第5話 心のひと口
おしとやかな雰囲気と違って、意外にも押しが強く強引なルビィに手を引かれ、足がもつれそうになりながら辿り着いた先は、学院のカフェテリアだった。
ふと空を見上げれば、日はとっぷりと沈みかけていて、マジックアワーのグラデーションも消えてなくなる寸前だ。
そんな時間帯だからか、少し早めの夕食を取りに来た生徒たちがカフェテリアにちらほらといて、穏やかな談笑でおのおの盛り上がっている。
一応、エディは―――本来そんな資格はないのだが―――特待生という立場なので、朝昼晩の食事はどれも無料で食べることができる。別料金でスイーツや軽食、ジュースなども頂けるのだが、あいにくそんな持ち合わせはないので、日替わりディナーで済ませることになった。
熱された鉄板の上に置かれたハンバーグに、ためらいながらフォークを入れるエディの正面では、ルビィがフルーツをふんだんに使ったスイーツサンドを頬張っている。
柔らかなパンの隙間からあふれる生クリームは、いかにも甘そうだ。ろくに菓子の類も食べたことがないエディは生唾を飲み込みながら、欠片にした肉を口に押し込んだ。
書店のバイトもすっぽかして、連れ出されてから、結構時間も経った。けれど、ルビィは未だに用件を言っていない。
怪訝に思いながら食事を続けていると、ちょっと目を離した隙にスイーツサンドを食べ終えたらしいルビィが、紅茶を飲んで声を上げた。
「さて、えーっと……なんの話でしたっけ?」
「い、いや……」
―――なんの話もしてねえけど……。
首を縮めながらハンバーグを口に入れ、水と一緒に飲み下す。
ルビィは不思議そうにまばたきをすると、軽く手を叩いた。
「あ、そうでした。まだ何も言っていませんでしたね。それじゃあ、改めて……エディさん、もしかして学期末は小説を書こうとしているんじゃありませんか?」
ギクッとエディの肩が跳ねる。
何も悪いことなどしていないのに、なぜか“バレた”と思ってしまった。
背中に汗をかきながら、ぎこちなく目を泳がせて生返事をする。ルビィが毎月一本小説を仕上げていると聞いて、何も書けていない自分との差に、劣等感を抱いたせいかもしれない。
そんなエディの反応をどのように捉えたか、ルビィは紙ナプキンでエディの口の端をそっと拭うと、声を殺した。
「私だけにこっそり、どんなものが書きたいのか、教えてくださいませんか?」
「な、何って……。店でも言ったけど、まだ何も……」
「いえいえ。私が本屋さんで聞いたのは、“何を書くか”です。今は、“何を書きたいのか”が知りたいんですよ」
「う、うん……?」
違いがわからず、エディは首をひねった。
ルビィは身を引くと、先ほど買い求めた本を取り出す。“ディスターブド・フォレストの魔華”。
「書くものと書きたいものが、ピタッと一致していることはよくありますけど、そうじゃないこともあります。書いているうちに、書きたかったものではなくなってしまったり、人によっては仕事の都合で、別に書きたくない題材を書くことだってあるでしょう」
ルビィの手が本の表紙を撫でる。ネイルの類などは施していないが、ピンク色で、つやつやとした、綺麗な指が目に入った。
テーブルの下に隠した自分の指と見比べる。エディの爪は黒ずんで、汚かった。
俯くエディに、ルビィは再度問いかける。
「私は書きたいものを好きなように書いていますが……エディさんは? まだ何も書いていなくたって、書きたいと思っているものがあるのではないですか?」
―――あたしは、別に。
そう伝えるのは憚られた。それを言ってしまうと、自分が薄っぺらで、なんの意味もない存在に成り下がってしまうような気がしたから。
あの絵本の少女のように、焚きつけるべき灯も持たず、孤独に見る夢もなく、道行く人に声をかけることもない。路傍の石のように打ち捨てられるだけの存在に。
エディは食べかけのハンバーグを見つめたまま、何も言えなくなってしまう。だが、そのまま会話が冷え切ることを、ルビィは良しとはしなかった。
「先生には、もう相談しましたか?」
「あ、うん……。原稿用紙、一枚だけで、いいって……」
言葉がどんどん、尻すぼみになっていく。
一作につき、原稿用紙二百枚も使うというルビィと比べて、なんと情けないことだろう。それすら書けず、立ち止まっている自分の、なんと惨めなことだろう。きっとこうしている間にも、ルビィはペンを走らせることができるだろうに、その時間すら食いつぶして。それ以前に、ベル先輩に連れられて行ったバイトでも、何も得られなかった。
―――ああ、クソッ。なんだよ、この気分。最悪だ。
ルビィとは、全く同じ日に入学したのに、どうしてこんなに差があるのか。
ルビィだけじゃない。この半年、手探りながら、何かを得ようとして学院を彷徨う間に出会った同級生たちは皆、既に何かしらの着想があった。やることを決めていた。……エディには、何もないのに。
軽蔑されてしまうかもしれない。嘲られてしまうかもしれない。浮浪児として道端に座る自分を見下ろした、あの群衆たちがしたように。そう思うと、顔を上げることが出来なかった。
その視界に割り込んできたのは、一切れのフルーツサンド。
おずおずと差し出してくる手を伝っていくと、優しいルビィの表情がそこにあった。
「そんな顔をしないで、エディさん。何も悪いことなんてないんですよ」
「…………どうして」
「それはもう、私はただ、たった一文書きたいだけだったのが、無駄に膨らんでいってしまっただけですし。たったの一ページ、たったの一文のためだけに、私は紙とインクをいたずらに消費してしまうんです」
ルビィの微笑が、ちょっと自虐的なものに変わる。
これまでエディが見てきたものとは、少し違った笑い方。すぐ近くで見上げた嗜虐的な嘲笑でもなく、遥か遠くで羨んだ無邪気な幸福の笑顔でもない。
エディはテーブルの下で拳を握り、首を振った。
「いいじゃ……ないスか。それでも。あたしは、一文だって、思いつかないのに……」
「本当ですか? 今、あなたが口にしたい言葉は既に、あなたの心の中にあると思いますよ」
「あたしの……?」
「はい」
ルビィはエディの腕をつかむと、フルーツサンドを無理やり持たせる。
白く、柔らかく、色鮮やかなそれには、ずっしりとした重量感があった。
「まずは、自分の心の言葉を聞いてあげてみてください。エディさんが今持ってる、一番純粋な心を。それが最初の第一歩です!」
エディはフルーツサンドをじっと見つめた。
自分の中の、心の言葉。なんとなく要領を得ない単語が、耳にずっと残り続けた。
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