第8話 後宮のオオカミ(8)

「私の留守中、こんなに読んだのですか?」


 部屋を埋め尽くす書物の山を見て、スターガイザーが目を丸くする。ほんの数日留守にしていただけなのに、本と紙の束は狭くはないアンネリーゼの居室のリビングをほぼ占領していた。


「王立科学協会に寄せられたあの件に関連する情報や本を選び出してもらってきたの。文字情報は人類の叡智の伝言よ。きっとどこかに私の探す答えがあるはず――と思ってね」


 目の下に黒い隈を作ってアンネリーゼが鬼気迫る微笑みを浮かべる。頬はこけ、目は血走り、まるで伝説に出てくる地底に住む妖婆のようだ。

 このオオカミが粉骨砕身、献身的に何かをするときには多かれ少なかれ必ず下心が存在している。それを知らなければ、少しは尊敬できたのだが。スターガイザーは小さくため息をつく。多分、焦点の合ってないアンネリーゼの目の前には美しい3輪の花がちらついているに違いない。


「まったくもう、ハンナ老は手に入れた顕微鏡で小さな生き物を見るのに夢中で、私の話など上の空で聞いてくれないのよ。だから書物に頼るしかなかったんだけど」


 不満げに唇を尖らせる主人だが、スターガイザーの方を見てニヤリと邪な笑いを浮かべる。


「でも、おかげで解決の糸口が見えたような気がするわ」


 アンネリーゼは睡眠不足で血走った目をスターガイザーに向ける。


「それでは、貴女の聞き込みの成果を聞かせてもらいましょうかね」

「ほぼアンネリーゼ様の御推論通りですが、これをどうやって証明するかですね」


 さて、このオオカミのお手並み拝見。

 スターガイザーは、挑むようにアンネリーゼを見て右の口角をあげた。





 柔らかな月の光が窓から射している。

 今日もザリアニーナ様は帰ってこなかった。今宵も雑用で呼ばれることはないだろう。ほっとしてエマは布団を首まで引っ張り上げる。


 他国から流れてきた貧しい木こりの娘として生まれた彼女だが、貧しい暮らしが辛いと思った記憶はない。周りの人々も自給自足に近い同じような生活で、取り立てて貧しさを感じることはなかった。むしろ、手放したくない生活や仕事がないことでかえって幸運が舞い込んだ。

 見目が良く、大人しい母がお城の姫の乳母に選ばれたのである。何人か召し上げられた乳母の中でも、賢くて気立ての良かった母は女領主に気に入られ、乳母の勤めが終わってからも引き続いて城に召し抱えられた。配偶者を亡くして忙しかった城の女主はエマの母にそのまま娘を預けて育てさせたのである。


 それは今思えば、婿に迎えた貴族と婚姻が決まった頃でもあった。次の夫、名目上は領主となる人の前に、亡き夫の忘れ形見である娘を出したくなかったのかもしれない。

 仲間と森で狩猟中、流れ矢にあたってエマの父が亡くなり、そのまま母は城に住むこととなった。

だから、物心ついてからずっとエマの横には領主の娘――クリューナが居た。


 彼女の脳裏に、落とした絵巻の紐がほどけて広がるように幼い日々の情景があふれ出す。お抱えの教育係は新しくできた新領主の子供の世話にかかりきりで、子供時代の二人は驚くほど野放しで育てられた。エマは表だっては使用人の分を守っていたが、クリューナと二人きりの時には対等な友人であった。

 食事の時にふざけて怒られたこと、一緒に城の中を通るせせらぎで水をかけあったこと。徹夜して、城の馬の誕生を見守ったこと。こっそりと城を抜け出して野原を駆け回ったこと――。

一人ではつまらないことも、二人いれば楽しかった。一人ではできなかったことも、二人ならできた。エマの母が病で亡くなったときには二人で泣いた。


 長じるにつれて、クリューナの美しさはまるで周囲に月光を纏うがごとく際立ってきた。

 流れる滝を思わせる艶やかな黄金の髪、緑がかった明るい青色の瞳、そして、ハープの弦を思わせる愁いを帯びた長い睫毛。うらやましくていつも眺めていると、クリューナもエマを見つめ返す。


「貴女の黒い髪と黒い瞳、磨き立てられたオニキスの粒のようでうらやましい」


 恥ずかしそうに微笑むクリューナ。


「ずっと一緒に居たいな、居てくれるよね」


 クリューナはそう言ってよくエマを抱きしめた。

 クリューナは私の憧れ、そしてクリューナの憧れは私。仕える――というよりも、エマにとってクリューナは自分の命を投げ出しても守りたい人であった。自分と他人の間にある境界、だが彼女との間では境界は薄れてどこか自分の一部が流れ込んでいる。そんな気持ちにさえなった。

 実の親から顧みられないクリューナの寂しさと、天涯孤独となったエマの寂しさ。でも、二人で居ればそれも乗り越えられた。お互いにかけがえのない二人。いつか大人になって結婚をして、別々の土地に旅立つまで、この静かで温かな生活が続くはずだった。二人ともそう思っていた

 あの日まで――。

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