第7話 完成・その1

 あの夜から、二週間が過ぎようとしていた。


 ベル先輩はその後、一体どうやって調べたのかエディの部屋にやってきて、ドアから飛び込み、風になって窓から連れ出すということを繰り返してきていた。


 急に滅茶苦茶に振り回されながらバイトに駆り出されるのも、一週間ほどすると慣れてきて、今ではひどく酔いつつもすぐ仕事に移る程度のことは出来るようになっている。


 執筆中ではあるが、一行書いては消して悩んでを繰り返し、蝸牛の速度で進むエディにとっては迷惑千万―――というわけではなく、こんがらがりかけた頭をリセットし、再度執筆に臨ませてくれるものとなっていた。


 不思議なことに、執筆中よりもバイト中の方がアイデアが出やすい。そんなことをベル先輩に告げると、彼女は笑顔で同意してくれた。不思議なものだ。


 そういうわけで、昼間はバイト、夜は執筆しながら寝落ちを繰り返した、ある日。


「で、出来た……!」


 雀のさえずる声が外から聞こえてくる。


 カーテン越しからでもわかるほど、爽やかで明るい朝がそこにあった。


 エディはインクであちこち黒ずんだ手で一枚の原稿用紙を持ち上げ、震えながら読み返す。


 内容は淡泊で、薄っぺらく、面白いとは言い難い。表現も全体的に抽象的で、要領を得ない。エディにとっても、笑ってしまうほど拙い出来だ。これがもし、他人のものだったら、遠慮なくしかめっ面をしていただろう。


 ―――でも、これでいい。


 ただ純粋に、そう思うことが出来た。


 インクのついた指紋まみれの、汚い一枚の原稿用紙を天井に透かし、じっと見つめる。


 あの口さがないネクロマンサーの教師に見せたら、なんと言われるか。嗤われるか、馬鹿にされるか。そのまま不合格と言われてしまうかもしれない。


 ―――それでも、いい。


 ―――たった一枚でも、書き上げたんだ。


 ―――路地裏のゴミクズに過ぎなかったあたしが、これを……。


 あちこち焼け焦げたように黒い紙をじっと見つめていると、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。ベルが来たのだ。


「おっはよー! エディちゃん、起きてるー!? 起きてるね! じゃあ行こうっ!」


「うおっと!」


 弓矢のように飛びついてくるベルを、エディは真後ろに倒れ込んで回避する。


 どたんばたんとふたりが床に打ち付けられる音がして、下の階にまで響いた。


 背中の痛みが、どういうわけか面白い。エディは起き上がり、背中をさすりながら挨拶した。


「うっす、ベル先輩。すいませんけど、今日はパスで」


「えー、なんでー?」


「作品出来たんで。ヨサ先生に出しにいかないと」


 ぺたんと床に座り込んだベルが目を丸くする。


 こうしてみると、なんだか年下のように見える。グラインランス芸術学院は年齢関係なく入れるので、実際年下の先輩もいるとは思うのだが、それを差し引いてもなんだか幼かった。


 ベルはエディの表情をじっと眺めていたが、やがて何かを察したようで、いつもの笑顔に戻った。


「うん、わかった。そういうことなら、仕方ないよね」


「すんません……それと、あの」


 エディは立ち上がり、深く頭を下げた。


「えっと、色々教えてくれてありがとうございました!」


「……まあ、そういうバイトだったから」


 ベルは目を泳がせ、恥ずかしそうに頬を掻く。


 エディはくすっと笑うと、四つ折りにした原稿用紙を懐に入れて部屋を出て行く。


 音を立てて閉じる扉を目で追いながら、ベルは部屋のカーテンを開いた。


 差し込む朝日。涼やかな風。消し忘れた魔導灯が照らす部屋の隅、エディの作業机の上には、インクとペンが転がっている。


 丁寧にやすりをかけられ、ワックスも塗られてつやつやとしたそれの表面は、インクの痕がたくさんついていた。


 ベルはエディの顔を思い出す。目の下に日に日に濃くなる隈をつけて、それでも何かをじっと見つめていた瞳が、今日は陽に照らされた湖面のように煌めいていたことを。


「ヨサ先生、バイトはこれで終わりだよ」


 ベルはエディの机から手を放し、つけっぱなしの魔導灯を消して部屋を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る