第6話 後宮のオオカミ(6)
アンネリーゼは花束を持って後宮の長い廊下を歩いていた。彼女の部屋は見晴らしの良い二階にあるが、目指す部屋は東側のかなり端っこにある。これは新参の者や、お役御免に近いある程度の年齢がいった女性が住まう場所であった。
後ろからむっつりとした顔でスターガイザーが付き従う。
彼女たちの目的の場所はクリューナの居室であった。
スターガイザーがドアをノックする。静かに開けられたドアの中では、事前に来訪を告げていたこともあり、すでにクリューナと小間使いの三人が出迎えるように立っていた。
アンネリーゼはクリューナに持ってきた花束を渡す。花束と言っても、通常のこぎれいに花が束ねられたものとは様相が違い、色とりどりの草花が、ごつごつとした木の枝に沿って配置されつる性の寄生植物で縛ってまとめられていた。まるで不気味なオブジェのような斬新すぎる花束であるが、クリューナは顔色一つ変えずに作法通り胸元に押しいただいた。
「まあ、今日もなんて良い香り」
顔を花束に突っ込んで匂いを嗅ぐと、クリューナは微笑んだ。
「あなたの事が心配でまた来ちゃったわ、ごめんなさいね」
「先日はアンネリーゼ様のお力のおかげで一命を取り留めました。恩人のご尊顔を拝見できる事は何よりの幸せでございます」
まだ針を刺した太ももは痛そうだが、なんとか膝を曲げてクリューナは丁寧なお辞儀をする。
その間に、アンネリーゼは勧められもしないのにつかつかと応接間に入り込み、質素だが丁寧な刺繍のある椅子に腰掛けた。クリューナも仕方なくその対面に腰を下ろす。
「もうハンナ老の薬は飲みきったの?」
「あの日に後から届いた薬は数日で終わりました。皮膚の湿疹も治りましたし、刺したところは痛みがありますが、特に膿んだりもしませんでしたので、今は飲んでいません」
「クリューナ、良かったら今日もお茶を一杯いただけるかしら。そうね、今日はローズティーで。あ、私の後ろの護衛には要らないから」
ほどなく小間使いが質素な白いカップに入った紅茶を持ってくる。クリューナが小間使いに二言三言耳打ちすると、小間使いは一礼して奥に引っ込んだ。
図々しくお茶を所望したアンネリーゼは「ごめんね。猫舌だから冷ましたいの」と言いながら、わざわざ持ってきた銀のスプーンを取り出すと何も入っていない紅茶を匙で何度もかき混ぜる。
クリューナはその様子を目を丸くして見ながら微笑んだ。
「アンネリーゼ様はいつも沢山の方の幸せを祈られるのですね」
「え? 私は温度を下げるために混ぜたんだけど」
「私の故郷では、砂糖を入れる前にその場の人数だけ紅茶を匙でかき混ぜて幸せを祈る習慣があるのです。この王国ではそういった風習は一般的ではないのですね」
「故郷? ってレザンヌだったかしら」
「はい。母はそこの女領主でした」
クリューナは匙で自分の紅茶を三回かき混ぜた後、シュガートングで砂糖を入れると、さらにかき混ぜた。
カップの中で静かに回る紅茶を見つめる優しいまなざし。春の穏やかな海を思わせる明るい水色の瞳は穏やかな光を湛えていた。後宮のオオカミはかすかに首をかしげる。伏し目がちの少女には毒を盛ったなどと大胆な発言をするとは思えない儚げな透明感があった。
この子、優しさの奥に秘めた強さを持つ雰囲気のある美人だわ。突然の感情に撃ち抜かれ、アンネリーゼは息をのむ。
地味でどこか陰があるけど、それがまた彼女の魅力に一役買っている。その秘められた美しさに気がつけば、誰でもむしゃぶりつかずには居られないほどの――。
アンネリーゼにとって清楚で真面目な子を乱れさせることほど、興奮することはない。真面目な子ほど、一線を越えた後の反応が激しい。頭の中では背後からドレスの肩をずらし、むき出しになった白い肌に唇を沿わせる妄想がオオカミの鳩尾を締め付ける。
次第に大きくなる心の中のざわめきを悟られまいと、アンネリーゼは平静を保ちながらクリューナを見つめる。
