第11話 後宮のオオカミ(11)

「アンネリーゼ嬢の部屋から出火しましたあああ」


 夜のとばりが開けて朝陽がやっとガラス窓に差し始めた時間。温かい寝床の中でまだ半分寝ていた後宮の女性達はつんざくような悲鳴と、ガランガランと鳴らされる緊急用のベルで夢から引きずり出される。


「お逃げくださいっ、火が見えなくても煙に巻かれれば死にますよ」


 官女達が各部屋のドアを叩いては声をかけて回る。

 言われてみれば、何やらかぎ慣れない匂いが廊下に立ちこめている。煙が回ってきたのだと皆血相を変えて飛び起きた。

 だが、中にはその香りに首をかしげる者もいた。


「これ、香羽木こうわぼくじゃないの?」

「火事で香木が焼けているのかもしれません、お嬢様早くお支度を」


 香り千里を飛ぶという銘木の事を思い出す者も居るが、すぐさま小姓達に現実に引き戻されてベッドから追い立てられる。

 なにしろ後宮では火災訓練などしていない。皆気が動転してしまって、何をしていいやらわからない状態である。

 とりあえず夜着のままありったっけのネックレスを首からジャラジャラ言わせ部屋を飛び出る者。薄い寝間着のまま小姓に腕一杯のドレスを持たせて裸足で逃げる者。手に持ちきれずに指輪を口いっぱいに詰め込んで走る者。冷静な者は一人も居なかった。


 外から見ると、確かにアンネリーゼの部屋の窓からもうもうと煙が上がっている。カーテンは燃え落ちたのかそこには窓枠しか残されていなかった。

 何人かの娘達はハンカチを握りしめて涙をぬぐいながら、その窓に向かってまだ姿の見えぬアンネリーゼ付の士官の名前を呼んでいた。


 しかし、逃げおおせた者達はほとんどが後宮の建物の真下で輪になって口々に出火原因に噂話を咲かせている。


「なんでも、部屋で晩酌するために干物を焼いていらっしゃった種火が残っていたとか」

「酔い潰れて酒瓶が倒れてランプの油に火が回ったとか」

「妙な実験をされていて、爆発したとか」

「炎に向かってくしゃみをしてカーテンに炎が燃え移ったのかも」


 当初アンネリーゼが口にした『胸の炎が燃え移った』などというロマンチェックな事を言うものは一人もいない。

 

 そうこうするうちに、消火完了の声が響いてきた。

 女官たちによれば幸いにしてカーテンと木の窓枠が焼けただけであったらしい。

 娘達が三々五々に館に向かい始めた時。


「そのお姿は何? なってないわね。みなさん」


 娘達の背後から、威圧感のある低い声が響いた。

 振り返った娘達が見たのは、腰に両手を当てて一段高い花壇の縁石の上に腕組みをして立っているアンネリーゼだった。完璧に化粧し、まるでパーティに出る前のようにかっちりとドレスをまとっている。


 平身低頭してもしかるべき出火元の主の高飛車な発言に、皆あきれて言葉を失った。

 そんな反応毛ほども気にせず、彼女は頭一つ高いところから皆を睥睨する。だが、次の瞬間。彼女は両目をだらんと下げて、口元をだらしなく緩めた。そして危うく垂れそうになった涎をあわててドレスの袖でぬぐう。

 なぜならそこに広がる光景は彼女の大好物だったからである。


 着の身着のまま逃げてきた娘達は肌の透ける薄い夜着のみの者がほとんどで、中には下着だけで寝ていたのか羽織った短いタオルケットから大理石のような素足を惜しげも無く覗かせている者もいた。


「なんて、美味しそうな光景だこと」


 声には出さずつぶやくと、アンネリーゼはゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


「お謝りになりませんの、アンネリーゼ様」


 目を怒らせて反アンネリーゼ派のうるさ方が詰め寄る。娘たちの中においてはかなり年かさでありギリギリまで身だしなみを整えていたところを部屋から引きずり出されたのか、化粧は新弟子のやった壁塗りのようにまだら、おまけにつけまつげが片方とれており、ずれたカツラが後頭部に引っかかっているというすさまじい状態であった。


「それよりもあなた、自らの姿をご覧になったらいかが。お目立ちにならないようにお勧めするわ」


 アンネリーゼは肩から下げた瀟洒な小袋から手鏡を取り出して相手に突き付けた。


「ひ、ひやっ」


 プライドが高く、少しでも若く見せるため常に寸分隙のない化粧と着こなしを整えている彼女は小さく叫ぶと手鏡を放りだして娘たちの一群に隠れるかのように駆け込んだ。

 

「みなさん、非常用の持ち出し袋は整えていて? この度は幸いにして大したことはなかったけれど、これが大きな火災であったら命がなかったかもしれないわ。日ごろから当座の必要品と大切なものはこのようにバッグに入れて眠る場所のすぐ手に取れるところに置いておくこと。それに走れるような履物も準備しておくことをお勧めするわ。それに、こんな館に近いところに集まってはダメ。建物が崩れては危ないわ。せめて中庭までは走って逃げないと」

 

 アンネリーゼはダメ出しをするように大きく首を振りため息をついた。


「それにしても火を出すなんて不注意だわ」

「あやまるのが筋ってもんでしょう」


 アンネリーゼの傍若無人な振る舞いに、さすがの娘たちも我慢できなくなったか不満の声が吹きあがる。

 アンネリーゼはにっこりと微笑むと、皆をゆっくりと見回した。まるで獲物を狙う蛇のような禍々しい視線に娘たちは思わず口を閉じる。


「種明かしすると、これは消火訓練です。皆さんの日ごろの備えを試しただけ」


 あっけにとられた娘たちは、おもわず口を半開きにしたまま言葉を失う。


「残念ですが結果は落第です。後日再度正式な訓練をしなければなりませんね」


 こんな時にザリアニーナがいればアンネリーゼと互角にやりあえるのだが、残念なことに彼女は牢の中にいる。この騒ぎで避難はしたであろうが、彼女たちとは違う地下道を通って王宮の牢に移ったのであろう。娘たちは不満げに口をへの字に曲げながらとぼとぼと後宮のほうに帰っていった。




「それにしてもバケツに入れたお香に火を付けて盛大に燃やして煙を出して……ここまでする必要があったんでしょうか。火の粉が飛んで消すのに大騒動ですよ」


 スターガイザーはずぶ濡れの姿で大きくため息をついた。


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