第3話 後宮のオオカミ(3)
「全く、良くお食べになりますね」
後宮に勤める使用人の女性達の食事は、1階に設けられた広い食堂でまかなわれている。
だが、食堂を使うのは勤め人だけではない。庭園に面しており、大きなガラス窓からの日差しが明るい最上の場所は、特別に区分けされて身分の高い姫君達専用の食堂として使われていた。
自分たちの居室にも調理場が作られており簡単な食事を作れるようになっている。姫君によっては専属の料理人を雇い三食作らせる者もいるが、食堂には腕の良い料理人を揃えているうえ、広々とした開放感があるため、後宮の女性たちは社交を兼ねてここに来て食事を取ることが多かった。食堂の料理人は交代制で年中無休。時間をずらして訪れても、丁寧な対応を受けることができた。
今、アンネリーゼの目の前には大きな銀の器が置いてある。その上には食べやすいようにカットした様々な果物が乗せられていた。
この国では旬しか出回らないリンゴや蜜柑も王宮では年中食べることができるし、バナナやマンゴー、干したアンズやナツメヤシなど南方の果物も決してめずらしいものではなかった。
大きな港を持ち貿易で栄えるハッセブラーン王国には、各地から珍しい食べ物が集まっていた。もちろんそればかりではない、人種や宗教にこだわらない鷹揚な政策もあって、様々な文化が入り交じり、最先端の学問が栄えている。
「貴女も、お肌のためには沢山の果物を食べた方が良いわよ、スターガイザー。ま、脳天気に日光の下で鍛錬する貴女はもう手遅れかもしれないけど」
食べ終わった後、アンネリーゼは手鏡で輝くように美しい自分の肌を映してうっとりとポーズをとる。
「果物の食べ過ぎではないですか、以前と比べて心なしかお顔がふっくら――」
「何ですって?」
アンネリーゼは慌てて顎から首のラインのチェックをする。肯定はしたくないが、顎の下にわずかな厚みが加わった気もする。
「大きな顔をしすぎるから、顔が大きくなったんじゃないですかね」
アンネリーゼが目を剝いて何か言い返そうとしたとき、猛禽に襲われた鳥達のような悲鳴が聞こえた。
「庭園の方向ね。ザリアニーナ達に何が起ったのかしら? 見てらっしゃい」
アンネリーゼの言葉が終わらぬうちに、左手で剣を押さえてスターゲイザーが走り出す。長身だが華奢なその姿は風に乗るかのように瞬く間に見えなくなった。
「まあ、はしたない。野生の獣より早いわね」
こけないようにドレスの端をつまみ上げ、アンネリーゼも急いで悲鳴の方向に向かう。後宮の女性達は、事件に巻き込まれるのを恐れてか、だれも部屋から出てこない。
アンネリーゼが行くと花に囲まれた噴水の傍らで、金髪のまだうら若い娘が倒れていた。周りに数人の侍女がかしづき、扇で仰いだり背中をさすっているが、娘の苦悶の表情は険しさを増すばかり。
「く、苦しいっ」
喉に手をやって、紫色の唇で息も絶え絶えだえに訴える。長い睫毛が苦しげに瞬いている。
「アンネリーゼ様、私は医務室の医師を呼んでまいります」
「いや、彼らでは無理よ。こういう激しいのはハンナ老でないと。大至急お連れして」
アンネリーゼは後宮のすぐ近くに住んでいる流浪の民の施療師の名前を挙げた。その名を聞くなり、短い髪をなびかせてスターガイザーが飛び出していく。
「何か喉に詰まらせたの?」
アンネリーゼは手近にいた小間使いの少女にたずねる。その頭は乱れて飾りのように桃色の花びらが引っかかっていた。おそらく追いかけっこでもして走り回ってはしゃいでいたのであろう。
「いいえ、食事はかなり前に召し上がられています」
「症状が出たのは?」
「今し方。それまで私たちと楽しく遊ばれていたのですが」
「何か、変わったものは食べた?」
「他の姫君と同じ食事ですが、今日はお誕生日だったのでザリアニーナ様お手製のピーナツ入りクッキーを食べておられました」
