第9話 後宮のオオカミ(9)

 クリューナの十六歳の誕生日。時の魔法とでもいうのだろうか、クリューナの美しさはますます磨きがかかり、噂を聞いた近隣の名家から婚姻の話が舞い込むようになった。だが、その話はことごとく潰れていく。クリューナの義父がまだ早いと断っているようだった。


「良かった、まだ一緒にここで暮らせる」


 恥ずかしがり屋で、伏し目がちな少女はチラリとエマを見て微笑む。昔話に出てくる、まるで白鳥のように清楚な姫君。小さい頃は草原を走り回っていた女の子は、いつのころからか、部屋にこもって弦楽器を奏でたり、絵を描くことが好きな大人しい少女に変わっていた。


 一方エマは、城の奥回りの雑用を任されるようになり昔のように四六時中クリューナと共に居ることはできなくなった。雑事に追われる日々、しかしエマには一つ気になることがあった。それは、城主の寝室にクリューナの母や妾以外の金髪が落ちていることが多い事だった。

 身の毛もよだつよからぬ噂も聞いた。城主は年端もいかぬ娘を好む、と。


「最近、気鬱きうつなの」


 久しぶりに一緒にお茶をする機会に恵まれたある日、クリューナが意を決したようにエマに話し始めた。


「お義父様から、夕食を伴にしなさいと言われるのよ。それも御母様が、お嫁に行かれたお姉様の病気見舞いでここにいらっしゃらない時に限って」


 弟や妹も入れずにたった二人でテーブルを囲むとのことだった。


「何を話して良いかわからないのに、お義父様の視線が怖いの。お酒を飲まれると、無言になって、視線が私から動かなくなって」


 エマは絶句した。


「今日も御母様がおられないから、きっとお誘いがあるわ。どうしよう、なんだか私とっても怖いの。こんなこと、お母様にも言えなくて……」


 体をふるわせて泣くクリューナの肩を抱きながら、エマはある決意をしていた。


「わかりました。今日は一歩も部屋を出てはいけません」


 涙を目に湛えながら、クリューナは怪訝な顔でエマを見上げる。


「何を考えているの? 危ないことはしてはだめよ」

「ええ。大丈夫よ、任せておいて。貴女が言いにくいことを私が言ってあげるわ」


 心配げにのぞき込むクリューナにエマは任せておいてとばかりに頷く。


「私、強いのよ。奥方様にだって、部屋の片付けについてご意見することがあるんだから」


 エマはクリューナを見つめて微笑むと、すっかり冷えた紅茶の入ったカップを、匙で2回かき混ぜる。


「貴女と私に、幸せが来ますように」


 同じように唱えると、クリューナも2回紅茶をかき混ぜる。

 そして二人は、子供の頃のように笑い合った。






 月光の入る窓辺で、クリューナもまた大切なエマの事を思っていた。


 あの時。

 エマが義父と対峙してくれて以来、義父のねっとりした視線はクリューナに向けられなくなった。クリューナは安堵して、エマに何をしたのかとたずねた。


「ベッドの下の髪を集めていたの。この土地の正式な権利者は奥方様だから、名ばかりのご領主様はどうしても奥方様に頭が上がらないの。だから、このことを奥方様に申し上げましょうか、っておたずねしたら、こんな顔で」


 エマは顔をしかめて見せた、それは義父にそっくりでクリューナは涙を流して笑った。


 しかし、それから二月も過ぎた頃だろうかエマの体調に変化が起きた。嘔吐して食べ物を受け付けなくなったのである。日に日に痩せていくエマの姿に、クリューナは何が起きているか、やっと悟ったのである。

 彼女は、自分の身を義父に献じていたのである。クリューナの代わりに。

 しばらくして、エマは細い銀を首にかけるようになった。お給料をもらっても普段は使わずにしまっている質素な彼女が、ペンダントトップに高価な涙の形をした黒い真珠を下げていた。

 子供を堕ろしたらしい。そんな噂がクリューナの耳にも飛び込んできた。しかし、そのころにはエマははっきりとクリューナを避けるようになって、クリューナはエマに声をかけることすらできなかった。



 そして、その日が来た。

 ある朝、母に呼ばれたクリューナは、義父が刺されて怪我をしていることを告げられた。

 犯人は、無理矢理寝室に連れ込まれたエマであった。机の上にあったペーパーナイフで腕を突き刺したらしい。噴き出した血で部屋が真っ赤に染まり、命に別状はないものの、義父は気が動転し寝込んでしまったとのことだった。


「彼女からすべて聞きました。本来なら重罪ですが、罪が重いのは我が夫のほうです」


 しかし、このような騒ぎになってしまったからには、彼女を罰しなくてはならない。平民が領主を傷つけるなどと言うことは言語道断、封建社会の維持のためには厳しく罰する必要があった。


「彼女には死刑が宣告されます」


 クリューナの顔から血の気が引く。


「そんなことをなさったら、私も生きてはいけません」

「そういうだろうと思っていました」


 震えながらも自分をにらみつける娘の強い視線を受け止めきれずに、母は目を伏せた。思えば大人しいこの娘は、いつも日陰の立場に追いやっていたのに文句一つ言わなかった。

 その娘がせいいっぱいの抵抗を見せている。

 しばらく後に顔を上げた母は、まっすぐに娘を見てうなずいた。


「彼女は死にます。ですが、これからはどこかここと離れた場所で新しい人生を歩んでいただきます」


 クリューナの目が大きく見開かれる。

 もう、会うことはかないません。貴女の乳兄弟は死んだのです。彼女の墓を建て、そして彼女には新しい人生を歩んでもらいます。私たちにできることは彼女の第二の人生が幸せなものになるように祈るだけです――。母はそう言ってクリューナを抱きしめた。

 生きていれば、生きてさえいてくれれば。黄金の髪の少女は頷くしかなかった。

 お別れをいう事は許されなかった。

 エマは唐突に彼女の目の前から姿を消した。





 領主はいったんは回復したものの、結局その後に脳卒中を起こして寝たきりとなった。もちろん二度とクリューナに魔手を延ばすことはなかったが、無二の親友、いや、本当の意味での家族を失った彼女はこの地への執着を失っていた。

 そして、領主の子供達を前にすると自分などいなければこんなことは起らなかったのにと思って、身の置き場がないような居心地の悪さも感じていた。


 そんなとき、彼女は後宮にエマに似た女性が働いている噂を聞いた。首に提げた涙型の黒真珠を持つ女性が居ると。後宮に召された女性とその使用人達は秘密保持のため、家族の訃報など、極限られた場合しか後宮から出ることを許されていなかった。

 クリューナは後宮に入ることを決意する。美しく、家柄も良い彼女の希望はすぐにかなえられ、そして、家族は誰もそれを止めなかった。


 二人は後宮で再会する。が、エマの正体がばれれば、彼女は刑罰を受けることとなる。クリューナは時折エマと視線で会話するしかなかった。だが、もう一生会えないと思った最愛の人が近くに居て元気にしてくれている。その事実はクリューナの魂に平穏を与えてくれた。


 あのことを知るまでは。

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