第19話 蟲の言葉と猫の声

 自室に戻ったエディは、ベッドの上で読書をしていた。


 “我らの森人”をもう一度読み返す。各頁を流れる筆致を追いかけ、頭の中では思索を巡らせていた。


 ディグリの課題をするに当たってぶつかった、大きな問題を解決するべく。


 ―――二足蟲には、基本的に言葉がない。


 ―――言葉がないって、どういう感覚なんだ?


 フランも、ディグリも、言葉がないとは思えないほど流暢に喋っていた。


 ふたりは種族の中でも変人の部類らしい。では、普通の二足蟲とはどういうものなのか。


 何を思い、何を考えて生活をしているのだろう。


 物心ついた時からゴミ溜めにいたエディでさえ、言語は身近なものだった。


 路地裏の外から聞こえてくる声、盗みに入った店で聞いた会話。そこいらにある看板、打ち捨てられた本。


 それらがエディに、言語を与えてくれた。そうして今、最低限身に着けたそのスキルを使って、ここにいる。


 ―――フランたちも、そうだったのかな。


 ―――他の人に馴染めなくて、独学で語学を学んで、ここまで来たのか?


 ―――なんのために?


「うーん……」


 論点がズレてきているような、そこが大事な部分になっているような。


 考えているうちにこんがらがってきて、エディは頭を掻いた。


 落ち着くために、思考を整理する。


 課題は、“もし自分が二足蟲として生まれていたら?”を書くこと。


 だが、そもそも二足蟲の生活というのが、あまり想像できない。


 集めた情報によれば、生活区域は南の山あたり。彼らの行う林業が、今の出版業界を支えている。


 ―――林業、出版……言語……。


 エディは天井を見上げ、厳めしい顔をした。


 なんとなく、答えが出てきそうな気がするのに、今一歩足りていない。


 針に糸を通そうとしている時のような、もどかしい苛立ちを感じていると、不意に可愛らしい声が耳についた。


「ん?」


 ベッドから体を起こして、声のした方を見る。


 エディが使っている作業机の上に、一匹の猫が座り込んでいた。


「猫……?」


「なぁーん」


 ぶち模様の猫は机の上に我が物顔で座り込むと、毛づくろいを始めた。


 窓を見る、開いていない。扉を見る、閉じている。猫が入ってこれそうな場所はない。


 不思議に思って、猫を見つめた。


「お前、どっから入ってきた?」


 問いかけるが、当然猫が聞くはずもなく。顔を洗うと、背中を伸ばし、置きっぱなしの原稿用紙を踏みしだき始めた。


「あっ、こら! やめろ!」


 エディは思わず立ち上がって机に飛びつく。


 しかし猫は機敏で、さっと机から飛び降りると、少し離れた位置から“なんだお前”とでも言いたげな眼差しを向けてきた。


 皺の付いてしまった原稿用紙を整え、エディは猫を睨む。


 まだ何も書いてない白紙ではあるが、それでも無遠慮に踏まれるのはいい気分ではなかった。


 嘆息しながら原稿用紙を置く。そこでもうひとつのことに気が付いた。


 エディの本がない。“消えゆく夢の灯フラジール・ラディアンス”が。


 まさかと思って振り返ると、そこに猫はいなかった。奴はベッドの上に移り、枕の上にエディの本を投げ出して、毛玉で遊ぶように前足で転がしていた。


「おまっ、おまっ……お前ぇっ! いつ盗った!? あたしの本だぞ!」


「なぁーん」


 猫はエディの方を見て大あくびをかますと、猫パンチで“我らの森人”の頁を開く。


 さらに後ろ足で“消えゆく夢の灯フラジール・ラディアンス”を蹴って開かれたことで、エディはキレた。


「こんの……クソ猫っ!」


 捕まえようと飛び掛かるが、猫には逃げられてしまい、ベッドにダイブするのみに留まった。