クリューナは自分の上半身を舐めるように見るアンネリーゼの視線に何か危険を感じたのか、居心地悪そうに身じろぎをした。
実のところアンネリーゼはここ数日毎日クリューナを訪ねてきていた。お茶を飲んで特に当たり障りのない会話をして帰って行く。
ただ、当たり障りない、と言ってもアンネリーゼの巧みな話術でクリューナは自分の生い立ちや実家の話をけっこう聞き出されてしまった。父や兄が早くに亡くなってしまい田舎貴族の箱入り娘である母は広大な領地を切り回すために仕方なく後添いを迎えたこと。弟や妹が生まれ、実家を居心地良く感じなくなったクリューナは、後宮への推薦をもらいここに来たこと。
あまり話したくない思い出も含まれていたが、アンネリーゼが示す共感の仕草や言葉が巧みで、ついつい話してしまったのである。無遠慮だが妙に純粋で、悪い人ではない、とクリューナは感じている。
「どうして、ザリアニーナの取り巻きになっているの?」
「それは――、この後宮に知り合いもなくて、たった一人で寂しかったからです」
しばらくの沈黙の後、アンネリーゼはいつもの質問を繰り返す。
「ねえクリューナ、あんなことになったのは初めてなの?」
「ええ、ザリアニーナ様はいつもお誕生日の方にあのクッキーをプレゼントされます。他の方からお裾分けをいただいて食べたこともありますが、あの日までは何も起りませんでした」
「急になにか身体が反応したのではないの?」
「アンネリーゼ様は、ザリアニーナ様の肩をお持ちなのですか?」
実はあの事件の翌日、許可を得て後宮に招聘したハンナ老を連れてアンネリーゼは見舞いに来たが、その後はしばらく姿を見せなかった。数日前から急にまた部屋を訪れ始めたのはなぜか、クリューナはいぶかしげに目の前の客人を見る。
それに会話の話題もだんだん変化している。昨日ぐらいからあの件に関する質問が多くなってきた。彼女としては触れて欲しくない話題だが、後宮の中では権力のある寵姫ゆえ、来訪を断ることもできない。自分のことを疑って何か探っているのだろうか。
アンネリーゼの来訪に何らかの意図を感じ始めているクリューナは、慎重に言葉を選ぶ。
「ハンナ老にも何度もおたずねいただきました。同じお答えしかできずにすみませんが、あの日以降、ピーナツ入りのクッキーを食べても平気でございます」
クリューナは首をかしげてじっとアンネリーゼを見た。アンネリーゼが疑わしそうに首をかしげるのを見た瞬間、やにわに傍らの箱からピーナツ入りのクッキーを取り出すと、割って口に入れる。だが、しばらくたっても彼女の体には何も異変が起らなかった。
クリューナはにっこりとアンネリーゼに笑いかける。
「本当に、今まで赤くなったり息が――」
「アンネリーゼ様」質問が終わらないうちにクリューナが口を挟む。
「お聞きになっているのかもしれませんが、私はあの方に毒殺されそうになったのです。あの方が私に言い寄ってきたのを断ったのを理由に」
たおやかな外見とは裏腹に、毅然と言い切るクリューナの姿に、アンネリーゼは驚いたように眉毛を上げた。
「また、穏やかではない発言ね。言い寄ってこられたのはいつ?」
「庭園で皆とお茶をしているときに、耳元にささやかれました」
「誰か、見ていた?」
「い、いいえ、他の方はちょうど別な方を向いておられて」
少女のかすかな動揺にアンネリーゼの目がギラリと光る。
「後宮内では、他人の命をとろうとしたものはむち打ち30回の上、一生幽閉と決められていることを知っていて? むち打ちの傷が元で命が無くなる者もいるし、なぜか幽閉されてすぐ急死するものもいると聞いているわ。あまり安易なことを言わない方がいいわよ」
「天の報いですわ」
クリューナがつぶやいた。長い睫毛の下で、瞳は今まで見せなかった強い光を放っている。意を決したように彼女はつぶやいた。
「天上の神々はザリアニーナ様がどんなことをしてきたか知っていますから」
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