第5話 後宮のオオカミ(5)


「あら、それは残念ね、おーほほほほ」

「ちっとも残念そうなお顔には見えませんが」


 不機嫌そうにスターガイザーが鼻を鳴らす。彼女の右目の周りの青あざは大分薄くなっているが、しかしまだその痕はすれ違った人が振り返るレベルである。

 おまけに乱闘に対しての処罰が減俸1ヶ月となり、その間アンネリーゼの警護を無料で行わなければならないという事実が、彼女からやる気を著しく奪っていた。


「ハンナ老をお招きしたのは私が指示した事だと、ちゃあんと後宮監督官には言っておいたんだけど」


 アンネリーゼはわざとらしく肩をすくめる。言葉の裏から「私は悪くないからね」という気持ちが透けて見えたスターガイザーはうんざりした表情を浮かべた。


「ま、処罰はしないといけないけど、王子のご寵愛が深いアンネリーゼ様を罰するわけにはいきませんからね。何しろ私の属する警備隊は組織の性格上、上下関係やそれを破ったときの罰則や責任の所在が厳格なものですから」


 後宮を含む王宮を警備する兵士達は、国家組織の警備隊のなかでもエリートである。

 それに対して、同じく警備隊所属であっても、地位の高い姫君達に付けられる『後宮護衛兵』は、家柄も教養も吟味されて選ばれるが、王宮の警備兵よりはかなり地位が低かった。彼らは後宮という特殊な環境から女性か、もしくは声変わり前の少年のみが勤めることになっていたが、ほとんどが単なる名誉職として形骸化しており、もっぱら後宮の美女達の暇つぶしの相手であることが多い。


 真の『本格派』はスターガイザーくらいである。と、いうのもアンネリーゼの口が悪いことと、王子からの寵愛を一身に受けていることで、彼女の命を狙うものが少なくないためであった。いい加減な人間が護衛につくと、主人もろとも命が亡くなってしまうだろう。


「ほおんと、融通が利かないつまんない組織ね、警備隊って」


 アンネリーゼは大げさにため息をつきながらお気に入りのチョコレートボンボンを紅色の口に入れる。


「せっかく人助けしたっていうのに、罰則だなんて」


 その時、コン、コン。扉をノックする小さな音が二人の耳に飛び込んできた。

 片手を剣の束に置き、のぞき穴からスターガイザーが確認する。穴は斜めに開けられており、外側からだと天井しか見えないが、背の高いスターガイザーが内側から覗くと下方が見えるようになっていた。


「スターガイザー、どなたなの?」

「ザリアニーナ様のところの小間使いだと思います。どうも泣いておられるようで」


 危険なものは持っていないことを確認したスターガイザーは入れて良いかどうか確認するように、アンネリーゼの顔を見る。

 スターガイザーの顔が曇る。なぜなら、アンネリーゼの顔に不穏な笑みがあったからであった。ザリアニーナのお付きの小間使いたちは美女揃い。この雌オオカミが何を考えているかは明白である。


「お断りしましょうか、オオカミ注意報が出ていますと――」

「馬鹿なことを言わないでちょうだい。女の子が泣いているなんて一大事、放ってはおけないわ、すぐに入っていただいて」


 スターガイザーが扉を開けるとそこには、目を真っ赤にした小間使いが一人立っていた。頭の上にぴったりと艶やかな黒髪を結い上げて、洗いざらしたエプロンを身につけている。細い身体に不つりあいな胸が身体に合わせた服に窮屈そうに押し込められていた。

 彼女は荒れて赤くなった手で涙をぬぐい、嗚咽をこらえながらなんとか名を名乗った。


「わ、私はザリアニーナ様に召し抱えられている、小間使いのエマです」

「アンネリーゼ様がお会いになるとおっしゃっています、どうぞお入りください」


 スターガイザーに導かれて、腰をかがめるようにして部屋に入ったエマは扉が閉じるとすぐに膝を突いた。そして首筋から背中まで露わになるほど、頭を低くして床にひれ伏すと、細い肩をふるわせながら号泣しはじめた。


「王子のご寵愛の深いアンネリーゼ様、ご主人様をどうぞお助けください」

「可愛らしいお方。どうぞこちらにお座りなさい」


 アンネリーゼはエマを抱えてるようににして立たせると、部屋に招き入れる。肩から手が滑ったように見せかけて胸に到達する直前で、スターガイザーが大きく咳払いする。お節介な護衛に尖った一瞥をくれると、悔しげにアンネリーゼは、身体を離した。


 泣きじゃくっている娘をテーブルの椅子に座らせると、アンネリーゼは持ってこさせた温かい紅茶を彼女に勧めた。エマは、一礼して匙で3回かき混ぜて、傍らに乗せている砂糖の塊を入れた。


「一体どうなさったの?」

「ご、ご主人様が、罪に問われて連れて行かれたんです」

「ザリアニーナが? 何かのまちがいでしょう。彼女は法を犯すような人間ではないわ」


 意地が悪くて、見栄っ張りで、高慢。性格的には最低な女だけど。アンネリーゼは心の中で付け加える。


「急に後宮統括官様から指し向けられたお迎えが来て、それから戻っていらっしゃらないのです。噂では、クリューナ様に誕生日プレゼントして差し上げたクッキーに毒が入っていた疑いで幽閉されたとの事でした。お願いでございます、ご主人様の罪が少しでも軽くなるように寵姫のアンネリーゼ様から王子様にお願いしていただけませんでしょうか」

「はん、あの押しつけがましい手作りピーナツクッキーね」


 ザリアニーナが、自分は美しい上に学問もあり、なおかつお菓子も焼ける家庭的な女性だ、という宣伝に使っているクッキーの事はアンネリーゼもよく知っていた。


「彼女の実家は敵が多いからザリアニーナが寵姫になって権力を持つのを嫌がる人は多いでしょうね。えん罪だとしても彼女の隙につけいり後宮からの失脚を狙っている人にとって、これはまたとない機会。助け出すことは難しいかもよ」


