第4話 後宮のオオカミ(4)
「しばらく前にピーナツ入りクッキーを食べたようです」
「これはまた、一刻を争うのう」
一目見ただけでハンナ老は眉をひそめる。四角い革製の鞄を開けると布に包まれた液体の入った大きなガラス瓶を出してきた。
「そ、それは何ですの?」
怪しい匂いのするものが大好きなアンネリーゼは身を乗り出す。
「穢れなき塩水じゃ」
うるさそうに言うと老婆は、取り出した白い陶器の器に塩水を流し入れ、そこに清潔な布きれを浸す。
「ちょいとお前、私の鞄の中から袋付きの針を出しておくれ、モタモタするんじゃないよ」
叱責されたアンネリーゼは慌てて袋を開けると尖った針のようなものに糸で小さな袋を付けた器具を渡す。袋の片側は開いているが、それを絞るためと思われる糸が用意されていた。しわくちゃの手がてきぱきと動き、その奇妙な器具を塩水で洗い清めていく。
「これはガチョウの羽根の先っちょと後ろを切って、片っ方を動物の膀胱につなげているものじゃ」
いちいちアンネリーゼに聞かれるのがめんどくさいのか老婆は先に説明を加える。そして今度は横になったクリューナに声をかけた。
「娘さんや、今から治療をする。手当しなければ死ぬかもしれん。痛いし、太ももに傷が残るだろう。それに下手すると治療で亡くなったり、太ももの傷が膿んで寿命が縮むかもしれんが、治療を受けるか?」
老婆は大きな声で横になった少女に声をかける。この世に別れを告げかけている少女は苦しげに息をしながら小さくうなずいた。
「痛いが我慢しておくれ」
今度はアンネリーゼの方を向く。
「ちょいと、お前さん」
「はいはい」
いそいそと嬉しそうにハンナの鞄を開けて、いつでも指示に従えるとばかりアンネリーゼは待ち構えていた。
「その小さな茶色のガラス瓶に入った液体を、上から一つめの目盛りまでこの袋に入れておくれ」
塩水で手を清めた後は、あまり他のものを触りたくないらしい。アンネリーゼは老婆が口を開けた動物の膀胱で作った袋の中に液体を入れる。老婆は糸で袋の空いている方を器用に縛ると、袋を絞るようにして液体をつながった羽根の先端から一、二滴押し出す。そして顎をしゃくってアンネリーゼに指示をする。
「太ももの所の肌を出せ」
「お任せください」
アンネリーゼはフリルで飾られた娘のスカートをはぐり、白い太ももを露出した。
「太ももの横を塩水で拭け」
アンネリーゼは老婆から渡された塩水に浸した布で太ももの横を拭く。
「周りのものは、この娘を動かぬように押さえておけ、急ぐんじゃ」
老婆の一喝で、周りに居た小間使いの少女達がひざまずいて、クリューナの肩や手足、足首を押さえる。クリューナは抗う元気もなく苦しい呼吸を続けている。
「痛いぞ。動くな、我慢しろ」
ガチョウの羽根先の尖った部分がブスリと太ももに深く突き刺さる。クリューナの体がびくりと跳ねた。老婆は袋を押して、中の液体を絞りだす。
「ひいっっ」
クリューナよりも、周りの少女達の方が目を剥いて悲鳴を上げる。
すぱっと針を抜いた瞬間、周りの小間使い達が数人ばたりと倒れた。
「この速さで数を数えろ、いーーち、にーーい、さーーん、三百まで数えるんだよ」
周りに集まっていた後宮の娘達が声を合わせて、数え始める。
驚いたことに、しばらくするとクリューナの息が落ち着いてきた。
「脈が触れてきましたわ」
アンネリーゼの声に老婆は大きくうなずいた。
「そうじゃろう、そうじゃろう、わしら流浪の民に伝わる秘伝の薬。豚の腎臓の上にある臓器から作った薬じゃ。これは蜂に刺されたり、薬や食べ物が合わずに、息ができなくなったり心臓が弱ったりしたときに良く聞くんじゃ」
腎臓の上には副腎という臓器があり、そこでは心拍数や血圧を上げるホルモンであるアドレナリンなどが作られている。アナフィラキシーショックという激烈なアレルギー反応の場合にこのアドレナリンを筋肉注射することがあるのだが、この働きが正確に立証され、薬品化されるのはこの国においても二百年余り後のことになる。
だが、この流浪の民は経験的にそのことを知っており、試行錯誤の末に結晶化の方法を独自に編み出したのであろう。
三百を数え終ると、ハンナに言われるままにアンネリーゼ達はさらに数を数え始めた。六百を過ぎた頃にはクリューナの顔色に血の色が戻り、ゼイゼイ言っていた息も安らかになっていた。目もぱっちり開いて、簡単な受け答えができるようになっている。
「もう、この注射をしなくても大丈夫じゃろう。しばらくは立たすな。もう一度ぶり返すこともあるから担架で部屋に運び入れ一日は安静にして、誰かが必ず付きそうようにしておけ。勘定はあとでお前さんに請求するからね、三日以内に持ってこさせておくれ。言っておくが安くはないよ。今評判の顕微鏡とやらを買いたいんでね、微生物とやらを見てみたいんじゃよ」
大きく安堵の息をしてハンナは広げた道具を片付け始める。
「しかし、間に合って良かった。手遅れになるとこの薬を入れて治療しても反応しないことがあるからのう。追加の薬は返ってすぐに調合して届けさせるようにしよう」
「ああ、ハンナ様。貴女はきらめく叡智の塊、どうぞお手を触らせてください」
ハンナに駆け寄ったアンネリーゼは皺だらけの手を両手で包むと鼻息荒く何度も舐めるように頬ずりする。あまりのしつこさに老婆は顔を引きつらせて体を引いた。
押し頂いた手の甲に口づけをしようとした瞬間、ハンナの手がするりと抜けアンネリーゼは自分の掌に顔を突っ込む。
「いつもながら気持ちの悪い奴じゃなあ」
そのままハンナはぼろ布のような服を翻してひょこひょこと逃げるように去って行った。
「ハンナ様、あなたは永遠のロマンスローズ。なんと気高く美しいの……」
両目にハートを浮かべながらアンネリーゼは老婆の後ろ姿に向かって名残惜しそうに手を振る。
「まったく貴女は女性とあらばすぐ欲情して。節操ないことこの上なし」
後ろに立って腕組みをしながらスターガイザーが肩をすくめる。髪を振り乱し、襟は半分引きちぎられ、右目の周りには青いあざができていた。
「ええ、貴女以外ならね。それにしても、相変わらずやることが野蛮ですこと」
アンネリーゼは庭園の入り口に積み重なる兵士の山をチラリと見ながら、大きく首をふった。
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