#4 彼氏と彼女の最初の朝
今朝は、珍しくインターホンが鳴った。基本的に、これを押すのは宅配業者か怪しい勧誘担当なのだが、今回はそうではないらしい。
扉を開けた俺は、思わぬ来客に驚いた。
「おはよ、新宮君」
昨日の出来事が夢じゃないと、目の前の現実が訴えている。手を後ろで組み、軽く上体を傾ける明海の姿は、愛嬌に溢れていた。朝日を照り返すショートヘアは、今日も完璧なセットだ。
「……なんで?」
朝の挨拶よりも先に、疑問が先んじて出てしまう。
困惑した俺を見た明海は、口を尖らせて抗議する。
「なんでじゃないでしょ! 彼女が彼氏の家を訪ねるのに、理由なんている?」
「いや、そうじゃなくて……どうして俺の家が分かったんだ?」
たしかに、昨日の別れ際にすぐそこが家だとは言ったけど、俺がどこの家に住んでいるかは知らないはずだ。
「この辺に新宮って書いてある家、ここしかなかったし」
「もしかして、全部探したのか?」
「うん。最初は昨日別れたところで待ってようかと思ったんだけど、張り切って早く来すぎちゃってさ。ちょうどいいから突撃しちゃおっかなって」
俺は呆気に取られていた。なんてことないような口振りだが、とんでもない行動力だ。これが噂に聞くフッ軽というやつなのだと、俺は実感する。改めて、本物の陽キャの凄さを思い知らされる。
それはそうと、明海が何か気になることを言っていたような。
「ところで、明海は何に張り切ってたんだ?」
「へ?」
その問いかけに気の抜けた声を出すと、明海は突然顔を赤くする。白い肌は紅潮が分かりやすく、すでに耳の先まで真っ赤だ。
しまった、ひょっとして聞いたらまずいことだったか?
「それは、えっと……あの……」
明海の瞳は、あっちこっちをぐるぐると巡り、落ち着きがない。口から漏れる言葉も、やけに歯切れが悪かった。
言いにくいことなのだろうか。それとも、雇用関係を目前にして怒らせてしまったのか? まだ契約内容すら提示していないというのに……。
ここで明海に辞退されれば、俺はまた振り出しに戻ってしまう。それだけは、なんとしても阻止しなければ。
「怒ってるなら謝る。これから頑張っていくつもりだし、俺には明海の力が必要なんだ。だから――」
「あ、そうそう! お金だよお金! ほら、今日から彼女になるからお給料貰えるでしょ? それを楽しみにしてたら、早く家出ちゃって」
「そういうことだったのか……良かった……」
快活なように見えても、明海も女の子なのだ。金にがめついなんて印象を抱かれたくはないだろう。俺だって、期待しているのがバレバレだったら恥ずかしい。
「昨日の今日で俺もデリカシーがなかったな、ごめん」
「ううん、気にしないで! 新宮君は全然悪くないから!」
慌てた様子で、明海は手を左右に動かす。あまりに早い動きに、手の輪郭を目で捉えることができない。
ホッと一息ついたところで、俺は明海に茶封筒を差し出す。
「何これ?」
「……例のブツだ」
「あー……そういうことか。あははっ、なんか悪いことしてる気分になっちゃうね」
口止め料も兼ねているとはいえ、金を払って彼女になってもらうのだ。実際、やっていることは法に触れていてもおかしくない。もし、俺が学生という身分でなければ一発アウトだろう。
「……中を確認しても?」
「もちろん」
「一、二、三、四、五……多くない?」
封筒の中身を覗いて、明海は眉を八の字に曲げた。少なくて文句を言われることは想像していたが、まさか多くて戸惑われるとは。
それに、早く家を出てしまうくらいには、明海はこの給料を心待ちにしていたはずだ。予想外の反応に、俺も狼狽してしまう。
「……適正価格のつもりだったんだが。ただでさえ、俺みたいな陰キャの彼女になってくれるんだ。口止めも合わせたら、これくらい払うのが妥当だと考えている」
「うーん……まぁ、新宮君がそこまで言うなら……」
てっきり大金を前に目を輝かせるかと思っていたが、意外にも明海の反応は煮え切らなかった。
「このことは、どうか内密に……」
「分かってるって! それじゃあ、行こっか。遅刻しちゃうよ!」
軽快なリズムを鳴らして、明海が先を行く。その後ろ姿を見て、彼女に言っていないことがあったと思い出す。
「明海!」
「どうしたの?」
「その……今さら改まって言うのも変なんだけど……おはよう」
開口一番の挨拶を、俺は未だに返していなかったのだ。不器用でも構わないから、しっかり言っておきたかった。今日から始まる、この関係に誠意を示すために。
意表を突かれたのか、明海は目をぱちくりとさせていた。そして、その目元を和らげさせて言った。
「うん、おはよう」
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