 エマによると彼女は数日前極秘裏に警備兵に連れて行かれたらしい。後宮の事件は外に漏れることを恐れ、内々でろくな裁判もされずに関係者が始末されてしまうこともある。  

 突然誰かが居なくなっても、みな詮索はしない。そして事が済んだある日、突然使用人に暇が出され後は空き部屋が残る。それをも無視して日々を送るのが後宮の中での暗黙の了解、生き延びる術であった。


 この件に関しても関係者には箝口令が敷かれている。だが、エマは主人が心配でいてもたってもいられなくなったようだ。それで王子のお気に入りでもあり発言力の強いアンネリーゼに相談しに来たらしい。


「あれは、きっと食べ物が合わなかったのよ。第一毒殺しようとしたなんて証拠はないのでしょう? 彼女から見て格下のクリューナを毒殺する意味は全然ないじゃない」


 エマは黙ってうつむいている。


「そういう体質の人って稀だけどいるわ。小麦とか、ピーナッツとか、食べるとじんましんが出たりして、体調が悪くなってしまう人がね。お誕生日のクッキーの中で小麦は日頃から良く使うから、中に入っていたピーナッツが合わなかったんじゃ無いかしら」


 エマはそっと顔をあげてアンネリーゼを見つめた。


「クリューナ様に食べられないものはありません。クリューナ様付の小間使いとお話ししても、あれ以後、当日と同じお菓子を食べてもとくに何も起らないと――」

「え?」


 アンネリーゼは小間使いの目をのぞき込む。


「詳しく聞かせてちょうだい」





 後宮は南向きの細長い建物であるが、その東側の一部分は北向きに折れている。ここに作られた数部屋には、後宮にもめ事が起ったときなどに警備兵が詰め、秘密裏に処理するために使用されていた。

 そして、半地下には表には出せない問題を起こした娘を監禁する部屋が作られていた。何しろ後宮は王室の跡継ぎの内密な情報を得ることができる場所である。何か事件が起った場合、詳細を外に漏らすことができない事もあるため、まずは後宮内の部屋に幽閉することになっていた。

 そこには牢を思わせる鉄格子はないが、わずかな朝日しか入らないかび臭い部屋はそれまで栄華の中にいた娘達の心をへし折るには充分であった。長く幽閉されたものの中には精神を病んでしまった者もいるという。


「何しにいらしたの? 寵姫の権力を利用して、落ちぶれた私の姿を笑いに来られたのかしら。逃げも隠れもしませんからこのみすぼらしい姿を充分にご堪能くださいな」


 幽閉された部屋に入ってきたアンネリーゼの姿を見たザリアニーナは、吐き捨てるように言うと眉間に皺を寄せて横を向く。

 天に届けとばかりに高く結い上げたご自慢の髪は無残に解かれ、櫛も与えられて居ないのであろう、乱れたまま腰まで垂れ下がっている。

 頬はごっそりとこけ、剥げかけた化粧は朽ちた家の壁を思わせた。気丈に振る舞ってはいるが、連日の諮問で心は相当弱っているのであろう。やつれた姿は痛々しいが、それがまた凄惨な美しさになっている。


「ふふん、薄幸の美女気取りで一度は言ってみたい台詞ね。残念ながら貴女には全く似合わないけど」


 無礼極まりないアンネリーゼに鋭い視線を向けたザリアニーナだが、一転、あっけにとられたようにポカンと口を開けて眉をひそめる。


「ちょっとあなた、なんで涎を垂らしていらっしゃるの」


 慌ててハンカチを口元に当てるアンネリーゼ。気位の高い美女がこのように心の鎧を剥ぎ取られて弱っている姿は、後宮のオオカミの大好物であった。このまま押し倒して見かけ倒しとなった心の突っ張りを折り、甘くいじめ抜けばどれだけ楽しいか――という妄想が彼女の頭の中に充満し、口のしまりを緩くしてしまったのである。


「馬鹿面下げて一体何をしに来たのよ、アンネリーゼ」

「まあ、コネと袖の下を駆使してやっとここにたどり着いたというのにご挨拶ね。貴女を助けに来たのよ。時間も余りないから単刀直入に聞くけど、貴女とクリューナとはどんな関係なの?」

「どんなって、私を慕って付いてくる娘さん達の一人よ。私は貴女と違って優しくて面倒見が良いから、知らないうちに周りにどんどん人が集まってくるの。もちろん、いろいろな楽しい催しにもお誘いするし、お誕生日にはお祝いを欠かさないし――」

「あの貧乏くさい手作りピーナツクッキーね」


 ザリアニーナは目を剥いて、腹の立つ来訪者をにらみつける。


「毒が入っていたらしいじゃない」

「まさか。いつも皆さんにお配りするのと全くレシピで作った、ピーナツ入りクッキーよ」

「でも毒が入っていたって、クリューナに訴えられたのよね。彼女から相当恨まれてたのかしら」                                                                                                               

「冗談は止して。あの子とはそんなに深い付き合いではないわ。第一、私が毒を入れる理由がないじゃない。なんで私があんな影の薄い子を毒殺しなければいけないのよ」

「噂ではあの娘が貴女に付き合って欲しいと言われて断ったから、って聞いたわよ」


 ザリアニーナは目を丸くする。


「私は王子の寵姫になるためにここに居るのに、なぜクリューナごときに言い寄らねばならないの?」

「貴女、嵌められたようね」


 アンネリーゼは大きく眉を上げると、楽しげに口元をほころばした。

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