからこそ、俺は多少の後ろめたさを覚えながらはぐらかそうとする。


「い、いつって……そりゃ、用があった時じゃないか?」


「嘘。友哉君、わざと私の名前言わないようにしてるでしょ」


 しかし、夕夏には通用しない。人差し指を突きつけられ、俺は追い詰められる。ないはずの壁に、背をぶつけたようだ。


「うっ……えっと、それは……」


「やっぱり恥ずかしい?」


 渡りに船とも言える質問に、俺はこくりと頷く。さすがに、一朝一夕では難しかった。何せ、元々異性を下の名前で呼ぶ習慣なんてなかったのだ。相手が彼女とはいえ、緊張するものは緊張する。


「そっかー。じゃあ、いいこと考えた」


『いいこと』であるはずなのに、その口元にたたえた怪しげな笑みはなんなのか。本能が発する警告に、思わず身震いした。


「友哉君が名前を呼んでくれなかったら、私話しかけられても無視するから」


「なっ……!」


 荒療治にも程がある。そんなツッコミも待たず、夕夏は俺に背を向けて歩き出してしまう。声をかけなければ、そのまま遠ざかっていってしまいそうな足取りで。


「ま、待ってくれ、夕夏……!」


 咄嗟に呼んだ名前で、彼女は振り向く。そして、嬉しそうに笑った。


「よくできました。やればできるじゃん」

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