#6 たわわな桃と端整な瑠璃
今朝だけで、『彼女と一緒に登校する』と『彼女と手を繋ぐ』はクリアだ。友達がいないから仕方ないにしても、恋人編から続々と埋まるとは。
浮かれていた俺は、明海からの声を聞き逃してしまう。
「……して」
「え?」
「手、離してくれない?」
安堵も束の間、校門を前にして明海はそう言ってきた。
俺は疑問を呈するよりも、まずは要望通りに手を離す。それから、明海に尋ねる。
「……手汗、気持ち悪かったか?」
俺はまだ熱の残る、自分の手の平に目をやる。日の光を受けて、汗がキラキラと反射していた。これと手を繋がせていたなんて、明海には申し訳ない気持ちだ。しかし、明海は俺の不安をよそに首を横に振った。
「ううん、全然。っていうか、手汗なら私も緊張で――じゃなくて! ……手を繋いで教室まで行くのは恥ずかしいかな。クラスの子とかに見られたら、根掘り葉掘り聞かれちゃうかもだし」
その結果、金を払って明海を彼女にしているとバレれば、俺は一躍時の人だ。もちろん、最悪の意味で。校門付近まで来て手遅れだとは思うが、懸念に関しては俺も同意する。
明海みたいな有名人が突然俺なんかと付き合い始めたとなれば、裏があると誰でも勘ぐるだろう。そして、実際に裏があるのだから当事者としては恐ろしい。
「それなら、人前では友達として振舞った方が気は楽だな」
「ごめんね。偉そうなこと言ってお金も貰ってるのに、中途半端な感じになっちゃって」
「いや、こうして協力してくれてるだけでも大助かりだよ」
「昼休みとか放課後とか、二人っきりの時は彼女になるからさ。――その時にたくさんイチャイチャしようね」
耳元で囁かれたのは、心臓が跳ねる誘惑。こそばゆい感覚に勢いよく距離を取ると、明海がウィンクをしてきた。
抑えた左耳はとても熱く、恥ずかしさと共に期待が込み上げているのを実感した。
それからというもの、教室に着いた俺達はこれまで通りの位置に収まろうとする。
窓際一番後ろの席。周囲からの干渉が最も少ない席で、早く登校中の昂ぶりを落ち着けたかった。だが、扉を抜けてから席に辿り着くまで、明海は俺にぴったりとついてきていた。
「そういえば、私達隣の席だったね」
「そう、だったな」
微笑む明海に、再び心が波を立てる。それで明海を意識したのだろうか。背負ったリュックを机の脇に下げてから、椅子を引いて腰掛けるまで、俺達の動きはシンクロしてしまう。
「なになに? 二人とも仲良しな感じ?」
ニタニタと笑みを浮かべて、俺と明海を交互に見るのは、明海一派の派手枠担当――
「桃、おはよう」
「おはよー」
井寄は明海に挨拶を返しながら、まるでそこが定位置かのように俺の机に座る。短いスカートから伸ばされた太ももに、つい目が吸い込まれそうになる。
(これは、男として正常な反応で、別にやましいことは何も……)
誰に聞かせるでもない言い訳を脳内で詠唱していると、新たな影が現れた。
黒い長髪と控えめに着崩された制服――明海一派の清楚枠担当、またの名を出ているところが出ていない方、
九条は井寄を見やり、ため息を零して言った。
「人が座ってるところに座るなって、前も言ったでしょ? 新宮君困ってるから」
「えー、そうだっけ? でもさ、困ってるってよりも……」
井寄は、俺を見下ろしてニヤリと口を緩める。それから、前屈みになって俺に顔を近づけてきた。
「喜んでるっぽくない? ほら、顔も赤くなってるし」
「い、いや……」
明海とは違う、甘ったるい香りが脳を浸食してくる。陽キャ女子っていうのは、全員顔が良くなきゃいけない義務でもあるのか? まずい、このままだと緊張やら動揺やらで頭が――
「そこまで! またそうやって男子のこと誘惑して! 桃はもっと危機感持たなきゃダメだよ」
助太刀に入ってくれたのは、明海だった。井寄を俺から引き離し、ついでに机の安寧も守ってくれている。
助かった。あのまま井寄を浴びていたら、俺の脳はきっと溶かされていただろう。ちらと明海を見ると、目が合ったがすぐに逸らされてしまう。
「わーん! 瑠璃、夕夏がいじめてくるよー!」
「いじめてないし、私も同意見。あんたは見境なさすぎる」
「ふん! 瑠璃の薄情者! 胸と一緒で薄っぺら!」
「あんたね……」
やいのやいのと、付近が騒がしくなっていく。たった三人しかいないにもかかわらず、教室の騒々しさのほとんどはここが原因といってもいい。
思えば、俺の席は恵まれた配置だったのかもしれない。明海を中心に、この集団が形成されているのだから。自発的な行動が億劫になって以来、俺は周囲に目を向けていなかったことに気が付いた。
「今日の昼休み、食堂に集合ね。男子達も連れてくること!」
HR前のチャイムが鳴った頃、明海が宣言した。おそらく、昼休みに俺は明海一派の面々と対面することになるのだろう。気の利いた自己紹介は必要だろうか。いや、それよりも相手の目を見てまともに話せるのだろうか。
午前の授業は集中できないまま、あっという間に過ぎ去っていった。
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