 エディはめげずに、猫の逃げた方に枕を投げつける。柔らかな枕は窓にぶつかって、ぼふんと音を立てた。


 猫は、いない。


「…………?」


 エディは瞬きをした。


 窓は開いていない。扉も閉まったまま。なのに、猫は部屋のどこにもいなかった。


 煙のように、忽然と姿を消してしまったのだ。


「……なんだってんだ?」


 気のせい、あるいは幻覚でも見ていたのだろうか。


 そう考えながら、本の方を向くと、すまし顔をした猫と視線がかち合う。


 ぎょっとして半歩引くエディを、猫は“何やってるんだこいつ”と言いそうな、怪訝そうな眼差しで見つめた。


 その興味が、開かれたままの本にシフトする。


 エディはなんだか毒気を抜かれた気分になって、げんなりと呟いた。


「お前、それ読めるのか? ……読めるわけねえよな」


 ひとまず、爪とぎや悪戯に使うつもりはないようで、猫から本を取り返すのは一度諦める。


 エディは、猫が嫌いだった。猫だけではなく、犬と鴉も嫌いだ。路地裏で食糧を探しているときや、寝床を探しているとき、何度邪魔されたことか。


 ただ、そんな畜生どもでも、本には興味を示さなかった。この猫とは違って。


 猫は神妙に、エディの持つ二冊の本を眺めていたが、やがてベッドを下りると勝手口に近寄った。


 エディの方を見て、一声鳴く。


「なんだよ。開けろってか?」


「なぁーん」


「わかったよ、開けてやるから、さっさと出てけ」


 しぶしぶと扉を開けてやると、猫は僅かな隙間からするりと出て行く。


 エディは嘆息しながら扉を閉じようとする。けれど、猫は前足を差し入れて、ブロックした。


「今度はなんだよ!」


「なぁぁー」


 本格的に怒鳴って追い払ってやろうと思い、扉を開けて身を乗り出す。


 猫は背中を向けると、寮の廊下少し歩いてからエディを見返った。


「なぁーん」


「……んだよ、ついて来いって? あたし、暇じゃないんだけど」


「……なぁぁぁーん」


 猫が険しい眼差しを向けてきた。


 負けじと顔をしかめてにらみ合い、見えない火花をバチバチと散らす。


 そんなことをしている自分が急に馬鹿らしくなって、がっくりと項垂れた。


 ―――たかが猫に、なにしてんだ、あたし。


「なぁぁぁぁあ!」


「あーもうわかったよ! うるせーから鳴くな、あたしが怒られる!」


 扉を閉じて、消灯された廊下を歩いて猫についていく。


 グラインランス芸術学院の学生寮には、門限はないが消灯時間はある。


 消灯時間といっても、廊下やトイレなど、公共の施設の電気が落ちるだけだ。


 外から寮を振り返って見れば、もう深夜だと言うのに、明かりの点いた窓がいくつもある。


 きっと、寝る間も惜しんで創作に励んでいたり、読書を楽しんでいたりするのだろう。


 足を止めたエディは、猫の声にせっつかれるまま、夜の学院を歩く。


 創作意欲、学習意欲旺盛な芸術学院生とはいえ、流石に夜出歩く者はほとんどいない。


 誰ともすれ違うことなく、暗くなった道を進んでいると、猫は明かりに照らされたベンチのひとつに飛び乗った。


 片足ですぐそばを叩いている。座れということだろうか。


 そう思って近づくと、猫が叩いていたのは席ではなく、一冊の本であることがわかった。


「本……? “猫から目線”って……なんだこれ」


 タイトルに思わず噴き出してしまった。


 まさか猫についてきたら、猫の本を見つけるとは。


 当の猫はエディを見上げている。


 猫に奪われるのは何度も経験したが、与えられるのは初めてだ。少し興が乗ったエディはベンチに腰かけ、夜灯の光を頼りに表紙を開いた。

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