#79 憧れを現実のものに
それから数日後。無事にチケットを手に入れ、さぁみんなに渡そうという日のことだった。この日の昼休みは、別の話題で持ち切りになっていた。
「トモちんと夕夏はさ、いつになったら名前で呼び合うの?」
きっかけは、井寄が口にした何気ない疑問だ。
「言われてみれば、ずっと『新宮君』と『明海』だね」
「む、俺は初々しくていいと思うぞ」
「呼び方なんて人それぞれなんだし、そんな意識する必要ないと思うけど」
と、俺と明海以外はそれぞれに反応を示す。実際、恋人をどう呼ぼうとそのカップルの自由ではあるが、井寄がこの話を振ったのには明確な理由があった。それも、名前で呼び合うことが是となる背景として。
「私、見ちゃったんだよね。トモちんのノートに、『彼女を名前で呼ぶ』っていうのと『彼女に名前で呼ばれる』っていうのがあるの! 書いてあるってことはさ、やりたいなって思ってるってことでしょ?」
井寄の推論に、俺はぐうの音も出なかった。この前、グループの六人には青春ノートを開示した。もちろん、人によって内容に対する興味は違っただろう。だが、結果として井寄はその項目に目敏く気付いていた。
明海と契約上の恋人になったあの日、帰り道で呼び方を確定したのを思い出す。
『じゃあ、今は明海で』
『そっかー、それなら私もしばらくは新宮君って呼ぼうかな』
結局、それ以来名字で呼び合うのは変わらずだ。俺が明海を名前で呼ぶまで、その関係が変わることはない。俺はそう考えている。
つまり、最初に一歩を踏み出すのは俺の仕事というわけだ。
「やりたいとは思ってるけど……急に名前を変えるのはどうにも恥ずかしくて。それに、タイミングがなくないか?」
「理想的なのは、告白が成功したその日に変えることだね」
残念ながら、その機会を俺達はとっくに逃している。元々名前で呼んでいた茂木的には、ピンとこない悩みだったかもしれない。
「夕夏はどうなの?」
「え、私?」
「そうだよ、これはトモちんと夕夏の話なんだから! 夕夏は、トモちんに名前で呼ばれたいと思ってる?」
井寄の問いに、その場の注目が明海に集中する。そして、明海は僅かに顔を赤らめて口を開いた。
「私は、よ、呼ばれたいと思ってるよ……? だってそういうの憧れだったし……」
俺と目を合わせず、モジモジとした様子の明海。その姿に、注がれる視線が一斉に俺へと変更される。
「夕夏もああ言ってるし、決まりだね」
「漢を見せろ、友哉」
「トモちんは呼びたくて、夕夏は呼ばれたいと思ってるんだから、もう呼ばない理由がないよね!」
「彼女の憧れは叶えてあげるものだと思うけど」
さっきまでバラバラだった意見が、ここにきて一つにまとまる。その団結した意思が俺に突き刺さり、恥ずかしさや躊躇いにヒビを入れていく。……いや、それっぽく言ったけど、要は引くに引けなくなったってことだ。ここで覚悟を決めなかったら、もう彼氏失格同然だろう。
ゆっくりと、口を動かす。これまで、大きく開いていた口の形をすぼめて。別の音を発するために。
慣れないせいか、緊張のせいか。喉が上手く動かない。腹に力を入れて、俺は振り絞るように声を出した。
「ゆ、夕夏……」
お世辞にも格好のつかない震えた声で、彼女の名前を呼ぶ。けれど、今はそれでいい気がした。これから呼び慣れていけばいい、まず大事なのはこうして一歩を踏み出すことだったのだから。
「嬉しいよ。ありがとう、友哉君」
明海に……夕夏に呼ばれた名前は、これまで友達に呼ばれてきたものと別の響きみたいに、俺の心臓を大きく高鳴らせた。
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