第13話 後宮のオオカミ(13)


 クリューナの肩は小刻みに震えていた。エマの口がガクガクと震えている。


「中庭までけっこうな距離があるわ。良い運動になりましてよ」


 アンネリーゼは王子の方を向く。


「それでは走る準備はいいかな、手抜きをせずに走ってね。手を抜いたらもう一回だよ」


 王子が手を顔の高さに上げる。


「用意――」

「おやめください」エマの金切り声が響く。「お嬢様が死んでしまいます」


 エマは涙で顔をぐしゃぐしゃにしてクリューナのほうに走って来た。


「毒ではないんですっ。ザリアニーナ様は無実です」

「エマ」


 クリューナががくりと膝を突いた。


「じゃあ、クリューナ以外のあなた方は先に走ってちょうだい。王子、合図を」


 王子のかけ声と共に娘達は一斉に走り出した。

 アンネリーゼは芝生の上に座り込んでしまったクリューナの肩を抱いて、テントの下の椅子に座らせる。


「教えてちょうだい、クリューナ。どうしてダメなのか」


 アンネリーゼは睫毛の下の瞳をのぞき込む。


「王子がいるうちに恩赦を願わないといけないでしょう。このままだとエマにも迷惑がかかってしまうわよ」


 うなだれていたクリューナの顔が上がった。


「私は、ナッツを食べて運動すると、じんましんが出る体質なのです。運動をしないときにはナッツを食べても大丈夫だったのですが、今まで食べてから運動して反応が起こってもじんましん程度で、この前のような症状になることは初めてでした。あれは本当に怖かった――」


 クリューナは、身を震わせながら堰を切ったように話し始めた。


「ザリアニーナ様が毒を盛ったと言って、無実の罪に陥れようとしたのは私です。わざとクッキーを食べてから皆で追いかけっこをしたのです。私の体に異変が起こることはわかっていました。でも、人を殺すような症状ではなくて、湿疹ができる悪戯程度の毒を入れた事にしようと思ったのです」


 いたずら程度であれば、ザリアニーナは後宮を追われる程度の罪で済むだろうとクリューナは考えていた。だが、思いがけなく症状が強く、ザリアニーナは重い罪に問われてしまった。


「最初は本当のことを言おうと思っていました。でも、あのお方のことが許せなかった。エマに、エマに――」

「ザリアニーナが小間使いを見下して、自分の機嫌が悪いときに酷く折檻するのは知っていたわ」


 アンネリーゼはクリューナの横に立つエマの手を優しく取った。

 手はあかぎれができ、鞭で叩かれたような筋が走っていた。そして、彼女の首周りにはネックレスのような細い傷が走っていた。結構深かったのだろう、一部には引きつりができていた。


「エマ、この傷はなに。 ネックレス?」

「私は訳あって、昔子供を堕胎してしまいました。おろさなければクリューナ様に危害を加えるとおどされたのです。堕胎した後で発熱して朦朧としていた私の枕元に黒真珠のような光が現れて数度別れを告げるように舞いました。歩けるようになってすぐ教会で生まれることのなかったわが子の安寧を祈った帰り、露店の宝石商で我が子の魂そっくりな黒真珠のネックレスを見つけたのです。何も考えることはありませんでした。今まで貯めたお給料をすべてつぎ込んで私はすぐにそのネックレスを買いました」


 エマは黒真珠が下がっていたであろう左右の鎖骨の間のくぼみに両手を当ててうつむいた。


「ネックレスを取られたのね」


 アンネリーゼは痛々しくひきつった首もとの傷をそっとなでる。


「肌身離さず首に付けていたのですが、ザリアニーナ様が気に食わないと言って引きちぎり、踏み潰してしまったのです。ええ、ただの安物の宝石です。でも、私には、私には――」


 嗚咽で次の言葉が出なくなったエマの代わりにクリューナが答えた。


「エマの憔悴は、見ているだけでわかりました。何があったのかは、侍女づてに聞いて知りました。これ以上いじめられたら彼女の心が傷つけられて死んでしまう」


 クリューナの目にも涙が浮かんでいる。


「それは許せませんでした。エマは私のために人生が狂ってしまったのです。今度は私が彼女を助ける番です。後宮にザリアニーナ様がいるときには、彼女の侍女であるエマは勝手にやめることができませんが、後宮から去ればエマは解放されます。だから、私に毒を盛ったことにしようとしてザリアニーナ様が配る誕生日クッキーを利用したのです」

「よく話してくれたね」


 王子は二人の肩に手を置いた。


「エマ、君が領主を刺したのは自己防衛だ。罪に問われないように、今まで通りエマでいられるように僕が書状を書こう。そして、君の身は自由にする。ザリアニーナは後宮に戻ってくるが、君はもう彼女に仕える必要は無い。ザリアニーナには小間使いたちに対する態度をあらためるように僕からもきつく注意をしておこう」


 まさか王子からこのような言葉をもらえるとは、エマは泣き崩れた。

 王子はクリューナの方を向いた。


「これでいいかな。でもお嬢さん、君のやったことは犯罪だ。これは深く反省をしてくれ」


 クリューナはそっと頭を下げた。


「軽い意趣返しの気持ちだったかもしれないが、ザリアニーナは命の危険にさらされた。君は罪を償わなければならない。ザリアニーナにも非はある。君を牢につなぐつもりはないが、これからは身を献じて人々のために尽くしてくれ」


 クリューナは腰を折り、王子に深々と礼をした。


「良かったですわね、王子」


 アンネリーゼはきらびやかな扇で自分を扇ぎながら、王子に意味ありげな視線を送る。


「これでまたひとネタ――」


 あああああああっ、王子が頓狂な声を上げてアンネリーゼを遮る。


「さ、私はそろそろ館に戻ろう、執務が待っているからな」


 王子はポケットから純白のハンカチを引っ張り出して、滝のような汗をぬぐった。


「忘れないうちにこの件に脚色して――」


 あああああああっ、王子はアンネリーゼの両手を握りしめて黙ってくれとばかりに首を大きく振る。


「これでよかったんだろ? 文句はないね? いいね、わかっているね、アンネリーゼ」

「ええ、このしまりが悪い紅の唇に糊するには十分な御采配でしたわ」


 アンネリーゼは王子のペンだこを意味ありげに撫でると嫣然と微笑んだ。





 王子が去った後でアンネリーゼは抱き合って泣いている二人のほうを振り向いた。


「いろいろ文献を当たったら、身体に合わない食べ物を食べると、運動したときだけに症状が現われる事例があるらしいわ。クリューナはやっぱりナッツがあわないと思うの。もう食べない方が良いわよ」


 クリューナはそっとうなずいた。


「後のことは心配しなくていいわ。お二人とも明日の晩から私のところにいらっしゃい。私があなた方を守って差し上げます。ご安心なさい、三人で眠れるようなしつらえにしてありますからね」


 はち切れそうな下心が口から漏れ出している。

 アンネリーゼは三日月のように目を曲げて、にたりと微笑んだ。


「明日……?」


 スターガイザーが眉をひそめた。


「今晩ではないのか? このオオカミは我慢がきかないタイプのはずだが……?」

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