アンネリーゼ・ドフィーの優雅な陰謀――後宮のオオカミは今日も舌なめずり――

不二原光菓

第1話 後宮のオオカミ(1)

 夜の後宮は艶やかな香りに満ちている。特に香月の間と呼ばれている王子と夜を過ごすための場所は、壁際の白い小机の上に紅玉で縁取られた猫脚の香炉が設えてあり、白い灰の上には、選び抜かれた香木がなまめかしく踊る煙を立ち上らせて――。


「うぎゃっ」


 恐る恐るむき出しの肩に触れようとした手は、羽根付の細い扇に容赦なく叩かれてあえなく撤退した。扇とは言え、思いっきり叩かれると散りばめられている宝石のせいでかなり痛い。宝石はこのような用途を想定してか、表面がかなり剣呑な形にカットされていた。


「しょ、商売道具に何をするんだ、アンネリーゼっ」


 相当痛かったのであろう、長い金髪の青年は大理石の床の上で右手の甲をさすり、ぴょんぴょんと跳びはねながら叫ぶ。


「指一本触れないってお約束ですわ、王子」


 天蓋付きの黒檀のベッドの上で、半身が起きるくらい大きな枕にもたれかかった波打つブロンドの美女は平然として、まるで彼の手が触れた部分を清めるように扇の羽根で何度も肩を撫でた。

 そのたびに惜しげも無く開けたドレスの胸元からこぼれださんばかりの大きな胸がふるふると揺れる。絞りたての牛乳のように白い肌、陶器のような首筋。

 左目の下のくっきりとした泣きぼくろが色っぽさを際立たせている。

 王子は思わずゴクリと生唾を飲んだ。


「やっぱり、君が好きなんだ」


 長いストレートの金髪をかき上げて王子は懇願するようにアンネリーゼをのぞき込む。ハッセブラーン王国中の女性の憧れと言われる、氷の湖と呼ばれるアイゼリンの湖水よりも青く透き通った涼やかな目、すらりと通った鼻筋、当代一の美青年と謳われる王子だが、アンネリーゼにしてみれば、その魅力も道ばたの石ころとそう変わらない。


「アンネリーゼ、君のそのウナギのような滑らかなプロポーション、人を不快にすることしか言わない紅玉の唇、お仕置きの鞭のような色っぽい眉毛、人のあらなら誰よりも早く見つけるその冷たい緑の瞳」


 王子はベッドに飛び乗ると、両手でアンネリーゼの手首をがっちりと押さえて組み伏せる。


「完璧すぎて、もう我慢できない」


 アンネリーゼは、のしかかってきた王子に抵抗するそぶりも無く薄い笑みを浮かべている。

 王子が彼女の唇に顔を寄せたその時。


「ああら、また大きくなったみたいね、王子。掴まれただけで手に触れるわ」


 紅玉の唇が王子に向かって矢を放つ。

 急所に命中したらしい、王子の整った顔がビクリと引きつる。


「商売繁盛、って右手の中指のペンだこが語っておりますよ」


 力の抜けた手から細い手首がすり抜ける。彼女はそのまま、さっさとお退きなさいとばかりに王子の胸を押し返した。


「締め切りが近いんでしょう。私を呼んだと言うことは他に理由がおありだったのではなくて」


 まるで獲物をいたぶるように、アンネリーゼは尖った爪の先で王子のペンだこを撫でる。


「ここには公務は追ってきませんよ。現実逃避なんかしていないで、さっさと取りかかればいかが? 夜はすぐ明けましてよ」

「君にこの膨らみの理由を見破られてしまったのが運の尽きだった」


 うなだれながらベッドから立ち上がった王子は、のろのろとベッドの対側にある大きな書斎机に腰を下ろす。


「君と知り合いになってからというもの、ろくな事が――」

「まあ、お言葉ですこと。今、そのお美しい頭が、胴体にくっついているのは誰のおかげだと思っていらっしゃるの。マイデン公の立てた暗殺計画を未然に防げたのは、盲目の僧侶のふりをしていた暗殺者の嘘を暴いて差し上げた私の功績ですよね。そうでなければあなたの首はすっ飛んでいたに違いありませんもの」


「ありがたく思うよ。最終回まであと2回となった連載を残してこの世からおさらばしたら、この世に未練がありすぎて、夜な夜な王都をさまよってしまう。第一、僕のお話を心待ちにしてくれている少女達に申し訳がたたない」


 王子はインクに羽根ペンを浸しながら肩をすくめる。しかし、紙の上に数文字書いただけで、彼はペンを投げ出してアンネリーゼの方を向く。


「でも、今は正直なところ首だけ飛んで市中をさまよいたいような気分だよ。出てこない話の種を探しにね。アンネリーゼ、後宮で何か面白い話は無かった?」

「というか、王子様は私にその種を運んできて欲しかったんでしょう」


 アンネリーゼはガラスの器に盛られた洋酒漬けのサクランボのヘタを掴み、赤い唇の上から垂らすように口に入れた。かすかな酒の香りが彼女の機嫌を直したようだ。目を細めて美女は妖艶に微笑む。


「ふふ、ありましてよ。先日、後宮に入ってきたミア・レングスの不思議な爆発のお話」

「な、なんだそれは」


 椅子から振り向いて身を乗り出す王子。

 まるで餌に食いつく魚を焦らすように、アンネリーゼはサクランボをもう一つ手に取ると、彼の目の前で振って見せた。


「その前に確認をさせていただきたいの。王子は後宮で『あのことに関して』の私のふる舞いを不問にしてくださいますよね。王子にあるまじき秘密の副業のお話が、この気まぐれな口から流れ出さないようにするためにも」

「ああ。そういう約束だ。しかし、無理強いはいけないよ」

「ええ、力尽くっていうのは一番あさましい行いですから」


 チラリと王子を睨んでアンネリーゼはサクランボを口から取り出す。

 実を食べ尽くして裸になったサクランボの種がヘタにくっついたままぶら下がっている。


「恋は手練手管。出し抜いたり出し抜かれたり。お互いに持ち合わせた恋の技を駆使しての戦いが、極上の興奮を生むのですからね」

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