第20話 “猫から目線”

“屋根の上、塀の上、猫は見下ろす”


“一声鳴けば、人の子は見上げ、笑顔で手を振ってくる”


“媚びた笑顔、猫撫で声。人の子は、知らぬうちに猫を見下す”


“猫は不快に思った。奴らは画一的な事しか、猫に言えない”


“猫に自分たちの言葉は理解できないと思っている”


“理解できていないのは、お前たちの方だというのに”


 夜の明かりの下で、エディは読書に勤しみながら苦笑した。


 どこからともなく現れた猫に連れられて来て、猫が人を見下す内容の小説を読んでいる。


 こんな夜更けに、たったひとりで。


 ―――あたし、何してんだろうな。


 ―――前書いたやつより、百倍長い小説書こうとしてたはずが、二足蟲のこと学んで、今度は猫か?


 ―――脱線し過ぎじゃねえ? ゆで過ぎたパスタだって、もうちょい筋通ってるだろ。


 なんだかんだ思うところはありつつも、頁をめくる手は止めない。


 理由は自分でもよくわかっていない。没入しているのだろうか。猫に?


「面白いかね?」


「!?」


 突然間近で声をかけられて、エディは大いに驚いた。


 びくっと全身が跳ねて、持っていた本が投げ出されてしまう。慌てて受け止めようとして失敗し、不格好なジャグリングを繰り返す。


 白手袋を嵌めた手が上から下りてきて、本を摘まみ上げた。


 見上げると、これまた小説から抜け出し来たような老紳士が、明かりの下でエディを眺めている。


 老紳士はエディに本を差し出した。頁はちょうど、エディが読んでいたところで開かれていた。


「すまないね、驚かせてしまったようだ」


「あ、ああ……」


 ―――心臓、飛び出るかと思った。


 生返事を返しながら、エディは胸元をぐりぐりと圧した。幸い、心臓は今も肋骨の奥に収まっていて、元気に拍動している。


 エディは胸を撫でおろすと、少し不満そうに老紳士を睨んだ。


「いきなり話しかけてくんなよ……作家の幽霊かと思っただろ」


「はっはっは! いやこれは失礼。こちらこそ、志半ばで散った、この学院の女生徒の霊かと思ったものでね」


「勝手に殺すな。こちとらドブネズミより生き汚ぇっつーの」


「それはいい。芸術家など、死んでも死にきれないぐらいでちょうど良いものだ」


 老紳士は朗らかに笑い、エディの隣に腰を下ろした。


 髭も、ハットの下から覗く髪も白いが、背筋はピンと伸びて、老いをあまり感じない。


 焦げ茶色のスーツものりが利いている。手にした杖のロッド部分には、優雅に毛づくろいをする猫の彫刻があった。


「して、君はこんな時間に、ここで何を読んでるのかね?」


「猫からの贈り物だよ。猫についてこいって言われて、来てみたらあったんだ。で、読んでた」


「君は猫と会話ができるのかね?」


「できるわけねーだろ、あんな腹芸だけでエサもらえる畜生と」


「随分と口が悪いな、お嬢さん」


「悪いか?」


「その不機嫌そうな口ぶりだけな」


 エディはフンと鼻を鳴らし、読書に戻る。


 なんとなくだが、この老紳士からは、自分を傷つける者の気配は全くしなかった。


 ちょうど、入学式の日に出会った、ルビィのような。


 読書に戻って、頁を何枚かめくると、老紳士がもう一度尋ねてくる。


「面白いかね?」


「んー……まあ、悪くはない、かな」


 話は中盤に差し掛かる直前だが、実のところ好感触ではある。エディ個人が抱える、猫への確執を除けばだが。


 老紳士は髭を指で摘まみながら、横目でエディの手元を眺めた。


「悪くはない、か。せっかくだ、具体的な感想を聞かせてはくれないか」


「感想ぉ? まだ読み切ってもいねぇのに?」


「最後まで読み切らねば、感想を語る資格がないとでも? 途中まで読んだ感想も、また大いに価値のあるものだ」


「……うーん」


 エディは悩んだ。


 面白くないかと聞かれれば、そんなことはない。まだ途中だが、主人公である猫の、妙に達観した価値観や、人間を見下す理由は―――本当にそう言ってしまっていいものかわからないが―――まさに猫、という感じ。


