第6話 着火
寮の自室に戻り、ベッドへ身を投げ出す間も、エディの頭にはずっと今日のことが繰り返し思い返されていた。
原稿用紙一枚を埋めるだけでいいと言ったヨサ先生。彼女から紹介されたベル先輩。
嵐のように引きずり回されたアルバイト。ルビィとの夕食。
思えば、随分と濃密な一日だった。やることを探して焦りながらあれこれ手を出し、挫折してしまったこの半年よりも、ずっと濃い。
体はとても疲れているが、脳は未だに、ぐるぐると同じ言葉を巡らせている。
“今、あなたが口にしたい言葉は既に、あなたの心の中にあると思いますよ”
「んなこと言われたってさぁ……」
寝返りを打って天井を見上げる。
ヒントはたくさんもらったと思う。ヨサ先生からも、ベル先輩からもだ。
けれど、それはあくまでヒントに過ぎず、答えではない。良質な食材をポンと渡されて、さあ何か料理を作ってみろと言われたような気分だった。エディには、もらったヒントを、自分の作品へと昇華するすべがない。
結果、こうして悶々と考え込むに留まっている。
―――ってかさ、矛盾してない? ルビィさんとベル先輩のアドバイス。
―――ベル先輩は他の物語を読み解けって言って、ルビィさんは自分の中にある言葉を書けって言ってる。
―――……どっちが正しいわけ?
両腕を目の上で交差して、天井から吊るされた魔導ランプの光を遮る。
直視するには眩しい光を遮って、目の前を暗くしてみても、不思議と眠気は湧いてこない。むしろ、後頭部をカリカリと引っかかれるような苛立ちがあって、余計に目が冴えてしまった。
エディは溜め息を吐くと、腕を開いて身を起こす。眠れないくせに、しっかりと疲労を背負った体は重い。
気分転換がてら窓を開いて風を呼び込む。涼やかな夜の風がカーテンをはためかせる。綺麗な夜景が、そこに広がっていた。
真っ黒い空と、眠りに落ちた街に、細かな宝石を散りばめたような光が点々と輝く。考えてみれば、こうして夜景を見るのは初めてだ。入学してからは早めに眠っていたし、それ以前は夜景なんて眺められる身分ではなかった。
それどころか、昼でも光の当たらない、かび臭い日陰に鼠や蜘蛛と住まう日々。いつの間にか慣れてしまっていた生活は、学院に入ってからたった半年で、遥か遠い地獄の景色になっている。
ろくな食事も寝床もないまま、空腹と悲しみ、淋しさと痛みを誤魔化すために、ボロボロの本を手に取ってうずくまる日々。
雪に埋もれ、小さな火の光を頼りに幸せな夢を見ることが出来たなら、どれほどよかったかと思うだけの毎日。
―――結局、それだけなんだよな。
―――あたしの心にある言葉なんて……あそこにもう戻りたくない、ってだけ。
だが、それで空欄を埋めたところで、なんになろう。原稿用紙一枚を満足に埋められないような、
他からあり合わせになるものを持って来たところで、それは盗作と何が違うのだろう。いかな盗みを働いてきたエディでも、何故か盗作はためらわれる。第一、何をどこから持ってくればいいのやら。
夜景から視線を外して、備え付けの勉強机の上を見やる。
最低限支給された教科書と文房具しかない、殺風景な作業台。その上に置かれた、一冊の本が目に入った。
タイトルは、“
内容はこうだ。浮浪児の少女が、冬のねぐらを求めて迷い込んだ廃屋で、家主と思しき死体が持っていた火種を見つける。
寒さも厳しく、何より飢えていた少女は、その日一日の食事を得ようと、火種を外で売ろうとするが、誰一人として見向きもしない。それどころか、時には追いやられ、蹴りつけられ、石を投げられ……傷ついた少女は、雪の降る路地裏で火種を灯し、そこに幸福な夢を見ながら死に至る。
暖かな食事。優しい友人。楽しい学校。ごくありふれた、それでいて少女にはついぞ与えられなかった、叶わない夢。
決して分厚くもないその本は、面白いものではない。けれど、エディはそれを何度も読み返してきた。
他人に手垢をつけられた挙句、打ち捨てられてしまった本を、後生大事に抱えていたのだ。
他にもいくつか本はあったが、エディが持って来たのはそれ一冊だった。
持っていこうと思ったのは、何故だろう。
夜景に向き直り、ぼんやりと思いを巡らせかけたその時、エディはパチクリと瞬きをした。
「ん? ……あっ」
エディは目を丸くして顔を上げた。全開にした窓から一匹の蛾が入って来て、エディの頭上を通りすぎ、魔導ランプの光に触れて一時の閃光を放つ。
身を焼かれ、床に落ちた蛾にも気付かないで、エディは自分の顔を押さえた。
見えるのは、自分の手のひら。頭の中で、何かがぱちっと火花を散らす。
―――もしかして、それでいいのか?
