第95話 朝の挨拶
竜臣ヴルカンがアナトミアの故郷、神域:トンリィンに来訪してから次の日の朝。
オアザ達は屋敷を出て、馬車の停留所に集まっていた。
「こんな朝早くから、お出かけですか」
まだ朝露が草木に残っている。
「本当なら、昨日のうちに出たかったがな」
眠い目を閉じないように、なんとかこらえているアナトミアとは対照的に、オアザの眼光は鋭い。
「そんなに慌てなくても、すでに滄妃龍:ブラウナフ・ロンが倒されているのでは、なんてのは、私の予想ですよ?」
「いや、ドラゴンの解体師殿の言葉はきっかけだったが、熟考すればするほど、その可能性は高いだろうという結論になる」
「言葉にしたときにはギリギリ手遅れでした、というのは、あの男の好きそうな事ですからねぇ」
ムゥタンは、やれやれと呆れながらオアザの意見に賛同した。
「でも、トンシュダットやトングァンなんかの港町では、何も動きはないんですよね?」
「東の島の船や民を動員しなくても、別の場所から持ってくれてばいいですからねぇ。第二王子が主導して討伐した事にするなら、その方が都合もいいですから」
「動員するならば、南の島:ズバルバーからだろう。あそこは、ラーヴァの後ろ盾の一つだ。気風が合うからな、ラーヴァとズバルバーは」
オアザは嫌そうに顔をゆがめている。
「……何かあったんですか?」
「南の島……特に領主は……まぁ、色々ありますから。一言で言えば好戦的なんですよ、ラーヴァ様に似て」
「それは、また……」
アナトミアは所詮平民だ。
行ったこともない土地の領主の人柄など知るわけが無い。
「とにかく、ドラゴンの解体師殿の予想に関しては、私たちも同じ結論にいたっている。滄妃龍:ブラウナフ・ロンの討伐は、すでに始まっているか、終わっている」
「それで、直接確かめるために、領主がいる港町:トンシュダットへ赴く、と。でも、南の島:ズバルバーの人達が滄妃龍:ブラウナフ・ロンを倒したのなら、彼らはそのまま南の島へ帰るのでは?」
「そうともいえないんですよねぇ。基本的に、龍が現れたら、初動はその近くの領主達が動きます。龍は災害ですが、同時に恩恵をもたらすことも多いので。東の島:オストンに滄妃龍:ブラウナフ・ロンが現れたということは、オアザ様の手紙の件以外でも、港町:トングァンの町長も知っていますから」
「それに、南の島:ズバルバーにそのまま滄妃龍:ブラウナフ・ロンの死体を持って行っても、高価な龍の素材が手に入るだけだ。しかし、東の島:オストンの領主と協力したことにするために、トンシュダットの港町へ運べば、ラーヴァは東の島:オストンとも繋がりを持てる。しかも、昨日の件も含めて、貸しを作った状態で、だ」
「だから、港町:トンシュダットへ行って直接情報を集めて、状況によっては、第二王子様との繋がりが強くならないように立ち回る、と。まだ新しい情報は入っていないんですよね?」
「滄妃龍:ブラウナフ・ロンの死体が港へ到着したという情報はないですねぇ。ただ、興味深い話が今入ってきました」
聞いていない情報に、オアザもアナトミアも耳を傾ける。
「なんでも、昨日のお昼から夕方頃、港町:トングァンの沖合の方で大きな爆発が数度あったようです。これが龍の『息吹(ブレス)』や、それに匹敵するような攻撃だったとすると……」
「やはり、すでに討伐は始まっていた、か」
「はい。その音もしばらくすると止んだようなので、もう終わっている可能性は高いかと」
ムゥタンの言葉に、微かにオアザは落胆したような雰囲気を出す。
「……終わっているなら、慌てていかなくてもいいのではないでしょうか?」
「いや、だからこそ、すぐに行くべきだろう。行かなくては、いけない」
強固な意志をみせるオアザに、アナトミアは軽く息を吐くと、寝起きでまだ動かない顔をなんとか動かす。
「では、いってらっしゃいませ。怪我も無く、元気で、お戻りになることをお待ちしております」
アナトミアの言葉を聞いて、オアザはまるで雷に打たれたように動かなくなった。
(……あれ? 何か間違えたか?)