 自分は人間を理解できている、だが人間に猫は理解できないという理屈は、まさしく猫っぽいと言える。


 媚びを売るポーズで食い扶持を得て、気に入らない相手を威嚇して。エディが路地裏で見てきた、猫の姿そのもの。


 今は、その猫が、猫嫌いの本屋の娘にちょっかいをかけているシーンだ。


 なんとも低レベルな諍いは、昔の自分を見ているようでイライラしてくる。


 面白くないわけではないのだが、それを初対面の相手に口にするのは、なんだか憚られた。


 エディはしばらく考えて、適当にでっちあげることにした。


「なんか、猫語わかんないからって人間と喧嘩してたり馬鹿にしてんの、あれだなって」


「あれとは?」


「あれは、あれだよ。……えーっと」


 上手く言葉が出てこない。


 感覚はあるのだが、その感覚を説明できない。苛立って、エディは自分の頭を小突いた。


「あー、まあ、なんだ。とにかく、悪くはねぇ」


「ふむ」


 老紳士は、エディを興味深そうに見つめる。


 エディは突然現れ、さも当然のように隣に座った彼を、探るように見返した。


「あんた、この本知ってるの?」


「知っているとも。私はあまり、面白いとは思わなかったが」


「へえ。……ねえ、感想聞かせてよ」


「わしのか? まだ全部読んでないのにか?」


「途中までの感想だけでいいからさ。今、ここなんだけど」


 そう言って、開いていた頁を見せる。


 ハタキで猫を追い払っていた本屋の娘は、ある日、猫そっちのけで本を読み漁り始める。


 猫にはなんの本を読んでいるかわからない。自分を邪険に扱い続けた挙句、無視する娘に、さらなる嫌がらせを働こうとするが、娘は全く動じないという場面だ。


 紳士は老眼なのか、顔を近づけたり離したりしながら頁を見つめ、やがて“ああ”と頷いた。


「ふむ、ここか。……ふ」


「んだよ、“わしの若い頃は”みたいな話はいらねえぞ?」


「過去に読んだ本の感想も、人生の回顧も、似たようなものだろう。さて、この時点で、か……」


 老紳士は少し考えてから、口を開く。


 その目に波紋のように広がった感情は、懐かしさではなかった。


 彼が何を思ったのか、エディに知るすべは無い。


「そうさな、勿体ない、と思ったか」


「勿体ない?」


「ああ。人と猫は交流し、わかり合うことは出来る。限定的に、だが」


 エディは疑わしそうな顔で老紳士と向き合った。


 ―――猫と交流し、わかり合う?


 ―――限定的にでも無理だろ。空気を本にするぐらい無理だ。


 老紳士は人差し指で、エディの皺が寄った眉間を叩く。


「無理だと思っとるな? 自分でやったことを」


「無理だろ、フツー」


「無理ではない。何故なら、君が今、ここでその本を読んでいるからだ」


「は?」


 エディの目が丸くなる。


 老紳士は、わんぱく過ぎる孫に呆れる祖父のように溜め息を吐いた。


「“猫について来いと言われて、ここに来たらその本があった”……だろう?」


「………………あっ」


「そういうことだ。その本に出てくる娘と猫も同じよ。だが、あくまで限定的に、だ。人に猫の言葉はわからん。猫も同じく、人の書いた文字がわからん」


 明かりがジリ、と音を立てた。


 沈み切った夜の闇を丸く切り取る光の外側で、ゆっくりと色彩が滲み、浮かび上がる。


 老紳士は遠くに見える、白み始めた空に気付いた。


「おっと、いささか話し過ぎたか。老いぼれは、そろそろ帰るとしよう」


「え? ちょ、待ってくれ!」


 老紳士を追って、エディも立ち上がる。


 どうして止めようと思ったのか、正直よくわからない。聞きたいことがある、という思いだけがぼんやりとした輪郭を伴って浮かんでいるだけで、何を聞きたいのか、自分でもわかっていなかった。


 老紳士は背中を向けて歩き出し、肩越しに被っていたハットを揺らす。


「焦ることはない。同じ学院に、教師と生徒として在籍しているのだ。また合う機会はいつでもある」


「……名前っ! あんたの名前、まだ聞いてない!」


 エディは口ごもった末に、苦し紛れのように吐き出した。


 老紳士の杖が、こつ、こつ、と石畳を鳴らす音が響いてくる。


「サミュエル・ソールズ・シュタイナー。そのうち、講堂で会おう」


 昇ってきた太陽が、去り行く背中を明るく照らす。


 エディは夜灯の下で立ち止まったまま、開きっぱなしの本を抱え上げた。

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