―――まさか……そういうことなのか?
―――い、いや待て待て、落ち着け。つってもそんな、大したもんじゃないぞあたし。
―――ただの浮浪児の話なんか書いたって仕方ないだろ? 他の奴らもそんなゴミみたいな話を漁りたいわけじゃないはずだ。
―――でも……。
顔に当てていた手を、顎へと移して考え込む。ほんの少し、闇雲に空を切っていた指先に触れるものがあった。それを取り逃すまいと、頭を回す。
“お前、自分になんの知識があると思う? 行尸走肉同然のストリートチルドレンに”
―――うるせえな、それしかねえよ。
腐ったゴミの味。野良になった犬や猫の食いかけの味。路地裏のひどい匂い。薄暗さ。苦痛、孤独。
残飯の味と匂いが嫌になって、パンを盗もうとして殴られたこと。名も知らぬ家族の笑顔を羨んだこと。現実から目を背け、ほんの少しの慰めとして、捨てられた本を読んでいたこと。
年の瀬を謳う冬の夜、明日をも知れぬ身で、二束三文の火種を売って小銭を得ようとした、絵本の少女。最後には儚い夢を見ながら果てた彼女に、密かな羨望を抱いたこと。
―――あたしは、それを知っている。
“物語を書きたい人が、なんですぐ目の前にある物語を読み解こうとしないのか、ってこと。本当にゼロのゼロから物語を作れる人なんて、この世にはいないんだよ”
―――そこにあるじゃん、物語。
惨めだったあの日から、ずっとエディの近くにあった。
寂しがって、羨んで、何故かたったひとつ手放さず。
せめてこうなりたいと願った女の子の姿。
―――ああ、そうだ。あたしは、あの女の子が羨ましかった。
―――死に際に、ほんの少し、幸せな夢を見られるなんて、って思った。あたしには、夢を見せてくれる光も無かった。
エディは大きく息を吸い込む。
夜景と星空の両方を、自分の物にしようとするかのように。
堂々巡りを繰り返していた思考が、ひとつの形を組み上げていく。自分でさえ無いと思っていた中身が、新しく放り込まれた言葉と結びついた。
体が、火を付けられたみたいに熱くなる。脳が少しずつ、煮えたぎるような感覚がやってくる。
“今、あなたが口にしたい言葉は既に、あなたの心の中にあると思いますよ”
「あたしは……戻りたくない」
今一度、改めて口に出す。
これまで自分の中に詰まっていたのが不思議なほど、自然と言葉があふれ出た。
「もうゴミを漁って食べるのは嫌だ! 鼠と野良犬に脅かされながら眠る夜はたくさんだ! なんであたしが……ほんのちょっと、死ぬ間際に幸せな夢を見たいなんて思わなくちゃいけないんだ! なんであたしは幸せな夢さえ見られないんだ! なんだっていい……あんなところでの暮らしは、嫌なんだよ!」
そうして、エディは気が付いた。
今が、そうなのだと。
―――今こうしているあたしが、あの火を擦って死んだ子の、
エディは弾かれたように机に飛びつく。
そこら中を信じられない速さで引っ掻き回し、あらかじめ渡されていた原稿用紙を目の前に敷く。
ペンを執り、先をインクの壺に浸して、文字を走らせた。
ミミズがのたくるようなつたない筆跡。文章もつたなくて、要領を得ない。
きっと読み返したら、死ぬほど後悔したくなる。破り捨てて、くしゃくしゃに丸めて捨ててしまいたくなる。
そう思っても、何故だか腕は動き続けた。
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