アナトミアは、普通にいってらっしゃいと言っただけだ。
(え、っと。確か、私はついて行かないんだよな? 昨日、そういう話だったし。で、いってらっしゃい……もしかして、いってらっしゃいは不敬だったか? いや、他に出かける人にかける言葉なんて知らないんだが? まぁ、王族向けの言葉とかそんなに詳しくないけど……あ、元気って言葉がマズかったのか。そりゃそうか。病気は治っているとはいえ、まだまだ病み上がり。そんな人に元気で戻ってこいなんて、そりゃ失礼……)
自分の何が間違えていたのか考えていたアナトミアの手を、オアザが掴む。
「へ? あの、失礼なことを言ったのなら……ぐげ!?」
そして、そのまま手を引くと、オアザはぎゅっとアナトミアを抱きしめた。
(……ぐぐぐ!? い、息が……)
ぐいぐいと顔を動かして、アナトミアはなんとか鼻を出して呼吸を確保する。
ふぅふぅと鼻で空気を吸っていると、どうしても嗅いでしまうのは、オアザの匂いだ。
(くそ、なんだよ。っていうか、良い匂いがするな。相変わらず。どんな香水使っているんだよ、コイツ)
アナトミアはオアザから離れようとするが、口が塞がり、鼻で呼吸をしないといけないほどに抱きしめられていて動けない。
そんなアナトミアの耳元に、オアザは顔を近づけてきた。
「ドラゴンの解体師殿も、怪我などしないように。ムゥタンとクリーガルは置いていくから、なるべく二人から離れないでくれ」
(何を今更……)
昨日、ムゥタンとクリーガルを置いていくことは聞いている。
そんなことを言うためにわざわざこのようなことをしたのだろうか。
名前が出てきたこともあって、二人を見ようと視線を動かして、アナトミアは気づく。
(っていうか、これ、ヤバイ……!)
「窮屈だろうが、しばらくは我慢してほしい。ヴルカンの狙いは正直読めない。ここを襲ってくることだって考えられるのだ」
(窮屈といえばそうだけど、現状。というか、そうじゃないというか、気がつけ、バカ!)
何に気がついてほしいのかといえば、決まっている。
アナトミアが視線を動かした先には、ムゥタンがいる。クリーガルも見えた。
そして、クリーガルは少々気まずそうにしているだけだったが、ムゥタンはそれは嬉しそうな顔をしていたのだ。
その笑顔を見て、アナトミアは察したのだ。
今、オアザの見送りのために集まっているのはアナトミアだけではない。
オアザの部下は全員いるし、それに、アナトミアの家族達も集まっているのだ。
イェルタルやシュヴァミアの姿こそ見えなかったが、家族が今のこの状況を見てどんな反応をしているのか、考えたくも無い。
なので、アナトミアとしては、いっこくも早くオアザには離れてほしいのだが。
(なんか、どんどん強くなってないか? そろそろ呼吸も苦しいんだが……)
吸っても吸ってもオアザの匂いしかしない状況に、アナトミアの思考にも靄がかかり始めた。
そんなとき、オアザの口元が、さらにアナトミアの耳に近づく。
「元気でな。アナトミア」
アナトミア以外の誰にも聞こえないような声でそっと囁いたオアザは、それからアナトミアを離して馬車に乗り、トンシュダットへ向かっていった。
去って行くオアザを乗せた馬車を、アナトミアは見送り続ける。
少しでも長く、オアザの姿を瞳に焼きつけたいから……なんて、そんな理由ではもちろんない。
「はぁー…………! 朝からスゴいの見ちゃった」
「うわぁ……うわぁ……まるで絵物語の恋人の分かれの場面みたいで……うわぁ……うわぁ……」
「お、オアザ様と、アナトミア姉ちゃんが……?」
己の興奮を口に出している、家族達の反応を見たくないからである。
「……くそ、なんであんなことを」
アナトミア自身、自分でも分かるくらいに顔が赤い。
こんな状況で、誰とも目を合わせたくなかった。
しかし、そんなアナトミアの横に、すっとムゥタンは立つ。
「まぁまぁ、許してくださいよ」
「いや、許すというか……」
「これが、今生の別れかもしれないんですから」
「……は?」
ムゥタンの方を向くと、とても寂しそうな顔をしていて、だから、その言葉が冗談でも無い本心からの言葉だと、アナトミアは理解した。
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