第2話 後宮のオオカミ(2)

 午後の日差しがステンドグラスの入った後宮の窓を通して、白亜の長い廊下に色とりどりの色彩をまき散らしている。


「また、何かいらないことをおっしゃったんじゃ無いんですか?」


 香月の間から出てきたアンネリーゼに付き従う長身の護衛が、その金色の瞳をつり上げて大きく鼻息をならす。アンネリーゼを追いかけて早足になると、首のところで一直線にカットされた艶やかな銅色の髪がさらさらと揺れて、きらめきをまき散らす。両手遣いらしく、腰にさげられた二本の細い剣は歩くたびにカチャカチャと軽快な音を立てた。


「王子の顔色が優れませんでしたよ」

「ああ、あれは寝不足」


 羽扇で欠伸をかくしながら、アンネリーゼはハンカチで涙を拭う。


「あんな時間まで原稿を見直す手伝いなんかしないで、途中で見捨てて寝れば良かった」


 アンネリーゼが近づくと、広い廊下にいた娘達が、みな次々に廊下の壁際に避けると頭を下げて礼をする。

 香月の間から下がる女性と廊下ですれ違った時には、その身分の上下に関係無く、壁際に避け、頭を垂れてスカートをつまみ腰を折る最上級の礼をするのがこのハッセブラーン王国の後宮のしきたりであった。

 だが、そこは女同士の世界、ちょっとした掟破りは、お咎めなしで見逃されることがしばしばである。


「いつもながらこの廊下、人通りが多いわね、スターガイザー?」


 前を行くアンネリーゼの目がつり上がっている。


「さ、さあ……」


 いきなり足を止めるアンネリーゼ。足が長いスターガイザーは、歩幅が狂ってつんのめる。その隙に、あるじは素早く後ろに回り込んだ。


「これ、なあに?」


 スターガイザーの腰に巻かれた剣帯の背中側には、多数の封筒が差し込まれている。ほとんどがピンク色で、中には封筒の外まで熱烈な愛の言葉が書いてあるものも多かった。

 むんずと掴んで、アンネリーゼは後方でお辞儀をする娘達をにらみつけた。


「皆さん、これはどういうことですの。私の護衛に何かご用?」


 顔を上げて恋文が見つかった娘達は、黄色い悲鳴を上げて我先に逃げていく。

 実のところ、これはアンネリーゼが香月の間に入った翌朝のいつもの光景であった。彼女の護衛であるスターガイザー目当ての娘達が、アンネリーゼが朝ここを通ることを見越して、推しを見に集まるのである。


「全くこの口うるさい小姑のどこがいいのかしら。女のくせに筋肉質で、背ばかり高くて、細い棒っ切れのような体つきなのに」


 ギロリとにらみつける主人の鋭い視線、もう慣れっこになっているクールな剣士は掌を天井に向けて肩をすくめる。


「ま、人徳かと」





 その時、前方から数人の娘を従えて、そびえ立つように金色の髪を結い上げた女性が能われた。フリルの付いたドレスに宝石をこれでもかと縫い付けているため、歩くたびに全身がギラギラと光る。その宝石付きドレスは、豪商である父親から送られた自前のものであった。

