#35 ただ一つ、分かっていること
「……分かった。聞かせて、新宮君の気持ち」
明海の移ろう視線が、再度俺に向けられたのを確認してから口を開く。五月とはいえ夏が近づいているせいだろうか、発声しようとした喉が渇きで詰まった。だから、咳払いを挟んだ。結果として、仰々しい立ち上がりになってしまった。
「前も言ったけど、俺は小学生の時の迷子のことはあまり覚えてなかったんだ。明海に言われて、やっと思い出せたっていうか……いや、この話は関係ないか」
そうだ、これはただの言い訳だ。明海が恋心を自覚したあの瞬間を、自分が覚えていなかったことへの罪悪感。それを誤魔化すための言い訳で、明海への気持ちには何も関係がない。
そうして俺が一人で言葉をこねくり回している間も、明海は黙って待ってくれていた。真っ直ぐと俺を見つめたまま、けれど、震える瞳から彼女の不安が伝わってくる。
「明海がノートを拾って、彼女に立候補した時、俺はそのうち飽きられると思ってた。陽キャが気紛れで俺を気に入ってくれた、それならこのチャンスを有効活用しようって。最初は、そんな打算的な理由で明海の提案を受けたはずなんだ」
不確定な言い回しなのは、今となっては俺自身が確信を持てないからだ。おそらく、あの時はまだ明海に惹かれていなかった。明海が去るという恐怖の根源は、届きそうな青春を手放したくなかったから。そう考えている。
明海視点では、これで片思いしていた男子への接触に成功したのだから、余程のことがない限り離れていくことはなかったわけだが。
「ノートを埋められるチャンスを失いたくないから、明海との時間を大事にしようとした。最初のうちは、ノート埋めをしている間だけ側にいてくればいいと思ってた。けど、いつからか不安が芽生えたんだ。ノートが埋まれば、それだけ早く明海との別れがやってくる。ノートが埋まらなければ、明海はずっと俺といてくれるんじゃないかって期待してる自分がいたんだ」
「それって……」
「多分、この時にはもう明海の存在が俺の中で大きくなってたんだ。ずっと追いかけてきた青春と同じくらい、明海が」
「……ねぇ、わがまま言ってもいい?」
「なんだ?」
すると、明海は黙り込んでしまう。もじもじとした様子で、体の前で両手を忙しなく動かしている。自分から申し出たというのに、やけに躊躇っているようだ。
やがて、小さく「あ、あー……」と壊れたロボットのように声を出し、明海は話を切り出した。
「そ、そんなに思ってくれてたなら、さ……あの時、返事くれても良かったんじゃない?」
首から上を真っ赤にして、明海は口を尖らせて言う。告白した側としては、正当な主張だ。悪戯に答えを先延ばしにされていたのであれば、彼女としても不本意だろう。
納得してもらえるかは分からないが、俺は話すと決めた。俺の気持ちを全部。あの時の迷いも含めて。
「明海に告白された時、明海が俺を好きになってくれた理由を聞いて、俺は考えた。どうして、明海が好きになったのかって」
「――っ……それで?」
「答えが出なかったんだ。明海と違って、俺には明海を好きになった明確な理由がなかった。あの時、俺は明海の思いに応えるために、ちゃんと自分の中で答えを出さなきゃって思ってた」
「そんなの……!」
必要ない。今なら分かる。多少年を重ねたとはいえ、俺はまだ高校生だ。自分に発露した感情、思いの全てを言語できるほど成熟していない。髪が真っ白になっても、できるかは怪しいくらいだ。それでも、答えを出そうと手を伸ばすことはできる。立ち止まって考えるんじゃなくて、行動を起こして掴み取るんだ。
『感情に答えを出すのなんて、付き合ってからでも遅くないよ』
相談した俺に、茂木は言った。そう、踏み出してからでも遅くないのだ。作り物じゃなくて、本物の関係を明海と築いて。一緒に生活する中で見つければいい。彼女への恋心が、好きという気持ちが、どこから生まれているのかを。
「でも、今の俺は違う。明海の何が好きで、どこに惹かれてるのか分からなくてもいい。それが分からなくても、俺には一つだけ分かってることがある」
一度言葉を切って、呼吸を整える。これだけは、噛むわけにはいかない。大きく息を吸って、心臓を落ち着かせてから口火を切った。
「明海のことが好きだ」
この気持ちさえ確かならいい。それだけで、今は十分なんだ。
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