その時、高い頭を振り立てて、ザリアニーナが向かってきた。いきなり彼女が倒れたのでとりみだして、何か怒鳴り散らしていたようだ。周りの小間使いの怯えた表情がそれを如実に伝えている。
サリアニーナは娘の横に立つアンネリーゼを見つけると目をつり上げた。
「貴女何しにいらっしゃったの?」
「何しにって、悲鳴が聞こえたからよ」
「貴女にはなんの関係も――」
すべてを言わさず、どん、と肩を突き飛ばしてザリアニーナをどけるとアンネリーゼは倒れている娘の傍らに膝を突く。
「ちょっと貴女、何するのっ」
「役立たずは引っ込んで、指でもくわえて見てなさい」
アンネリーゼの目尻が尖って、ザリアニーナをにらみつける。その気迫に押され、美女は悔しげに息を吸い込むと後ろに下がった。
「ちょっと服を剥がせるわよ、外から見えないようにみんな立って周りを囲ってちょうだい。それと誰かハサミを持ってきて」
アンネリーゼは手慣れた様子で胸の前のボタンを外す。はさみで体を締め付けているコルセットを切ると苦しげに上下する上半身があらわになった。顔から白い肌にかけて、わずかに盛り上がった斑状の赤い染みが散らばっている。
「あなた、お名前は?」
「クリューナ」
額に汗の粒を浮かせて、朦朧としながらもかすれた声で娘が応える。
「声が出る、ってことは喉が食べ物で完全に塞がっているって訳ではなさそうね。それにしてもこの湿疹――」
開け放たれた白い胸にアンネリーゼは直接耳を付ける。ゼイゼイとまるで壊れた笛のようなざらついた呼吸音が聞こえてきた。
手の脈を触れるがそれはとても弱く、ともすれば触れなくなるはかなさである。
「足を上げて。血の巡りの力が弱いみたい」
アンネリーゼの指示で、呆然と立ちすくんでいた周りの娘達が慌てて持ってきていたブランケットを何枚も丸太の様に丸めて伸ばした足の下に突っ込む。
「わかる? クリューナ」
クリューナは目を閉じていたが、ゆっくりとうなずいた。
「まだ意識はあるわね」
にわかに、庭園の入り口が騒がしくなった。
人々が目を向けると、ぼろ切れのようなマントを被った老婆がスターガイザーに背負われて入って来た。そこに続いて、警備兵の一団が追いかけて来る。
「待て。いくらお前でも、許可なく後宮に不審な者を入れるのは規則違反だぞ」
「お見逃しを。この方は薬学に詳しいハンナ老です。古今東西の怪しげな、いや、様々な薬に並々ならぬ知識をお持ちの方です。重病人が出ています。許可を取っている暇はないんです」
スターガイザーが首を後ろに曲げて駆けつけてきた警備兵達に理由を説明するが、彼らも仕事である。追いかけてきた兵士の一人が老婆の肩を掴んで引きずり下ろそうとする。
「この石頭どもっ」
くるりと振り向いたスターガイザーは素早くハンナ老を下ろすとその長い足で相手の顎の下を蹴り上げる。のけぞって倒れる兵士は、後ろの兵士に当たり二人とも地面に腰を突く。飛びかかってきた兵士は、身を沈めたスターガイザーの拳が鳩尾深くに決まり、がっくりと膝を突く。
スターガイザーを応援する黄色い声が湧き上がる。スターガイザーの名前を聞いて部屋から出てきた娘達は、相手を次々に打ち負かす華麗な技を目の当たりにして、大興奮である。たちまち庭園は、娘達の拍手と悲鳴の大合唱となった。
「さ、参りましょう、ハンナ様」
迎えに来たアンネリーゼは長く垂れ下がった皺だらけの鼻と、尖った耳を持つしわくちゃの老婆の手を取った。
「あの若いのは大丈夫かね」
老婆はくぼんだ目をしょぼしょぼさせながら一人で数人の兵士を相手にしているスターガイザーの方をチラリと見る。
「ええ、あやつは礼儀は知りませんが、武芸の腕だけは確かです。きっと欲求不満のよい解消になるでしょう」
スターガイザーのモテぶりに、苦虫をかみつぶしたような表情でアンネリーゼは病人の傍らに連れて行った。
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