 彼女はアンネリーゼを見ても、お辞儀などしない。つかつかと近寄ってくると、彼女の鼻先に顔を寄せて、見下したような笑いを浮かべた。


「アンネリーゼ、今日も絶好調のようね。目の下の隈が良くお似合いですこと」

「あら、ザリアニーナ。今日も派手で品がないわね。ま、体に立体感が無いから宝石で光らさないとメリハリが付かないから仕方ないって事かしら」


 アンネリーゼは自分の胸に手を当てて強調してみせながら、こめかみまでつり上がった相手の紫の目を、無理矢理顎を上げて下目遣いでにっこりと見返す。


「うわ、口から毒針の応酬だ」


 スターガイザーには、二人から立ち上るどす黒いオーラが見えるような気がした。


「ところで今日はきれいどころを従えて、どうなさったの?」


 アンネリーゼのねっとりした視線が後ろに控える娘達を舐める。国中から集められた美貌の娘達は怯えたように顔を伏せた。


「良い天気だから、テラスで皆さんと午後のお茶をすることにしたの。どうしたことか、皆さんが私を慕って集まってこられますの、貴女と違ってね」


 アンネリーゼの顔色が変わる。一番弱いところを突かれたようだ。


「ほほほ、アンネリーゼ気をつけなさい。後宮に長く住まうと女から化け物に変わるって言われているようですからね。あなたからにじみ出る妖気を皆怖がっているみたいよ」


 ザリアニーナは銀色の扇を開いて、まるで邪気を払うようにアンネリーゼに向かって風を送ると娘達を引き連れて庭園に面したテラスに向かっていった。その後ろを沢山の菓子やパンの入ったかごやミルクの入ったポットを持って小間使いたちが慌てて追いかける。


「な、何が妖気よ。私にだって取り巻きはいるわ」


 アンネリーゼは悔しげに顔を赤くして一行を見送る。


「ま、貴女を慕っている方というのは極めて趣味の偏った少数派ですから――」

「うるさいわね、スターガイザー」

「一応、王子の寵姫なのですからその自覚を持って、もっと他の方にも鷹揚な心をお持ちになってはいかがでしょうか」


 振り向いたアンネリーゼの目は、先ほどまでとは違いギラリと輝いている。

 鋭く尖った人差し指の爪を、スターガイザーの扁平な胸にめり込ませながら主は片眼をしかめてにらみつける。


「いいこと? 私がこの後宮にいるのは、王子の妻になるためではなくてよ。私は狩人、そしてここは私の狩り場なの。王子公認のね」

「はあ」また始まった、とばかりに護衛は天を仰ぐ。

「見てなさい、ザリアニーナ。高慢で、意地が悪くて、見栄っ張りで――そして後宮一の美貌を持つ紫の毒百合」


 遠くから笑いさざめく声が聞こえてくる。


「貴女を絶対に屈服させて、私のものにしてみせるわ」


 アンネリーゼは鼻息荒く宣言して、桜色の舌で紅色の上唇を舐める。


「ああ、たまらない。性格が悪くて高慢ちきな美女って、すっごーくそそられるわ」

「自己愛ですか?」


 煉瓦も貫通するような鋭い視線で口の減らない護衛を制すると、アンネリーゼはザリアニーナが消えていった廊下をじっと見る。


「見てなさい。ここを百合の花園に変えて、私をこんな狭い世界に無理やり連れてきて閉じ込めた役人どもに吠え面をかかせてやるから」


 すでに目は、獲物を見つけた猛獣のようにギラついている。


「後宮という牧場にいる可愛い子羊は、みな私の虜にして喰い尽すのよ」

「だからおよしなさい、って……」


 額に左手を当ててつぶやくスターガイザーの声など、妄想に浸りきる主には届いていない。


「二人っきりになって緊張が増す空間。相手が危険を察知して身を翻して逃げる直前の一瞬をガブリとやるの。逃げられないと悟って絶望に閉ざされる子羊の表情が、私の欲情を極限までかき立てる。そして一度私の牙の甘い深みにはまってしまえば、どんな清純な生娘も一生抜け出せなくなりましてよ、ああ、考えるだけでゾクゾクする。おーーーーっほほほほほほ」


 アンネリーゼは荒い息をしながらうっとりとつぶやく。多分独り言のつもりなのだろうが、心の声がダダ漏れなのだ。

 顔を引きつらせるスターガイザー。しかし、妄想に浸った主には誰が何を言っても聞こえやしない。


「後宮は私の狩り場。私は羊の群れに紛れ込んだ、孤高のオオカミ」


 後宮のオオカミはそのどす黒い陰謀とは正反対の鈴を転がすような笑い声を上げた。

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